第2話 後日談

後日談

 明くる日のことだ。

 メルセニウスが、今度は雑誌みたいなのを持って座っていた。カフカの審判以来の、彼の持ち込みだ。そう言えばあの審判も途中で飽きて、読むのをやめてしまったのだと言う。作家としては聞きたくない類の言葉だった。メルセニウスのことだから、それも分かって、敢えて言ったのだろうけれど。

 それにしても、メルセニウスの雑誌の見出しには、でかでかと手首の絵の写真が掲載されている。絵画の写真なんて、絵画への冒涜な気がするが……そうする他無かったんだろうか?

「で、どうだった? 話」

 メルセニウスが淡々と尋ねて来て、私の頭はどう答えようかという疑問でいっぱいになった。

「どうと……言われましても……」

「世間的にはかなりセンセーショナルに騒がれてるらしいけど」

「らしいって、他人事ですね」

「他人事だもの。それだって、同居人から聞いたんだし」

「メルセニウスさん、ニュースとか見なさそうですしね」

「見ないねえ……」

 くだらないから、と理由を付け加えて、メルセニウスは自嘲気味に雑誌を軽く振った。主に有名人のゴシップネタを取り扱ったそれは、ニュース以上にくだらなそうな代物だ。

「その雑誌は?」

「同居人がね、買って来てくれたんだよ。ぶっちゃけ要らなかったけどね」

「酷い……」

「頼んでもいないものを買ってくる方が悪いんだよ」

 メルセニウスはそれでも、少し申し訳なさそうに、寂しげな微笑みを浮かべている。

 私は少し意地悪い気持ちになって、彼に尋ねた。

「じゃあ、どうしてわざわざ持ってきたんです? 要らないんでしょう?」

 メルセニウスは、余裕気に微笑んだ。

「望まずとも今は持っているんだから、活用して何が悪いんだい」

 その通りだ。そもそも人は、望んで何かを所有できるわけでもないのだから。例えば才能とか。

 そう言えば、と私は一つ、大事なことを思い出した。

「メルセニウスさんって、どうしてリッチェル・ウルバーニが自殺だと分かっていたんです?」

「ああ……それね」

 あの告解以前、リッチェル・ウルバーニはエリオ・ブランディにより殺害されたのだという風潮が強かった。エリオがそう思わせていたのだ。

 メルセニウスはなんでもなさそうに、答える。

「いやぁ……僕もね、あの連作画については、なかなか興味深いと思っていたんだけど……それにしても、あれ異常じゃない」

「異常?」

「ああ、君は素直だから、受け入れちゃったんだねえ……」

 子ども扱いされているようで、ムッとする言い草だ。だがメルセニウス相手だと、妙に怒りが萎える。私は黙っていた。

「普通に考えて、人の手首を何十枚もぶっ続けで描くのは異常者のすることだよ」

「異常者……でもそれは、普通に考えればの話で」

 リッチェル・ウルバーニは天才画家だった。普通とか常識とか、そんな物差しをあてがってはいけない……はずだが、違うのだろうか?

「天才とか才能とか、そんなのは後から付与されたレッテルだ。リッチェル・ウルバーニだって人であることに違いは無い」

「それは……そうでしょうが」

「なら彼にだって、人の身の物差しは当てられるだろう? だから分かるんだ。彼の行動は精神疾患者のそれだと――例えば同じ曲だけをグルグル聞き続けるとか、ルーティンに拘るとか……心のバランスを崩した人間にはよくある話なんだよ。過去の幸福や成功体験に縋ることで、ぐらぐらした天秤を落ち着けようとするんだ。リッチェル・ウルバーニの場合は、『絵を描くこと』『好きな人体の部位』『同居人』この三つに縋りついたんだね」

「じゃあ手首の絵画は……」

「彼なりの最期の抵抗だったんだろうね」

 リッチェル・ウルバーニは、救いを求めてあれを描いていたんだろうか。だとしたら、それは祈りと言う他無い。天才画家による、痛切な祈りの結実だ。

 エリオ・ブランディはあの後、殺人の罪は免れ得た。尤も、虚偽の自白をしたわけだから、その種の罪には問われているらしい。しかし事情が事情なので、情状酌量の余地がある。エリオはリッチェル・ウルバーニの祈りを後生大事に抱えながら、これからを生きるだろう。

「エリオ・ブランディか……」

 ふと、メルセニウスが呟く。彼は険しい表情をしている。

 まるで、何か言うべきでない秘密でも、抱えているような。

「どうしたんです?」

「いや……うん、そうだね」

 メルセニウスはちらりと私を一瞥した。

 嫌な予感がした

「僕はさ、それでもリッチェル・ウルバーニを殺したのは、エリオ・ブランディだと思うんだ」

 メルセニウスは真剣だった。

「だってそうだろう。自分のせいで夢を諦めた人間がずっと目の前に居て、どうして気が狂わずにいられる?」

 逃げ場が無かったんじゃないか、とメルセニウスは淡々と続けた。逃げ場……もし、もしエリオがリッチェルの傍に居なかったとしたら、彼らが同居人でも親友でも無かったんだとしたら。

 その時は、リッチェル・ウルバーニは死なずに済んだんだろうか? 天才の責任も放り投げて、絵画なんてやめて、自由に生きられたんだろうか?

 エリオ・ブランディが、リッチェル・ウルバーニを追い詰めたのか?

「ちょっと思うんだよ。もしかしたら、これはエリオ・ブランディの遠回しな復讐だったんじゃないかって。結果的に彼は、殺人罪に問われることも無いんだ。リッチェル・ウルバーニは死んだけど」

「それは――」

 自分でも驚くほど、私は確信を抱いている。

「それは無いですよ」

 メルセニウスが、「へえ」と相槌を打ち、興味ありげに、私に横目をやる。大概のことをどうでも良さそうにしている彼が、だ。

「情が湧いたから……ってわけでは、なさそうだね」

 メルセニウスはそう言うが、正直それもあるかとは思う。信頼とは得てして、情によるものだ。尤も、ここでのそれは、私の妄信だけではない。

「エリオさんが最後に……告解の後に、言ったんです。リッチェルさんに出会った時のことを」

「告解の後に? 懺悔ではないってこと?」

「はい……や、その、ちょっと気になることがあって、私から問いかけたんです」


 話は昨日に遡る。

 神に対して散々な悪態のつきようだったエリオだが、神父役である私に対してまで恨みつらみを吐き散らしたわけじゃない。彼は私に対して、それなりに建設的な態度でいてくれたと思う。

 私が気になったのは、エリオとリッチェルの出会いの話だった。確か彼は最初の方の話で、リッチェルへの印象を語っていたが、一つ……「それは後で言います」と述べたことがあったのだ。だがしかし、彼は結局、後になっても語らなかった。私の利き洩らしの可能性も頭の隅にチラついたが、それよりも私は、「もし本当に言っていなかったらどうしよう」という不安の方が勝った。伊達にミステリーを書いてるわけじゃない。伏線回収漏れは、作家として信条に反する。

 それに、私の危惧していた通り、エリオは語り漏らしをしていた。後で言うと言いながら、言っていなかったのだ。

 彼は、出しゃばりな神父に困惑しながらも、確かに答えた。

「ああ、それですか……いや、大したことではないです……」

 それでも答えてくれなければ困る。私は静かに食い下がった。神としてではなく、いち個人として。

 エリオは今度こそ、答えてくれた。

 そしてそれが、私に彼らの愛を、確信させてくれた。

「いや……思ったんです。当時のワタシはウルバーニの奴を見て――」

 エリオは小さく息を吐いて、続けた。

「まるでエメラルドのように……綺麗な奴だなって」

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とある天才画家が死ぬまでを見守る同居人 ささまる/齋藤あたる @sasamar

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