とある天才画家が死ぬまでを見守る同居人

ささまる

第1話 懺悔室にて


 神よ、あなたに懺悔をします。前回の告解は……すみません、もういつだったか思い出せません。多分、学生の頃だったと思います。ウルバーニの奴に連れられて、学校に併設されている小さな礼拝堂に行ったんです。そう言えば、あれもあまりいい思い出じゃないです。ウルバーニの告解が、あろうことか神父様によって、学校中の噂にされてしまったんですから。ウルバーニの奴は「神父様がそんなことをするはずない」と言ってワタシの言うことは聞きませんでしたが、ワタシは絶対に、神父様の仕業だと思っています。なんでもあの礼拝堂の神父は実のところ学生アルバイトが務めていて、責任も規律もあったものじゃないと、誰かから聞いたんです。

 ……すみません、昔話なんてして。感傷的になっているのかも、しれないです。

 でもワタシは未だに信じられないんです。あのウルバーニが死んだなんて。

 それもワタシのせいで……ワタシが彼を殺したなんて。


 神よ、あなたに懺悔します。


 しかし、一体どこから、話せば良いのでしょうか?

 やはり、全ての始まりとなった、ウルバーニとの出会いからでしょうか?

 始まりはよく憶えています……憶えている、はずです。

 ワタシとウルバーニは同じクラスで、志望する将来も同じでした。画家です。ですがワタシと彼の立っている場所が同じだとはとても言えなかったでしょう。ウルバーニの奴はあなたもよくご存じでしょうが、年若い時分で既に歴史的画家の仲間入りをしていました。佇まいも……まあ、ぱっと見で分かりましたよ。あいつがリッチェル・ウルバーニかって。なんだ、聞いていたより随分大人しそうな奴だなって……でも……ああ、それは後に言います。

 対してワタシと言えば、名も無いどころか、本当にただの学生でした。絵は好きでよく描いてましたし、知人からはよく褒められてもいましたが、そのレベルならゴロゴロいますからね。その上、同級に本物の天才が居るとなれば……ねえ。

 思い詰めた選択ではありませんでした。絵に携われれば、たとえ修復だろうがなんだろうが構わなかった。あるいは、そちらの方が現実的な分、良かったとも思いましたね。夢を見ている時間は短いほうがいい。

 代わりに、ワタシはウルバーニの動向が気になるようになりました。ワタシは授業のカリキュラムを組み直して、本格的に修復士を目指す傍ら、密かに、リッチェル・ウルバーニと共に過ごし始めました。なにぶん、奴は人の誘いを断れない人柄だったので……。


 一番最初に話しかけたのは河川敷でした。授業があるはずの時間に、ウルバーニの奴は河川敷で絵を描いていたんです。奴の上半身を覆い隠すほどの大きなキャンバスに、眼前の光景を写し取る筆が走っていく。流れる小川の水面が煌めき、見ている目が潰れそうだった。ワタシはキャンバスを覗き込むように、彼に話しかけた。なんて言ったのかは分からない。「やあ」とか「どうだい」とか、そんなんだと思う。ウルバーニの奴はちらとだけこちらを向いた。碧色の瞳の中に、一瞬だけ自分が映ったのを見たから、それははっきり覚えている。得てして天才とは住む世界が違うとは聞いているが、果たして彼の観る世界と自分とはどれだけ隔たっているのだろうか? そんなことを脳裏で薄っすら考えた。

 ウルバーニの奴が学校を抜け出して絵を描くのは、人を避けてに違いなかった。だから今ここに居るエリオ・ブランディという人間は、彼にとって陽射しの一つより邪魔くさいに違いない。ワタシはそれを承知で、彼から離れなかった。彼は終始ワタシなんか目にもくれないように絵を描いていたが、途中でそれをやめにした。彼は酷くうんざりした調子で「ダメだ」と一言呟いた。

「何がダメなんだ?」

「全部」

「全部いいの間違いじゃないか?」

 少なくとも、ワタシの目には傑作に見えた。画商に見せたら、目を輝かせて個展を開く算段をつけ始めそうな。川面を描いているだけと言えばそうだが、彼の絵にはいつも生命が宿っている。それでいて、決して現実のそれではない、言うなれば、彼はウルバーニという二次元世界の創造主だった。

 ウルバーニの奴は溜息を吐いて、苛立たし気にキャンバスに手をかけた。ワタシは次の瞬間に何が起こるかを、瞬時に察した。彼は右手でキャンバスに手をかけ、反対の左手に持っていた筆で、大きく×の字をつけた。どれぐらいかは知らないが、少なくとも数時間の努力が無に帰した瞬間だった。

 なんてことをするんだ、とは言わなかった。ワタシにも覚えがある。他人がどう言おうと、自分が認められなければ何の意味も無い。

 無価値の烙印が押されたそれを、ワタシはウルバーニから貰い受けた。最初彼は渋っていたが、「修復の練習台として使えるかもしれない」と言うと、断り切れないと思ったのか、嫌々ながら渡してくれた。ワタシは名分通りに、その川面の失敗作を練習台として使わせてもらった。今でも自宅に飾ってある。

 少し不思議なのが、ワタシはあの日の記憶を人に話す時、黄金の午後と題している。まさしくあれは黄金の午後だった。太陽が眩しかった。水面がキラキラ輝いていた。そのはずだ。

 だが後から知ったのは、その当時あそこは曇り空で、とても太陽なんて出ていなかったというのだ。なんなら薄墨を垂らしたみたいな空だったと、友人が顔を顰めながら語った。ワタシが見たのは、あるいはこの記憶は、一体なんなのだろう? 白昼夢でも見ていたみたいだ。

 とは言え、あの日にワタシとウルバーニが河川敷で会話をしたのは紛れも無い事実だ。ワタシとウルバーニの交流は、その日から始まった。


 ……すみません、少し熱が入ってしまいました。これを話すのは、ワタシの十八番みたいなものなのです。ワタシとウルバーニのことを知っている連中はみんな、ウルバーニのことを聞きたがる。これを言うと、彼らはそれなりに満足した様子を見せてくれるのです。さすが天才画家って感じでしょう。彼のプロ意識は学生時代からずば抜けていたと言うことで。


 それで、次は何を言いましょうか。


 ワタシとウルバーニが通っていた学校は全寮制で、しかも二人一部屋でした。それがウルバーニには酷く不愉快だったようです。二年時に上がる時に一応、相部屋候補の希望届を出せるのですが、彼はワタシの名を書いて出しました。まったく知らない奴と一年過ごすよりマシということでしょう。しつこく一緒に過ごした甲斐あったな、なんてワタシは向かいのベッドで満足感を覚えながら眠りにつきました。ワタシは希望届に、彼の名を書いていましたから。周囲には驚かれましたが。

 しかし学校生活は、順風満帆とは言えませんでした。当たり前です。ウルバーニの奴はほとんど授業にも出ていなくて、それに彼自身が天才のプライドで教師陣を馬鹿にしていました。教師? いいえ、彼は恐らく、身の回りの全てを本心では小ばかにしていたと思います。彼がそれを態度に出すことはありませんでしたが……ふとした拍子に、そういうのは現れるものです。

 周囲と軋轢を生むのは時間の問題でしたし、彼は目に見えて孤立していきました。ワタシは、進級に必要な実習単位にぼやくウルバーニを向かいの机で眺めながら、彼がどう難局を切り抜けるのか考えていました。彼は結局、どうにか裏ルート……何かよからぬ手段によって教師の一人を説き伏せたみたいです。尤も、それで一番傷を負ったのもウルバーニでした。彼はなんだかんだ善良な男だったので……神様、あなたはよくご存じでしょう? ウルバーニは週に一度は告解をするほど、あなたを信じていた。

 ワタシは孤立したウルバーニから目を離せませんでした。腐ってもルームメイトですし……自分で言うのもなんですが、奴のために随分世話を焼いたと思います。将来が気にかかる程度には。

 ウルバーニの奴は二年次でそんな調子でしたので、そもそも学園生活が長く続くわけなかったんです。ワタシは「部屋から出たくない」と涙ながらに訴えるようになった天才の応対に、毎日迫られるようになりました。ウルバーニは天のように高いプライドと繊細な感性を持ち合わせた、まさしく諸刃の剣みたいな人間でした。いつ折れてもおかしくない。

 退学を持ち掛けたのは、ワタシの方です。実のところ、ワタシは彼の退学を早くから見越していました。そのために必要な資格は取り終えましたし、実習も済ませました。あとはウルバーニが退学を言い出すのを待つのみでした。しかし彼は一向に言い出さなかった。仕方なく、ワタシから彼に提案し、彼はまるで待っていたかのように頷いた。

 ワタシたちは、ただ才能と実力だけで、世間へ出て行くことを決めました。


 ――時々、ふと思うのですが。

 ワタシとウルバーニは、ここで終わっていれば良かったんじゃないかって。

 ほら、シンデレラとか、王子様と結婚してめでたしめでたし……本当なら結婚生活こそ、シンデレラや王子様にとって本当の人生だろうに、そこは描かない。結婚なんてそれこそ、人生のうちのたった一つの成功で、到達点の一つに過ぎないだろうに。

 だから、私は思うのです。

 ワタシとウルバーニは、あそこで終わっていれば良かった。


 それから、忙しい日々が続きました。かれこれ三年ほどでしょうか。ワタシたちはフィレンツェからパリへ赴き、心機一転してルーブルで仕事を覚えたり、四方へ伝手を作ったりして生活していました。形あるものは何も持たないワタシたちで、そのくせ中途退学という不名誉な経歴は背負っています。全ての人に温かく迎えられたわけではありません。むしろ、ワタシたちの失敗を望む者の方が多かったでしょう。ルーブルの奥深い倉庫で修復の生業を地道に始めたワタシとは違って、ウルバーニの奴は人一倍プレッシャーを感じていました。

 軋んだ石造りのアパートメントで、朝起きてまず向かうのがキャンバスで、ワタシは彼にコーヒーを淹れます。差し出されたそれが受け取られるかは、日によって違いました。注文の多い男でした。自分ではやらないくせに、ワタシにあれこれ文句をつけるのです。けれど天才とか才能とか鋭い感性とか、そういうのが彼の注文の背景にはあるもんだから、ワタシも口答えをしようとは思わなかった。要するに、彼の我が儘には正当性があるんですよ。彼は誰がなんと言おうと才能がある。彼に常識を当て嵌めるのは、ペガサスに首輪をつけて地面に固定しておくのと一緒です。ワタシは彼を守らなくちゃいけなかった。だから、彼がその人柄ゆえに思うように支援者を得られない時も、床にまき散らした紙とインクばかりが部屋中に折り重なっていく時も、眠れずに過ごす夜も朝も、ワタシから彼にとやかく言うことはしませんでした。ワタシは待っていたんです。自己救済を。

 ワタシはウルバーニの他に数多くの画家を目にしてきています。だから知っているのですが、彼らは時に、絵を描くことで自分を救うことがあります。それが読んで字のごとく自己救済。これは何も精神だけじゃなくて、身体の方にも効果を発揮する時がありました。おかしな話ですが、ある日体調を崩してベッドに寝たままのウルバーニが、その後も何故だか熱も下がらず体も怠いまま数日と過ごしていた時がありました。最初の頃は無理が祟ったんだと休んでいましたが、いくら休んでも治らないでいると、段々と焦りが募り、一層回復が遠ざかっていきます。そんな時に彼は熱病の体を引きずってキャンバスに向かうんです。するとあら不思議、熱も下がり、病気なんて無かったみたいに華麗にキビキビと過ごし始めます。


 ウルバーニにとって、絵とは背負うべき十字架であり、救いでもあったわけです。さながら、磔刑のキリストみたいな。


 波はありました。しかし総じて述べるなら、ワタシたちは順調だったと言えるでしょう。世間で言われているのと対して変わり映えもしません。ウルバーニはひたすら絵を描いていた。ワタシは街に出て修復の実戦経験を積んだ。三年も過ぎれば、重要な案件を任されもしましたし、大陸を跨いだ出張も増えましたね。ウルバーニの奴を置いて一人きりにしてしまうのは、色々な意味で心配ですし忍びなかったので、その頃から人を雇って身の回りの世話を任せるようにもなりました。ウルバーニの奴も最初は嫌がっていましたが、慣れるとあの高慢な振る舞いが出てきて、ワタシはコーヒー一杯でさえ拘りを貫くあいつを笑っていました。

 いいことばっかりではもちろんありませんでしたよ。ウルバーニの奴は、初めて会った時からまるで変わらない男だった。良くも悪くも、彼という人間は幼い時に完成されていたんでしょうね。ワタシと出会う前から、画家リッチェル・ウルバーニは出来上がっていて、あとはそれを生涯維持するだけだった。


 転機が訪れたのは、もはや慣れ切っていたワタシの出張の後でした。

 帰って来ると、部屋が酷く綺麗なんです。ああいえ、要するに、絵を描いた痕跡が無いんです。

 ワタシの出張はたかだか二週間でした。保護活動の一環で東南アジアを数か国巡っていたんです。面白い写真なんかも撮って、後でウルバーニの奴に土産がてら見せてやろうと思っていました。

 それが、帰ってくればこの惨状です。

 私の記憶の限り、ウルバーニの奴が自ら筆を放棄したことは、これまで一度もありませんでした。学校での差配や体調不良で否応なく筆をとれない時でさえ、ウルバーニの奴は我慢を要するのに心底不快感を催していました。彼にとって寝ている以外の時間は全て絵に捧げて当然なんです。そうしようと思っているわけじゃなく、物心ついた時にはそうしないと気持ち悪くて生きていけないようになっていて、一種のワーカホリックですが。しかし本人がそれに納得ないし満足を覚えているから、それで良かったんですよ。人生って、自己満足が物を言うじゃないですか。人生と言うか、幸福? どっちでもいいか。

 ワタシが見つけた時、ウルバーニの奴は優雅にコーヒーを飲んでいました。窓辺のカフェテーブルで、朝の木漏れ日が差していたので、まるで清らかな朝でしたね。彼の内包している絶望を隠し立てするように、世界は優しかった。

 だがワタシは、それが噓っぱちであることが分かっていました。だから彼に尋ねたんです。「絵はどうしたんだ?」と。至極単純な質問でしょう? ウルバーニの奴は、涼し気に答えました。

「疲れたんだ」

 それが何を意味しているのか、分かりたくもなかった。

「疲れた?」

「ああ、もう充分やったんじゃないかと思うんだ」

「それは……」

「いや、やっぱりやめよう」

「え?」

「描くよ」

 ウルバーニの奴は、ワタシが励ますまでも無く、筆を再度とることを決意したようでした。ワタシが何を言うまでも無く。いつもと同じ、自己救済。

 その時のワタシは、アトリエに向かって歩き出した彼の背中をじっと見やっているだけでした。らしくもなく清潔に整えられたシャツは白く、反して背中は丸く、まるで死にかけのダンゴムシみたいだった。


 何かをするとしたら、ここでワタシは、何か出来ていたんでしょうか?

 リンゴは内側から腐る。気づいた時には、もう遅い。


 ウルバーニの奴は、それから目に見えておかしくなり始めました。


 まず言動が支離滅裂になりました。猫みたいに虚空を見つめてぼうとしていたかと思えば、急に泣き出したり、怒り出したりする。情緒不安定で、まるで次の行動の予測がつかない。朝から何を言っているのかも分からない怒声や喚き声を発し、家中の家具をめちゃくちゃにする。数年かけて築かれたワタシたちの居城が、見るも無残に崩れ去るのに一日だって必要無かった。雇いの世話人も辞めたいとワタシに伝えて来た。まるで右も左も分からぬ幼子です。

 ワタシはそれを、どうするべきだったんでしょうか?

 ウルバーニの気持ちは痛いほど分かるんです。描けなくてつらい、描いてもつらい。逃げ場がない。逃げ場がないなら気が狂った方がまだマシだ。

 ワタシはふと、「月と六ペンス」を思い出しました。あれは画家の男が主人公でしたよね。男は不合理とも思えるほど絵を描くことに執着していました。彼は確かこんなことを言ったはずです。「一度溺れてしまえば、あとは泳いで岸にたどり着くか、溺れ死ぬかしかない」なんて。

 ウルバーニは川の中に居る。流れは急で、足はつかず、岸は見えない。今の彼に出来るのは、ただ無我夢中で足をばたつかせ、半狂乱になっても息継ぎに喘ぐだけだった。


 スランプと言ってしまえば、ありがちな話なんですが。


 ある夜、アトリエに籠ったままのウルバーニが心配で、ワタシは彼の下を訪れました。作品を手掛けている時は放っておくのが暗黙の了解だったのですが、それを守る意味さえ覚束なかったので。

 ワタシたちは何度か引っ越していて、その時に住んでいたのは、セーヌ川の傍の二階建ての一軒家で、ウルバーニは大きなガレージとその隣の庭が好きだったんです。ウルバーニとワタシは左右に家を二分して、それぞれの生活圏としていました。ガレージや庭園の分、ウルバーニの方が倍くらい広かったですが……ワタシはそもそも外に出ている時間の方が長いし……花も蝶も、あいつの方が好きだった。

 自己救済があるなら自己崩壊もある。ワタシは絵によって救われた過去のウルバーニと、絵によって地獄を見ている現在のウルバーニを、果たしてどう受け止めて良いか考えていました。ずっと、考えていました。昼も夜も無く、眠れず起きられず、食事は喉を通らず、一日中あるいはそれをずっと何日も何週間もずっと続けて憂いの水底に沈められた彼が……それがこれからいつまで続くかも分からない彼を。

 ウルバーニの奴は、そこら中に鉛白がぶちまけられたガレージで、膝を抱えて蹲っていました。鉛白はルノワールが肌の色として好んで使ったと言われていますが、同時に毒性があることでも有名です。学校で習ったことを思い返して、ワタシの胸はゾッとする心地でした。

 彼自身の体に付着した白い塗料は、窓から差し込んだ月光に照らされ、周囲のそれと同じく完全に乾いていました。ここで一体どれだけの時間を、そうして丸まった体で過ごしたのか。考えたくも無かった。しかし、一先ず彼が良からぬ目的でそれを使ったのではないと理解して、安堵が口から零れました。

 ワタシは言葉を探していました。出来る限り足音を立てないように慎重に彼の傍に歩み寄りながら、頭の中では必要な言葉を考えていました。今の彼に自己救済を求めるのは酷だと、ワタシはようやく気付いたのです。こうしてリッチェル・ウルバーニがバラバラに崩れ始めた後で、ようやく。

 しかし、先に話したのはウルバーニの方でした。

 彼は、ワタシに言ったのです。

「絵の描けない画家に価値はあるか?」

 聞くに堪えないしわがれた声で、彼は続けました。

「死にたい」

 薄々分かってはいたんです。生活の全てに絵しか存在しない人間から絵を取り上げたら、後に何が残るって言うんですか。

 それなのにワタシは、まるで想定外みたいに、ウルバーニの言葉に固まってしまった。かけるべき言葉も、言ってあげたい言葉も、何も出てこない。無為に時間が過ぎる。ワタシたちの人生が、ありきたりな悲劇に浪費されていく。

「描きたいのに、何も描けないんだ……何でもいいから描きたいのに、描きたいものが無い……」

 おかしいだろう、と彼はワタシに言った。おかしくなんかなかった。何もおかしくない。

 ワタシは、まだ言葉が見つからない。見つけられない。

「ずっと思ってたんだ……本当は、ボクは……ボクには、才能なんか……」

 その先の言葉を、彼は言わなかった。初めて聞く種類の弱音に、ワタシは目を見張って彼を見つめた。これまで、彼は自分が天才であることだけは否定したことが無かった。

 そんなことを考えていたのか、と自分の迂闊さに吐き気を覚えた。ワタシは彼の内心をまるで理解していなかった。

 それでも、その答えだけは持っている。新しく考える必要も無い。

「そんなはずはない。それは無いよ。お前は天才だ」

 そうだ。それでは確かだ。リッチェル・ウルバーニは天才画家だ。誰が――たとえリッチェル・ウルバーニが否定しようが、それだけはワタシの中で揺るがない真実だ。アカデミで得た運命は、今もワタシの中で息づいている。まるでさっき観た景色のように、鮮明に。黄金の午後は永遠だ。

 ウルバーニの奴が顔を上げた。月光に照らされた青白い肌に、色彩の無い瞳が、ただ煌めきだけを宿していた。

 彼は言った。

「お前に何が分かる」

 冷たい瞳の中に、憎悪があるのをワタシは見た。

「描くのを放棄したお前に」


 その先のことは、あまり詳細に語りたくはないですね。なにしろワタシ、足を骨折したんです。激昂したウルバーニが急に立ち上がったと思ったら、ワタシは力の限りで突き飛ばされていました。あまりにも急な出来事でしたし、ワタシ自身、何の身構えもしていなかったので、受け身もとれなくて。ワタシは冷えたガレージの床で月が沈むのを眺めながら、朝を迎えました。

 それにしても、酷い話でしょう? 心配して迎えに行ったのに、まさか骨折させられるなんてね。腕じゃない分まだマシではありましたが。

 それにウルバーニも、ケガさせるつもりは無かったみたいなんです。朝になっても戻らないワタシに、今度は彼の方が不審を覚えたようで、戻って来てくれたんですよ。その時の奴の表情と言ったら! まるでこの世の終わりみたいな……あの顔を観れただけで、ワタシとしては満足ですよ。

 幸い、骨折自体も大したことはありませんでした。出張はしばらくやめになりましたが、元々そのつもりでしたので、正直そこまで影響は無かったですね。

 気がかりなのは、ウルバーニのことです。

 そのちょっとした事故以来、奴はそれまでの暴れようが嘘みたいに大人しくなりました。病院への付き添いも、家での移動も自ら手伝ってくれましたし……ああ、それに奴がコーヒーを淹れてくれた時は心底驚いてしまいました。まるで常識人みたいなことをするじゃないですか。

 ワタシは、負い目を覚える必要などないと彼に伝えました。だってそうでしょう? 天才を前にして、骨の一本がなんだって言うんですか? それで天才画家が再来するなら代価としては足りないくらいだし、そうでなくてもウルバーニはその日以来変わった。

 ワタシは、むしろ良かったと思っているんですよ。ここのところは家に居ない時間の方が多かったワタシも、骨を折ったからと言えば体よく仕事をキャンセル出来ます。数年前と違って金にも、それなりの余裕がありました。ウルバーニの奴と二人でゆっくり過ごすのに、骨折はちょうど良い名分だったんです。


 ワタシは、この機会を逃してはならないと密かに考えていました。ウルバーニの憂いも、明けない夜も、打開するなら今がチャンスだと思ったんです。


 考えた末に、ワタシは「ファンと交流を図ってみたらどうか」と提案しました。ウルバーニは相変わらず気が進まなそうでしたが……やはり罪悪感があるのでしょうね。とりあえずワタシの知り合いでもある人間を何名か、ワタシも同伴する形で会うことに決めました。

 中でも建築家のジョゼフとは、なかなか気が合ったみたいです。ワタシの想定以上に仲良くしているのを見て……正直、嫉妬を覚えなくも無かった。それでもワタシがそれを眺めていられたのは、ひとえにこれまで過ごした時間と積み重ねが、確かに想い出に残っているからです。他の誰に、ワタシの負った役割を果たせたでしょうか?


 ウルバーニは絵を描く以外の仕事をこなすことで、絵を描く以外の時間の使い方を知った。ワタシはそれが嬉しくて、まるでハッピーエンドを迎えた感覚でさえいた。人生は物語にするには長すぎるが、ここらで区切っていれば……それなりに出来のいいロマンス映画くらいにはなったんじゃないでしょうか。


 それから気分転換と社会学習も兼ねて、ワタシとウルバーニは世界を巡るクルーズ旅行に出かけました。ウルバーニは写真でしか観たことのない世界遺産にいちいち感銘を受けてしまうので、時折船に乗り遅れそうにもなりました。どこまで行っても世話の焼ける男ですよ。その間、彼は一度も絵を描かなかったし、絵の話を持ち出すこともありませんでした。彼は常に、次の停泊地や現地の食べ物、船上パーティーの内容に夢中になっていた。

 それがワタシの思い違いだと、分かったのは船旅が終わりに差し掛かった頃でした。

 二人で大型船のデッキに立って、遠い地平線に会話していた時のことです。ウルバーニは、感傷的な眼差しでそれを観ていました。

「綺麗だな」

 天才画家にしては凡庸な感想です。ですがワタシは、それこそが嬉しかった。だから黙って頷いた。いちいち言葉を尽くさずとも、世界はどうせ美しい。

 とは言え太陽は、古今東西で厭味なくらいに象徴的なものです。ワタシは地平線に沈みゆくそれに、エジプトで聞いたとある話を思い出しました。なんでも、古代エジプトにおいては太陽は、死と再生の象徴だったとかなんだとか……復活だったかもしれませんが。

 要するに、ワタシはあの太陽が沈むのを見て、思ったんです。ワタシにとって、あの太陽も隣の男も大差ないものであると。自己救済に、自己崩壊――人生は長い。

 隣のウルバーニは、長いことそうして太陽を観ていました。その瞳の中に、焼き切れそうな飛沫がまるで火花みたいに散っている。ふと、奴は言いました。

「あの色……」

 瞬間的に、ワタシは彼の心が分かった気がしました。

「……ポンペイ・レッドみたいだ……」

 それは、赤色顔料の一つでした。

「綺麗だ……!」

 ワタシは理解しました。そして思い出しました。

 かつてワタシは、彼の観る世界と、ワタシの見る世界が、いかに異なっているかに思いを馳せました。天才とは得てして、凡人とは生きている世界が違うと言います。ワタシは、彼の世界が何で成り立っているかを、ようやく実感したんです、心の底から。


 帰ってから早速、ウルバーニの奴は絵を描き始めました。それも題材は――。

「ワタシの手を?」

「ああ」

 ウルバーニの奴がにっこりと微笑んだ。麗かな日差しで、その微笑みはワタシに毒だ。

「知ってるかい? 誰に聞いたのかは忘れてしまったが、昔、こんなことを言った偉人が居るらしい。『親指の存在だけで私は神を確信できる』と。ボクも同じだ。見てくれ、この天才的なアーチ! 造形!」

 素晴らしい、と感嘆するウルバーニを余所に、ワタシは呆れていました。

「ボクは人体で、一番手が好きなんだ!」

 知ってるよ、と口から零れました。これまで何度と聞いていたんですからね。レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ、著名な芸術家は解剖術にも長けていました。人体構造を、骨、筋肉の繊維一本まで理解してこそ、絵は為る。

「人間の最も人間的な構造は手だ」

 ウルバーニは、よくそんなことを言いましたっけ。

「だからボクは、神を信じている」

 そこで神を信じるのはよく分かりませんけど。

 妙な苛立ちに駆られて、ワタシはウルバーニの奴に言いました。

「……ニュートンだ」

「え?」

 ウルバーニの奴は、馬鹿みたいにすっとぼけた顔でワタシを観ていました。思わず笑いそうになって……ワタシは奴から顔を逸らした。

「その親指の話だよ。それを言ったのはアイザック・ニュートン。そしてその逸話をお前に教えたのは、このワタシだ」

「あれ、そうだっけ」

「そうだよ馬鹿」

 本当に、馬鹿な奴。

「あっはは、ごめんごめん」

 ウルバーニの奴は、からからと笑いました。鈴の音を転がすように、とはこのことだななんて、ワタシは柄にもなく思って。太陽が眩しい。

「最近、たくさんの人と話しているものだから、誰が何を言ったのか、混ざってしまってね」

 悪びれもしない、実に優雅な横顔でした。


 それからウルバーニの奴は、何枚も何枚も、何日も何週間もそれを描き続けました。それと言うのは、ワタシの手なんですが……。

 奇妙な気分でした。ウルバーニの奴は、その絵に題名をつけなかったので、題材が何なのかを真に知っているのは作者を除けばワタシだけ。何故だか分かりませんが、世間的にもなかなか受けが良かったようで、ワタシは更に困惑を禁じえませんでした。

 ワタシはアトリエに並んだそれらを眺めて、その一枚一枚が同じ質感をしながら、何かが違うのを感じます。違うのは体温です。ワタシは自分の掌を見つめます。それからまた顔を上げて、キャンバスのそれらをしげしげと眺めます。

 なるほど、十年近くも一緒に過ごした甲斐あったな、なんて思いました。


 雑誌の取材の話もしましたっけね。奴はどうやら、自分が如何に世界的に認められているかを、それまではよく理解していなかったようで……まあ、アトリエに籠りきりの人間じゃあ、そりゃあ知りませんよね。

「行く先々で褒められるよ。社交辞令って奴かなあ」

 そんなことを言うんですよ、ワタシに。

 だからワタシは、違う、と言ってやりました。

「違う。お前がすごいから、みんな褒めるんだ」

「よく分からないなあ……作品と作者はまた別だろうに」

 冷めた薄ら笑いを浮かべているウルバーニの顔が、何故だかワタシはひっかかりました。

「でも、言うこと為すこと世間が騒いでくれる感じは、なかなか愉快だ」

「だから大口を叩いているのか?」

 最近のウルバーニの奴の取材内容を思い返しながら、ワタシは言いました。奴がなんと言おうが奴の勝手ではあるのですが……なんと言うか、ワタシは無性に苦々しい気持ちでいっぱいでした。

「たかが絵じゃないか。大口ぐらい叩いたところで、誰も傷つかないよ」

 果たしてウルバーニの奴は、そんなことを言って、屈託もなく微笑みました。まるで思ってもいないことを……思ってもいないことを!

「みんな、何を騒いでいるんだか」

 ウルバーニの奴はやはり、冷めた微笑みを浮かべていました。


 幸福な日々が続きました。ワタシの手を題材にした個展が開かれると聞いた時は、やはり困惑が滲みましたが……ワタシは、ワタシの人生の出来る限りの時間を、ウルバーニと共に居ようと決めていました。

 だってワタシは、分かっていたんです。一度、船で経験していましたから、さすがに学びました。

 こんな幸福は見せかけであると。

 こういう時の予感ほどよく当たるもので、ワタシは個展の準備で忙しそうなウルバーニを尻目に、何をするでもなく椅子に座っていました。椅子に座って彼を眺めていました。何も出来ずに。

 しかしまあ、何事にも終わりは来ます。ウルバーニは人に任せておけば良い仕事まできっちり自分でこなすと、こなし終わると、ワタシの前に座りました。

「満ち足りた、とは言えないかもしれない」

 急に、そんなことを言いました。

 脈絡も無く。

 それから、薄っすら微笑んで続けました。

「それでも、充分やっただろう?」

 ウルバーニの奴は、「どうかな」と、歌うように言いました。ワタシはまだ、言葉が見つけられない。

「知ってるかい? 『私の国は、この世のものではありません』って」

 知っていました。

「聖書……だろう」

「ああ」

 ワタシは何かを言い返さなくちゃいけなかった。

「カミュは正反対のことを言った。ワタシたちの国の全ては、ここにしかない」

 声が震えた。

 果たして、ウルバーニの奴は涼し気に答えました。

「そんなのはただの現実だ」

 腹立たしいほどに美しく笑う。溺れかけの人間なら、せめてそれらしく振舞って欲しいと心底から思った。死にかけている人間が、そんなに優雅に椅子に座るんじゃない。

「ボクは芸術家だよ。虚構を描くのが仕事」

「カミュだって芸術家だろうが」

「カミュのことは知らないよ」

 小説なんか読まないし、とウルバーニはやはり笑う。知っているじゃないか、と言ってやろうとした。言えなかった。ウルバーニはワタシに隙を与えなかった。

「手、見せてくれないか」

 ウルバーニに手を差し伸べられた。その手に、ワタシは自分の手を重ねる。ワタシの方が幾分武骨で、肌がかさついていた。ウルバーニは、それをしげしげと眺め、観察する。天才画家の目で。

「この手……ボクはこの手を描いた」

「そうだな」

「一体何枚描いただろうね」

「六十四枚だ」

「あ、そうなの?」

「お前の描いたのは全て記録してある」

 絵画を写真で撮るのはある種の冒涜な気がしないでもなかったが、仕方なかった。何しろ、どれだけ魂を込めようが、画家の下に絵は残らない。売るための絵だから当たり前の道理なのに……ワタシはそれが許せなかったのかもしれない。ずっと昔から。

「そう……君が持ってくれていたの……ボクを」

 ありがとう、とウルバーニは言った。高慢な天才画家は、感謝の言葉なんかなかなか口にしない。ワタシは喜ぶべきだった。

「ボクの夢……誰にも言ったこと無いんだけど、言っていいかな」

 ウルバーニは、はにかむように言いました。まるで人見知りをする少年みたいに。

 いいに決まっていた。

「この手……空、海、太陽……この世界の全てが、ペンキで出来ていたらいいのになって……」

「……それは……」

「馬鹿げてるだろ?」

 なんて言えば良かったんでしょうか?

 ワタシはただ、ウルバーニの笑みが自嘲気味なのを垣間見ただけ。忘れられないだけ。

「ま、こんな夢の話はいいさ」

 ウルバーニは、ワタシが何も言えないでいる間に、さっさと話を変えてしまった。

 彼は今度、全然違う話をし始めたんです。

「実は、君にずっと謝りたかった。骨を折ってしまった時のこと……」

「え、いや、それはいいって何度も……」

「そうじゃない」

 存外に強く否定するウルバーニは、真剣な目をしていた。

「骨を折ったのは、実はそんなに気にしてない」

「え?」

「骨折じゃなくて……ボクは、君に酷いことを言っただろ」

 何か言っていただろうか? ワタシには、パッと思いつかなかった。

「君が絵を描くのを辞めたと……」

「ああ」

 思い出しました。確かに彼は、そんなことを言っていた。

 だがそれは――それこそ、単なる事実です。何も酷くはない。

 それなのに、ウルバーニは、酷く悲しそうに、瞳を伏せた。綺麗に上向いたまつ毛の陰から頬に伝う光を、ワタシは見た。


「君が辞めたんじゃない……ボクが、辞めさせたんだ」


「ずっと考えていた……もしボクが居なければ、君はまだ絵を描いていたんじゃないだろうか」

 君だけじゃない、とウルバーニは続ける。

「他にもたくさんの人が……ボクを見て、絵を辞めた。だからこそ、ボクには責任があったのに……今はそれすら」

 ウルバーニは笑っていた。

「正直、まだ足りないとは思ってるよ。これまで踏みにじってきた分、ボクは、描き続けないといけなかった…………それでも――最低限、やれたんじゃないだろうか」

 最低限という言葉が、やけに脳内に反響した。何かが、ワタシの胸を打つ。

「最低限……なんかじゃ、ない」

 ワタシは、それだけ言うのが精いっぱいだった。

「そうかい? 本当に?」

 ワタシは、頷いた、と、思います。

 最低限なはずはない。リッチェル・ウルバーニは歴史上の全てをしのぐ、天才画家だ。

 彼のこれまでの人生は、ワタシが、初めて会った時から全て、記録していましたから。

「お前は……よく頑張ったよ」

「そうかい」

 それがあんまりにも嬉しそうなので、ワタシはついぞ、彼を止められなかった。


 それからの時間は――白昼夢を、見ているようでした。ウルバーニの奴は働き者で、まるでワタシ以外に弱い部分を見せませんでした。さながら、天才画家の世界的跳躍の第二幕でも見ているようで。


 ワタシは、自分の役回りを、その最後に与えられた――台本を理解したんです。


 役柄にぴったりな小道具も、携えていました。偶然ではありましたが。

「おい見てくれエリオ」

 個展会場の近くのホテルの部屋で、ウルバーニの奴がワタシを呼びました。彼は、パリから持ってきた雑誌を手にしていました。気怠そうにベッドに横たわった彼は、暇つぶしがてら、それを読んでいたんです。ベッドの上には他に、ジッドの「地の糧」やリルケの詩集などが、乱暴に散らかっていました。皮肉なものです。

「君の特集が組まれてるよ。見出しはこうだ。『不仲説! 天才画家と修復士、十年来の友情にヒビか?』だってさ」

 ウルバーニの奴が心底楽しそうに笑うので、ワタシは、むきになって言い返しました。

「それは、ワタシは、そんなこと……あいつら変な風に切り取りやがって……!」

「分かってるよ」

 ウルバーニは、凪ぐ寸前の風のように、あくまで優しかった。

「ボクが断ったところの出版社だろう? 嫌がらせにしても程度が低いよね。これぐらいでボクらが揺らぐはずもないのに」

 彼のその発言は、素直に嬉しかったのを憶えています――本当かは、さておいて。

「けどパトロンの中には、信じる奴らもいる」

「まあしょうがないよね。だってボクらのこと、なんにも知らないだろうし」

 それは、その通りでした。何しろ、絵画や技術と違って、ワタシたち自身は売り物じゃないし、ましてや見せ物でもありません。

 ですがワタシは、これは使えると考えました。

 もし、リッチェル・ウルバーニがこのまま、考えを改めないなら、ワタシもまた、彼を見て来た者としてやれることが――やるべきことが、ある。


 時間がありませんでした。だが時間は必要ありませんでした。必要なのは、覚悟だけです。

 それからほどなくして、ウルバーニは死にます。遠い異国の地で死ななくても良さそうなものですが、むしろそれこそ彼の願いだったんでしょうか。彼の王国などしょせん、この世のどこにも存在していなかった。故郷でさえ彼にとっては紛い物だった。

 彼ほどの人物ともなると、用途を伝えずとも部屋や倉庫などは借りられるものです。今回の個展開催に際して雇った世話係から、ウルバーニの奴が倉庫をアトリエにするようだと聞いた時、ワタシは直感しました。いよいよだ、と。

 それにしても、世話係がアトリエだと勘違いしたのも納得です。ウルバーニは大量のペンキを倉庫内に持ち込ませました。様々な色彩のペンキが、さながら彼の世界だった。

 ウルバーニが昔言っていたのですが、どうして人は死ぬ時、方法に拘るのだろうと。死ぬとはつまり、人体が停止する状況に陥れば良いだけの話で、その方法は様々あるでしょう。ウルバーニは医者とは別ベクトルで人体構造に詳しい人物でした。とはいえ、何も難しいことじゃないのです。ただ……水でさえ、飲みすぎれば毒となる。ましてやペンキなんて食べ物じゃありません。別に毒性なんか無くったって死ねる。


 ワタシは、彼が死ぬのを観ました。


 長いこと苦しんでいました。変な呼吸音に、体がジタバタ暴れている気配、全てに気が狂いそうだった。狂えなかったのは、理性と言うより義務のせいです。ワタシは自分がやらなければならないことを知っていた。自分を手放してしまっては、それが叶わなくなる。

 正直、一緒に死んでやろうかという気もあったんですが……随分悩みましたが、それはやめました。

 ワタシが考えていたのは、ウルバーニの死後のついてです。彼は充分すぎるほどの偉業を為しました。きっと千年先も彼の名は残っているでしょう。彼は歴史上の偉人になるんです。美術史だけでなく、それ以外の歴史の教科書にも載るでしょう。彼の名を知らない人間など、教養の欠片も無い野蛮人くらいに違いありません。

 ところで、ゴッホもまた有名ですね。しかし彼は、些か不名誉で不条理な生涯でも知られています。ピストル自殺は人として褒められたことではありません。

 ワタシは、ウルバーニもまたそう思われるのが嫌でした。

 リッチェル・ウルバーニは、比類なき偉大な画家として、ただ偉大であるという一点の曇りも無い功績で、名を刻むべきです。彼に不名誉など必要ないし、揚げ足取りのゴシップなんか以ての外だ。


 だが彼は、死んでしまった。若くして、事故でもなく。

 なら、ワタシが殺したことにする他無いじゃないですか。そうでしょ、神様。


 リッチェル・ウルバーニは、才能に溢れる天才画家だったが、唯一の誤算は信じていた同居人で親友の男による妬み嫉みだった。画家の夢を砕かれたエリオ・ブランディは長いこと復讐を夢見ていたが、とうとう恨みの念が爆発し、リッチェル・ウルバーニを殺してしまった――ありがちですが、なかなか悪くない悲劇です。

 それにこれなら、リッチェル・ウルバーニの才能を証明する聖痕にもなります。彼が天才画家だったのは、ワタシも世間も認めるところですが、ウルバーニは最期まで、それに懐疑的でした。彼は、才能とか天才とか、そういった言葉に酷く敏感で、まるで狼に怯える子羊のように、びくりと反応した。

 これから先の未来でも、見る目も無い野蛮人なら、リッチェル・ウルバーニの才能を疑うことがあるかもしれません。しかしそういった輩こそ、三文ゴシップの安臭い記事に胸打たれるものなんですよ。彼の人生をつぶさに観測して来た人間が眩しさに目を晦まして殺したとなれば、彼らはリッチェル・ウルバーニが如何に素晴らしいかを、間接的にですが、理解できるんじゃないでしょうか?


 リッチェル・ウルバーニの死の真相は、こんなところでしょうか。ワタシの口も回らなくなってきましたし、そろそろ終わってもよろしいでしょうか?


 ……ああ、そうですね。矛盾してますね。だって今、全部喋っちゃいましたものね。


 告解とは本来、神と信者の二者のみで交わされる秘密の交信であるわけですが、現実にはそうはいきません。神様はどこにでも居て、どこにも居ない。不在が一番場所を取るって、何かの本で読みましたっけ。神様はどこにも居ないからこそ、どこにでも居ることが可能になり、人々は姿も根拠も無く信じることが出来る。あるいは、下手に根拠も無いからこそ、信じられるんでしょうね。

 ワタシは信じてませんけど。

 だって、そうでしょ。努力も苦悩も報われない世界で、何を信じられるって言うんですか? 神様なんて、ただのゴミ野郎でしょ。優しいなんて言うんなら、あの空の一つでも今すぐペンキにしてみてくださいよ。


 そう言えば、ワタシはリッチェル・ウルバーニが死んだ後に、彼の個展を見に行ったんですよ。彼が死んだこともまだ伝わっていない個展会場は、入場規制をかけたにもかかわらず人々で大賑わいでした。ウルバーニの奴も、これを見たらまた喜んで――どうなんでしょう。彼は喜んだでしょうか? ワタシには分かりません。

 それにしても、ワタシは一人の観客として彼の絵と、それに他の客たちを眺めていたのです。そうして思ったのは、彼らが皆、描かれたものを理解してやろうという穏やかな情熱と、リッチェル・ウルバーニという天才画家への愛情、崇拝の念を抱いていたことです。なるほど、彼の絵を見て、冷やかしをする野蛮人は存在していない。彼の心はペンキを伝って、確かに観客の胸を打つ。

 いいことだと思いました。素晴らしいです。でもなんでですかね。


 無性に腹立たしくて。

 ワタシを心変わりさせるには、その光景は充分すぎたんです。


 美しいバラは泥濘より咲き出でる。偉大な芸術は作者の苦悩から成り立つ。そんなことは知っていますよ。

 でも、それでいいんでしょうか? ウルバーニの奴は人生全てを絵画に捧げて、今は地獄にさえ堕ちてしまって、彼には救いなど金輪際許されていないのに、それが、たかが絵画だの芸術だのが免罪符みたいになって、全部反故にされていいんでしょうか? 彼の苦悩は、ワタシ以外に知られることはないんでしょうか? 何も知らない奴らが幸せそうに彼の苦悩の結果だけを眺めて、なんにも知らないくせに――それでいいんでしょうか? 本当に?

 何が正しいかなんて分かりませんよ。もしかしたらワタシは、また間違ってしまったのかも。

 いや……だから懺悔なのか。

 どうだっていいか。どうせもう、全部話してしまった。


 話はこれで終わりです。ありがとうございました、神父様。

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