16.彼女の芝生は青いもの
「まじで坊主だ……」
凪は千佳の家の玄関で、立ち尽くした。迎えてくれた千佳を見て、絶句する。話は聞いていたが、ここまでしっかり坊主とは思ってなかった。
「これでも大分伸びたのよ、一ヶ月経ったし」
一ヶ月──つまり一センチくらい伸びたのだろうが、まだまだしっかりと坊主だ。その髪型で今まで通りパステルイエローのサマーニットに花柄のフレアスカートなど着てるから、インパクトは半端ない。
凪が千佳から電話を受けたのは、昨日の夜だった。この前晴臣の不倫が発覚して坊主にしたという。全く意味が分からなかった。内容も分からないが、とんでもない話を泣くでも悲しむでもなく淡々と話す千佳が分からなかった。それで土曜の今日、朝一番で凪は千佳の家にやってきたのだった。
リビングに向かう廊下を歩き、途中の洗面所を見て凪はぎょっとした。鏡の一部がえぐれ、全体的に大きくヒビが入っているのだ。廊下のフローリングも、ストッキングを通してなにかザラザラと引っかかる感じがする。明らかになにかがここであったのだろう。
「今日、春菜と秋斗は?」
凪はソファに座りながら、キョロキョロと辺りをうかがう。いつもは凪が来ると、すぐに部屋から出てくる二人だ。その気配が今日はなかった。晴臣は今実家にいると、昨日の電話で聞いている。
「秋斗は朝からスイミングで、春菜は登校日」
千佳はキッチンでいつものように紅茶を入れてくれている。その坊主頭をちらりと見て、凪は遠慮がちに尋ねた。
「春菜と秋斗は知ってるの? 晴臣くんの不倫」
「当たり前じゃない。学校から帰ったら母親が坊主で、洗面所が破壊されてるのよ。他になんて言うのよ」
確かにその通りだが、何だろうこの千佳のあっけらかんとした態度は。
むかし、結婚前に晴臣の浮気が発覚した時は泣きながら凪に相談してきた。それもどうしようと言いつつ、別れなよと言う凪の言葉には動揺しながらも応じはしなかった。
──オミくんは魔が差しただけで、本当に好きで必要なのは私だって。浮気は許せないけど、私もオミくんが必要なの。ねえ凪、どうしたらいい?
二十年前はそんなこと言ってたのに。母は強しといったところか。いや、母になっても様々な決断は晴臣に任せていて、千佳からは強さなど感じられなかった。夫に守られている、可愛い奥さんだったのに。
それが可愛らしさの微塵もない坊主になるわ、晴臣を家から追い出すわ、相談ではなく事が大分片づいてから凪に報告するわとは。
「この姿で学校に行くとね、みんなびっくりするのよね」
「あったり前でしょう……ってか、学校行くんだ」
凪はアゴが外れそうなくらい大きく口を開け、千佳を見る。今の状態でも十分な坊主なのだから、刈った直後など見事なものだっただろう。てっきり家に閉じ籠っているかと思った。それが外に、しかも学校に行くとは。凪は理解が追いつかなかった。
あの騒動があって二週間後に、中学の地区懇談会があった。幼稚園や小学校からのつき合いの、よく家を行き来するママ友も多く参加する会だ。当然千佳は躊躇した。千佳のいないところで、格好のネタになるだろう。旦那に不倫され、引っ越していったリョウくんママのように。
しかし割れた鏡に写る、自分の姿を見て千佳は思い直した。
(私は、悪くない)
こんな髪型になって、何を隠す必要があろう。不倫されて激高して自分の頭を刈った。もう何を言われてもいい。影で笑われてもバカにされても、堂々としてやる。青々とした自らの頭を見て、千佳は意志を固めたのだった。
坊主頭になった自分は、もうなにも怖くない、と。
実際みんな驚き、事情を聞いてきて……そして遠巻きで見るようになった。大丈夫? 辛いよねと話しかけてくるママは何人かいた。どの目にも宿っている好奇心に気づき、千佳は適当に言葉を濁した。
ママ友のランチには、坊主になって以来一度も声をかけられていない。もしかしたら千佳の知らないところでみんなは会っていて、千佳の話で大いに盛り上がってるかもしれない。だけどそんなこと、もうどうでもよかった。
「千佳はいいとしても、子どもたちはなんて言ってるのよ。母親がそんな頭になってさあ」
凪は眉をひそめ、心配そうな顔をして尋ねる。
「父親の不倫も衝撃だったみたいだけど、母親の坊主もかなりの衝撃だったみたいよ」
千佳は首を傾げ、顎に手を当てて考える。
「そりゃ、当たり前じゃないのよ」
凪はすかさず突っ込みをいれる。
あの日、最初に帰ってきたのは春菜だった。
坊主頭になった母と自宅の惨状を認識するやいなや、春菜は割れんばかりの悲鳴を上げた。
もう高校生、十六歳のしっかり者の春菜だ。どう思われようと、都合よくごまかすことはできないと思った。ごまかすべきでもないと思った。だからちょっと喧嘩しただけだなどとお茶を濁して終わらそうとした晴臣を、千佳は決して許しはしなかった。
「パパが、よその女の人と不倫してたの。ママはそれで自分の頭を剃ってやったのよ」
千佳の言葉に、春菜は目を見開いて唖然とした。
「信じらんない。なんで浮気されたママの方が坊主になるのよ。するんだったらパパの方でしょう!」
そう言い捨てて自分の部屋にこもってしまった。
無理もない。年頃の娘は父親を不潔と思い、バカにしていた母親が下した決断に、あきれ果てたのだろう。
後から帰って来た中学生の秋斗は、春菜と同じように説明を受けると顔をしかめた。
「リョウんちの家と同じじゃん」
リョウくんちのお父さんは、レントくんちのお母さんと不倫でしょう。パパは全然知らない女の人と浮気したから、少し違うかなと千佳が言うと少し安堵した顔になったが、すぐにまた顔を歪ませた。
「取り敢えずパパ、不倫とかマジ気持ち悪いわ」
吐き捨てるように言い、こちらも部屋にこもってしまった。
十六年間、子育てを全くしてこなかった晴臣ではない。だからこそ、この『気持ち悪い』は相当応えたようだ。千佳が横で晴臣の了解を得ずに晴臣の家に電話をしても、何も抵抗せずに呆然としていた。子どもたちのためにもしばらく家に帰ってという千佳の申し出にも、うなずくだけだった。
不倫をしたと言っても、晴臣は義両親にとっては実の息子だ。嫁である自分が何か言われることを覚悟したが、晴臣を実家へ送りに来た刈ったばかりの千佳の頭を見て、義両親は絶句した。どっちが不倫したのかと、義母は困惑したほどだ。しかし全てを話すと彼らは千佳に謝罪をした。嫁として使いっ走りのような関係で、十七年の間特に気に入られている気はしていなかったのだが、何かとこまめに面倒を見ていたからだろうか。彼らは終始千佳の味方だった。
「やっぱさ、孫が気持ち悪いって言ったのが、義理親にも響いたみたいでね」
凪の向かいのソファに座り、紅茶を飲みながら千佳は言う。
「もし離婚するのでも、秋斗と春菜の養育費は見させてほしいって」
「ああ晴臣くんの実家って割とお金あるんだっけ……って、離婚するの!?」
千佳の話を神妙にうなずきながら聞いていた凪だが、離婚というワードが出た途端身を乗り出す。確かに不倫されたら離婚は十分あり得るのだが、今までずっと社会から離れていた千佳が離婚して暮らしていくことなど全く想像ができなかった。
「そんなに驚くことないでしょ」
凪の反応に千佳は頬をふくらませ、そりゃ私は凪みたいには働けないけどさ、と続ける。
翌朝、洗面台の惨状はそのまま、晴臣が出ていった家で部屋から出てきた春菜は千佳に言ったのだ。
「パパが不倫しても、ママは泣くだけで結局許して終わるんだと思ってた」
だってママはパパのこと何でも言うこと聞いていたし、外で働くこともできないでしょうとも春菜は言う。
さすがに我が子のこの言葉には、千佳もぎょっとした。
従順で可愛い妻だと思っていた自分は、娘の目にはそんな風に映っていたのか。改めて愕然とする千佳に、春菜ははにかんだように薄く笑顔を見せたのだった。
「でもね、そんなママが頭剃ってパパ追い出したの、すごくカッコいいと思う」
その一言が、千佳をどれだけ強くしたことか。
「リョウんちとレントんちのフリンで、みんなすっげえ大騒ぎしたから。だからそれよりは全然マシ」
これは秋斗の言葉だ。リョウくんママには申し訳ないが、晴臣の不倫相手が身近な人間だったらもっともっと大変なことになっていたに違いない。市役所で会った彼女の顔や、不登校になったリョウのことを思い浮かべて千佳はそう思った。
「だけどやっぱりパパは、気持ち悪い。ぼくはママとお姉ちゃんと暮らしたい」
はっきりと言ったのは、秋斗だった。
「そういうわけで、暫くは別居かな。オミくんは離婚したくないって言うし、正直私は自分の気持ちよく分かんないし。金銭的なものもあるし」
「よく分かんないって……」
頭まで刈っておいて、よく分からないと言う千佳に凪は困惑する。しかし千佳はあったりまえでしょと坊主頭の襟足を触りながら言った。
「不倫も許せないし、私をバカにしたこと絶対に許せないけど。じゃあ別れるかって言われても、正直簡単に割りきれない。子どものこともあるし……答えを出すのにもう少し時間がかかるかな」
夫婦のことは当事者にしか分からないし、ましてや結婚生活となると凪にとっては口を挟むことができず、ふうんと言うしかできなかった。
「でもね、この前から働きに出てるのよ」
「えっ、その頭で!?」
いちいち頭のことで驚かないでよねと千佳は軽くにらんでくるが、そんなものは無理に決まっている。大体その頭の特異性がすっぽり抜けてしまった千佳の方が、おかしいのだ。
「別に凪みたいに会社員やる訳じゃないし。まあ面接で離婚の話が出てるから、頭を剃ったとは言ったけど」
言うんだ……と凪は再び驚いたが、文句言われるのだろうなと思い、寸でのところで口から出すのをこらえた。
「介護施設の調理員のパートね。料理は好きだからね」
それは適職かもしれない。千佳が料理上手なことは、たびたびこの家へ食事に招かれている凪はよく分かってる。
「二年働いたら、調理師の資格試験を受けられるんだって。社員登用も考えてもらってるの。夢が広がるよね」
──夢。
千佳が少しはにかみながら微笑んだ。それは夫の不倫と離婚問題に直面している女性とは思えないほど、晴れやかだった。
「千佳、なんか綺麗だな……」
意図せず、凪の口から言葉がこぼれる。そのつぶやきに千佳は一瞬目を丸くし、そして笑い声を上げた。
「何言ってるの。私、坊主になったんだってば」
その髪型にいちいち突っ込むなと言ったのは、千佳の方ではないか。凪もつられて笑い声を出す。
笑いながら、凪の脳裏に最近の出来事がふと思い出された。
それを話そうと思ったのは、言わないのはなんとなくフェアじゃない気がしたからだ。
「あのさ、私最近ちょっと恋愛してたんだよね」
「えっ!?」
凪の突然の告白に千佳が隣近所に聞こえそうなほど、素っ頓狂な声を上げる。
「ちょっと、驚きすぎじゃない?」
今度は、凪が不満げな声を出す番だ。
「だってそんなこと聞いてないもの! 何それ、誰!?」
「言ってないし。うまくいかなかったし」
「そうなの? なんで?」
さすがに今の千佳に、終わった理由を言う気にはなれなかった。
「縁がなかったのかな」
あの頃はお互い起こった出来事を逐一報告していた。けれども大人になったら、時に適当にごまかすことだって必要だろう。
帰ろうとする凪を、同期で部長補佐の相原が捕まえたのは先週のことだ。
「そろそろ一緒に飲んでよ。もう落ち着いたでしょ」
ここ最近凪と話した気な相原を感じていたが、凪の方がなにかと理由をつけて避けていた。天野の一件で、正直誰かと飲む気など全く起きなかったからだ。
落ち着いたとは、もちろん天野とのことではない。自分のミスを隠蔽するために、あちこちに迷惑をかけた二人の部下の橋本が退職したことを指していた。結局橋本は体調不良を理由にずっと休み、謝罪どころか一度も出社してこないまま退社したのだった。
「胡桃沢、ぼくのこと避けてたでしょ」
乾杯早々、相原が本題に切り込んだ。気持ちよくさせて本音を引き出そうとする営業テクニックは、凪に使うつもりはないらしい。
「そんなことないよ」
二十年近くの付き合いになる同期だ。今更カッコつけるつもりもなく、凪は唐揚げを食べながら相原に返した。
相原
「アルファ建設の専務が、胡桃沢に申し訳なかったって謝罪してた」
ああそのことかと凪はジョッキを傾けながら、向かいの相原をちらりと見る。アルファ建設は、部下の橋本が隠蔽のために色々動いてもらったのに一切工賃を支払ってなかった下請け会社だ。凪一人で謝罪に行き、現場の荒い作業員に捕まって、女が来るななどと言われたあの会社。その夜に天野と一線を越えた──ので、今となっては別の意味で触れたくない話でもある。
「私も後から、社内で事情を聞いた専務に謝られたよ。てか、元々はうちの橋本のアホが支払わなかったのが悪いんだし」
「胡桃沢はそう言うんだろうけどさ。専務はアルファの社員が胡桃沢になかなかの暴言を浴びせたのは、別問題だって」
凪は飲む手を止めて、眉間にしわを寄せて心配そうに自分を見る相原を凝視した。
「……なにを今更」
あのねえ相原くんと、上司の相原をかつてのように『くん』呼びで凪は語りかける。
「昨今、コンプラだハラスメントだって言いますけど、新卒の頃はそりゃあ酷かったんですよ。現場行けば下ネタの嵐。電話しても女じゃ話にならねえ、他に代われと言われる。それを今になって、ちょーっと言われたくらいで」
そりゃもちろん、多少は傷つきますけどもと、凪は心のなかで続ける。
「やっぱ胡桃沢は強いわ」
しかしながら相原は言葉通り受け取ったらしく、目を丸くして感心した。凪は目を細め、そんな相原を軽くにらむ。
「知ってる。胡桃沢は強い、怖い、だから結婚できない。そう言われてるの、私はちゃーんと知ってます」
凪が指を折りながら言うと、相原は顔をひきつらせた。
「絡むなあ」
場の空気を変えるためか相原は声を張って店員を呼ぶと、凪に聞くこともせずにビール二杯とほっけの開きを頼んだ。
「別にぼくは胡桃沢のこと、怖いと思ってないからね」
言われていることは否定せず、相原は『ぼくは』と言う。
「じゃ、なんで私と結婚しなかったのよ」
相原と互いに恋愛感情を抱いたことなど一度もないが、凪は肘をついてにらんだまま相原に尋ねた。ずいぶん飛躍した質問だが、この際付き合ってもらおう。
「妻を愛してるからっていうのはナシでね」
相原は東北に赴任した際、そこで地元採用の事務員と結婚している。確か年下の、当時二十代半ば位の子だった。
「ええー」
お前もう酔っぱらったのかよと言わんばかりに相原は顔をしかめて、センター分けした髪をかきむしる。そして暫く天井を見つめた。五秒、十秒。考え込んでる様子の相原を、凪はなにも言わずに見つめてその答えを待った。
やがて観念した様子で、髪をぼさぼさにしたまま眉間にしわを寄せて相原が口を開いた。
「自信が、ないんです」
「は? なにそれ」
もうここは酔いのせいにしてしまおう。凪は無遠慮に、相原に突っ込む。
「胡桃沢のすごさを、全て認める自信がないのです。負けたくない。負けても認めたくない」
「勝ち負けってなに。私は勝負なんてしてないし。大体認めろとか言ってないわよ」
「言ってない、言ってないけどさ」
意味が分からず首をかしげる凪に、相原は苦笑いを浮かべる。
「そういうとこ。胡桃沢の男心の分からないところ」
「しっつれいな……」
男心が分からないとは心外だ。男と一緒に仕事をしてるし、それなりに恋愛もしているいい大人なのに。凪はイカの足を口に入れ、奥歯でギリギリと噛みしめる。
「やっぱりさ、ぼくは彼女とか奥さんにはすごーい! って言ってもらいたいの。あっほら、バカにしてる」
「してないしてない」
「絶対バカにしてるよ。いいよ、別に恥ずかしいこと言ってる自覚あるから。胡桃沢はすごいよ。仕事はできるし、同じ部署で一緒に仕事していてすっごくやりやすいよ」
「ちょっと待って」
凪は手のひらを向けて、相原の話を一旦止めた。
「誉めてくれるのはありがたいけど、そもそも同期なのにあなたは部長補佐で私は課長よ。二人の間にどのくらい差があると思うの」
「それは会社の評価」
新しいビールを店員が持ってくる。空のジョッキを渡して相原は続けた。
「とにかく家では、すごーいって言われたいの。家はぼくの城なの、陣地なの」
「ふうん」
別に自分は家庭ですごいなどと言われたくないけどなと、凪は気のない返事をする。
いやだけどと、むかしを思い出した。バカな振りをして、彼を立てていた過去の恋愛。演技が白々しくなり、別れたわけだが、結局相原が言う「すごーい!」を相手が求めていたから、凪もそれを感じ取ってバカな振りをしていたわけだ。
「いや、世の中には心から『うちの奥さんすごい!』って言える男だっているんだから、ぼくの器が単に小さいんです。分かってます。だからぼくが胡桃沢と付き合えないのは、ぼくの器の問題なんです」
相原の答えに、凪は手を叩いて笑った。
ああそうか、天野はそのままの凪を認めてくれたのだ。
きっかけはなんにせよ、いつの間に本気になってしまったと言った彼の言葉を信じよう。奥さんにはとんでもない話だろうが、凪にとってはやっぱりいい男だったのだ。
「凪って仕事ばっかりで、恋愛とか結婚に興味ないのかと思ってた」
「はああああ!?」
千佳が首をかしげて悪びれずに言うから、凪はすっとんきょうな声を上げた。可愛い顔して、時折爆弾を投げてくるのは高校の頃から変わらない。
「なんでそうなるのよ。どっちもしたいし、なんなら子どもだってほしいわよ」
「そうなの!?」
仕事と恋愛が両立できないとでも、思っているのだろうか。驚くこと自体が失礼ということに全く気がついていない千佳は、本当におめでたいというか純粋である。
「あーでもね、最近気がついたんだよね」
凪はソファに座りながら腕を組み、大きくため息をついた。
「私は仕事が好き。だから仕事が好きな私を、丸ごと認めてくれる人がいい。そうじゃない人との恋愛は、もう面倒くさい」
千佳は分かったのか、分からなかったのか、目をぱちくりと三回まばたきをさせた。そしてやっぱり凪はかっこいいと呟く。
かっこよくなんかないよ、ちょっと損してるよと凪は心のなかで呟く。
本当はもう少し、可愛げのある女の方がいいのは分かっている。そう、千佳みたいに。だけどこれが自分なのだから仕方ない。
「てか、千佳こそかっこいいじゃないのよ。不倫相手に自分で慰謝料支払わせるって。千佳がそんなことできると思わなかったわ」
「なにそれ、トロそうってこと!?」
言いながら千佳はソファーから立ち上がる。キッチンに行ったかと思ったら、シャンパンとクッキーをトレーに乗せてきたので凪はぎょっとした。
「ちょっとまだ朝の十時前だけど!?」
「いいじゃんいいじゃん、今日は別に他に予定ないんでしょ?」
千佳は笑いながらてきぱきと食器棚からグラスと、オープナーを取り出す。
「別に不倫されたから、毎日飲んだくれてるわけじゃないからね。むしろ久しぶり」
言いながら二つのグラスにシャンパンを注いだ。シャンパンの泡が、窓から差し込む太陽の光に照らされてキラキラと輝いた。
弾ける泡を見て凪は、まあこんな日もたまにはいっかとあっさり納得した。千佳に合わせてグラスの脚を三本の指で持つ。
「じゃあ千佳の坊主頭と」
「凪の失恋に」
そこまで言って、凪と千佳はお互いを軽くにらんで唇の端で笑う。そしてグラスを高々と持ち上げた。
「乾杯」
二人は声をそろえ、軽くグラスを合わせた。
晴臣の不倫相手のみうは、二十六歳の証券会社社員だった。大学院生の時に、晴臣の勤める保険会社にOB訪問したことが出会いのきっかけだという。不倫期間は一年半だった。
晴臣とみうの三人で会って話をし、その場でみう自ら慰謝料の支払いの申し出があった。
「嫁が半狂乱の坊主頭で電話をかけてるわ、家に突撃するわですっかり怯えたのかなー。話したけど、普通の恋愛と不倫の区別があんまりついてないみたいな感じだった」
シャンパンの入ったグラス片手に、千佳はため息をついた。
「大学院まで行って、不倫の意味が分かってないなんてことあるう?」
凪は眉をハの字にして、呆れた顔をする。子どもじゃあるまいし──って、子どもみたいなものだったのか。
「現実として捉えてなかったんじゃないの? オミくんの向こうには妻がいて、子どもがいて、家庭があるってこと。いるのは分かってても、何かぼやけた感じでさ。それが急に坊主の嫁が『何しとるんじゃい』って出てきたから、びびってごめんなさい、百万払いますから許してくださいって感じかなー」
「感じかなーじゃないよ」
百万はどう考えても安いだろう。しかしこれ以上関わるのが嫌だということで、千佳はそれを受け取って終わりにしたそうだ。
「院卒バリキャリなんて、私に対する当てつけかってブチキレたんだけどさ。会ってその幼さを目の当たりにして、オミくんがいい年こいてこんな子の相手をしてたのかと思ったら、ドン引きしたっていうか……そっちこそバッカじゃないのって」
千佳はグラスのシャンパンを一気にあおった。その飲みっぷりに凪は目を見開く。
「だけどさ、勢いで刈った頭だけどさ」
千佳は視線を窓ガラスへ移した。そこにはまだまだしっかりと坊主頭の自分がいる。耳の後ろに手を当てると、チクチクとした感触がくすぐったくて──気持ちいい。
「この頭で色々吹っ切れたっていうか、強くなれた気がするの」
「千佳を見てると、そんな感じするよ」
凪は目を細めて、千佳を見た。
もう可愛いだけの千佳はいない。
けれどもしっかりと自分を見せ始めた髪のない千佳は、まぶしくて今まで見たどの千佳よりも綺麗で格好良かった。
「この髪型いいよ。すごく強くなれるの。凪も今度坊主にしてみたら?」
「いい、それはいい」
凪は即座に断る。これ以上強くなってどうする。
そしてこらえきれずに吹き出した。大きな声で笑う凪に、千佳もシャンパンで赤くなった顔をくしゃくしゃにして笑い始める。
やっぱり彼女のことは羨ましい。それはきっと、彼女が精一杯生きているから。その輝きが眩しくて仕方ないからだ。
だけど私は自分の人生しか歩めない。だから自分の前にある道を、精いっぱい生きるしかないのだ。
二人は再びシャンパンを注ぎ合うと、笑いながらグラスを高く上げて乾杯をする。
陽の光に照らされて、シャンパンが眩しく金色に輝いた。
了
わたしの芝生は枯れていない 塩野ぱん @SHIOPAN_XQ3664G
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