真実とは。

 思ったのは俺だけだったんだ。


 俺はペンギンの知能をあなどっていた。


 リーダーペンギンから脱走の相談を受けて、一週間後だった。飼育員も、相談係の俺もペンギン舎を離れた一瞬のことだった。俺はトイレに立っていて、ハンカチで手を拭きながら扉を強くノックした。


「向こう側に誰もいないな? 開けるぞー」


 そう言って、いつも通り開けたときそこにはペンギン一匹いなかった。


「みんな水遊びしてるのか?」


 飼育員しか入れない客から見える水浴みずあび場を、扉に取り付けられた窓からのぞき見る。どこにもいない。窓ガラスの向こうに首を傾げて、ペンギンの不在ふざいなげく客だけだ。


「う……うそだろ、おい」


 俺は水族館内を駆けまわった。


 廊下。


 ほかの生き物たちの部屋。


 それから従業員の部屋。


 どこにもいなかった。

 俺は混乱しながらも、外につながる扉を開けた。他に向かった場所はそれ以外考えられなかったのだ。


「瀬戸田さん?」


 見つけたのはペンギンではなかった。

 瀬戸田みほ。彼女は普段通りの素敵なオフィススタイルで、その白い腕を後ろで組んで、俺に背中を向けていた。


「瀬戸田さん!」


 彼女はエンジンをかけた大型トラックが、水族館を出ていくのを見送っているところだった。しばらく手を振ってから、彼女は絶え間ない笑みを浮かべたまま俺の方を向いた。


「どうかされましたか?」

「ぺ、ペンギンたちが脱走を」

「ペンギン?」


 瀬戸田さんの様子はおかしかった。

 何のことだと全く分かっていない様子で、首を傾げる。


「俺の担当しているペンギンたちが脱走したんです」

「ペンギン? あなたの担当? 何の話でしょう」

「……は?」

「確かにペンギンたちは今しがた隣の水族館に運ばれていきました。そして数日後には新しい集団が入ってきます。ですが、あなたにそれは関係ありますか?」


 俺は彼女が何を言っているか理解できなかった。


 もとよりその予定なら、早くに言ってくれたらこんなにもあせらずに済んだのに。というか、俺に関係があるのかって、あるに決まっている。俺はペンギンたちの相談役としてやとわれたわけで──。


「仕事に戻ってください。鹿島さん」


 彼女はひどい他人行儀のような素振りでそう言った。しかも、名前は俺の名前バッジに目を向けて。


「瀬戸田さん。どういうことですか、瀬──」













「瀬戸田さ──」


 俺は伸ばした手で空を掴んでいた。

 目の前に人はいない。


「ユウキー? 新しい仕事に遅れるんじゃないの?」


 母親の声。ここはまぎれもなく自室で、視界には見慣れた天井が映っていた。

 俺はおぼつかない足取りで、寝間着ねまき姿のまま何ごとかわからずリビングに降りる。母親はやけに優しい表情で、ダイニングの椅子を引いてくれた。


「よかったわね、ユウキ。病院代も仕事もくれる人に出会えて」

「あ、ああ」


 俺の脳は混乱しているのに、手は慣れたように動く。母親の用意した朝食に手を伸ばし、皿の上の食パンにまばらにバターを塗ってかぶりついた。


 そして水族館に足を運び、知らない人に指示を受けてつなぎを着た。手には静音性の高い掃除機を持たされて。


「じゃあ、このフロアを掃除してください」


 管理者のような身なりの男性はそういうと、俺が掃除機にスイッチを入れたのを見て頷きどこかに行った。

 場所はペンギン舎の前。ガラスの向こうに知らないペンギンたちが水遊びをして戯れている。俺はそれを客と同じ側から、息をひそめて目移りしていた。


「この水族館にはとても賢いペンギンちゃんがいるんです!」


 聞いたことのある声。

 俺は客の後ろからその人の姿を捉えた。汚れないようになのか服装はジャージだったが、髪のメイクも完璧で美人なあの人だった。


「瀬戸田さん」


 名前をつぶいたら、彼女はこちらを向いたような気がした。

 俺は希望が見えた気がして、息をのんだ。そして掃除機を握る手が強くなる。


 けれど、すぐに彼女はどこか別の方を向いた。


「ではペンギンちゃんに、その芸を見せていただきましょう! 大きな拍手でお迎えください!」


 俺はガラスから目を背けた。そして執拗しつように、同じ場所ばかりに掃除機をかける。


 結局何が何なのか、さっぱりわからなかった。


 ペンギンの素晴らしい芸も、しゃべるほどのことでもなかった。

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再就職! ペンギン相談係 千田伊織 @seit0kutak0

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