第二話  古非思吉 〜こひしき〜

 真比登まひとさまは、あたたかい微笑みで、櫨根売はじねめを見た。


「そうだなぁ。おまえの父親、みなもとは、勉強もすごく良くできたし、武芸も見上げたものだった。

 文字の読み書きはもちろん、オレなんかわからない、難しい漢詩かんしを暗記して、スラスラ言えるほどだった。」

「うん。」

「武芸も、これは、と思った人には積極的に教えを乞い、剣も弓も、とても強かったぞ。」

「真比登さまよりも?」

「はは。それはない。オレはオレより強いおのこに会ったことはない。

 それでも、みなもとは、たいしたものだったぞ。」

「あたしのお父さま、たいしたものだったの?」

「うん、そうだ。

 あと、面構つらがまえが良い、かっこいいおのこさ。」

「あたし、生まれてから、一度も会ったことない。顔も見たことない。」

「…………。」


 真比登さまは無言になり、抱き上げた櫨根売はじねめの額に、こつっ、と額をくっつけた。


「源は、絶対、帰ってくる。櫨根売はじねめはこんなに可愛い子なんだから。

 今は遠く唐にいるが、必ず、櫨根売はじねめと、若大根売わかおおねめを迎えに来る。

 それまでは、オレや三根人みねひと五百足いおたりが、櫨根売はじねめの父親がわりだ。

 ここにいるわらは、みんな、櫨根売はじねめの兄弟だ。

 ……な?」

「ぐすん。」


 うなずいた櫨根売はじねめは、しくしく泣き出した。若大根売わかおおねめは、


「ありがとうございます。真比登さま……。」


 哀しみと、感謝の気持ちでいっぱいになりながら、真比登さまから、櫨根売を受け取った。

 抱っこした娘を、ぎゅっ、と抱きしめる。


母刀自ははとじぃ。ぐすん、ぐすん。」


 櫨根売は、若大根売わかおおねめの首筋に顔を埋めた。

 涙と、すべすべした頬の感触が伝わる。


櫨根売はじねめ……。」


(寂しい思いをさせて、ごめんね。)


「良い子ね。泣かないで。真比登さまの言うとおりよ。泣かないで……。」






みなもと

 帰ってきて。

 待ってる。

 あなたの娘も、待ってるの。

 顔が見たい。

 ……寂しい。

 でも、あなた以外のおのこに、心動かされたりしない。

 うてるのは、あなた一人だけ。

 あなたは、愛子夫いとこせ(運命の恋人)だから……。)







 遣唐使が帰ってきたという知らせは、まだ来ない。

 生死さえも、わからない。







    *   *   *




 女官は住み込みである。

 若大根売わかおおねめは女官として、主家しゅか長尾ながおのむらじの屋敷の一室に、一人用の部屋を与えられている。

 今はその部屋で、娘、櫨根売はじねめと二人で住んでいる。


 その夜、母娘の部屋で、櫨根売はじねめがこう言った。


「あたし、真比登さまが本当のお父さまなら良かった。

 皆、お父さまがいるのに。

 あたしだけ、母刀自はいてもお父さまがいない。

 なんで?

 どうして?

 あたしも、本当のお父さまが欲しい。

 大人の人は皆、あたしのお父さまは、かっこよかったって、頭も良くて、強かったって教えてくれるけど、一度も会ったことないもん!

 いないもん!

 なんで母刀自はそんなお父さまを選んだの?

 そんなお父さまで、良かったの?

 本当は、愛されてないんじゃないの?」

櫨根売はじねめっ……!」


 若大根売わかおおねめは、櫨根売はじねめの頬を打とうと右手をふりあげた。

 びくっ!

 櫨根売はじねめが驚いて、恐怖に肩を縮こまらせる。

 それを見て、若大根売わかおおねめはなんとか手を下に降ろし、娘を打たずにすんだ。


 娘の言葉の数々は、若大根売わかおおねめの心をえぐった。

 普段は哀しみを抑え込んで、娘の前では泣かない母親が。


「───う、わあああああ!!」


 顔をおおって、哀泣しはじめた。


「わあああああああああ…………!」


 若大根売わかおおねめは泣き止む事ができず、


「母刀自……。ごめんなさい。もう言いません。ごめんなさい……。」


 母親のむき出しの哀しみに触れた娘は、ぽろぽろ泣きながら、うつむき、唇を噛み締めた。


 泣いて、泣いて。


 部屋の戸の外に、若大根売わかおおねめの主、佐久良売さくらめさまが、


若大根売わかおおねめ?! どうしたの?」


 と、声をかけにきてくれた。若大根売わかおおねめは、涙を止められないまま、戸を開いた。

 他の女官たちも来てくれて、若大根売わかおおねめも、櫨根売はじねめも、背中をなでられ、肩を抱かれ、慰めてもらうのだった。


櫨根売はじねめ。驚かせたわね。ごめんね……。」

「母刀自。あたしこそ、ごめんなさい。あたしのこと、嫌いにならないで。」

「なるわけないわ。大好きよ、櫨根売はじねめ

 あなたの目元は、あなたのお父さまにそっくりなのよ。

 あたしは、あなたの顔を見るたび、ほんの少し、お父さまを感じることができるの。あなたが、血を受け継いでいるからよ。

 たしかに長らく、お父さまに会えていないけど、それでも、あたしは幸せだわ。

 だって、あなたがいてくれるもの。

 母刀自はね。お父さまを愛しているの……。」


 母と娘は、ぎゅっ、とかたく抱き合った。






(逢いたい。逢いたいよ、みなもと。もう何年も顔を見てない。逢いたい……。)







     *   *   *




 筑紫道つくしぢの  可太かだ大島おほしま


 しましくも


 見ねばこひしき  いもを置きて




 筑紫道能つくしぢの 可太能於保之麻かだのおほしま

 思末志久母しましくも

 見祢婆古非思吉みねばこひしき 伊毛乎於伎弖伎奴いもをおきてきぬ





 筑紫つくしへの道にある可太かだ大島おほしまのように、しく……すこしの間でも見ないと恋しい妻なのに、あとに置いて来てしまった。





 ※しましく……しばらく。すこしの間。

 ※可太かだ大島おほしま……山口県大島郡の周防すおう大島(屋代島)か?

 ※いも……恋しい女。血縁関係はない。




  万葉集  作者不詳、ただし、遣新羅使けんしんらしの、周防國すはうのくに玖河郡くがのこほり麻里布まりふうらきし時に作りし歌八首のうちの一首。






     *   *   *






 若大根売わかおおねめは、夢を見る。


 身体は遥か上空に浮かぶ。

 つま先で、流れる雲を蹴り。

 群青の夜空を滑るように飛翔する。

 腕を広げ。

 指先が触れれば、星々が砥粉色とのこいろの光を散らす。

 万里ばんりを駆ける。


 ……呼ばれているからだ。


 小さな明かりが見える。

 遠くとも、必ず、そこへたどり着く。

 見失ったりしない。

 あたしは、あそこに誰がいるか、わかってる。


 遠かった明かりが、ようやく、近くなった。

 ……ほら、みなもとだ。


 雲間を滑り降り、紺碧の湖に足先でふれ、水の波紋を作りながら、暗緑色の森林の、寝静まった夜の床に行きつく。


 源は岸辺で座り込み、己を抱きしめ、うつむき、身体を小さくして、ぶるぶる震えている。


 ……どうしたの?


 あたしはそう声をかけたが、たしかに口にしたはずの声が自分の耳に聞こえない。

 おそらく、みなもとにも声は聴こえないのだろう。

 これは、夢。

 きっと、魂逢たまあいだ。

 慕い合う男女が、夢で逢瀬おうせを果たす。夢から目覚めたあと、二人とも、その夢を覚えている。

 それが、魂逢たまあい。

 

 この夜の森には、あたしと源しかいない。

 源は、不安そうにぶるぶる震え続けている。


……慰めてあげたい。みなもと。あたしの愛子夫いとこせ


 あたしは微笑み、薄桃色の夜着を肩から落とし、一糸まとわぬ姿で、源のほうに歩いていった。

 青みがかった月の光が、あたしの身体を白く照らす。

 

 源が、やっと、あたしに気がついて、弾かれたように顔をあげた。

 心なしかやつれて、涙に濡れている。

 何かに絶望したような、ひどく辛そうな表情をしている。


 ……いつも日の光のように輝き、自信に満ちていたあなたが、なぜ、そんなに打ちひしがれているの?


 源は、ぱくぱく、口を動かした。

 何を言ってるのか、声は聴こえない。

 源は、ぼろぼろ泣きながら、懸命に口を動かしてる。


 わ、か、お、お、ね、め。


 そう言ってるのがわかった。


 みなもと。


 あたしも、愛しいおのこの名前を口にした。

 源は泣きながら、すがりつくように、あたしに抱きついてきた。

 夢中で唇を重ね、源は性急な動きで自分の衣を脱ぎ捨てた。

 いくら唇を重ねても、感触は良くわからず、源の頬に口づけしても、涙の味はしない。

 これは夢。

 でも目の前に見える源は、顔の輪郭まではっきり見えている。


 ああ、源。

 

 うてる。


 肩を抱き、頬にふれ。木の葉から落ちる露で身体を濡らし。はあ、とため息をつき、懐かしい身体に身を任せる。

 暗い森。

 さざなみに揺れる、水面みなもの月。

 ももに、稲をき。

 ももに、口づけをかわし。

 感触はふわふわ、良くわからなくても。

 愛の全てを思い出し。

 源の涙は乾いた。



 いつまでもこうしていたいが、もう時間だ。この夢が終わりを告げるのを、なんとなしに感じる。

 もう、帰らねば。

 源の頬をなで、にっこりと笑いかける。

 源の目には強い光が蘇り、あたしへの恋慕れんぼがにじんでいた。


 ……源。

 待ってるからね。


 言葉は源に聞こえなくても、伝わるように、ゆっくり唇を動かすと、源は、こくん、と頷いた。

 

 あたしは、とっ、とっ……、と、静かな湖の湖面こめんに足先で波紋を作りながら。

 空に舞い上がる。









      ───完───









↓挿絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093088219834300

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見ねば恋しき 〜若大根売は待つ〜 加須 千花 @moonpost18

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