おじさんの家

工藤愛香

第一話

 耳を劈く怒号が飛び交う。小さな子供の泣き声と共に、男女が喧嘩をする声だ。それは次第に激化していき、ガラスが割れる音や重たいものが床に叩きつけられる音も脳を刺激した。

 しかし、これはリコにとっては日常の一部である。これ以上刺激しないよう、音を立てず静かに廊下を歩く。肩に背負ったトートバッグには、教科書やノート、筆記用具を詰めて。ひっそりと、靴箱からスニーカーを出しては玄関で靴を履いた。

「…お姉ちゃん、どこ行くの」

「っわ、サナか…お姉ちゃん勉強してくるから。サナたちは部屋にいな?」

「うん…帰ったら声かけてね、サナが寝てても声かけて」

「うん、わかったよ。行ってきます」

 六個下の妹をなだめるよう、自分の中の苛立ちが間違っても妹に伝わらぬよう、気を付けながらリコは話す。優しく声をかけ、安心させるようにサナの頭を撫でた。

 リコは、妹に手を振りながら玄関の扉を閉じて、その家を見上げる。

 真っ白い壁の三階建て。家の周囲をぐるっと歩くだけで三分弱かかる。四台もある自動車はすべて外車。家の庭には、庭師が手入れした花が咲き乱れている。そして、外からは家の中を覗けないような、高い高い塀。

 誰がどう見ても、お金持ちの豪邸。窓から漏れるのは幸せそうな家庭の明かり。

 どれもこれも、見せかけの幸せ。リコは齢十五にして、お金で幸せが買えないことをよく理解していた。

 リコのため息が重苦しく暗いアスファルトに叩き付けられる。反して足取りは軽く、家の門を足早にくぐると、右に曲がり、迷いなく田舎の田んぼ道を小さな体は進んでいく。大体、自宅から徒歩三十分の道のり。決して近いとは言えぬ道のりだが、リコにとっては自宅にいる数分よりも短く感じるほど、高揚感の溢れる時間なのだ。

 隣町の錆びた大川商店街のアーケードにたどり着くと、駆け足になりリコは吸い込まれる。人っ子一人いないどころか、人でないものが出そうなほど暗く寂れたシャッター街。昔は栄えていたであろう全長二キロの、隅っこ。薄暗くオレンジの明かりがついた、木造の暖かさを感じる「キッサテン」の文字。

 カラ、と乾いた入店音らしきものが僅かに鳴り、リコは年相応の子供らしく笑顔を見せた。家では決して見せぬ、柔らかな笑顔。

「おじさん!きたよ」

 足を乗せた床から、ミシリと木の声が聞こえる。それすらも、リコにとっては新鮮で居心地の良いものとなっていた。

 古びたカウンターに置かれた、時代にそぐわぬ大きなコーヒーメーカーは、いまだ大切に保管されており、現役でコーヒーを淹れる手伝いをしている。

「リコちゃん、よくきたね」

 リコに愛情が零れ落ちそうなほど、緩やかで優しく声をかける彼は、以前この場所で喫茶店を営んでいた店主である。


___『おじさんの家』

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おじさんの家 工藤愛香 @blossom_818

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