虹の橋1丁目1番地 かふぇ ふあふあ亭
狗恋るか
1話 お名前は?
カランコロン。店の小さな扉に取り付けられたベルが来客を知らせる。
「いらっしゃい、1匹か?」
「ぼくいっぴきだよ!」
「なら、カウンターに座んな」
このカフェの店長である“彼”が、顎でカウンターを指した。
私は動物の種類にさして明るくないが、案内された客は人気犬種の一つであるマルチーズのように見える。ちなみに店長はふっかふかもっふもふの被毛が可愛らしい、たぬき顔のポメラニアンだ。ここにきてしばらく経つが、店長の薄茶色のもふもふに顔を埋めたいと何度思ったことか。……一度だってもふらせてもらえたことなどないが。
そんな私の邪心を見透かしているのか、ぽめ店長は私を呆れ顔で一瞥した。
「ナツ、お前またこのおれに見惚れてただろ。いい加減、そのよだれのたれそうな間抜けな顔はやめろよな、気色悪い。突っ立ってないで、客に水くらいだせ」
「すみません……」
私がしょんぼりと水皿に水を注いでいると、隣でぽめ店長が、絶対におれの自慢のもふもふヘアーに触らせないからなとぶつぶつ独りごちている。
それにしても、改めて不思議な世界だ。当たり前のように犬がしゃべっているし、後ろ足で普通に立っているし、もふもふの店長がカフェをやっているし、っていうか店長なんか口悪いし。そんな店長に顎で使われる人間の私は、一体何をしているのだろうか。
「ここは何がおいしいの?」
物思いに耽っていると、カウンターに備え付けられた犬用の椅子にちょこんと座るマルチーズのお客さんが、キョロキョロと辺りを見渡している。そういえば、この店はメニュー表やそれに準ずるものが何もない。
姿形に全く似つかわしくない口調でぽめ店長は「基本的にはなんでも作ってやるよ。大体みんな、思い出の味なんかを注文していくな。ところでお客さん、名前はなんていうんだ?」と、まっすぐに真っ白なお客さんを見つめた。
そんな薄茶のもふもふの問いに、白いもふもふは自信満々に……
「ぼくは“かわいい”だよ!」
「ぶふっ」
「おい」
「ごめんなさい…」
吹き出す私を嗜める店長。まったく、どちらが年上かわかったものじゃない。って、あれ?ぽめ店長って何歳なんだろう。そんな疑問もさておき、目の前の自称“かわいい”さんは、名前に違わず可愛らしい笑顔を浮かべながら、首を傾げた。
「お名前、おかしい?」
ほら、お前のせいだ。と言わんばかりの視線が痛い。
「そんなことないさ。でも、たぶんそれはお客さんの名前じゃないな。他になんて呼ばれていたか覚えてるか?」
「違うの?ええっと、うーんと、かわいこちゃん?たからものちゃん?」
「それも違うだろうな」
「えー?」
「ちゃんと名前を思い出さないと、虹の橋を渡る手続きが面倒になるぞ。思い出せるうちに思い出しな。客も他にいないし、ゆっくりでいいから」
店長は一応、お客さんには優しいらしい。タメ口だが。
「手続き…?」
「ご存知だったらすみません。次の転生の時に名前が必要だそうで……まあ、私もまだよくわかっていないことも多いので、詳しくは店長に」
今更だがここは天国。いわゆる死後の世界だ。この世に生きる全ての生き物は、動物人間問わず、どんな生き物もここに辿り着く。現世で生をまっとうした後、気がつくといつの間にか虹の橋のたもとにいるのだ。その虹の橋を渡れば新しい体と命を得て生まれ変われるのだが……誰しもがすぐに転生するわけじゃない。誰か待ち人がいたり、まだ転生したくないという生き物は、虹の橋のたもとで、思う存分過ごすことができるらしい。未練をなくすための場所……というのが正しい認識だろうか。そうして未練がなくなった生き物は、1人で、あるいは2人3人と複数で、虹の橋を渡り次の生を歩むというわけだ。
つまり、何事もないように笑っているマルチーズのお客さんも、ツンツンしていて生意気なポメラニアンの店長も、外を歩く動物も人間も、みんな現世を去ったいわば幽霊のような存在。かくいう私も……と言いたいところだが、私は他と少し違うらしい。まあ今はそんなことどうでもいいのだが。
「おいナツ、おれに全部ぶん投げるなよ。手続きに関しては、係員が虹の橋にいるからそいつに聞きゃあいい。そんなことより、名前だ名前」
「そうですね、お客さん、名前だけで思い出そうとするからダメなのかも。何か楽しかった飼い主さんとの思い出とかって覚えてますか?」
「思い出……」
半開きの窓から優しい風が吹く。白くて可愛らしいカールの被毛が、ふんわりと靡いた。ほんのりと懐かしい……ポップコーンのような香ばしい香りが漂ってきた。そういえば、犬の肉球がそんな香りらしい。
「いっぱいあるけど、一番楽しくて、嬉しくて、美味しかった思い出は…」
𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄
「……ちゃん、今日はご馳走だよ!お誕生日だからね!」
𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄⡱𖧷⢄
ずっとニコニコしていたお客さんが、一層幸せそうに目を細めた。どうやら名前を思い出す糸口が掴めそうらしい。
「聞かせてくれよ、お客さんと飼い主さんの思い出を」
どこか寂しそうに、ぽめ店長が笑った。
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