リリー

リリー

 十月になった。この辺りには金木犀が咲いていて、時折窓から入り込む風は秋の訪れを感じさせながらも、どこか爽やかさを含んでいた。私はインドアなライフスタイルのくせに外の匂いというのが好きなので、真夏や真冬を除いては窓を開けて過ごすようにしている。


「今日はどこに行こうね」


 ローテーブルを挟んで向かいに座るリリーに問いかけた。彼女はフレンチトーストを口いっぱいに詰め込んでいる真っ最中で、すぐに答えることは難しそうだった。私は返事を待つ間、肩甲骨の下くらいまではある彼女のエアリーな髪を眺めながら、その髪色をうまく表現できるボキャブラリ―を探していた。金髪と言うには攻撃性が足りない。茶髪と言うには色が薄すぎる。白髪と言うには彩度がある。クリーム色と言うには透明感が強い。部分的に描写すれば暖色的だが、総合的なバランスでは寒色的に見える。要するにシャムネコのような髪色なのだが(毛先にかけてダークブラウンにグラデーションしているものだから、なおさらそうとしか言えない)、シャムネコを形容するときに「シャムネコのような」とは言いたくない。今は人間の姿をしているのだから、諦めてそのように形容しても構わないようにも思うが、妙なプライドがそれを許さなかった。


 リリーは猫だ。リリーという名前のメスのシャムネコだ。名前に特段の由来はない。Lilyという英単語は純白だとかユリの花だとか、そんな意味らしいが、特にそれを意識したのではない。ただリリーという名前が音の響きとして頭に浮かんだので、そう名付けた。猫に名前を付けるという行為には、そのくらいの短絡さがちょうどよいと思う。


 彼女は確かに猫なのだが、今、もぐもぐと口を動かしているのはまぎれもなく人間の女だ。私の気が狂っているのではなく、猫が人間の姿をしているのである(やはり気が狂っているのかもしれない)。三年前の十月八日、つまり彼女の一才の誕生日がこの怪異の始まりである。その日は日曜日で、昼までベッドにこもるつもりだった私は、外国人のような風貌のやせっぽちな裸の女にたたき起こされ、大いに驚いた。その女が私の愛猫だとすぐには信じられなかったが、確かに部屋のどこにもリリーは見当たらないし(実際には目の前にいたのだが)、彼女がアラサー独身女のプライベートな事情をいくつも指摘してみせるので、しまいには信じないわけにいかなかった。それ以来彼女は、誕生日の一日だけ国籍不詳の美女になり、その翌日には何事もなかったように猫の姿に戻る。


「ここに行きたいわ」


 たっぷり時間をかけて口の中を空っぽにしたリリーはマガジンラックから一冊手に取り、私に差し出した。表紙には、少し青すぎるくらいの海を背景に、「沖縄特集」と書かれている。


「沖縄にすぐに行くのは難しい」


「ふむ」


 彼女は唇を尖らせた。彼女は口の動きで感情を表すことが多く、反対に目はいつもまんまるに開いたままだった。


「海が見たいのなら、沖縄まで行かなくても見れるけど」


「海ってどこもこんな感じなのかな」


「そんなことはないね。これは特別綺麗な海だと思う」


 リリーはまた「ふむ」と呟き、むの口のまま動かなくなった。唇の上に鉛筆が乗りそうだ。


「仕方がない。特別綺麗でなくてもいいよ」

 

 しばらくしてリリーは尊大に言った。


**********


 私は契約しているカーシェアリングサービスで、いたって普通のコンパクトカーを借りた。リリーは助手席に座ると「実は乗ってみたかったんだよね」と子どものように笑い、シートの反発を確かめるように何度かお尻を跳ねさせた。リリーと車で出かけるのはこれが初めてだ。一年目と二年目は、彼女を家の外に出すことが恐ろしくて一日部屋の中で過ごしたし、三度目の誕生日は、歩いて行ける近場の公園でピクニックをした。


 順調なステップアップを経た今日は、リリーの希望を叶えることになっていた。彼女の最初の希望は、今朝のフレンチトーストだ。私の休日の朝食の定番だ。よほど気に入ったのか、車窓を流れる景色を見ながら、奇妙なフレンチトーストソングを歌っている。


 目的地の海浜公園までは車で二時間ほどだった。平日昼間のだだっ広い駐車場には、片付け忘れたミニカーのようにまばらに車があるだけだ。私たちは海が見えるまで少し歩いた。


「あんまり青くないね」


 初めて海を見た感想は、不満を感じているというのではなく、青くないことに驚いたといった調子だった。リリーはしばらくの間、海を眺める自分の方法に間違いがないか確かめるみたいに、目を細めたり、覗き込む角度を変えたりした。


「リリーは海という概念はわかるのに、一般的な海がどんなものかは知らなかったのね」


 海に限らず、彼女は何に対してもそうだった。言葉だって、彼女は最初から正確な日本語を話した。


「この姿になると、人間の集合知みたいなものがインストールされるのかも」


「オカルト的ね」


「オカルトをバカにできる側じゃないでしょ。毎日くだらない動画見てるの知ってるんだから」


「人間には、くだらないとわかっていてもそういうものを摂取しなきゃいけない時があるの」


「なるほどね。猫じゃらしで遊ぶときみたいなものか」


「傷つくこと言わないでよ。本気で楽しんでいるんだと思っていたのに」


 彼女はふふっと小さく笑った。そしてしばらくの間をおいて、わざとらしく大声で笑い始めた。ははははは、とひらがなで書けそうなものだった。


「どうしたのよ」


「大きな声を出したくなったの。悪くない。これ悪くないよ」


 リリーはその後もしばらく、悪くない、悪くない、と繰り返し呟いたり、大きな声で笑ったりした。回を重ねるごとに、わざと笑いがうまくなっていった。私は一人の世界に入ってしまったリリーの何歩か後ろで、厚手のリネンワンピースが海風に揺られるのを見ていた。ワンピースは私とおそろいのものだ。去年の誕生日にプレゼントした。彼女は以前から私のワンピースを寝床にしていることがあったので(私は服を脱ぎ捨てたままにしがちだ)、同じものをあげれば喜ぶと思ったのだが、彼女は真新しいリネンの固い質感を気に入らなかった。結局、彼女には私のお古を譲り、私が新しいのを着ることになった。


 リリーの髪もワンピースも、それから砂浜の色も言葉で表せばベージュとかオフホワイトとかになるのだろうが、それぞれに異なる彩度や透明感で陽光を跳ね返していた。きっとこれは言葉や写真で表すべきものではなくて、絵として切り出すべきものなのだろう。


 私たちはしばらく砂浜を歩いたのち、ベンチに座って休憩をした。ベンチは脚の二本が砂浜に沈んでいて傾いていた。やがて悠々とした足取りで、三毛のぶち猫が現れた。リリーが手を伸ばしても、人間慣れしているのか、あるいは同族だと思っているのか、怯えることなく静かに体を預けていた。


「お前は毎日海が見られるのか。うらやましい」


 言葉とは裏腹にあまりうらやましさを感じさせないトーンだった。


「でもフレンチトーストは食べられないわ。一年に一度とはいえ人間の姿になれることの方が幸せじゃない?」


 リリーはしばらく無言で、どこかの知らない惑星のような薄青い目を空に向けていた。


「私に猫ならざる能力があることと、私の幸福との間にはあまり関係がない気がする」


「フレンチトーストを食べることは幸せではないと」


 早朝にたたき起こされた私は、少し納得がいかない。


「確かにこの姿の私にとっては幸福なことだよ。でも、もしも私が普通の猫で、いつまでたっても猫の姿なら、フレンチトーストを食べたいとも海を見たいとも思わなかったのよ。猫の姿のときは猫並みの考えしかできないからね」


「でも普通の猫ではできないような経験ができているわ」


「それは客観的な神様目線の幸福だよ。知りさえしなければ、誰にできないような幸福も意味がない」


 一理あるかもしれないと私は思った。まさか猫に神様目線などと言われようとはとも思ったが。


「でも、最初にぶちちゃんをうらやましがったのはリリーの方じゃない」


 私は助けを求めるようにぶち猫の側に目を向けたが、彼はリリーに篭絡され気持ちよさそうに目を閉じていた。安直な名前、とリリーは鼻で笑った。


「それはぶちちゃんのおかれている状況を今の私ならより有効活用できるということを言いたかっただけ。彼が猫の中で特別幸福だということを言いたかったわけじゃない」


 人間の集合知とやらは、どうやら屁理屈に特化しているらしい。あるいはインストールされた知がリリーというハードウェアに適応することで、このようなアウトプットを生み出すのかもしれない。


「つまり私にとっては、リリーに新しい幸福のヒントを与えない方が手間がかからないということね」


 リリーは再び黙り込んだ。宇宙の神秘を連想させた瞳も今となってはくだらない理屈をこねくりまわす俗物にしか見えない。


「……人間というのは未だ知りえない新しい幸福の可能性について既に知っている生き物だからね。人間の姿になった私にその手段は有効ではないかも」


「誰かに何かを要求するときは、知的ぶった論よりも謙虚な気持ちが大切だと思うのよ」


 ぶち猫は目を覚まして、身軽に走り去って行った。私たちはしばし無言のまま、ぼやけた水平線を眺めていた。やがてリリーは「ごめんなさい」と呟いた。


**********


 期待より青くない海であったとしても、リリーはずいぶん気に入ったようだった。私たちは傾いたベンチで長い時間を過ごしたが、そのほとんどを無言で過ごした。会話が途絶えると、リリーはごく自然に風景の一部に溶け込んだ。彼女の色彩は砂浜と親和性があったし(シャムネコの祖先は砂浜に住んでいたと言われてもきっと信じたと思う)、彼女には気配を消す才能があった。それはライオンやチーターのようなネコ科の肉食動物が得意とする潜伏としてのものではなく、どちらかと言えば植物的に感じられた。どれだけ鮮やかな色彩を放っていても、その場の空気の色調にトーンを合わせていた。せっかく話ができるのだから彼女と会話したい気持ちもあったが、二人で並んで座るだけでも悪くはなかった。悪くない、悪くない、と私は彼女の真似をした。きょとんとした後にリリーも、悪くない、悪くない、と続けた。私たちの穏やかな時間は夕焼けの時間になって、騒がしい大学生グループが訪れるまで続いた。二人とも同じタイミングで「帰ろう」と言った。

 

**********


 車を返却した私たちは、そこから歩いて十五分ほどのところにあるクラフトビールのタップルームへ向かった。私が一人でも利用している店だ。住宅街の中にあるその店はカウンターが三席あるだけで、基本的にはテイクアウトするスタイルだ。外観も内観もビアバーのような小洒落た雰囲気ではなく、どちらかといえば工房のような面持ちだった。いらっしゃい、と私たちを迎えた顔見知りの中年スタッフは私が一人ではなく、明らかに日本人離れした人物をつれてきたことに驚いていた。


「外国人の友達なんていたの」


 彼は、ないすとぅーみーちゅー、とリリーに挨拶した。リリーは、はじめまして、と返した。


「日本語でいいならそう言ってよ」


 と彼は少しバツが悪そうに、安心したように言った。


「日本のクラフトビールは最近、世界でも注目されているんだって意気揚々と話していたじゃない。そんなことでいいの」


「そういうのはオーナーに任せるよ。あの人、人間の言語はたぶん全部話せるんだ」


 私はいつも猫背で歩く三十代半ば程度の不愛想な男を思い浮かべる。彼にそんな能力があったことは知らなかった。私はリリーとの関係を、学生時代に研究室を出入りしていた留学生で、今でも交流があるのだと説明した。


「ビールは初めて飲むんですが、どれがおすすめですか」


 リリーが訊ねると、彼は心底うれしそうに目を輝かせた。そして長い語りが始まった。彼の話は自店のビールの解説よりも、彼がいかにしてビールに魅了されたか、なぜ単なる消費者にとどまることなく生産者になろうと思ったのか、人間と酒との関わり方はどのような変遷をたどったのかといった話が中心だった。そして話の半分くらいは、学生時代の語学力の伴わない海外貧乏旅行についてだった。彼は雇われのスタッフだったが、いつも気怠げな店主と比べると、彼の方が熱意があるように見えたし、よほどオーナーらしく見えた。彼の話が終わりに近づいたところで(三度も聞けば終わりがどのあたりかもわかる)、私はそれを伝えた。


「オーナーは僕なんかよりずっと熱意がある人だよ。確かにとてもわかりにくいけど、それは熱意が外部に発散されるまでもなく、彼の中で完全に燃え切ってしまっているからだね」


 彼はそう言った。私にはぴんとこない。しかし熱意がない人間は、この人のようなビールに対する過剰な愛がにじみ出ている人間を雇ったりはしないかもしれない、と思った。


「だからいつも燃え尽き症候群みたいな顔なのね」


「そうなんだよ。あの天パもきっとそのせいなんだ」


 私たちは二人で笑った。彼の爆発したような頭髪を見たことがないリリーだけが、つまらなそうな顔をしていた。


 リリーはひとしきり悩んだのちピルスナーを選んだ。私も同じものを注文した。タップから薄い黄金色の液体がカップに注がれるのをリリーはじっと眺めていた。彼女は家にいるときも、炭酸の泡の動きをずっと眺めていることがあった。


「これおまけしてあげるよ」


 私たちはペールエールの缶をもらった。自家醸造ではなくインポート商品で、赤やら緑やらの鮮やかな色がエネルギッシュに交錯するポップなパッケージだった。


 私たちは醤油やみりんっぽい家庭的な匂いを感じながら、すっかり暗くなった道を並んで歩いた。リリーはいただきますと礼儀正しく言って、初めて飲むにしては豪快にビールを口に流し込んだ。そして案の定、ぐふっとぐしゅっの間みたいな音で咳き込み、鼻からビールを出した。その間抜けな仕草が彼女の美貌に全く似合っていなくて、私は思わず声を出して笑った。


「そんな一気に飲むからよ」


「だっていつもこんな飲み方してるじゃない」


「歴が違うのよ。素人のおこちゃまが大人の真似するもんじゃないわ」


 リリーは顔を顰め、私が差し出したハンカチでごしごしと鼻を拭いた。そして今度は注意深く、ちびちびとすするようにして飲んだ。


「おいしい?」


「おいしくない。なんでおじさんはこんなものに人生を変えられちゃったの」


「それ、絶対に本人に言っちゃだめよ。恐ろしく長い話をされるわ」


 私もプラスチックのカップに口を付けた。そしていつもよりほんの少し注意深くカップを傾けた。


「きっとおじさんは海外旅行の楽しさとビールのおいしさをごっちゃにしちゃったんだ」


 あんなに長く語ったのに気の毒だなと思ったが、確かにそういう面も少しはあるかもしれないと私は思った。


**********


 二十三時を少し過ぎたころ、リリーは猫の姿に戻った。彼女が元の姿に戻るのは零時きっかりではなくて、だいたい一時間くらいずれていた。私たちは冷凍のたこ焼きをつついているところだった。


「これ、自分でも作れるの」


「そうよ。やりたい?」


「やりたい。来年やりたい」


「それならたこ焼き器買っておくわ」


「やったね。やくそ——」


 どんな仕組みかはわからないが、私が一回瞬きするうちにそれは起こった。彼女の言葉の続きのかわりに、リネンのワンピースが床に落ちる音だけが変に大きく聞こえた。中途半端な約束が宙ぶらりんのまま部屋を漂っている。ワンピースの中から這い出てきたリリーに、私は伏せるようにして視線を合わせた。


「大丈夫かい、具合悪くないかい」


 リリーは大きく伸びをしてから、部屋の隅にあるモノクロのキャットタワ―を中段までリズミカルに上り、そこで丸くなった。私はしばらくの間、彼女の一挙手一投足から何かしらのメッセージを読み取ろうとしたが、やがてやめた。人間としての意思疎通は、一年間おあずけなのだ。私はおまけしてもらったペールエールを一緒に飲み損ねたことに気付き、少しだけ申し訳ない気持ちになった。


**********


 翌日、私はリリーを動物病院に連れて行った。これもやはり毎年の恒例行事だった。リリーはこの奇妙な変身中の生活によって体調を崩したことはなかったが、それでも心配ではあるのだ。


「特に異常はないですね。大切にされて、リリーちゃんは幸せですね」


 彼女のかかりつけ医である仁藤医師は頭髪の薄くなりかけた小太りの男だったが、どこか気品のある人物だ。ペールブルーの制服姿しか見たことはなく、職業柄、香水をつけているわけでもない彼のどこから品を感じているのかはわからなかったが、チタンフレームの眼鏡がドイツ製の高級品らしいことは、待合室でのおばさまたちの会話から知っていた。


「猫にとっての幸せとは何なんでしょうか」


 私は仁藤医師に訊ねてみた。彼が一瞬怪訝な顔をしたのに合わせて眼鏡も動いた。彼はいつもの柔和な笑顔に戻り、そうですねぇと言った。この人は実生活で生きるには少しテンポが遅いように感じることがあった(しかし病院の経営は上手くいっていた)。彼は丸い座面の回転椅子に腰を下ろし、ボールペンを何度かノックしながら考えたのち


「正直わかりません」


と苦笑した。


「獣医のくせにと思われるかもしれませんが、我々にわかるのは身体的なことだけですから。もちろん経験的に、あるいは多少理論的に彼らの怪不快を読み取ることができる場合もありますが」


 彼は頭の中にある物事を一つ一つ目の前に並べていくように話した。並べていく過程で物音は一つも立たなかった。


「私が安易に幸せと口にしたのが気に障りましたか」


 いえ、と私は首を振る。彼はちらりと卓上の時計を確認し「これは私の考えですが」と続けた。


「心身ともに健康であれば、幸せというのは勝手に見つかるものです。それは人間も動物も同じように、幸せを見つける能力が自然と備わっているような気がします。そしてそれがどんなものであれ、幸せが見つかるということもまた幸せなことです」


 私はそれ以上彼に聞くこともないなと思ったが


「つまりリリーは結局幸せなんでしょうか」


 と訊ねた。悪質なクレーマーのようだと自分で思った。


「わかりませんが幸せを見つけられる状態ではあると思いますね。健康ですから」


 と彼は丁寧に答えた。


**********


 帰宅してすぐに移動用のケージを開けてやると、リリーはケージを蹴り飛ばさんばかりの勢いで飛び出した。寝室で上下グレーのスウェットに着替えた私は冷蔵庫から取り出したばかりのペールエールの缶を手にリビングに戻った。プルタブを引くと、ぷしゅっという爽快な音とともに泡が盛り上がってきて、慌てて口を付ける。特に缶を振ったりはしていないのだが、何故だかたまにこういうことが起こる。リリーがじっと私を見ていた。色素の薄い目の中で瞳孔の動きが良く見えた。「勝手に飲まないでよ」と言われたような気がした。昨晩リリーが語ってくれた私よりいくぶん人間らしい言葉を思い出す。


「猫の姿でいる時も何も思っていないわけじゃないんだよ。楽しいとか、イライラするとか、それ食べたいとか、そんなことは思ってる。思うことはできるけど、考えることはできないの」


 今、彼女は何を思っているだろうか。もし人間の姿だったら何を考えていただろうか。そして、何を語ってくれただろうか。


「なんだかさみしいねぇ」


 立ったまま缶に口をつけ、今度は飲めるだけ口に流し込んだ。何かがうまくいかなくて思い切り咳き込んだ。鼻の中で炭酸が弾けて痛い。私はティッシュを何枚かとって強く鼻をかんだ。リリーはキャットタワーの中段に姿勢よく鎮座して、やれやれと言うようにあくびした。


「なによまったく」


 私は彼女を抱きかかえた。猫の姿でも、透明な砂浜色の毛は柔らかく空気を含んでいた。案外、来年は「頑張れば猫の姿でも考えることができたわ」なんて言い出すかもしれない。

 

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リリー @nu_sousaku

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