秋に鳴らす鍵盤

夢月七海

秋に鳴らす鍵盤


弦介げんすけって、すごい名前だよね」


 十三歳だった奏さんから、不意にそんなことを言われたのは、彼女の母親の三回忌での出来事だった。お墓参りの帰り道、夕暮れの空を眺めている奏さんの横顔を、僕は咄嗟に見上げた。

 僕と二歳差の彼女は、親戚とかではない。でも、僕の家である天分あまわけ楽器店は、奏さんのお母さんが元気だったころにピアノ教室を開いていたので、お互いに小さいころから交流があった。


「僕の名前、すごいんですか?」

「うん。だって、将来楽器店を継いでほしいって、願っているような名前じゃない」


 きょとんとした僕の顔を見た奏さんは、はっきりと「あ、しまった」という顔をした。そのあからさまな動揺に、僕は笑いそうになるのを、懸命に堪える。


「気にしたことありませんよ。確かに、名前に『弦』って入っているから、弦楽器が、特にギターが好きになったきっかけかもしれませんが」

「……そう、そうだよね」


 当時十一歳だった僕は、自宅でギターの練習をしていたが、通っていた小学校にはギタークラブというものもなかったので、バンドとか大人数の演奏ばかりに興味があった。だから、「弦介」という名前も自分の一部というだけで、それが負担に感じたことなどなかった。

 五年経った今なら分かる。奏さんがそんな話をし始めたのは、自分の名前へのコンプレックスを、共感してほしかったのだと。






   〇






 「ストリートピアノをこの商店街に置きたい」というのが、僕の父さんの口癖だった。しかし、それを実現させるお金とタイミングがないまま、時間が過ぎていった。

 ピアノ教室を閉めるので、このグランドピアノをもらってほしい、という申し出が出たのは、父さんにとって、最大のチャンスだった。ずっと貯めてきたお金を使ったり、町内会の許可を得たりして、父さんは自分の夢を実現させようとしていた。


 そして、そのグランドピアノが今、僕の家の楽器店にある。小さなお店だったので、大半の売り物は倉庫に置いていて、グランドピアノがそのほとんどの面積を占めている。お店としての機能が無くなってしまい、本末転倒な気がする。

 父さんは、そのピアノの前でどや顔をしていた。ここに入れるまでの苦労など、微塵も感じさせないような。だけど、二人の客人——十八歳の奏さんとそのお父さんは、父さんではなく、ピアノの方ばかり見ていた。


「すごいな、あの頃のまんまだ」

「うん。ほら、鍵盤の傷も、残っている」


 素直に感心して、持ち上がったピアノの屋根を覗き込む奏さんのお父さんに対して、奏さんはちょっと複雑そうだ。目を細めて、喜んでいるように見えるけれど、どこか陰のあるような。それに、ピアノの鍵盤に、懐かしい傷を見つけても、決して触ろうとはしなかった。

 「ピアノ、やめたの」——そう、奏さんが僕に教えてくれたのは、数か月前のことだ。お母さんの教室に通うくらい好きだったのに、とは咄嗟に思ったものの、今は普通の大学生を謳歌しているという彼女に、僕は頷くことしか出来なかった。


「ねえ、弦介くん、このままだと、君の家の出入り口まで、通れなくない?」

「あ、うん。だから、ハイハイするように、この下をくぐっていますね」


 ぼんやりしていたら、奏さんからそんなことを聞かれた。彼女の心配する通り、このピアノが道をふさいでいるので、楽器店の奥にある、僕ら家族の居住地に通じるドアまでは、四つん這いになって行き来するしかない。


「大変だね。お母さん、カンカンでしょ」

「そうですよ。もう、このピアノをどかすまで、うちから出ない、なんて言っています」


 現実主義な母さんの口調を真似すると、奏さんはくすくす笑った。そして、秋晴れの下にいるかのような爽やかな顔で、静かに告げる。


「ストリートピアノのお披露目って、次の日曜日、だったよね?」

「ええ。天気もいいので、その日にって」

「私、一番最初に演奏したい」


 僕は一瞬、固まってしまった。すぐ隣で別の話をしていた父さんと奏さんのお父さんも、ぴたりと黙り込む。

 三人の目線を一身に受けて、でも、奏さんは、傷もそのままなピアノの鍵盤を見下ろして、続けた。


「お願い」


 奏さんが絞りだした声に、父さんは動揺を隠すために、わざと大きな声で「いいよ、いいよ! 奏ちゃんなら、大歓迎だよ!」と言い出した。一方、奏さんのお父さんは、唇をぎゅっと結んで、目だけが泳いでいる。

 僕は、奏さんのお父さんの反応に、近い気持ちだった。だけど、彼女の声に対して、自分が口をはさむのは、間違っているような気がした……。


 奏さんのお父さんが夕食の支度のために帰っても、奏さん自身はここに残って、僕の父さんとお披露目会の相談をしていた。そうして、本番の時に奏さんが演奏するのは、ジャズのスタンダードナンバーの「月日のダンス」に決まった。

 外はすでに暗くなっていて、僕が奏さんの家の近くまで送ることにした。と言っても、奏さんはもう大学生で、家も徒歩圏内にあるから、その必要はあまりない。ただ、奏さんともうちょっとだけ話がしたかった。


 商店街の南口を出てすぐ、奏さんは一瞬立ち止まった。港に続く道をじっと眺めているのだが、特に変な様子もない。普段と同じ道だ。

 不思議がる僕をよそに、奏さんはゆっくり歩きだす。その歩調に合わせるように、喋り始めた。


「さっきの道をまっすぐ行ったらね、ポストが一つ置いてあるの。そこに投函した手紙は、亡くなった人に届くんだって」

「えっ、そうなんですか?」

「うん。靴屋の子の……由々菜ちゃんが教えてくれたの」


 奏さんは、こちらではなく、踏み出している自分の爪先を見ていた。僕は、十二歳の女の子の由々菜ちゃんのことを思い出す。あの子は商店街やこの町のことが大好きだから、こういう噂も知っているような気がした。


「それで、私、出してみたの。五月に、お母さんに、手紙を」

「……」

「そこに、書いちゃったの。お母さんのお陰で、ピアノが好きになれたって。今は、やめているけれど、いつか、必ず弾くからって。でも、返事とかなくてね」

「ええと……」


 僕は、なんと返事をすればいいのか悩んだ。奏さんの背中を押してやるべきかもしれないけれど、勇気は出ずに、気休めを口にした。


「噂が、嘘だったのかもしれませんから」

「本当だよ。私、実は死神だっていう郵便局の局長さんと、お話したから」

「そ、そうでしたか……」


 すねた口調の奏さんに、僕は自分の失言を悔いて小さくなる。でも、あの局長さんが死神だったなんて。たまに見かける、ふらふらしながら自転車を漕いでいる姿からは想像もできない。

 奏さんは、急に空を見上げた。闇の中で星を探すような目つきで呟く。


「今日の話が、一世一代のチャンスなの。私、お母さんのピアノだったら、弾ける気がする」

「……そうですね」


 もっと気の利いた返事があるはずなのに、僕は間抜けなイエスマンになってしまったかのようで恥ずかしい。ただ、やっと微笑を浮かべた奏さんに、水を差したくなかったのも、事実だった。






   〇






「すみません」


 いよいよストリートピアノのお披露目会が翌日に迫った土曜日。天分楽器店の閉店時間ギリギリに、奏さんのお父さんが訪ねてきた。

 カウンターでレジ締めをしていた父さんと、目配せをする。奏さんのお父さんの訪問理由は不明だが、重い荷物を背負っているかのような表情で丸わかりだった。父さんが、カウンターから出てきて、にこやかに話しかける。


安曇野あずみのさん。急にどうしたんですか?」

「明日の演奏、娘には断ってもらえませんか?」


 やっぱり、思った通りの話題だった。父さんの背中越しに、困惑しているのが分かる。


「でも、奏ちゃんからは、何も聞いていないからですね、そのまま、演奏させようと思っているんですよ」

「はい。奏があの申し出を、勇気を出して言ったことは、よく分かっています。でも、私はずっとそばで見てきました。ピアノが上手にならないと、悩んで、苦しみ続けた奏の姿を。もう、あんな思いは、させたくないのです」


 奏さんのお父さんは、息を詰まらせながら、そう訴える。娘の苦しみを、一番近くで見ていた父の言葉は、何よりも重みがあった。


「ええ。ただ、奏ちゃん本人がいない場所で、そんな話をされても、困るだけなんですよ。それに、今回は上手い下手とか関係ないので、奏ちゃんも気楽に弾けるんじゃないですか?」

「そういうのは、娘に対して無責任ですよ」


 父さんが頭を掻いているのに対して、奏さんのお父さんは怒りのこもった一言を放つ。

 話が平行線で、僕も口をはさめずに、おどおどと成り行きを見守っていると、突然父さんがこちらを振り返った。


「弦介。外の楽器を片付けてきなさい」

「……はい」


 どうなるのか、すごく気になるけれど、ここからは子供には聞かせられない話をするのかもしれない。僕は、父さんをじっと睨んで動かない奏さんのお父さんのすぐ脇を通って、店先に出た。

 商店街の通路に出ている、キーボードなどを、シャッターよりも内側へ運び入れる。暗くなった気分を変えようと、僕は「枯葉のダンス」を鼻歌で歌っていた。奏さんが弾くと知ってから聞いてみて、秘かにギターで練習もしていたのだ。


「天分弦介か?」


 ツリーチャイムを持ち上げたところで、いきなり後ろから話しかけられて、僕は驚き、それを落としそうになった。振り返ると、いつの間にか、郵便局の局長さんが、すぐ真後ろに立っていた。

 こちらを見ろしてくる、黒一色の瞳を見ているだけで、ぞっとする。そういえば、この人は実は死神なんだったっけ。言われてみると、人とは違う雰囲気があるような……。


「速達だ」

「あ、すみません。ありがとうございます」


 差し出された封筒を、今気付いたかのように受け取った。結構厚みのある、白い封筒で、表には僕の名前とここの住所が書かれている。

 誰からだろうと、何気なくひっくり返して、息が止まった。裏面に書かれたのは、差出人の名前の「安曇野ひろみ」だけ。奏さんの、お母さんのことだった。


「あの、すみません」

「ん、なんだ?」

「これ、宛先を間違えていません?」

「いや、間違えなく、お前にだ。本人からもそう伝え聞いている」

「そ、そうですよね」


 立ち去ろうとしている局長さんを呼び止めて、念を押してみたが、確かに僕宛だった。恐縮しながら、でも、何で僕なんだろう? と考えてしまう。


「安曇野さんから、娘の奏さんへ、返信はなかったのですか?」

「いいや。届けていない。娘からは、一度あったが」

「え……そうなんですか……」


 ますます混乱する僕を見下ろして、局長さんは顎をさすりながら、誰にも話していないような声色で言った。


「……死者を支えにするのも、依存するのも、同じようなことだ」

「えっ?」

「ま、死神の戯言だから、気にするな」


 聞き返そうにも、局長さんは肩をすくめただけで、さっさと郵便局の方へ歩いて行った。

 ぼんやり、その背中を眺めていると、奏さんのお父さんが、店から出てきた。目に諦めと、怒りの色が見える。僕は思わず、自分の背中側に、手紙を隠した。


 シャッターを閉める父さんに、さっきの話し合いはどうなったのか聞いてみた。どちらも意見を一歩も譲らなかったが、父さんが、奏さん父娘の間に、このお披露目会についての話をしていないことを突いて、言い負かしたという。だから、予定通り、奏さんが演奏することになった。

 僕には、それで良かったのかどうか、やっぱり分からない。奏さん本人に聞いてみたいのだが、おしかけてしまうのも気が引ける。


 その夜、僕は、自分の部屋で受け取った封筒を開いてみた。中身は、三つ折りになった手紙と、「奏へ」と書かれたもう一つの封筒だった。

 三つ折りの方の、僕に向けた手紙の内容は、シンプルなものだった。「今、奏のことを一番客観的に見ている弦介くんのタイミングで、もう一つの封筒を奏に渡してください」という、お願い事だ。


 一介の高校生なのに、大変なものを託されてしまった。僕は、嘆く代わりに、自分の部屋の天井を仰いだ。






   〇






 日曜日の商店街はいつも賑やかだけど、今日のそのざわめきは、少し質が違っていた。天分楽器店の前のカバーがかけられたピアノを中心に、人々が集まり、わくわくした様子でそれを見つめている。

 珍しくスーツ姿の父さんが、つかつかとピアノの前に近寄り、ばっとそのカバーを取った。晴天の下、艶やかな黒色のピアノが姿を現し、観客たちは感嘆の声と拍手をそれに送る。


 父さんがマイクを受け取り、小さなスピーカーを通して、この商店街にピアノを置くのが、自分の長年の夢だったことを、力説し始めた。ちなみに、音響係は母さんがやっている。宣言通り、ピアノが楽器店からここに置いてから、久しぶりに外へ出たので、とっても上機嫌だ。

 この商店街には、アーケードがないため、雨風をよけるための魔法の結界を、雑貨店のイモグルで購入した。結構な値段がしたそれは、石畳の上に書いているこの文字で……というような話を父さんがやっているころ、僕はピアノを囲む輪から離れて、楽器店の中へ入った。


 出入り口のすぐそばに、一脚の椅子が置かれていて、そこに奏さんが座っていた。萌黄色のワンピースの上で、手を組み、じっとしている。瞑想をしているかのようだった。


「……奏さん、」

「ああ、うん。行くよ」


 ためらいがちに、出番が近いことを言おうとしたら、彼女は目を開けて、すんなりと立ち上がった。背筋を伸ばして、堂々と歩き、人の輪をかき分けていく。

 僕は、奏さんの心に迷いがあるのなら、このタイミングで、奏さんのお母さんからの手紙を渡そうと思っていた。でも、その必要性はないみたいなので、僕も安心して、彼女の後ろをついていく。


 マイクを持った父さんが、ちらりと奏さんの方を見ると、このピアノの来歴の話を終えて、奏さんのことを紹介した。奏さんは、周囲からの拍手に迎えられながら、輪の中心、父さんの隣に立つ。

 奏さんが、ぐるりと周囲を見回す。靴屋の娘の由々菜ちゃんとその幼馴染の明くん、魔法雑貨店のイモグルの店主のオサリバンさん、今の楽器店の二階にある税理士事務所の真島さんと、みんなよく知っている顔が囲んでいる。その中で、一番真剣な顔で奏さんを見守っているのは、彼女のお父さんだった。


『ご紹介に預かりました、安曇野奏です』


 父さんからマイクを受け取った奏さんが自己紹介すると、また拍手が起こった。照れ笑いをしながら、ペコペコ頭を下げる奏さんが、背筋を伸ばしてから話し始める。


『あそこに、母のピアノ教室があったことを、忘れていた人も、知らなかった人も、たくさんいると思います。だから、こんな風に母のピアノが、この場所に戻ってきてくれたこと、そして、これから皆さんに愛されていくことが、とても嬉しく感じます』


 奏さんの言葉に、由々菜ちゃんがひときわ大きく頷いていた。強い実感がこもっているようだけど、ピアノ教室が閉まった十年前、彼女はまだ二歳くらいはずなので、ちょっと違和感がある。

 だけど、それは、奏さんが意を決したように、すぅっと息を吸い込む音で、消えていった。


『これから弾く曲は、私が母から一番最初に習ったジャズの曲「枯葉のダンス」です。どうぞ、最後までお聞きください』


 奏さんは、マイクの電源を切って、父さんに渡した。ひときわ大きな拍手が起こる中、奏さんはピアノの鍵盤の前の椅子に座り、父さんは僕の隣に移動する。僕の反対側には、音響係をしていた母さんが立ち、三人で、奏さんのことを見つめた。

 ピアノの蓋は開いていて、楽譜も前もって置いてある。でも、奏さんは、鍵盤をじっと見つめて、動かない。十本の指が、やっと鍵盤の上に乗せられた。……なのに、そのままピクリともしない。


 そのまま、一分近くが経過した。止まってしまった奏さんの姿に、周囲は声を出さないけれど、心配そうに見つめていたり、知り合い同士で顔を見合わせたりしている。奏さんのお父さんも、彼女に駆け寄ろうとして、躊躇しているようだ。

 僕は、今こそ、奏さんにあの手紙を渡す時ではないかと思った。その内容が、ピアノを弾きたい彼女の背中を押すものなのか、それとも無理をしないでと慰めてくれるものなのか分からないけれど、この停滞をほどいてくれるかもしれない。僕は、後ろに下がって、人の輪をかき分けて、楽器店の中に戻った。


 奏さんが座っていた椅子のすぐそば、自分のアコースティックギターのケースを置いていた。その中は、綺麗好きな母も勝手に開けないので、手紙を隠すのにもってこいだ。

 ケースを開けて、白い手紙が目に入る……でも、僕は、自分のギターに視線を落とした。昔、奏さんのお母さんが、ピアノ教室で一番最初の授業の時に、話していたことを突然思い出す。


「音楽は、音を楽しむものです。みんなと一緒に楽しみましょう」


 僕は、ギターを持って、すぐに「枯葉のダンス」のメロディを弾き始めた。昨日の夜も練習していたので、チューニングは大丈夫だ。びっくりした様子で、こちらを見るひとたちをかき分けて、奏さんの隣まで、ギターを鳴らしながら進む。

 こちらを見た奏さんは、泣き笑いの表情を作った。でも、それは一瞬で、指が大きく持ち上がると、「だーん」という鍵盤の音が響いた。そのまま、奏さんが軽やかに、忙しなく、でも、しっかりと、「枯葉のダンス」を弾き始めた。


 メトロノームもない状態での、即興合奏は大変難しい。奏さんと僕は、お互いに目を合わせて、呼吸を整えながら、テンポを合わせて演奏する。どちらも必死で、間違えたり、ズレたりもしたけれど、奏さんはずっと笑顔だった。

 周囲もそれに感化されて、手拍子したり、足を踏み鳴らしたりしている。ふと、顔を見上げると、奏さんの父さんの姿が目に入った。彼は、袖で目元を拭いながらも、楽しそうに体を揺らしていた。


 プロからしたら、とんでもない演奏だっただろう。それでも、聴いてる人たちも、もちろん弾いている僕らも、楽しみながら、笑いながら、「枯葉のダンス」を鳴らし終えた。






   〇






「奏さん。これ」


 ピアノのお披露目会が終わってしばらくしてから。

 ストリートピアノを鳴らしている子供たちを、微笑みながら眺めている奏さんに、手紙を渡した。不思議そうな顔でそれを受け取った奏さんは、裏面に自分の母の名前を見ると、はっと息を呑む。


「どうしたの?」

「昨日、局長さんが届けてくれたんです。僕が、奏さんに渡してほしいって」


 奏さんは、神妙な顔で頷いて。封を開ける。書いている文字を無言で追って……ほうと、息をついた。


「どうしました?」

「お母さんがね、ピアノを続けているかどうかは関係ない。奏のことは、ずっと大切な娘だって」


 奏さんはそういうと、涙を堪えるように、上を向いた。ストリートピアノから聞こえる、ぽろんぽろんという優しい音が、この場に染みこんでいく。

 急に、僕は寂しくなった。奏さんが泣くのを耐えているのは、隣の僕を心配させたくないからだろう。奏さんが、安心して気持ちをさらけ出せるような相手になりたいと、初めて思った。






   〇






 ぽろーん。

 外から、ピアノの音が聞こえて、ベッドの中の僕は目を覚ました。すぐそばの、デジタル時計を確認する。今は夜中の一時過ぎだった。


 ソフトペダルを押したまま、ピアノを鳴らしているので、音がとても小さい。多分、気付いたのは僕だけじゃないかなと思いながら、うとうとする。

 流れてきた曲に、聞き覚えがあった。そうだ、あれは、奏さんが、お母さんの入院する直前まで習っていたジャズの曲だ。名前は思い出せないけれど、十年前まで、二階から鳴り響くそれを、毎日のようにこの部屋で聞いていたのが蘇る。


 最初は、奏さんが弾いているのかと思った。でも、こんな真夜中だから、弾いているのは、きっと……。

 そんなことを考えながら、僕は再び、眠りへ落ちていった。






















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