見ねば恋しき 〜若大根売は待つ〜

加須 千花

第一話  若大根売、てんやわんや。

 大船おほぶねを  荒海あるみだし


 いますきみ


 つつむことなく  はやかえりませ





 大船乎おおぶねを 安流美尓伊太之あるみにいだし

 伊麻須君いますきみ

 都追牟許等奈久つつむことなく  波也可敝里麻勢はやかえりませ





 大船おほぶねを、荒海あらうみぎ出して行かれるあなた。

 何のさわりもなく、早くお帰りください。

 






 ※つつむは、なんらかのはわり、凶事きょうじなどを身に受けること。





   万葉集  作者不詳。ただし、遣新羅使けんしんらしの妻。






     *   *   *




 奈良時代。



「必ず、迎えに来るから。オレのいも(運命の恋人)。うてる。」


 若大根売わかおおねめと将来を誓いあった若いおのこは、そんな言葉を残し、若大根売わかおおねめと正式に婚姻する前に、夢を追って旅立ってしまった。

 立身出世のために、遣唐使となりたいのだと言う……。

 旅立つ前。

 若大根売わかおおねめは、十八歳で、一つ年上のみなもとと、二晩だけ、さをした。


 そして授かったのが、娘である櫨根売はじねめだ。


 だんだん大きくなるお腹が嬉しくて。

 みなもとが、愛のあかしをこのような形で残してくれたのが、誇らしかった。


 出産は、命懸け。不安もあった。

 でも、産まれたあとに、不安はなかった。

 若大根売わかおおねめは、豪族である佐久良売さくらめさま付きの女官だ。

 敬愛する佐久良売さまのお世話をするのが、若大根売わかおおねめの喜び。

 さらには、佐久良売さまの妊娠もわかり、若大根売わかおおねめが、佐久良売さまの緑兒みどりこ(赤ちゃん)の乳母ちおもを務めることになった。

 すごく嬉しい!


 若大根売わかおおねめの家は、ここ、陸奥国みちのくのくにでは、ほどほどの名家だ。

 若大根売わかおおねめが、婚姻せず、子供を一人育てるのに、困ることはなかった。

 みなもとが旅立つと決める前に、若大根売わかおおねめの父親と会い、いずれ婚姻することを了承してもらっていた事も大きい。


 若大根売わかおおねめは、無事に出産した。


 日々、成長してゆく緑兒みどりこが、ただただ、愛おしい。

 櫨根売はじねめを抱き、その顔を見つめていると、


(ふふ……、目はみなもと似かな? 口元はあたし……。本当に、源とあたしの血を受け継いでいるんだ。)


 と嬉しく、


(……源に、抱っこしてほしかった。緑兒みどりこの成長は早い。このようなあどけない寝顔、今しか見れないのに。あなたの子なのに。

 源……。)


 と、ふいに泣いてしまうのだった。


 源は、まだ帰ってこない。

 本当に、遣唐使となって、この秋津島を離れたのだと、櫨根売はじねめが産まれたあとに、知った。


(源……。どうか無事に。一日でも早く、あたしと櫨根売はじねめのもとに帰ってきて。)



    *   *   *




 若大根売わかおおねめの日常は、てんやわんやである。


 ───ここには、六人のわらはがいる───


 主の子やら、主に仕える人たちの子やら、とにかく一同に預かって面倒を見ているのだ。


「そっちのほうが、わらはたちの教育に良い。」


 とは、佐久良売さまのつま真比登まひとさまの言葉だ。

 おかげで、若大根売わかおおねめの娘、櫨根売はじねめは寂しい思いをしないですんでいる。

 それはありがたいのだが……。


 今、佐久良売さくらめさまと、その同母妹いろも(いもうと)、都々自売つつじめさまは、女官、塩売しおめを従えて、行商の商人が持ち込んだ品物を、別室で品定めしている。

 小鳥売はちょっと席を外している。


 ───つまり、いつもはおみな五人で見ている六人のわらはを、今は若大根売わかおおねめ一人で見ているのだ!───


 年長のわらは寺勝てらかつさまが、


若大根売わかおおねめ真佐流売まさるめ阿真留あまるを泣かしてるよ!」


 真佐流売まさるめさまとは、佐久良売さくらめさまの娘、阿真留あまるさまはその弟である。


「えっ!」


 と若大根売わかおおねめが口にするのと同時に、橋足はしたりが、


若大根売わかおおねめぇ! うわぁん、はし落とした。」


 櫨根売はじねめが、


「母刀自、橋足はしたりはしを地面に落っことした。橋足はしたりなのに箸が足りん、きゃらきゃらきゃら!」

「あぅむ……。」


 若大根売わかおおねめが反応に困った次の瞬間、部屋に人麻呂ひとまろが走りこんできた。


若大根売わかおおねめ、来て!

 阿真留あまるさまが蟋蟀こほろぎ真佐流売まさるめさまの顔に近づけちゃったんだ。それで真佐流売まさるめさまが怒って……。」


 人麻呂は勢いあまって、柱に顔をぶつけた。


「ぎゃうっ! 痛いよぉ。ふええええん!」


 泣き出した。


「あわわ、人麻呂……。」


 若大根売わかおおねめが人麻呂のほうに足を踏み出すと、庭で真佐流売まさるめさまと阿真留あまるさまが取っ組み合いの喧嘩をしているのが見えた。


「あぎゃ───ん!」

「ふんっ、弟があたくしに勝とうなんて、百年早いのよ!」


(あぎゃっふえぇあばばばばば………!)


 あまりに同時多発の案件。

 白目をむき口から魂がでかけた若大根売わかおおねめは、はっ、と我にかえり、


(どこから手をつける? とにかく、喧嘩を止めさせねば!)


「けっ、喧嘩はなりませぬ───!」


 だっ、と走って庭先におりた。そこに……。


「おや、喧嘩はダメじゃないか。」


 ひょっこり表れたのは、佐久良売さまのつま真比登まひとさまだ。

 筋肉ムキムキの怪力真比登まひとさまは、自分の娘と息子の襟首をつかまえ、ひょい、ひょい、と軽く持ち上げた。


「めっ、だぞぉ?」

「だってお父さま!」

「聞いてよお父さま!」


(ふぅ。ありがたい。

 真佐流売まさるめさまと阿真留あまるさまは、真比登さまに任せよう。)


 そこに……。


「さあ、楽しい楽しい、文字の勉強の時間だぞーぉ?

 おや? 人麻呂ひとまろ、額をおさえて泣いて、どうしたんだい?」

「お父さま。ぐすっ。」


 とことこ歩いて表れたのは、人麻呂の父であり、若大根売わかおおねめの兄である、三根人みねひとだ。


(わーん、お兄さま、良い時に!)


 そこに……。


橋足はしたり? しゃがみこんで、箸を前に泣きぬれて。どうしたの?」

母刀自ははとじぃ。」


 橋足はしたり母刀自ははとじ(母親)、小鳥売ことりめが、ご不浄ふじょう(トイレ)から戻ってきた。

 ふっくら丸顔の小鳥売は、阿真留あまるさまの乳母ちおもであり、若大根売わかおおねめと一緒に子供たちの面倒を見てる女官だ。


(はぁ、良かった。)


 三根人みねひと兄さまが、人麻呂の顔を手布てぬのでぬぐった。


「よしよし、血はでてないぞ。人麻呂ひとまろおのこなら強くなれっ!」


 櫨根売はじねめがふんぞり返って、


おのこなら強くなれ!」


 地面におろされた真佐流売まさるめさまもふんぞり返って、


おのこなら強くなれ! ……あたくしには勝てないだろうけど。」


 ふん、と得意げに鼻を鳴らす。


(なんでそんなに、喧嘩が強いのかな?)


 真比登さまが三根人みねひと兄さまの顔を見る。


「文字の勉強の時間でした? 武芸の稽古をつけてやろうかと……。」


 寺勝てらかつさまが、


「武芸の稽古が良い! 真比登さま、強くてかっこいいから!」


 と笑顔で言い、阿真留あまるさまは、


阿真留あまるは文字の勉強したい。勉強、好き。」


 とにこにこ笑う。真比登さまが、二人の肩をぽん、と叩いて、


「三根人さまは貴重な時間をさいて、勉強を教えに来てくださったんだ。皆で文字を教えてもらいなさい。」


 と優しくさとす。


「はぁい。」

「やった!」


 わらはたちは素直だ。

 三根人兄さまについて、部屋を移動するわらはたちだが、櫨根売はじねめが、つん、と真比登さまの袖をひっぱった。


「真比登さま。」

「ん? なんだい、櫨根売はじねめ?」

「あたしのお父さまだったら……。文字の勉強、武芸の稽古、どっちが好きって言ったかな?」


 櫨根売はじねめは寂しそうな顔だ。


(あっ……。)


 若大根売わかおおねめは、胸がツキン、と痛んで、悲しくなった。

 真比登さまは優しい笑顔で、櫨根売はじねめを抱き上げた。












↓挿絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093088369917800

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