15.刈ってやる
リビングのガラス戸を閉めると、千佳は立ったままの姿勢でスマホの画面を見た。なんの通知も来ていない。しかしメッセージアプリの横には、5の数字があった。
──通知をオフにしている相手がいる場合、浮気相手の可能性が高いでしょう。
ネットで拾った情報が頭をよぎる。千佳はためらわず、アプリのボタンに指を触れた。数秒のはずの起動画面が、やたらと長く感じられる。切り替わった画面の一番上に、そのメッセージはあった。
「ちゃんとお布団かぶって寝てね」
自分以外に晴臣にこんな言葉をかける必要のある人間が、この世にいるはずもなかった。送信者は『みう』となっている。熊のぬいぐるみのプロフィール画像。
見てしまえば既読がついて晴臣にバレる、そんな思いは今の千佳には全くなかった。唇を噛み締め、みうのメッセージを震える親指で押す。
直近の晴臣と、みうのやり取りが表示される。
「熱が出た、風邪引いたよ。今日は会社休む」
今朝、晴臣が送ったメッセージだ。それに、みうのメッセージが続いていた。
「えっ、大丈夫?」
「頭痛い?」
「おーい」
「寝てるのかな?」
晴臣はメッセージを送った後に、すぐに寝たのだろう。みうは返信しても反応がなかったので、立て続けに送ったようだ。
この内容では晴臣とみうが不倫関係にあるかは分からない。いつのまに手の震えもためらいも、千佳の中から消えていた。口をきゅっと横に結ぶと、千佳は指で画面をスクロールする。
「さっきまで一緒にいたのに、もう会いたいよ」
みうのメッセージに千佳の指が止まる。日付を見ると、先週の土曜のメッセージだった。
──やはり、仕事などしていなかったのだ。
疑惑が確信に変わった。みうに晴臣が答えている。
「俺だって早くみうに会いたいよ」
「ホントは朝まで一緒にいたいのに」
「ごめん。でも今度一緒にシンガポール行くだろ」
「そうだね、朝までずっとぎゅってしててね」
千佳の胸に、かっと熱いものが込み上げる。やはりシンガポールは女とだった。嫁が取ってきた戸籍謄本でパスポートを申請して、二人で旅行に行くなんて! なんだこの女は!!
二人で旅行へ行く話をしている。これは証拠になると、どこかの弁護士事務所のサイトに載っていた。
目は晴臣のスマホ画面をとらえつつ、この画面を撮影するために千佳は左手でテーブルの上の自分のスマホを取ろうとした。
その時、右手も動かしてしまい、晴臣のメッセージアプリの画面が一気に遡ってしまった。千佳は慌ててさっきの旅行の話をしているメッセージの画面に戻そうとしたが、そこにあった内容を目が捉えた。
「ねえこんなに会ってて、奥さんにバレない? 大丈夫?」
「大丈夫。うちの嫁、鈍いからさ。絶対に気づくはずないよ」
目が乾いてヒビが入るかと思うくらい、画面を凝視した。晴臣が嫁のことを話している。そう、千佳のことだ。
「え……?」
思わず口から声が漏れる。再び指が震えだした。爪が白くなるほど指をスマホに押しつけ、上へスクロールする。
「鈍いって思ってるの、はるくんだけじゃないの? 奥さんは気づいてて黙ってるんじゃないの?」
「それもない。前にも言っただろ。うちの嫁、ちょっと世間知らずっていうか、頭悪いっていうかさ。適当に小難しい話したら納得しちゃうんだよ」
「いやーん、奥さん超かわいいね! はるくんは適当なこと言って、ちゅーとかしてごまかしちゃうんだ?」
「バカ、抱いてないって言ってるだろ。みうだけだよ」
「──バカにしてんじゃないわよっ!!」
千佳は腹の奥底から大声を絞り上げた。見開かれた目は爛々と光り、こめかみでは脈が激しく波打つ。眉間には深くシワが刻まれる。
「ふざけんなあっ!!」
それは獣が激しく吠えたかのような、叫び声だった。身体の奥から憎悪を絞り出して、全身で叫ぶ。見開かれた目は割れそうなほど、怒りに満ちていた。
ふと人の気配を感じて顔を上げる。
そこには怒り狂う般若が、窓ガラスに写っていた。
その姿を見て、千佳は愕然とする。いつも肩の上でふんわりと波打っていた髪は、かきむしったようにぼさぼさになっていた。頬はこけ、アゴは尖り、目の下はくぼんで黒い影を落としていた。つり上がった眉に、瞳だけが爛々と光り鋭い目つきでこちらをにらんでいた。
──これが、自分!
可愛い奥さんでいたかった。家族みんなを笑顔で迎え、彼らを支える、穏やかな母でいたかった。
それなのに!
こんな顔にあの女がした! こんな姿に晴臣がした!!
「うわああああっっ!!」
千佳は雄叫びのように叫ぶと、スマホをつかんだまま洗面所に走る。そこには窓ガラスよりもはっきりその姿を写す鏡があった。
可愛くいたかった自分は、鈍いのか。
晴臣を支えたいと思っていた自分は、頭が悪いのか!!
最近の、春菜が自分を見る目を思い出す。この母は、世間をなにも知らないと思っている娘の目。自分はこうはなるまいと、母を蔑む娘の目。
それでも一生懸命生きてきた!
この家のなかで、自分のことを後回しにしてでも、いい妻で、いい母でありたかったのに!!
それがこの、鬼のような自分なのか!!
千佳は洗面台横にあったガラス製の一輪挿しを、勢いよくつかむ。一本の黄色のガーベラが入ったその重い瓶を、なんのためらいもなく鏡に投げつけた。
派手な音がして一輪挿しが粉々になり、辺りに飛び散った。洗面台の鏡は、一輪挿しが当たった部分が大きくえぐれ、端に向かってたくさんのヒビが入っていた。
それでもまだ鬼の姿を写し続ける鏡を千佳はにらみつけ、洗面台横の棚を開ける。迷うことなく、二段目にあるバリカンを手にした。今は使ってないが、秋斗が幼稚園の頃に使っていたものだ。
バリカンについていたアタッチメントをむしり取り、洗面所の床に投げつけた。コンセントを入れ、同時にスイッチをいれる。久しぶりだが、バリカンは低いモーター音を上げ振動を始めた。
「うわああああっっ!!!」
千佳は再び叫ぶと、なんのためらいもなく細い毛がふわふわと生えているおでこにバリカンの歯を当てた。髪をとらえたバリカンは、グイングインと音を変え大きく揺れる。それをしっかり押さえながら、千佳は自分の頭をなぞっていった。
「なにしてるんだ!?」
寝室からパジャマ姿で飛び出してきた晴臣は、目の前の状況に唖然とする。
割れた鏡。床に飛び散ったガラス。妻は叫びながらバリカンを自らの頭に当てている。その頭にはほとんど毛が残ってなかった。
「千佳っ!!」
バリカンを持つ千佳の手を押さえようと、晴臣が手を伸ばす。千佳はその手を、バリカンで押し退けた。
「ふざけんじゃないわよっ!!」
短く悲鳴をあげる晴臣に、千佳はスマホの画面を見せた。なんのことかと見つめた晴臣だが、千佳の意図することが分かった瞬間、さっと顔色が蒼くなった。
「えっ、おまえ……」
「なによ、この女! 抱いてるのはみうだけってなにっ!?」
必死で言い訳を考えてるのか、晴臣の目が世話しなく動く。
「いや、だから千佳、それは誤解だってっ」
結局なにも思いつかないのか、意味のない言葉を発しながら、晴臣が千佳の手にあるスマホを取り返そうと手を伸ばす。千佳は腕を勢いよく引き、その手を素早くかわした。
「誤解って言えば、世間知らずで頭の悪い嫁は、納得するって!?」
「違うって、千佳っ!」
千佳は洗面台にあった、春菜のヘアオイルの瓶をつかむ。必死に弁解しようとする晴臣めがけて、思い切り投げつけた。
「うわっ!」
晴臣はとっさに瓶を避ける。当てのなくなった瓶は床に叩きつけられ、ガラスの割れる激しい音が家中に響き渡った。千佳は晴臣が驚きのあまり硬直している間に、みうの通話ボタンを押した。
みうは風邪を引いたという晴臣からの返事を、待っていたのかもしれない。三コール目で呼び出し音が消えた。千佳はすかさずビデオ通話のボタンを押す。
「もしもし、はるくん? どうしたの?」
ぱたぱたと走る音ともに、少しトーンを落としたみうの声がスマホから聞こえてきた。
「おまっ、なにしてる……!」
千佳がみうに電話をしたことを理解した晴臣が、阻止しようと一歩踏み出した。その先にはさっき割れた春菜のヘアオイルの中身があり、晴臣は派手に足を滑らせる。
「いってえっ!!」
割れたガラスの上にすっ転び、見事に体を打ちつけた。晴臣の悲鳴を無視し、千佳はスマホの画面を凝視する。
「なに? ビデオ? どうしたの?」
甘ったるい声がスマホの向こうから聞こえ、黒かった画面がぱっと明るくなった。どこかのオフィスの階段のようだった。
「もう仕事中なんだけど。なあに? どうしたの?」
女の顔が写る。見られることを意識した、媚びた笑顔。スマホの画面越しでも分かる。ほおがぷっくりと膨らみ、顔にはしわひとつない若い女だった。その顔が画面の向こうに晴臣ではなく、坊主姿の女がいることに気がつき、さっと強張る。
千佳はなにも塗っていない唇を強く噛み締め、憎悪の限りを込めて画面の向こうをにらみつけた。
「えっ、なに!?」
みうは首を小さく振り、大きな目には恐怖を浮かべ激しく動揺している。
「やめろーっ!!」
床の上で必死に立とうとしている晴臣が、かすれた声で大きく叫んだ。その声にみうが反応する。
「はるくん!? どうしたの、ねえ!」
どうにか晴臣の姿を探そうとしているのか、みうはスマホの画面をせわしなく目を動かして見ていた。
千佳は顔の筋肉に全ての力を込め、思い切り顔を歪ませて口を開いた。
「あんたが不倫してる男の嫁だよっ! なにも分からないバカな嫁だよっ!!」
「えっ!?」
みうは口に手を当て、慌ててスマホを操作しようとする。千佳はすかさず叫んだ。
「切るな! ちゃんと聞けっ!」
千佳の金切り声に、みうが驚きで目を見開く。肩を震わせ、体を硬直させる。その隙に千佳は畳みかけるように叫んだ。
「オミと付き合いたいなら、付き合えばいいじゃない! 勢いあまって坊主にする嫁と結婚した男だけどね! 二人してバカにしてるんじゃないわよっ!!」
涙が一筋、歪んだ頬に流れていった。それを感じた途端、憎しみだけでなく激しい悔しさが込み上げてきた。
こんな二人の前で涙を流すなんて、屈辱でしかなかった。
今まで従順で可愛い妻だった千佳に、そんな感情をどう処理すればいいのか分からなかった。髪を刈ったところでまだ収まりはしない。
「うわああああっ!!」
処理の分からない感情は、叫び声となって千佳の口から絞り出された。
千佳は手にした晴臣のスマホを、床に座り込んでいる晴臣の脇に目がけて叩きつけた。鈍い音がしてスマホが床の上で、蜘蛛の巣上にひびが入り真っ暗な画面を見せた。
涙と汗でぐちゃぐちゃになった千佳の顔に、一筋の髪が張りついた。わずかに刈り残した、千佳の髪だった。
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