カイコ録

猫舌サツキ★

カイコ録

 【健三けんぞう】は、医学に生きた博士である。



 高校生の頃から物理や数学一貫、寝る間も惜しんで研究を重ね、論文の山を成す姿は、周囲から「論文製造マシーン」と呼ばれていた。



 彼が56歳の時に執筆した論文が、科学ジャーナル【Nature】に掲載され、「ヒト細胞の再生」に関する研究成果は、ノーベル物理学賞さえも眼中とした。実際は、その誉れを手にすること叶わなかったが、自宅にずらっと並ぶ賞状やメダルの数々に、健三は腕組み満足していた。



 そんな彼は現在、長い医学人生に幕を閉じようと、臨終の床に在る。



「素晴らしい人生だったかもしれぬ」



 健三は、渋い声を白い牢獄たる病室に響かせた。



 彼のベッドの隣には、若手研究者の鹿路ろくろがいて、ベッドから這いずり出ることができない師、健三のために、飴の包装を解いている。



 健三は研究のために、右腕として鹿路を、左手に好物の柿風味の飴が必要であったのだ。


 医学と研究が最もだとする健三は、自らの右腕である鹿路だけを、病室に通すことを許していた。



「医学を愛し、医学に愛された人生だった」


 健三は、自らの腕に流れ込む液体を仰ぎ見て、渋い声で語る。



「そうですね」



 鹿路ろくろが言いながら、包装を解いた飴玉を、健三の口へと運んだ。



「そうだ、鹿路くん、Natureを持ってきてくれないか?」



 健三は、飴玉を口内で転がしながら、鹿路に言った。



 点滴という鎖で拘束されてしまった健三のため、鹿路は、座っていた椅子から腰を上げる。



「研究室まで戻らないと」


「それでもいい。そう簡単には逝かないから、とにかく持ってこい」


「わかりました」



 病室を出た鹿路ろくろは、車を走らせ、師が欲した雑誌を研究室の本棚に見つけた。恐らく、師が欲しているのは、自分の論文が掲載されたものであろうと考えて、それを腕に抱えて、再び車を走らせ病院へと戻った。



「持ってきました」


「ご苦労」



 病室の扉をガラガラと開けた弟子に対して、健三は点滴の鎖が繋がる右手で親指を立てた。



 弟子の手からNature誌を受け取り、さっそく、『再生医療:多くの難病患者を救う再生細胞』のページを開け開いた。そこには、健三の研究成果が書き連ねられている。


「素晴らしい」



 健三は自賛して、Nature誌をテーブルに置いて、次に、新聞の切り抜きを手元の引き出しから取り出した。



 昨日、8月3日の朝刊の大見出しには、『神の細胞』という、なんとも目を惹く文言が綴られている。内容としては、健三の率いる研究チームが開発したヒト再生細胞が、難病であるALSの治療のために使用されはじめ、症状の大幅な改善が確認されたということが書き綴られている。



 健三は、その記事を一から最後の句点までもを舐めるように熟読した。そしてもう一度「素晴らしい」と言った。



「鹿路くん、ワシの家にある医学関係の賞状を、全部ここに持ってきてはくれぬか?」



「え、全部ですか?」



「そう、全て、余すことなくだ」



 師のあまりの唐突な懇願に、鹿路は首元を指で掻いた。




 師、健三は、顔のシワを寄せて、まるで梅干しを一升分食べたのかのような顔をした。



「頼む。お前にしかできないことだ。こんな老いぼれの、最期の願いを叶えてはくれないか?」



「わかりました……全てですね」



「そう、全部、全部だ」



 病室には看護師がいたが、黙って、医学の巨匠とその弟子とのやり取りを、沈黙のうちで耳を傾けていた。



 広々とした、太陽の光がより白を引き立てる病室の静寂を殺して、また鹿路は席を立ち、ドテドテと足音を響かせ出て行った。



 一時間ほど、健三が天井のトラバーチンを見上げて待っていると、扉がガラガラと開かれた。健三が首をそちらに向けると、多くの賞状を挟んだファイルと、トロフィーをいくつか入れた箱を乗せた運搬台車を押している弟子を発見する。



 走ってきたのか、息を切らした鹿路。健三の目の前のテーブルに、賞状の紙をずらっと並べ始める。


 そのうちの一枚を手に取った健三は、にんまりと、顔のシワを寄せて微笑んだ。



 次いで、台車に乗せられたトロフィーを取れと、鹿路に命じ、それを小刻みに震える手で受け取った。



「これは、あれだ、カリフォルニアで貰ったやつ」



 水晶のような透明感をもつトロフィーを手に持った健三の顔は、恍惚としており、今にも天に召されてしまいそうであった。



「そうですね」



 健三の曖昧な記憶に「確かである」という確証の箔を付けた鹿路。



「これは、たしか……厚生省から貰ったやつか」



「そうですよ。書いてあるじゃないですか、『厚生労働大臣』って」



 文字すらまともに読めなくなってしまったのかと、ベットの隣の椅子に座りながら鹿路は、辟易としてしまった。これが、かつて医学界に渦を巻き起こした巨匠の姿なのかと。



 しかし、テーブル一面では収まり切らない賞状の数々に、たしかに「師」が在るのだと、確認するのだった。



 健三は、満足気に、ゆっくりと頷いた。


「鹿路、ワシのことを、どう思う?」



 唐突に聞かれた鹿路は、顎に手を添えながら、少々考え込み、言葉を紡いだ。



「多くの人の命を、医学という手段でもって救った【人類の英雄】であると、私は、そう思います」



 鹿路は、健三の手元の棚の引き出しから、新聞の切り抜きを保管しているファイルを取り出し、その中からある日の夕刊の記事を引っ張り出した。



 見出しは、『ALS患者に光』である。健三の「ヒト再生細胞」の研究成果が、難病の患者を救った事実が書かれている。



「先生の研究が、多くの困難を持った人を助けているんです。それも、何十年と解決に至らなかった問題が、先生の『鍵』にとって、解かれたんですよ」



 「英雄」「鍵」という、二つの単語を喉元で反芻した健三は、また深く頷いた。



 しかし、彼の顔は、深淵のシワを刻んでいた。



 彼の息が、急激に弱くなった。



 病室にて、機器の警報の音が叫んだ。



 書類にボールペンで書き込んでいた看護師は、慌てて健三の傍に寄って、応援を呼んだ。「心拍数と呼吸が……」と言って慌てていたのを、弟子の鹿路は、眼前で見て聞いていた。



 息をぜーはーと切らしながら、健三は鹿路に声を届けた。


陽子ようこ……」



「え……!?」



陽子ようこの……写真を……」



 陽子ようことは、健三の妻の名であることを、鹿路は知っている。彼が、妻の写真を求めているのだと考え、ベットの隣の引き出しの足をゴロゴロ言わせて引いて、中身を漁った。



 健三は、十年前に、陽子ようこを病気で亡くしている。



 師の最後が近いことを悟った鹿路は、必死で引き出しの中身を漁り探した。



「これだ!」



 看護師や医師がぞろぞろと入ってくる病室の片隅、鹿路は、プリントアウトされた陽子のカラー写真を見つけ出した。



「先生!」と叫び、弱々しく震える手に、写真を手渡した。


 処置の邪魔になるであろうと思った鹿路は、病室を出ようと、扉の取っ手の金属の冷たさに触れた。



「鹿路くん……っ!『誉れ』を全て破り捨てろ、あるいは、燃やしてしまえ……!」



 酸素マスク越しの籠った声で、健三は、弟子に最後の懇願を飛ばした。彼の言う『誉れ』とはつまり、賞状やトロフィーの数々である。



 

 微かな師の声を聞いた弟子は振り返った。


「な、なぜですか……!?」



「ワシは……はぁ、人の命を救った。けれどな、妻のことに、気を掛けてやれなかったからだ……!」



 息が切れ切れで、ぐっと腕を伸ばした健三は、テーブルの上の賞状を持ったが、震える腕を制すこと叶わず、それを床にはらりと落としてしまった。



 鹿路は、医師たちの応急の処置の邪魔にならないように、離れたところから声を張った。



「それは、できませんよ!先生の功績は、人類の宝なのですから!」


「破れ、燃やせ!地獄が呼んでいる!」


「はぁ!?」


「早く燃やせ!!」


「だから、できませんって!!」



 怒号を衝突させる光景に、健三は、研究室でのかつての日々を天井の白に描いた。



 弟子たちと喧嘩しながらも、積み上げた論文と功績の数々は、結局のところ、顔も知らない人たちを助けるのだと、健三は、思った。論文という紙の束の山に押しつぶされたのは、愛妻であったと、今になって気が付いてしまったのだった。



「ワシは……研究ばっかりで、たった一人の妻も幸せにできなかった、【悪魔デーモン】だ……」



 心電図の波形が、直線を描いた。ピーと言う機器の叫びは、鹿路の耳には、どことなく悲鳴にも聞こえた。



 たった今、現代医学の偉人が、天に召された。



「きゃああああ!!」

「うわああああ!!」



 突然に、処置に参加していた看護師たちが、悲鳴を上げた。



 次いで、医師たちも、手を止めて全身を震わせ、ベットから後退した。




 なぜなら、そこに眠っていたのが、おそらく、健三ではなかったからである。





――それは、健三の形をした、鬼面のような顔の化け物であった。





カイコ録   ―完―







 

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