1話 お名前は?(2)
「ぼくのご主人がね、あゆみちゃんがね、お歌を歌って、ご馳走作って、新しいおもちゃをくれる、すっごく楽しい日が時々あったんだよ」
たぶんそれは、誕生日だろう。
マルチーズと思しきお客さんは、ペロリと水皿に口をつけてからほんの少し口角をあげ、えへへ、と笑みをこぼした。なんて嬉しそうで、幸せな笑顔だろう。おかしなものだ。自分の名前もよく覚えていないのに、飼い主の名前だけははっきりと覚えているのだから。__でも、それだけ大事で、自分よりも何よりもあゆみさんのことを愛していたのだろう、と感傷に浸る。
「あゆみちゃんはね、おしごと?っていうのがあってね、いっつも忙しそうだったんだ。まあぼくも、ご飯食べて遊んで、毎日忙しかったけどね!ふふ」
なぜか得意げに胸を張るが、どれだけ胸を張ってもホイップクリームのように白くてふわふわな毛が強調されるだけで、偉そうには全く見えない。
微笑ましさに頬が緩むと同時に、お客さんの言葉になんとなくもやっとする。その理由を、まだこの時の私は思い出せずにいた。
一方の店長はきちんと話を聞こうとしてのことだろう。カウンター内の店長専用椅子に綺麗に“おすわり”した。もちろんこのおすわりは、犬にコマンドで出すような一般的な犬のおすわり。なんだ、店長も犬っぽいところがあるんだなあ。
犬といえば、店長は犬にもかかわらず趣味がいい。ワインレッドのベロア生地が気持ちのいい椅子に、端に金のタッセルがゆらめく揃いのクッションまでついているのだから。ちょっとレトロな内装にもよくあっていて、居心地がいい。生前はセンスのいい飼い主のもとで暮らしていたのだろうか?そしてこのクッションは人間の私だけでなく、犬にとっても心地いいようで、お客さんもゆったりとくつろげている。
「それでね、いっつも疲れたー!って言ってて、暗い顔をすることも多かったんだ。そんな時は毎日ぼくがすりすりして、お気に入りのおもちゃを貸してあげて、元気づけてあげたんだ!でもぼくの頑張りが足りなかったのかなあ、あゆみちゃん、笑っているのに、なんだか元気がないの」
「頑張りが足りないなんて、そんなことない!きっとお仕事で何かあったのかも……」
眉……はないけれど、眉あたりを下げて寂しそうにきゅっと口を結ぶお客さんに、なんだかムキになってしまって、私は勢いよくお客さんの言葉を否定してしまう。__あっ、しまった!こんな言い方、店長に怒られる!
慌てて店長を見るが、珍しくぽめ店長は私を嗜めず、それどころかちらりともこちらを見ることがなかった。
ほっと胸を撫で下ろし、お客さんに向き直る。彼は優しげな垂れ目を伏せ、愛おしい思い出を懐かしむようにそのまま閉じた。
「ふふふ、ありがとう!でもねえ、お歌を歌って、ご馳走作って、新しいおもちゃをくれる、すっごく楽しい日にはね、本当に楽しそうに笑ってくれるんだあ。だからぼくはあの日が大好きだった!」
そういえば、いつも決まっておんなじ歌を歌っていたっけ、と口ずさむ。
𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄
「お誕生日おめでとう!今日はご馳走だよ!ハッピーバースデートゥーユー、ハッピーバースデートゥーユー、ハッピーバースデーディア__」
𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄
「そうだ!ここでいつもお名前を呼ばれてたんだ!」
「そりゃあ誕生日の歌だな。そこに誕生日を迎えたやつの名前を入れるんだ。どうだ、思い出せたか?」
ぱあっと満点の笑顔を浮かべたのも束の間、すぐにしょんぼりと俯いてしまう。どうやら肝心の部分にもやがかかって思い出せないようだ。つられて私も肩を落とす。
そこへ、ぽめ店長が立ち上がりにやりと左の口角だけあげた。
「そんじゃあ、おれの出番だな。誕生日の日、一番美味しかったものはなんだ?俺が作ってやるよ。食べてたら思い出すかもしれないからな」
「ほんとう?それじゃあ、ケーキがいいな。あゆみちゃんなんて言ってたっけ?えーっと、そうそう!こめこ?のロールケーキ!あゆみちゃんが大好きないちごが乗っててね、ぼくも大好きなんだ!」
「おう、任せろ!ナツ、ちょっと手伝え」
私は大きく頷いて、戸棚と冷蔵庫から材料を取り出す。米粉に卵、犬用牛乳に艶々のいちご。犬用スイーツの材料は大して多くない。天国に来てまで健康を気にすることもないような気がするが……あくまで思い出の品の再現なのだから、野暮なことは考えないでおこう。
私から材料を受け取ったぽめ店長は、さあ腕の見せ所だ、と呟きながら手際よくボウルに材料を移し、泡立て器やヘラを用いてクルクル混ぜていく。
もちろん食器や調理器具は、犬の店長でも扱いやすい特別仕様だ。泡立て器などは前足にベルトで固定する仕様だし、ボウルが動かないように固定する凹みもカウンターキッチンには備え付けられてある。便利だなあ。
「わあ…」
カウンターから身を乗り出して、店長の手捌きに見惚れるお客さんが、すんすんと鼻を鳴らす。
「そう、そう、こんな匂いだった」
それからクリームをホイップするために、ウイインとハンドミキサーが音を立てた時には、耳を伏せてぷるぷると震えるさまが、実に犬らしくて愛らしい。犬には表情筋があるというが、こうもわかりやすく表情がコロコロ変わると、見ていて飽きない。
そうこうしているうちに、あっという間にロールケーキが完成した。
「さ、おれ特製の米粉いちごロールだ。食べてみな」
「えへへ、久しぶりだなあ!いっただっきまーす!」
美味しい、美味しい、とはぐはぐ頬張る姿に、目頭が熱くなる。きっと飼い主のあゆみさんは、喜んでいるこの姿を見るのが好きだったんだ。一年に一度のお祝いが、心底楽しかったんだ。日頃の疲れも悩みも吹き飛ぶくらい、この姿を愛していたんだ。私は溢れそうな雫を拭い、取り繕いながら微笑む__しかし、カウンターには、ポタリ、ポトリと、私のものでない水滴が落ちていた。
「そうだ…思い出した」
𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄
「お誕生日おめでとう!今日はご馳走だよ!ハッピーバースデートゥーユー、ハッピーバースデートゥーユー、ハッピーバースデーディア“ゆき”ハッピーバースデートゥーユー!」
「わふ!」
「おめでとう、ゆき!はい、いつものケーキね!」
はぐはぐと喉に詰まるくらい勢いよく頬張るぼくを覗き込み、愛おしそうに笑う。ブンブンと千切れんばかりに振られる尻尾。美味しくて甘い匂いに、真新しいおもちゃの匂い、それから家中どこにいっても嗅げるとびっきり大好きな匂い。そして__
「今年はね、ゆきと食べたくて自分のも焼いてみたの。ふふふ、こうやって来年もお祝いしよう。ずっと一緒にいようね、ゆき」
笑顔の、あゆみちゃん。
𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄
“ゆき”くんの涙は、ロールケーキにまで染み込み、お皿にも小さな水たまりがいくつもできている。
「しょっぱい、美味しい、しょっぱい、ふふ、そう、ぼくゆきっていうの、ゆきみたいに真っ白だからって、あゆみちゃんがつけてくれた、大切なお名前……」
「思い出せたみたいだな」
いつになく穏やかな店長の問いかけにこくりと小さく頷き、涙の味のロールケーキをすっかり完食したゆきくんは、鼻の頭に涙の粒とクリームをつけたまま、とびっきりの笑顔を見せてくれた。
「ぼくはね、新しいおもちゃよりも、美味しいごちそうよりも、なによりも、あゆみちゃんがとっても楽しそうにしてるのが嬉しかったんだあ」
「ゆきくんは、あゆみさんのことが大好きだったんですね」
結局もらい泣きしてしまった私も、ゆきくんの幸せな思い出に応えるように目一杯笑った。
ゆきくんはごちそうさま!と勢いよく椅子から飛び降り、店の扉まで走った。
「あゆみちゃん、ずっとぼくと一緒にいたいって言ったんだ。だから早く会いにいかなきゃ!えへへ、あゆみちゃんはあたらしいぼくのこと、気づいてくれるかな!ふたりとも、どうもありがとう!」
ぺこり、と律儀に会釈をしたゆきくんは、そのまま店を出ていった。店内に残された私とぽめ店長の間には、ほんの少しの静寂が訪れる。鼻を啜る音だけが響く。この音は、私のものか、店長のものか……
「…店長、あゆみさんはゆきちゃんに気づいてくれるでしょうか。またあゆみさんと出会えるでしょうか。そんな映画みたいな奇跡、あるのかな…」
不安げな私をチラリと横目でみて、店長はふんと鼻で笑う。
「あるさ。お前だって現世にいた頃はこんな世界があると思わなかっただろ。あれだけまっすぐにお互いを想いあってるんだ、奇跡は起こるさ。……にしても、まったく、お前はどうしてそう悲観的なんだよ」
ため息をつかれた私は店長をじっと見つめて……ビー玉のようにつるつるつやつやで、濡れた瞳に微笑んだ。
「店長こそ、珍しくロマンチストじゃないですか?」
「うるさいな、ほっとけ」
そう言った店長の横顔は、そう信じていると言うより、そうあって欲しいと願っているように見えた。
虹の橋1丁目1番地 かふぇ ふあふあ亭 狗恋るか @ransyoharuzi
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