解決編

 二日後、月曜日。放課後のチャイムが鳴れば、途端に廊下が騒がしくなる。

 階段を駆け下りる音。行き先は玄関か、体育館か、校庭か。少なくとも、保健室に向かう生徒は一人もいないだろう。僕を除いて。

「午後三時、保健室に集合。ベッドに座って待っていてね。来ると信じているよ」

 下駄箱に入っていた手紙は、ラブレターと遜色ないほどに悪趣味だった。差出人は性格が悪い。それこそ、教師がラブレターを送るはずがないと考えるような人物だろう。

 とはいえ、僕は素直に保健室へと向かっている。差出人が僕を信じるように、僕も差出人を信じているからだ。もっとも、差出人の何を信じているかは言語化できないが。警察に引き渡さないこと、ではないと思う。もっと主観的なことだ。屈辱とか、寂しさとか。

 保健室に着く。扉は閉まっていた。このまま引き返すこともできた。できたからこそ、扉を開けてやった。僕に選択が委ねられている時点で、相手よりも下の立場にあるのだから。

「二日ぶりだね」どこからか声が聞こえた。「私を探してごらん」

 姿はない。僕をからかっているのだろうか。目を凝らして探す。ただ、目を凝らす必要はなかった。耳をすませばよかったのだ。

「ベッドの下ですよね、モカ」

 案の定、彼女はベッドの下にいた。しかし出てくる気配はない。なるほど、彼女は僕をからかっているのだ。この前「犯人はベッドの下に隠れていた」と推理した、この僕を。

 それに、手紙にも書いていたではないか。ベッドに座って待っていてね、と。ここまでしてコケにされると、少々気分を害するものだ。降参する意味で、「僕の推理が間違っていました」と声に出す。

「つまり、芳樹の論理は破綻したと認めるんだね」

「そうです」僕は面倒臭くなっている。「だから、早く顔を見せてください」

 僕に促されたからか、彼女はすんなりとベッドから這い出てきた。子供のように無邪気な笑顔を浮かべている。目に隈ができているから、きっと空元気だ。僕がただの生徒でいられたら、「無理するな」と軽口でも叩けただろう。

「かくれんぼだ。どうだい、楽しかったかい」

「ちっとも」露骨に眉をひそめてやった。

「考えたんだけどな。君が楽しめるようにさ」

 物悲しげに微笑むモカ。思えば、悲観的な意見を人に話すのは初めてだったかもしれない。それほど彼女を信頼していた自分自身に驚く。

「この前は、急に帰ってしまってすまなかったね」

 首を横に振る。謙遜ではなく、本心で。

「きっと、気が動転したのだろうな」

 気が動転した理由は、とうに分かっている。

「芳樹」

 自分の名前を捨てたいと思った瞬間だった。最初で最後の経験だろう。彼女から発せられた「芳樹」の言葉が、僕ではない存在を指してほしいと願ってしまう。血の繋がった家族を除けば、モカは唯一心を許せる人だったから。

 好きな人から嫌われるだなんて、これ以上ないほどの屈辱だから。

「君が、犯人だったんだね」

 しかし、当のモカは、恐ろしいほど優しく語りかけてきた。まるで哀れむように、軽蔑の一つも感じさせない柔らかさで。その慈しみが、むしろ痛かった。

 肯定も否定もせず、沈黙する。保健室は静かで、校庭が騒がしい。康太を殺めた、あの夜のようだ。あの夜と違うのは、吊り死体ではなく、探偵と向き合っているということ。

 推理ドラマで、「証拠を出してみろ」と求める犯人を見たことがある。今までは、話をスムーズに進行させるための決まり文句だと思っていたものだ。

 今なら分かる。それは咄嗟に出てしまうのだ。探偵が想像だけで推理しているという、わずかながらの可能性に賭けているのだ。殺人という大勝負に勝った犯人ならば、乗らない手はない賭けだろう。

 ただ、僕は少し違う。不思議な話だろうが、心のどこかでは、彼女に理解してほしかったのかもしれない。もちろん犯行を素直に認めたくはないが。

 逆も然りだ。生半可な憶測だけで僕に辿り着いたのならば、絶対に罪を認めない。海よりも遠い場所に逃げて、二度と彼女には会わない。

 わがままだって構わない。僕にわがままを教えたのは、探偵の彼女だ。

「教えてください。どうして、僕が犯人なのですか」

 挑発するような言動。それを皮切りにして、モカは切り出す。

「女性の血痕、自殺に見せかけた絞殺。そして、犯人の指紋がない縄……。これら単体では、君に繋がる手掛かりはないように見える」

 僕自身、これらは完璧な隠れ蓑だと思っていた。証拠隠滅に加えて、犯人を女性に仕立て上げる算段もある。加害者の正体はおろか、性別すら間違わせる予定だった。

「しかし、だ。あまりに簡単なことを見落としている」

 彼女が眉をひそめる。がっかりした、とでも言わんばかりに。

「縄の指紋はなかったというのに、どうして性別が特定できる血痕を残してしまったのだろうね」

 つまり、僕は掛け算が下手だったというわけだ。三つの要素自体は捜査を撹乱させたものの、要素同士を照らし合わせると、まるで彫刻のように、違和感が浮き彫りになる。

「犯人が女性なら、シーツも隠すべきだった。なぜなら絞殺という手段自体が肉体的で、男性の姿を想起させるから」

「そうとも限りません」ここで反論を試みる。「誰かを殺めるとき、人は興奮するものです。いくら冷静で頭の切れる加害者だろうと、流れた血までには気が回らない。血痕を見逃したのです。それこそ、被害者に抵抗されて、加害者も興奮している状態では」

「誰かを殺めるときなら、そうかもしれないね。一理ある」

 言葉とは裏腹に、モカの表情は崩れない。

「ただ、これは『自殺に見せかけた他殺』。紛れもなく、芳樹の推理だ。今更取り消すだなんて言わないでくれよ」

 自殺に見せかけた他殺。初めて彼女と出会ったとき、確かに僕はそう言った。しかし、それがシーツとどう関係していると考えているのか。更なる言葉を待つ。

「自殺の偽装。即興にしては、運に恵まれすぎている。たまたま頭が働いて、たまたま人を支えられる強度のフックがあって、たまたま手が届いた、と」

 つまり彼女の主張はこうだ。これは計画的殺人で、加害者は事前に様々な事態を予想することができた。それなら、抵抗されて負傷することも想定内だったのではないか。

「そもそも」彼女がベッドに目を遣る。「流血が想定できるなら、白が基調の保健室を犯行現場に選んだことすらおかしい。空き教室や倉庫、殺人に適した場所は他にもある。しかし現場は保健室。理解しがたいはずだ。それこそ、カレーを食べるのにワイシャツを着てくるレベルで」

 モカは人差し指を立てて、また僕と向き合った。「ここで、血痕の意味が導き出せる」

 導き出してみろ、と心の中で挑発する。

「血痕を見逃した……。物は言いようだ。本当は、あえて残したのではないだろうか」

 心の挑発に応えるように、彼女が僕を睨んだ。

「誰の血痕か、ではない。どうして血痕を残したのか」

 丸眼鏡の向こうには、二匹の狼が潜んでいる。そいつは僕を捉えて離さない。

「あの血痕には、ミスリードも兼ねて、被害者に制裁を加える役目があった」

 僕は黙っていた。肯定の代わりでもあり、同時に彼女に対する敬意でもあった。

「君のクラスメイトが言うには、被害者は下着泥棒で、盗撮魔。生前から散々な言われようだったみたいだ。加害者が制裁を加えるまでもないだろう。しかし、加害者にはちゃんとあったんだよ。殺人を正当化するために、被害者は殺されても仕方ない存在だと思わせたい理由が」

「理由って」ぶっきらぼうに問う。

「報復という名の私怨だ」

 腹が立つ。僕が感情に流されたと言いたいのか、と反発したい気持ちを、わずかながらの理性で抑え込む。それから、理屈に基づいた反論を思いついた。

「おかしい。私怨なら、犯人はなおさら女性であるべきです」ずかずかと詰め寄る。「それとも、康太は性別構わず盗撮する盗撮マニアだとでも主張する気ですか」

 思わず「康太」と個人名を出してしまったものの、モカは気にも留めない様子だ。顎に手を当てて、ふらふらと辺りをうろついている。それから、突然動きを止めた。

「被害者の女子は、殺人なんかしない。むしろ、一人で抱え込むだろうな」

 その女子は園子を指しているのだと思った。園子も一人で抱え込んでいた。僕に何も言わずに、白い手首を傷付けてしまった。

「裸を撮られたなんて、思春期の女子には不名誉極まりない。反抗期だとしたら、両親にすら言えないだろう。それでも相談するとしたら、彼氏、それか――」

「兄ですよね」

 探偵の言葉を遮った。立場関係なく、僕が言わなければならなかったのだ。自分の妹に相談されたという事実を、沈黙によって封じ込めてはならない。その沈黙こそが、園子を苦しめた首の縄だと分かっているから。

「しかし」僕は続ける。「兄や彼氏にあたる人物は、普通は男性です。それだと血痕の説明はできません。なぜなら血痕は女性のものだから」

「いいや、説明できる」

「現場に第三者の女性がいたと主張する気ですか」

「まさか」肩をすくめるモカ。「もっと簡単な方法だ。罪悪感にさえ目を瞑っていれば」

 一週間前の夜。保健室どころか、学校には僕と康太しかいなかった。養護教諭はもちろん、教師も残業を終えている時間帯だったはずだ。男子二人だけの保健室で、女性の血をばら撒く方法。女子が都合よく出血して、都合よく僕の手に渡る方法。

「加害者が使ったのは、被害者が盗んだ女子生徒の下着だろう」

 正解だ、とでも言えばよかっただろうか。ひとまず「ふうん」と当たり障りのない返事をする。

「いくら地主の息子といえども、被害者は孤立していたはずだ。たとえば『一度話しかけただけで付きまとわれて、挙句の果てに裸を盗撮される』という噂が流れたとか」

 思うに、モカは園子の境遇を知っているのではないだろうか。僕たちが面会に行った次の日、単独で園子と会いに行った可能性もある。そうでなければ、ここまでピンポイントに「たとえば」の例を挙げることはできないだろう。

「でも、それを利用した生徒がいた。それが加害者。彼は被害者に優しい言葉をかけたんだ。そうだなあ、『僕は君の性癖を分かってやれる』って感じか」

 その通りだった。僕が康太に近付いたのは事実だ。園子の件で孤立している康太に、僕は声をかけたのだ。優しい言葉以外にも「僕たちの関係は家族にも秘密だ」とか「僕以外の誰も、君を理解しないだろう」とか、とにかく康太を僕に依存させようと必死だった。

「ある日、加害者は言った。『血の付いたパンツを盗んでくれたら、一生友達でいてやろう』と。お金でも名誉でもなく、友達という関係性。被害者がそれをどれだけ渇望していたか、加害者は分かっていた。そう、自覚してしまうんだよ。依存されている側って」

 そのとき、僕は気が付いた。依存されていることを自覚しているモカの存在に。

 恋とも愛とも、はたまた友情とも違う、依存という感情。依存。確かに僕はモカに依存していた。康太が僕に依存していたように。

 つまりモカは、この一週間の振る舞い全てが布石だったと主張する気だ。

「誤解を解いておこう」探偵が、僕の頭に手を置く。「私が君を気にかけているのは、嘘偽りない事実だ」

「そうですか」手を払い、彼女を睨む。「下着を盗まれた女子生徒は、どうして声を上げないのでしょうね」

「だから説明しただろう。君らしくないな」

 モカは「被害者の女子は一人で抱え込む」と呟いた。

「私が給食にお邪魔したとき、一人だけ黙っていた女子生徒がいたよね。多分、被害者はあの子。ただで下着を盗まれたのに、血も付いていた。それをあの子も知っていたから、ずっと黙っていたんだと思う」

 すぐに回想される。忍び笑いの中で、一人だけ沈黙する女子。

「下着を盗んだであろう被害者が、首を吊って亡くなっていた。それなら、証拠品として自分の下着が回収されたと考えていてもおかしくない。もしも下着が返ってきてしまったら、あの子の自尊心、ボロボロだよ。それなら別にいいって考えたんじゃないかな」

 僕は男子だ。いくら女子に寄り添ったとしても、心の深淵に手が届くことはないだろう。宇宙よりも深海が開拓されていないように、個人の思想こそが不可思議の到達点なのだ。

「そして、加害者はあまりにも優しかった。殺人に不向きなほどにね」

 ただ、モカのような例外もいるらしい。心に壁を築き上げたとしたら、地面を掘ってでも個人を理解しようと働きかける。だから僕は、彼女が好きになってしまったのかもしれない。

「ところで芳樹」名前を呼ばれて、我に返る。「私が君の家に来たとき、一緒に洗濯物を取り込んだよね。服の枚数、覚えているかい」

 覚えているはずがない。首を横に振ると、彼女は暗唱でもするかのように、すらすらと話す。

「Tシャツ二枚、ワイシャツ一枚、ズボン三枚、ブリーフ三枚、ブラジャー二枚、パンティ三枚。Tシャツは飛ばされたから、本来は三枚」

 些細なことまで覚えているものだ。立場を忘れて感心する。しかし、すぐにこれが些細なことではないと気付いた。冷や汗が出る。

「Tシャツ、ズボン、ブリーフは、芳樹か芳樹のお父さんが着ていたのだろう。だから三枚。どれも枚数が同じだったわけだ。ところが、ブラジャーとパンティの枚数が合わない。女性は下着が二つある。普通なら、数が合わないことは絶対にないはずなんだ」

 園子はブラを持っていない、と言いかけてやめた。その証言には致命的な欠点がある。園子が入院しているということだ。入院して一週間が経った園子の下着を、どうして間を空けて洗う必要があるだろうか。忘れていたの一言で説明はできない。なぜなら他の洗濯物は洗っているのだから。

「君は『Tシャツが飛ばされていた』と言った。だから、ブラジャーも同様に飛ばされたのだと思った。だが、Tシャツならまだしも、下着は本来見られては恥ずかしい衣類。飛ばされないように、入念に固定するはずだ。君の手荒れが酷いのは長年家事をしてきた証。それくらいのことは常識だろう。手抜きだったとは到底考えられないな」

 母にも、下着は服と服の間に干せと教わった。家事の手を抜けば嫌味を言う母のことだから、もしも自分の下着が飛ばされたら、いよいよ僕に幻滅するだろう。

「それなら逆に考えてみよう。ブラジャーが飛ばされたんじゃなくて、最初からパンティが一枚多かったとしたら」

 モカは顎に手を当てた。まるで、これから決め台詞を言うかのように。

「それは、どこから来たのだろうか」

 説明するまでもない。事件当日、康太が盗んできて、僕が回収したのだ。

 それを当日ではなく、間を置いて洗濯したのには、ちゃんと理由がある。

 単純な話、感情だ。最初は事件が収束してから廃棄しようと思っていた。ただ、モカが指摘した「黙っていた女子」の存在を、僕も確認してしまったのだ。そして、その女子が捕まるのだと思っていた。その罪滅ぼしとして、せめて彼女が屈辱としている血の汚れだけは落とそうと考えたのだ。その結果、雨が降り、モカと洗濯物を取り込む事態になった。

「ここまで、何か反論があるかい」

「いいえ」自分でも驚くほどに、素直だった。やはり彼女に隠し事はできないのだと、心の中で分かっていたのかもしれない。仮に反論しようにも、前のように歯が立たないだろう。

 全ては僕の失敗だ。失敗を庇おうとすると、更に傷口を広めることになる気がした。

 それに、まだ命綱は繋がっている。かなり追い込まれてはいるが、もっとも丈夫な縄は切れていない。

「さて、ここからが正念場だ」探偵が眼鏡を掛け直す。「どうやって被害者を殺したか、明らかにしようじゃないか」

 殺害方法。僕を繋ぎ止める、最大にして最後の縄だ。それが切れてしまえば、僕は何も言い逃れすることはできない。素直に負けを認めよう。それまで、僕は健全な青少年だ。

「被害者は、首を吊った状態で発見された。しかしながら、ひも痕を見る限り他殺。首についた吉川線が裏付けだろう。そして、殺害に使われた縄に、被害者以外の指紋はついていなかった」

 固唾を呑む。突っ立ったまま、目線だけで彼女を追う。

「絞殺には縄が必要で、指紋を隠すには軍手が必要。しかし、その二つを同時に持っていたとしたら、被害者は警戒するだろう。噂に過ぎないが、被害者は母親に首を絞められた経験もあるそうじゃないか。事実ではないにしろ、加害者もなんらかの形で知っていたとすれば、被害者に縄と軍手を見せるのは得策ではないと考えられるはずだ」

 母親が癇癪を起こして暴行していたというのは、女子たちの噂でも、本人の口からも聞いていた。だからといって、康太に同情しようとは思わなかったが。

「最初に考えたのは、縄を二つ用意した可能性。縄をA、Bとしよう。まずは被害者をAで縛り、その後に軍手をつけて、Bで被害者の首をくくる。芳樹、何かおかしいと思う点はあるだろうか」

「さあ、合っているんじゃないでしょうか」

 そうとしか言いようがない。なぜなら、僕よりも彼女の方が頭が回るから。下手に出るよりも肯定するべきだろう。ただ、それができたら苦労しないのは分かっている。

 しかし、探偵は僕を睨んだ。「縄は一つだけだ。絶対に」

「絶対に、ですか」屁理屈に近い疑問。

「絶対に。断言したっていいさ」

 理由を問う必要はなかった。既に話し始めていたからだ。

「凶器の縄は、体育館の倉庫から盗み出された縄。そして、盗み出された縄は一つだけ。二つのひも痕は、どちらも同じような痕が付いていた。つまり、縄を二つ用意した可能性を追うと、盗み出された縄と全く同じ縄を用意する必要がある。商品名も分からない麻縄と同じ縄を用意することは困難で面倒だろう」

「大きさと素材を予想して、縄を買って、たまたま当たった可能性だってあります」

「それなら縄を盗まなければいい。そもそも、自分で縄を買えるじゃないか。加害者はそれができなかったから、学校の備品を使ったんだ」

 ごもっともだ。僕には縄を用意する時間も余裕もなかったのだ。

「さて」モカが自身の首に手を当てる。「被害者には、ひも痕以外の外傷はなかった。これは思い込みを利用したのだろうな」

 思い込み。彼女の言葉を復唱する。

「被害者は首を吊った状態で発見されて、後に他殺だと分かった。しかも刺し傷や打撲の跡もない。そうなれば、『犯人は絞殺を隠すために自殺を偽装した』と思うはずなんだ。他にも外傷があったら、警察や探偵は、徹底的に『最後の一撃』を探すはずだろうからね。それに気付かれてはいけなかったわけだ」

 最後の命綱が、千切れようとしている。

「どうやって指紋を残さなかったか、じゃない。そもそも絞殺だったのか。そのことを考えるのに、えらく遠回りしてしまったようだね」

 おもむろに近付いてくる探偵。その足取りは重く、罪のように恐ろしい。

「ひも痕は、本当の証拠を隠すための道具でしかなかった」

 彼女が、僕の手を取った。冷や汗が止まらなかった。

「本当の凶器は、君の手だったんだ」

 扼殺、という殺害方法がある。手で首を絞める方法だ。もちろん被害者の首には痕が付く。くっきりと、良心の呵責を感じさせるように。

「凶器の縄は綺麗だった。どこもほつれていなかった。しかし、被害者の首には吉川線があった。おかしいと思わないか。被害者は首を傷付けるほど抵抗したというのに、縄は無傷。麻縄が丈夫だからと言われればそれまでだがね」

 彼女は僕の手を離すと、今度は僕の首に触れた。それから「うん」と頷く。

「ならば、こう考えよう。その吉川線も偽装だったと」

 心臓がうるさい。モカの手を払いのけても、まだ収まらない。

「ところで、バスケは手の力が重要なスポーツだ」探偵が言った。「小一からバスケを始めて、毎試合スタメンに選ばれる君のことだ。握力にはそれなりの自信があるだろう。スモールフォワードという重要なポジションを務めるなら、尚更」

 さあ、としらを切ったものの、図星だった。今年の体力テストでは五十キロ前後で、学年一位を記録した。一度握ってしまえば、簡単には離れない手だ。自尊心も、なかったといえば嘘になる。

 しかし、糸のように頼りない命綱が、僕の投降を許さない。

「僕が扼殺したとしたら、本物の吉川線はどこにあるのですか」

「人差し指の傷」

 一週間前のバスケスクールを思い出した。突如として、両手に痺れるような痛みが走る。僕に駆け寄ってきたチームメイトは、「小川の人差し指。すげえ痛々しい」と言った。

 それこそが、康太の残した本物の吉川線、つまり抵抗の証拠。モカはそう主張する。

「人差し指ということは、君は後ろから被害者を襲ったのだろうな。自慢の握力を利用して。しかし、握力が全てを解決するわけでもない。被害者は爪を突き立てて、君の手を剥がそうと試みた。そしてその痕が人差し指に残っていた。そうだろう」

「詭弁だ」虚勢を張って、探偵に詰め寄る。「それは日常生活での傷です。それに、加害者なら想定できたはずだ。抵抗されて傷が付くことを」

「痛いところを突くじゃないか。確かに、君の傷の正体を確かめる証拠はない」

 反論が通用した。そっと胸をなでおろす。康太に抵抗されることまでは想像できたものの、どれほどのものかは想定外だった。怪我の功名だ。ここからなんとか巻き返そう。

 そう安心したのも束の間。

「だが、どうして君の爪が長かったのかは説明できないだろう」

 やられた、と思った。チームメイトには、爪が長いことも指摘されていたのだ。

 僕の爪が長い理由は、単なる怠惰で説明することはできない。なぜなら、僕は毎日家事をしており、毎回スタメンに選ばれるほどバスケに熱中しているから。

「爪は一日や二日で伸びるものでもない。しかも、家事やバスケに追われる君には、なんのメリットもない。そうだな、それこそ――」

 彼女が、おもむろに自分の首を掻いた。命綱は、とうに切れていたのだ。

「被害者の首をひっかいて、吉川線を偽装するわけでもなければ」

 自分の顔を見てやりたいと思った。情けない顔か、呆然とした顔か、それとも平然とした顔か。どちらにせよ、全てを看破された僕は、抜け殻のように空虚だっただろう。

「被害者の爪を長くすることはできなかった。向こうにも環境があるからだ。被害者の親が強制的に切るかもしれない。『将来の地主なんだから身だしなみを整えなさい』とかね。そうすれば、加害者の計画が狂う。それを恐れたんだよ」

 恐れずして、何を恐れようか。僕に妹がいなければ、どれだけ計画が狂おうが構わなかった。しかし、この計画は園子のためにある。園子が退院してしまって、入院という確実なアリバイがなくなってしまえば、園子は容疑者候補になってしまう。園子を守るために園子を捧げてしまっては、意味がない。だから僕が爪を伸ばした。

 探偵は眼鏡を掛け直して、僕と向き合う。

「事件当日、君は被害者に、血の付いた下着を盗むように要求した。それに見合う報酬をちらつかせてね。シーツに付ける血痕が目立つように、集合場所は保健室にした。そして、午後八時くらいかな。被害者が保健室に入った。『自分がいる』と思わせるために、電気は点けていただろう。それから君は、被害者の隙を窺って、後ろから首を絞めた。多分素手だろうな。できるだけ警戒させないために」

 足の力が抜けて、僕はその場に座り込んだ。それを見たモカは、僕をベッドまで運んでくれた。それから露骨に距離を取り、顔を逸らす。とうとう嫌われてしまったのだろうか。

「被害者が亡くなったのを確認して、君は軍手をつけた。事前に用意してあった縄を使って、もう一度被害者の首を絞めるためにね。水平のひも痕が鮮明だったのは、君の殺意とともに、扼殺で生じた痕を隠すためでもあったわけだ。それから、人間を支えられるだけの天井フックを取り付けて、被害者を吊った。下着の血をシーツになすりつけて、帰宅した」

 僕の考えた計画は、この瞬間をもって破綻した。所詮、中学生に完全犯罪は不可能だったということだ。

「さあ、これが全部だ。もう終わりにしよう……」

 もはや彼女に隠すことは何もなかった。

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