最終話 天秤は揺れる
四年前の五日間を、僕は今でも思い出す。
ハルカと海を目指したあの日々を——
* * *
海鳥が鳴く。
風にのって海の匂いがする。
青い波が、崖に衝突して白く崩れる。
——自殺の名所。
そう呼ばれているこの場所は、僕があの日、たどりつけなかった場所だった。
あのとき、もし歩き続けていたら、僕たちはこの海についていた。
四年経った現在も、ハルカの行方は分かっていない。
あの日以降、僕は漫画喫茶のパソコンや、バイトをしてやっと買えたスマホで彼女について検索した。両親が作ったであろうホームページは、「この子を探しています」という赤い文字とともに顔写真が載せられていた。二年前に、なぜかそのページは削除された。海岸で死体が発見された事件はいくつかあったが、どの遺体の情報もハルカの特徴とは一致しなかった。
彼女からの手紙は、警察には見せていない。
たとえそれで捜索が行われるとしても、それはハルカが望んでいたことではないから。彼女はきっと、弟のように死にたかった。だから僕だけにこれを残したのだろう。僕は読み終えた手紙から、波立つ青い海に目をうつす。
——ねえ、僕は、頑張って生きたよ
風が強くなって、僕は手紙をしまった。崖に打ち付ける波の音がする。
——もう四年たったんだ
夜の道を歩き続けたあの日々は、夢みたいだった。どこまでも道に先がなくて、永遠に続いているような気がしていた。
——ねえ、今も、まだ、死にたいよ
月日がたった今では、彼女との日々は本当にあったことなのか、疑問に思うときがある。あのとき僕は本当に二人で歩いていたのか。あのとき僕たちは本当に会話をしたのか。あのとき僕たちは本当に出会っていたのか。夢から覚めたとき、夢の記憶が思い出せなくなるみたいに、彼女との記憶が曖昧になっていく。唯一、彼女の存在を示しているのは、たった一枚の手紙だけだった。
果たして僕は、寿命がつきるとき彼女を覚えているだろうか? きっと生きれば生きるほど、僕は彼女のことを忘れていく。それ以前に死んでも、結局、脳は死に、記憶は残らない。
人生は、穴の空いたコップだ。
どういう生き方をしようが、結局は全て抜け落ちる。頑張って穴を塞いでもすき間から漏れてしまうし、死んで塞ぐ作業ができなくなると一気に満たしていたものは抜け落ちる。そう考えると、生きるということは不毛な作業なのかもしれない。
僕は立ち上がる。
海と空の景色が、視界一杯に広がる。涼しい風が、前から吹いてくる。
一歩前には、これから起こるかもしれないあらゆる不幸を消し去ってくれる世界がある。一歩前、足を踏みだすだけで、僕はそこにいける。
ハルカさん。
もう四年生きたよ
あのときのきみと同じ、18歳になったんだ。
僕は景色を見ながら、一度深呼吸をする。
あと一度だけ考えて、帰ろうと思った。
一つの選択ともう一つの選択を天秤にのせて。
持ち上がった方を、僕は海に捨てるのだ。
一方のはかりには、人や犬の眼球が乗っている。山のように積み重なって、一様に瞳孔が空を向いている。
もう一方のはかりには、手紙が乗っている。ハルカが書いたもので、たった一枚の紙切れしかない。
天秤が揺れる。
ふらふらと。
何度も——
僕は座って汚れたズボンを、ぽんぽんと手のひらで叩く。
「あの」
後ろから、声が聞こえた。
天秤が、静止する。
青空の下、海の方から涼しい風が吹く。
僕は、崖とは反対に足を踏み出して、声のする方を振り返った。
春を待つきみに 綿貫 ソウ @shibakin
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