暁が愛した優しき怪物

暁が愛した優しき怪物

　地下の暗い廊下を、松明（たいまつ）の明かりだけを頼りに進む人の列があった。

　1枚の白い布に穴を開けて頭から通す『貫頭衣（キトン）』を纏った、年端（としは）もいかない子供達が術繋ぎのように、腰に麻紐で括（くく）られている状態で歩かされている。

　青銅製の兜、胴、脛（すね）当ての装備で身を固めた重装歩兵が数人、それぞれ松明を手に取り、そして列を取り囲むように歩いていた。

　手枷をされた子供達はかつては王族貴族の血筋で高い身分であったが、自国が戦いに負けて他国の捕虜になってからは、名も呼ばれぬただの奴隷に成り下がっていた。

　皆一様に暗い顔で俯き、中には啜（すす）り泣く者もいた。

両手首に嵌められた手枷が、彼らが歩みを進めるたびに、ジャラン、ジャランと金属同士が擦れ合う音を立てる。

　それはまるで葬儀の列ように厳かであり、重い沈黙があった。

「イヤだ…」

　そう言って、沈黙を破った子供は急に足を止めた。

　一つの縄で繋がれている状態で、一人でもそんなことをすれば一気に総倒れになる。

　立ち止まった子供から繋がれた縄が、急に弛（たゆ）んだり、逆にピンと張ったりして、他の子供達のバランスを大きく崩した。

　一人が倒れると皆つられて転んだ。

　皆一様に前に手を組むように手枷をされているので、受け身はまず取れない。

だから石の床にそのまま身体を強かに打ち付ける者が多くいた。

「貴様！！なにをしている！！」

　列の脇を歩いていた歩兵が思わず青銅の剣先をはじめに立ち止まった子供を向けると、鋭い声で叱咤（しった）した。

　刃を向けられた子供は、恐怖で首を竦（すく）ませる。

「…おい、殺すなよ」

　一人の歩兵が眉を顰（ひそ）めながら、仲間を諌（いさ）めた。

「どうせすぐに死ぬ連中だ！！今殺しても何も変わらんだろう」

「ああ、しかしその役目は我々（・・）ではない」

『しかし…！』となおも食い下がる歩兵に、最後尾にいた歩兵が苛立ったように言い放った。

「お前ら！もうそのくらいにしろ！早く列を立ち直らせろ、もうすぐ日が沈むぞ！！」

　その言葉に、憤っていた歩兵は黙って下唇を噛んだ。

「…もう時間がない。急ごう」

　他の仲間に諭（さと）されて、歩兵は渋々と頷いた。

歩兵達は剣先を向けて子供達に「早く立て」とせっつきながら、すぐに列の態勢を整えさせた。

　そして列は再びゆっくりと進み始めた。

　しばらく行くと大きな石の扉が立ちはだかった。

ーここが迷宮の入り口である。

　歩兵が数人がかりで、両腕に目一杯に力を込めて、その石の扉を押し開けた。

「早く中に入れ！！」

　そう言って歩兵達は子供すべてを広間の中へと無理やり押し込むと、再び石の扉を外から固く閉めた。

　子供達は途端に、それぞれ泣き出した。

「死にたくないよ！！」

「お母様…お父様…」

　そこに居たのは、まだ13歳にも満たない幼い子供たちばかりだ。

しかし誰に言われずとも、これから起こるであろうことを知っている者は多い。

「…何で、みんな泣いてるの？」

　この中で一番幼い子供が、なぜ皆泣いているのか分からずに不安そう尋ねた。

「…私達はこれから「怪物」の贄（にえ）になるのよ」

　この中で一番年上の少女が落ち着き払った声で言った。

「え…どうして…」

　呆然とする幼い子供。

「私達の国が負けたから…負けた国の王族貴族の子は…この国では迷宮に住まう怪物の『餌』になる…そう決められていることなの」

　彼女の諭すような言葉に、幼い子供は他の子供と同様に泣き出した。

ー真実を言わずにいた方が良かったのかもしれない

　幼い子にはこの話は酷（こく）すぎる。

　しかし、自分達は「なぜ怪物に食われるのか」死ぬ前にその理由を知っておくべきだと少女は思った。

　『何も分からず』ただ食われるだけなのは、自分の命が無駄に終わるような気がした。

　でも『意味があって』食われるなら、それは自分の命が無駄にはならない。

「私達が怪物の餌になれば…数年は誰も命を差し出す必要はなくなるわ」

　自分達の犠牲によって、しばらくは誰も死なずに済む。

　王族として生まれた少女は、『民の命を守る義務』があると父親からそう教えこまれていた。

　ならば彼女にとってはこれはまさに自分の天命だと信じていた。

ーもし仮に“王族貴族（自分たち）”がこれを拒否すれば、代わりに自国の民が命を差し出さればならない。

それは国を統治する者の矜持（きょうじ）を損なう行為だ。

（私達は国の民を…人の命を守らないといけない立場なのよ）

　少女は石床に座りながら、覚悟を決めて静かに目を閉じた。

　もちろん、少女だって死ぬのは恐い。

それでも彼女は幼くても歴（れっき）とした王族である。

　みっともなく生き恥だけは晒したくはない。

　そう思うと彼女の矜持が恐怖する心を若干和らげた。

　しばらくしてドスッ、ドスッ、重たい足音が聞こえてきた。

近づいてくる足音に、子供達は思わず閉められた扉に駆け寄った。

しかし拳で叩いた所で、石の扉はその口を硬く閉ざし、ただ沈黙するだけだ。

石の扉の前で子供は恐怖しながら身を寄せあい、互いに息を殺すようにした。

　しかし、少女だけはまるで一番先に食われる覚悟を決めたように、その場から動かなかった。

　耳をつんざく咆哮（ほうこう）が聞こえて、少女は思わず目を開けた。

　赤い双眸（そうぼう）、ベタついた黒く短い毛並み、大人の男の二の腕ほどあるだろう大きな湾曲した二本の角。

　少女の目に『二足歩行した巨大な雄牛の姿』が飛び込んできた。

「…ミノタウルス」

　少女は思わずそう呟いた。

　ミノタウルス。

　母親は人間あり、ある呪いによって、雄牛と交わったことで生まれた異形。

それゆえに周囲から疎まれて、迷宮に閉じ込められている忌まわしき存在である。

　数年に一度だけ、ミノタウルスは人を食べることを許されていた。

　少女の声に反応して、ミノタウルスは大きな身体の割に小さな赤い目を向けてきた。

少女は恐怖で身が竦（すく）みながらも、勇気を持って立ち上がると、ミノタウロスを毅然（きぜん）と見つめ返す。

　ミノタウルスは驚いた表情をした。

ー今までミノタウルスを直視した者はそうはいない。

　そして松明の明かりに照らされた、少女の切りそろえられた金色の前髪から覗く“青い瞳”。

それは物心つく頃から迷宮（ここ）に居たミノタウルスが、知らない色だった。

『…綺麗だ』

　ミノタウルスは獣じみた嗄（しゃが）れた声で言った。

なんのことを指しているのか、少女は思わず眉を顰めた。

『その目…私が知らぬ色だ』

「目…？私の…この青い瞳のこと…？」

　少女の言葉にミノタウルスは静かに頷いた。

『私は、そんな澄んだ色を見たことがない』

　彼の周りにある景色は、石造りで作られた灰色の世界が殆どを占める。

そして黒檀のような闇があり、赤々と燃える松明の明かりがあるだけ。

　この迷宮には水場がいくつかあるが、その水は不純物が混ざって白く濁った色だ。

微かに水面に映し出されるミノタウルス自身は黒い毛で覆われており、そして目は灯ったようにギラついて真っ赤だ。

　だから、少女の瞳の色はミノタウルスの知らない、まさに新しく知った色彩だった。

「…空と同じ色よ」

『空…。物語で出てくる…あの空か』

「物語…？」

『ああ…昔、奇特な男が迷宮（ここ）に迷い込んだことがある…それで私に言葉といくつかの物語を聞かせてくれた』

　少女はミノタウルスがなぜ人の言葉を話せるのか、さっきからずっと疑問だった。

　迷宮のある小島の統治国、その王妃から生まれたミノタウルス。

生まればかりの姿を一目みた王は、有名な工匠に巨大な迷宮を作らせて、ミノタウルスをそこに閉じ込めた。

　『人身牛頭』であるが人の子ではあるのは違いない。人なら身体の構造上“話すことは出来る”のだろう。

しかしこんな見た目の怪物が、言葉を理解して人の言葉で話すのが意外だった。

　それにまさか言葉や物事を教える“変わり者がいた”とは思わない。

「その…奇特な男はどうしたの？」

　少女は興味本位で尋ねた。

自分の瞳を綺麗と言った、ミノタウルス。

“人の感性”を持っている彼に、少女の心の中にあった恐怖心はなくなった。

『…出ていった』

「それは…抜け道があるってこと…？」

『いや…ない。しかし道標がある』

「道標…？」

　少女は辺りを見渡した。

一見、道標になるようなものはないように見える。

『ああ。帰りたかったら…その目印を辿（たど）っていけばいい』

「………？」

　ミノタウルスの見る方向を見ても、少女はその目印が分からない。

「帰れるの…？」

　今まで黙って見ていた子供の一人がおどおどした様子で、しかし勇気を振り絞ってミノタウルスに聞いた。

『帰りたいという意思があれば、糸が見える…そう男は言っていた』

　子供は途端に目を輝かせた。どうやら、子供達にはその糸が見えるらしい。

子供達は弾かれたように立ち上がって、糸を辿って、ミノタウルスがやってきた場所から広間を出ていった。

『しかし…私が手助けしても…死ぬこと（・・・・）には変わらないんだ』

　去っていく子供たちの後ろ姿を静かに見つめながら、ミノタウルスは寂しそうに言った。

「どうして…？」

　なぜが糸が見えない少女はその場に留まって、思わず尋ねた。

『入り口に兵が待ち構えているらしい。男の話では『負けた国の王族貴族の子らはたとえ“私”に食べられなかったとしても…生かせば、いずれはこの国に敵意を持って攻めてくる脅威の存在になる。だから若いうちにその芽を摘んでしまえ』…と…つまり…………』

「どちらにしろ殺されるということ！？なら…あの子たちは…！」

　少女は慌てて子供たちのあとを追おうとした。

しかし分かれ道でどちらに行ったか分からないほど、彼らはもう遠くに行ってしまっていた。

『それを言うしか…私には救える術がないんだ。しかしこのまま…この迷宮に留まるのもよくない』

　少女の背に向かって、ミノタウルスは言った。

「私には…糸が見えないわ」

　この時こちらに背を向けている少女がどんな顔をしていたのか、ミノタウルスは分からない。　

だが、その声音はとても寂しそうに聞こえた。

『…安心しろ…私はお前を食べるつもりはない』

　ミノタウルスは、きっぱりと言った。

すると少女は振り返って、ミノタウルスにゆっくりと微笑みかけた。

「あなたは……優しい“怪物（ひと）”なのね」

　ミノタウルスは思わず目を見開いた。

微笑みを向けられたことなど、これまで、生きてきて一度もない。

　親にも生まれたことを喜ばれず…そして望まれなかった命だったから。

　　　◇◇◇◇　　　◇◇◇◇

　帰ることができない少女はミノタウルスのねぐらに案内された。

「イオスネル…私の名前よ」

『イオスネル』

　ミノタウルスは少女の名前を反芻（はんすう）した。

「ええ。暁の女神の名前を付け加えて…父様がつけてくれた私だけ（・・・）の名前なの」

『そうなのか。その…暁とはなんだ？』

「夜明けの事ね…その時の空の色に、私の瞳の色はよく似てるの」

　そう自慢気に言ってイオスネルは、にっこりと笑った。

「それにしても…。ねぇ、貴方は食事はいつもどうしてるの？」

　イオスネルは思わず聞いた。

　約10年ほどの周期で贄が来る。

しかしミノタウロスはその贄を食らうことはなかったらしい。

　そもそもその巨体で10人程度の贄を食べたところで、次の贄が来るまで餓死せず生きられるわけがない。

ーなら彼は今までどうやって生きていたのか？

『ここは…餌が豊富にある』

　ミノタウルスは水場に視線を向ける。

松明の明かりで、濁った水の中を優雅に泳ぐ大きな魚の背が薄っすらと見えた。

「これ？」

　イオスネルは魚を指差して聞いた。

『ああ。ここから外に繋がっているのか知らないが…これを取って食べている』

「……なるほど、ね。松明の火があるから…焼いて食べれるし…お腹は壊さなさそう、ね」

　そう言って、イオスネルは思わず苦笑を漏らした。

そして少女はふと何かに気づいて、思わず心の底から笑ってこう言った。

「貴方が“肉より魚好き”だって知らなかったわ」

　　　◇◇◇◇　　　◇◇◇◇

　それから数年が経った。

　当時12歳だったイオスネルは、大人の美しい女性になっていた。

陽の光を浴びることはなく、肌は陶器のように青白い。

そして女性らしい丸み（・・）はなく…全体的に痩せていて、貫頭衣（キトン）から覗く手足はとても細い。

しかしそこを損なっても、イオスネルの美貌は劣ることはなかった。

　陽の光のような波打つ金色の髪は踝（くるぶし）まで伸びたが、ミノタウルスがかつて言っていた『綺麗』な瞳はそのままだった。

　まさに息をのむほど美しいイオスネルを、ミノタウルスは心配していた。

　陽の光がないところに長時間いるのは心身共によくない。

一緒にすごして、そう痛感した。

　ミノタウルスはどうにか『彼女を地上に戻す術』を探していたが、時は残酷に過ぎていた。

『あぁ…そろそろ新しい贄が来る』

　ミノタウルスは唐突に言った。

「…そうなの…？」

　イオスネルは短く聞き返した。

起き上がって、顔にかかった髪の一房を耳にかける。

その頬は痩せこけていて、やはり顔色はよくない。

　イオスネルの姿は明らかに出逢った時と違って、生気が感じられないほど痛々しかった。

　ミノタウルスは早る気持ちを抑えて、いつものように贄が集まる場所に行く。

（イオスネルを地上に戻せる…やっと！）

　ミノタウルスは、この時（・・・）を待っていた。

　広間には複数の若い男女がいつものように手枷をされて、怯えた顔をして待っていた。

ミノタウルスの姿に、彼らはただただ恐怖で慄（おのの）く。

『………』

　ミノタウルスが声を発しようとすると、ガシャン！と甲高い金属の音が鳴った。

　音の方を見ると、手枷を“外した”男が立っていた。

ミノタウルスはその光景に目を見開く。

ー男は何故か、短剣を持っていた。

「悪しき異形の化物！！私が貴様を討ち取って、この国のすべての民たちの憂いをはらす！！」

　男は剣を構えて、突進してきた。

『ミノタウルスを倒す』

　近隣の国々を滅ぼし尽くして、ついに自国の民を贄として差し出すことになってしまった王族貴族は、自分たちに火の粉がかかった途端にミノタウルスを殺すことを決意した。

　そのため勇敢な戦士が一人選ばれた。

武器を隠し持ち、そして贄に扮してミノタウルスの前に現れたのだ。

　ミノタウルスは無抵抗（・・・）で、男の剣身を受け止めた。

ミノタウルスの首から血が噴き出し、男を鮮血で赤く染める。

ーミノタウルスに戦う意思など、さらさら（・・・・）なかった。

『私を殺しても構わない…ただ…』

　ミノタウルスは死ぬ間際、男を見て懇願する。

『イオスネルを外に連れ出して…やってほしい…』

　ミノタウルスは贄を逃（にが）す手助けをする代わりにイオスネルを地上に連れ出して欲しかった。

　彼にはそれしか彼女を助ける術はない。

　彼の願いは、『ただ愛する人を救いたい』その一心だった。

（大丈夫だ…きっとこれでイオスネルは助かる）

　ミノタウルスは彼女の澄んだ青い瞳を思い出す。

ミノタウロスが知らない“夜明けの空色”を見せてくれた、愛しき女性。　

　ミノタウルスはイオスネルのことを想い、静かに眠りについた。

　男は迷宮の奥でイオスネルを見つけた。

「ミノタウルスは…死んでしまったの？」

　男の血濡れた姿を見て、察したイオスネルは静かに天井を見上げた。

「あの人は…優しい怪物だった」

　イオスネルはミノタウルスをひたすら想い、その美しい顔を曇らせて…ミノタウルスのためだけの一縷（いちる）の涙を流した。

「ミノタウルス…安心して…私もすぐそちらに行くから」

　イオスネルは既に限界（・・）だった。

身体はもういうことを聞かないところまで衰弱していた。

　そしてミノタウルスという生きる糧を失った今…もうこの命は終えてもなんの未練はない。

「…この命はミノタウルス（あなた）と共に…一緒に生きるためにあった。そう、貴方のおかげで私はこれまで生きてこられた」

　イオスネルは満足げに微笑む。

そしてー

「私の…この魂は…ミノタウルス（あなた）の魂と常に寄り添い続けるわ…ずっと、これからも一緒よ」

　イオスネルは“天”に向かって両手を伸ばした。

「私が貴方に空を見せてあげるの…本当（・・）の夜明けの空を…だから待ってて…」

　男にはそんなイオスネルの姿がとても儚げで、なにより神々しく見えた。

それはまるでイオスネルの背中から純白の羽根が生えているかのような姿に見えて…まさに『女神』と見間違えるほどの美しさだった。

「愛しているわ、ミノタウロス。私の…優しい怪物（ひと）……」

　イオスネルもまたミノタウルスのことを想い、その青い瞳をゆっくりと閉ざした。

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『女神と見間違えるほどの美しい女性『イオスネル』。そんな彼女に愛された…忌まわしき『怪物』がいることをあなたはご存知だろうか…？』

　男は皆に問う。

『……私は未だかつて…見聞きしたことがない』

　あのときの光景を、数十年経っても男は忘れらせずにいた。

　忌まわしき怪物を討ち取り、富と栄光を手に入れた男は、英雄となった。

しかし皮肉にも、その手で殺した怪物に“かき立つ様な激しい嫉妬（しっと）”を死ぬまで抱き続けることになった。

　それは多くのものを手に入れた英雄でも未だ得られていない『愛』を、自分より劣っていたはずの怪物は得ていたからだ。

　どんなに望んでも、男がその『愛』を得ることは一生叶わない。

　『今日も静かに夜が明けた』