エピローグ

「完敗です」

 冷たいものが頬をつたった。どうしようもなかったという無力感。他でもない、モカが解き明かしてくれたという喜び。矛盾を孕んだ感情だった。

「考えたくもなかった。よりにもよって、君が犯人だなんて」

 彼女から発せられる言葉。耳を塞いで、何もかも聞こえないようにしたかった。

「園子ちゃんのこと、これからどうしたらいいんだよ」

 康太をこの世から消さなければ、「これから」すらなかった。園子が再入院したのも、康太の悪夢を見るようになったからだ。不登校になっても、手首の傷は増え続けたからだ。

 だから、その根源を絶やすしかなかった。僕にはそれしか思いつかなかった。

「どうしたら、あの子を幸せにしてやれるんだよ」

 怒鳴ってやりたかった。反抗してやりたかった。この機に及んで、彼女は僕に説教しているのだ。担任と同じように「殺されていい命なんかない」と主張するつもりだろう。心底呆れてしまった。感情が、また一つ複雑になっていく。

「なあ、どうするんだよ。私はモカだ。モカなのに……」

 まさか、と思った。そのまさかだった。彼女は、僕の方なんか見ちゃいなかった。壁を見つめながら、目を潤ませていた。つまり、全て独り言だったのだ。

「モカ」

 僕が呼んだって、振り返らない。もう二度と目を合わせてはくれないだろう。

「警察は、もう待っているんですか」

 彼女は、おもむろに頷いた。保健室の扉の向こうから、男性同士の会話が聞こえてくる。犯人はここです、とか。あいつも中にいます、とか。あいつってのは、きっとモカのことだ。

 一つだけ疑問があった。遺体を回収した日以外に、警察の姿を見ていなかったのだ。休校中に捜査を終えたのだろうと思っていたが、それでも腑に落ちなかった。

 その答えがやっと出た。モカの仕業だ。犯人は生徒だと推定して、犯人や他の生徒にも刺激を与えないように、あえて一人で動き回っていたのだ。元教師の彼女のことだから。

「警察、止めてくれたんですね」

 また頷いた。理由もおおむね予想通りだった。分かりやすい人だ。物事を考えるときはそれっぽく振る舞うものの、本来は感情的で、個人と真剣に向き合ってくれる。

 僕はベッドから下りて、モカの背中に小突いてやった。

「モカは、探偵に向いていません」

 その途端、僕は窮屈になった。全身が硬直した。モカに抱きしめられていたのだ。

 彼女をからかうように「モカ先生」と呼んだ。嗚咽していたのは、もはや犯人の僕ではなく、探偵の彼女だった。不思議なものだ。僕のことで涙を流している人がいるだなんて。

「ごめんなさい」彼女が、より強く抱きしめる。「私は、君の先生になれなかった」

 謝るのは僕の方だ。園子を助けられずに憔悴して、自分勝手に康太を殺した。彼女の仕事を増やしてしまった。仕事をする大人は忙しいのだと、両親から教えられてきたのに。

「僕を捕まえてください」

 自首ではない。探偵の彼女が解き明かしたのだ。僕の計画は完璧だと思っていたから、それを看破することが、どれだけ素晴らしいことか知っている。それに値する最大の敬意とは、素直に捕まることだ。

「もう先生じゃないんですから」

 向日葵のような香りがした。僕の大好きな香りだった。

「どんなことがあっても、犯罪は犯罪だからな」

 そう割り切ってほしい。僕は芯のある彼女が好きだ。

「同情なんか、してやらないからな」

 それでいい。犯人に同情なんかしなくていい。

「君の話なんか、聞いてやらないからな」

 授業の愚痴も、バスケの自慢も、もう話さない。

 寂しくなんかない。昔に戻るだけだ。僕は聞き分けのいい子供だから。

 窓越しには、夕陽。これから地平線に沈むのだろう。そうやって逃げられる夕陽のことが、少しだけ羨ましく思う。僕の場合、どうやっても逃げられなかっただろうけど。

 黄昏時。保健室には、影二つ。

 僕の赤い影は、とうに消えた。目に映るのは黒い影で、それが当たり前なのだと知っている。しかし、赤い影が再び現れる可能性もあった。完全に消し去らなければならない。

 そこで、自分の影に一滴の雫――涙を落とした。大好きな人を傷付けてしまったという、自戒の念を込めて。

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赤い影に眠ってくれ 阿部狐 @Siro-i

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