嫁ぐ日に……
シンカー・ワン
どうぞ幸せに
梅雨の最中、六月最後の大安吉日。
数年来の交際相手と
届けは既に出しているので、現在の姓は
式も終え、狭いながらも新しい住居に必要なものは揃っており、明日から始まる新婚生活の準備は完了済み。
引き取られてから二十年過ごした長瀬の家で過ごす最後の夜。
明日、私はこの家を出て、城島千明として生きていく。
「……雨の心配はしないで済みそうだね」
長く降り続けた雨が上がり、雲の散りだした夜空を見上げて、縁側に立つ
「――予報も、しばらく晴れ間が続くって言ってましたよ」
居間でくつろぎながら、話を合わせるように私が返せば、
「門出が晴れるのはいいことだ……少しばかり寂しくはなるけどね」
私の方へ首をかしげ、わずかに憂いをにじませた笑みを浮かべて養父が答える。
ゆったりと縁側に腰を下ろし、養父は
居間から、出会ったころよりも小さく見える背中を見つめる。
私が大人になったから、そんな風に感じたのだろうか?
亡き母から託された私を、嫁に出すという大役を終えた安堵から、みなぎっていたものが抜け落ちてしまったからかもしれない。
出会って二十年、か。
母が逝き、頼る当てのない私へと差し伸べられた優しい手。
それが
母の
私は父親の顔を知らない。
物心がついたころには母とふたりきりで、父親のことを何度か尋ねたことがあったが、母ははぐらかしてばかりだった。
わずかながら聞きだせたのは、別れたのは母の方からだということ。
私を産むために離れたのだと。
相手がいろいろと難しい家の人間で、もめるのがわかっていたから自分から身を引いたそうだ。
母の思い的には違うだろうが、私は望まれてこの世に生を受けた存在ではなく、相手の家的には疎ましい存在なのかと、子供心に悲しい思いをしたものだった。
世間でいうシングルマザーの母は職業選択の余裕幅がなく、心身的負担は大きいが収入の良いとされる夜職や風俗産業に従事。
ひとところに落ち着くことはなく、根なし草のような生活を送っていた。
移り住むたびに母は男を引っ張り込みよろしくやっていたが、どれとも長続きはせず、別れるたびに転居していたというのが実状。
どうせ別れるのだから男となんか暮さなければいいのにと、幼いころは思っていたが、年月を重ね大人になり当時を省みて気が付いた。
母の内縁の相手には、どこかしら共通したところがあったことを。
具体的にどこがどうとは言えないが、全体的な印象。
おそらくそれは、私の実父の面影だったのではないかと思う。
母は別れた男が忘れられない、ひとり寝の出来ない寂しい
――特に避妊もせず男をとっかえひっかえしながら、私の弟や妹が出来なかったのは不思議だったが、私を産んだ際に子供が作れない身体になっていたからだと、母が亡くなったときに知った。
無理な夜職のツケがたたって母が倒れたのは、私が八つの時。
仕事中、突然盛大に血を吐き、救急病院へと担ぎ込まれたのだ。
不摂生で内臓がボロボロになっていた身体はすでに手の施しようがなく、医師から長くはないことを告げられた。
当時の
母の男を見る目の無さは、私を種付けた時から始まっていたような気がするのは勘違いとかではないだろう。
倒れたあとも母は頑張ったが、私が九つの誕生日を迎える直前で力尽きた。
享年・三十四。
この世のしがらみからようやく解放された母は、とても穏やかな顔をしていた。
役所とお店の人たちの協力でなんとか母を送り出したあと、ひとりきりの部屋で呆けているところへやって来たのが叔父だった。
叔父は私の前でひざまずくと視線を合わせ、母から連絡を受けて来たと言った。亡くなる少し前に「
「母が入っています」と言って渡した桐の箱を抱きしめ、慟哭した叔父の姿が忘れられない。
お店の人たちも母のために泣いてくれた。けど、叔父の涙はお店の人たちとは違うなにかを感じた。
それが大切なものを失った悲しみからなのが私にはわかった。私と同じ泣き方だったから。
気が付けば私は号泣する叔父にしがみつき、同じように涙を流していた。
ふたりでひとしきり泣いたあと、叔父はまだ赤く潤む瞳で私を見詰め言った。
「僕は姉から
その言葉とともに差し出された手を握って、二十年。
叔父は宣言したとおり、私が幸せになるために尽くしてくれた。
当時まだ二十代だった叔父が、私の養父になるにはいろいろと問題があったようだが、実姉の娘であること、叔父がその若さで既にバツイチなのが決め手になったようだ。
引き取られてわかったことだが、叔父の家――母の生家でもある――は地方名家というやつで、なんてことはない。母の言った『難しい家』というのは、実家のことだったのである。
いいとこの娘である母が、誰とは知らぬ男の子を身籠った。
家の面子に関わると、両親――私から見れば祖父母か――は母を責め堕胎することを命じたが、お腹の子――私だ――を守るため母は家を出奔。流浪の生活に。
残された叔父は家の体面を守るために良家の娘と結婚。
しかし、なかなか子が成せず、しかも原因が叔父側にあることがわかり、数年で離縁ということに。
不幸は続き、叔父の離婚後に両親が事故や病気で相次いで亡くなる。
「僕は不幸だなんて思っちゃいないけどね。
ふたりでの生活が落ち着いたころ、昔話をせがんだ私に、叔父は悪気ない顔をして言ったものだ。
親が亡くなり家を継いだ叔父は、誰はばかることなく私の母――実姉――を探し始めた。
世間に疎いはずのお嬢様であった母だが、母親になったことで生きる上でのずるさを身に付けたのか、足跡を濁し居所が知られないように
ようやく居所をつかみ、接触を図るも母から拒絶されたそうだ。
「……なにをいまさらって気持ちだったんじゃないかな? 親が邪魔していたとはいえ、僕は何年も
自嘲交じりに叔父は言った。
叔父側からは何度も連絡を入れたが、母はずっと突っぱね続けていたそうだ。
なのに、突然母の方から連絡してきた。
「自分のことはどうでもいいから、千明ちゃんを頼むって。ね……」
絞り出すような声音でそれだけを、母は懇願し続けたらしい。
「ただ仕事に時間を取られて、やっと君たちのところへ行けたときにはもう……」
そう言った叔父は、悔恨をにじませていた。
「最期に姉は僕を頼ってくれた、許してもらえた。僕はそれに応えなきゃいけない。託された千明ちゃん、君が幸せになること。それが僕の姉に対する償いで担わなきゃいけないことだ」
覚悟を決めた顔をして宣言した叔父は、言葉通り尽くしてくれた。
寂れた繁華街のボロアパートから母の生家へ移り、近隣の小学校へ編入。はじめのうちは学力が追い付かなくて大変だった。
人並みの学力がついたころには学校にも馴染み、友達もできた。この時の友人たちとは今も変わらぬ付き合いがある。
中学へ進学。叔父はけして名門だとか優秀校とかを勧めることはせず、私が行きたいところへ行くようにってスタンスで。
それはこの後の高校や大学への進学でも変わらなかった。
大学を卒業。そんなに有名でもない中堅の会社に入り、そこで出会ったのが伴侶となる、
線の細い永遠の文学青年といった趣のある叔父と違い、志貴はガタイもよく見た目まんまの体育会系で、不躾なところもあるが快活な性格に私は惹かれていった。
それは志貴も同じだったようで、一応名家と呼ばれるところの養女なのに、らしさが欠片もない私のことが気になっていたとか。
隣り合った部署の同期、なにかと接点があり、気がついたらつき合っていた。
告ったのがどっちからだったかなんて、もう覚えちゃいない。
いつの間にか関係が出来上がっていた。
男と肌を合わせて得られる悦楽が、どういうモノなのかを実感できた。
志貴の腕に包まれていると言葉にできない安心と幸福感があり、ずっとこの男に抱かれていたいと思えたのだ。
付き合って数年、結婚を意識して家に招待したとき、志貴は緊張しまくっていた。
私が彼氏だと紹介し、将来的に結婚を考えていると告げたら、叔父は穏やかな笑みを浮かべ、
「――千明ちゃんをお願いするね」
そう言って志貴に頭を下げた。
「自分の全身全霊をかけてっ」
叔父の言葉に志貴が迷いなく座礼で返したとき、私の中で
志貴の言葉の圧力に、自分がどれほど愛されているのかを改めて知ったから。
蕩けた視線を志貴から移すと、叔父は嬉し気に笑っていた。
それからはとんとん拍子。
あれよあれよと今後の予定が決まり、顔合わせをした三か月後に入籍挙式。
私は二十九年使っていた長瀬から城島へと姓を変え、明日から三度目――母の情夫は除外――のふたり暮らしを始める。
……そう遠くないうちに、三人四人の暮らしになるかも知れない。
今のところ予定はなく、未定で決定ではないが、
「早いとこ、孫の顔が見たいものだねぇ」
なんて言う養父がいるものだから、早まるかもしれない。
養父――叔父――が望むのなら、それに応えたいって思う。
私を幸せにするために尽くしてくれた人に、孫を抱かせてあげたい。
子を産んで母親になった私を、伴侶と子宝に恵まれ幸せになった姿を見せてあげたい気持ちが、とても強い。
――でも、この家で過ごす最後の夜だから。
長瀬の姓を名乗る最後の夜だから、確かめたいことがあった。
それは私の父親のこと。
今更自分の出生の謎を解き明かす必要は、ないんじゃないかと思ったりもする。
でも、長瀬の名を置いていくのなら、私が長瀬の人間として生を受けるきっかけを知りたい思いもあるのだ。
良家の娘として育てられ、かごの鳥みたいなものだった母が、どこで私の父親と出会い結ばれたのか、それが知りたかった。
母は一貫した女子学校に通い、女子短大卒業後は花嫁修業の名目で働きに出てもいない。
外との接触が少なかった母が、どこで異性と出会い心惹かれ結ばれるまでに至ったのか?
長瀬の家に来てからの二十年。
少しづつ少しづつ重ねてきた推論は、信じたくない結論へ至る。
間違いであってほしいと何度も何度も考え直したけど、どうしても答えはそこを指してしまうのだった。
母は望まない妊娠をしたのではないかということ。
ただ、そこでまた疑問がわく。
望まなかったことならば、なぜ母はそれまでの生活全部を捨てるような真似をしてまでお腹の子――私――を守ろうとしたのか?
大きな謎だったけど、ある推論を置くことでストンと腑に落ちた。
妊娠は予定外だったが、行為そのものは受け入れていたのではないか。
つまり互いが納得した上で行われていた、想いあった者同士での交合。
当時の長瀬家で、自由の少なかった母が心を許せる異性。
該当する人物に、ひとり心当たりがあった。
零時が過ぎ、長瀬の家で過ごす最後の日を迎える。
私は寝巻のまま自室を出て推論の合否を確かめてもらうため、それを知っているであろう人物の元へ赴く。
灯りは落ちている。けどきっと起きているだろうと私は声をかけた。
「叔父さん、千明です。入りますね」
返事も待たず、私は障子を開け、この家の過去の出来事を知りうるだろう人物・叔父の部屋へと入った。
なんとなくそうしているんじゃないかと思った通り、叔父は文机の前に腰を下ろしていた。
まるで誰かが訪れることを予想していたみたいに。
「夜分に男の部屋に押しかけて来るなんて、嫁に行った娘としてもあまり感心しないな」
障子紙越しに射すほのかな月明かりの下、困ったような笑みを浮かべて叔父は私をたしなめる。
「ごめんなさい。でもどうしても訊いておきたかったことがあって」
頭を下げて非礼を詫びるが、訪問の意図は通すために叔父の前に座り込み、ひざ詰めになる。
「夜が明けてからでもよかったんじゃないのかい?」
我を通す私を、仕方ないという風に受け流す叔父。
「夜のうちに確かめたかった……いいえ、夜じゃなきゃ訊けないだろうし、きっと叔父さん、朝になったらまともに答えてくれないだろうなって思って」
強い調子で迫る私に、やれやれって顔して叔父が問う。
「――なにを聞きたかったのかい?」
私は間を置かず直球で尋ねる。
「叔父さん、私の父親はあなたですね?」
確信をもって。
「父親……養父という立場なら確かにそうとも言え」
「製造元としての、父親です」
一般論で返してきた叔父の言葉をさえぎる私。
空に残る雲が月を隠したのだろう、部屋が影に包まれる。
薄闇の中、表情を変えず叔父が問い返してくる。
「千明ちゃんは……どうしてそう思ったのかい?」
発する声にも感情はのっておらず平坦で、叔父の心境がわからないまま、私は考えた末にたどり着いた答えを口にした。
私の言葉をすべて聞いた叔父は何度かうなずき、すっと私から視線を外し、遠くを見つめるまなざしを障子に向けてから、ゆっくりとしゃべり始めた。
それはお互いを思いやる姉と弟の話。
ふたりがどれほど長い時間をかけ、想いを募らせていったかのお話。
自由のない家で互いの境遇を慰め合ううち、積み重なっていった想い。
膨らみ上がった想いはあふれ、越えてはいけない一線をふたりに越えさせてしまう。
家人の目を逃れて、重ねられていった逢瀬。
いけないこと、許されないことをしている自覚はあった。けれど止められなかった。
「……僕も姉さんも、そうしないときっと狂ってしまっていただろうね。――いや、人の道を外れたことをしていたんだからとっくに狂っていたのかも知れない」
求めるままの原始的な行為、当然避妊なんかしておらず……。
「私が出来ちゃった、と……」
私のつぶやきに叔父は優しくうなづいてから、
「先天的に僕は子供が作りにくい体質でね、なのに千明ちゃんを授かった。姉は絶対に産むんだって……」
叔父が初めて見た、母の強い決意だったそうだ。
あとは――私も知る母の生涯。
語り終えた叔父は静かに私を見つめ、
「これが千明ちゃんが知りたかったすべてだ。満足したかい?」
秘密を暴いた者への少しの非難と、抱え込んでいた秘密を吐き出した安堵。
叔父からうかがえたのは、そんなふたつの感情。
知りたかった過去の出来事。私はそれ受け止め、
「教えてくれて、ありがとう」
感謝の気持ちを言葉にし、畳に手をつき深々と頭を下げた。
母と叔父のしたことは、世間的には許されない行いだろう。
その結果としてこの世に生を受けた私の存在も。
けど、だけど――。
「叔父さん、私、生まれてきてよかったよ。それだけは胸張って言える」
私は受けた生に感謝してる。
生まれてこなければ今ある悩みや苦しみも、ましてや幸せを感じることはできなかったから。
私は目の前の叔父――父――に抱き着き、精いっぱいの感謝を告げた。
やんわりと抱き返してくれる腕の強さと温かさを、私は忘れることはないだろう。
夜が明けた。
これまでように朝のルーティーンをこなし、ふたりで朝食を取ったあと、私のまとめていた手荷物を収めたケースを手に玄関に佇む。
上がり框から見送る叔父に、
「行ってきます。お父さん」
と、この二十年、いや生を受けての二十九年分の感謝を込めて言葉を贈る。
父は、普段と変わらぬ優しい笑みで受け止め、
「行ってらっしゃい。幸せに」
私を送り出す。
ありがとう。私、きっと幸せになります。
嫁ぐ日に…… シンカー・ワン @sinker
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