昨日に咲く梅、夢に散る桜

月宮 和香

梅と桜、夢と現、部屋と踏切、風通う。

 この時期の梅の花はきっと綺麗なんだろうな。そんなことを床に落ちたカレンダーを見て思う。“彼女”さえいれば、今頃は花見にでも出かけていたというのに。


 おぼげな記憶を手繰たぐるかのように、くらい部屋の片隅で白い天井をぼんやりと眺めていた。


 七光を奪い取る深黒しんこくのカーテン、底の見えない無惨むざんな床一面、破られた紙屑かみくずが飛び出たゴミ箱。目に映るもの何もかもが色褪いろあせた世界の中、ベットの上でただ独り、力なく倒れているだけ。ただそれだけで時間が過ぎていく。何の感情さえ生まれる余地などなかった。


 ふと時計を見てみると、日付が変わろうとしている。また気付かない間に夜が来ていたみたいだ。

 けれども、それさえ今は馬鹿馬鹿しくて仕方がない。変わることが、気付くことが、指し示すことが、考えることが、知ることが、その全てが傷にさわる。見えないフリをして誤魔化ごまかし続けている深傷ふかでに気付いてしまうのがただ嫌なだけなのだろう。

 頭で理解わかっていながらも、考えれば考えるほど全てが如何どうでも良くなり、ただ呆然ぼうぜんとしていた。


 午前一時。うるさく吹き付ける風が小刻みに窓を叩く音が乱反射するだけ。残りの余白を塗り潰す沈黙にせ返りそう。

––––未だに寝付けなかった。


 無意味に手を伸ばしてみる。何かが掴めそうな気がして。

 なんとなく目をつむってみる。夢が終わりそうな気がして。

 何も無いのにスマホをみる。連絡が来るような気がして。

 ただぼんやりとドアをみる。彼女が来るような気がして。


 どんなことをしても現実は何一つとして変わらないのだと知っている。それでも心の何処どこかではいまだ信じられていない。受け入れ難い事実だと思えば思うほど、きっと現実じゃないかもしれないと思ってしまう。所詮しょせん、そんな考えの全ては現実逃避というたった一つの言葉にまとめられてしまうのだが。


 脳裏を過ぎる彼女の笑顔。


 一回、もう一回でいい。あと一回笑った顔を見られれば、思い残すことはないだろう。いや、本当のことを言えば、話がしたい。

 別に他愛たあいもない話だ。最近何をしているのか、何を食べているのか、何を読んでいるのか、何を見ているのか、何を考えているのか。

 どれを取ってもとてもくだらないことばかり。けれど、きっと居ない人に伝えたい言葉なんて、それで十分。言い残したことなんて、きっと、ない、はず……。

 つい鮮明に思い出してしまうと、大切な記憶までも涙と一緒にこぼれ落ちていく。


 こんな夜を、幾度いくども繰り返し過ごしていた。一秒が永遠にも感じられる長い夜を。

 空が如何どうしようもなく透き通ったあおさを取り戻し始める頃、突然押し寄せる頭痛と共に、心のもっと奥底の、底無しの深淵へといざなわれる。

 今日もまた、何もない一日が終わるのだ。




 ふと目を覚ますと、見知らぬ場所で立っていた。––––いや、違う。ここは、見覚えのない場所ではない。


 冬明けを知らせる梅の花が狂い咲く並木道。小さな橋の真下を流れる用水路。片方だけ折れた踏切。そして、ボンネットがひどゆがみ、前輪までが踏切内へと侵入した純黒の車。全て静止画のように止まっているが、間違いない。あの日の光景だ。


 ––––三月十四日、午前十時四十二分。

 丁度二人で下校をしており、踏切が開くのを待っていた。

 だが、突然の悲鳴と衝突音が背後で聞こえた時にはもう手遅れ。

 道路側に立っていた彼女だけ、暴走した黒い車に突き飛ばされ、足を強く地面へと打ち付けてしまい、老朽ろうきゅうによって緊急停止ボタンが機能しないまま、救助さえ間に合わず、通り掛かった電車にかれてしまった。

 偶然に偶然が重なって生まれた不幸な事故。何か一つでも違っていたら、どれか一つでも起こらなければ、悲劇は起こらなかった。


 そんな忌々いまいましい舞台を忘れるはずもない。


 そして、同時に悟った。

 これは、“夢”なのだと。


「正解」


 後ろから聞こえてきた声。優しいけど、何処どこか切なく、透き通った声。そして、何度も何度も耳にした声だった。

 彼女が、いる、のか。


「それも正解」


 恐る恐る振り返って見ると、そこには数え切れない程の時間を共に過ごした人が立っていた。

 ゆっくりと視線を上げていき、見慣れた笑顔を認識した瞬間、数々の記憶がフラッシュバックしていく。学校の屋上、公園、図書館、カラオケ、僕の部屋。いろんな場所で見せたその笑顔が脳裏を過っていくにつれて、言葉には出来ない感情が胸の奥底からあふれ出した。

 あの時にいなくなったはずの彼女。


真希まきっ」

「ちゃんと覚えてくれてたんだね」


 ––––彼女は微笑ほほえんでいた。

 いつも着ていたピンクのスカートに、可愛いロゴの入った白いシャツ、そして、お気に入りだったベージュの上着を着ていた。あの時のままの格好をしている。


「ほ、本物……」

「偽物に見える?」


 そんな冗談紛じょうだんまがいなことを言いながら悪戯いたずらな笑みを浮かべる彼女は、疑う余地なく彼女であり、夢と呼ぶにはあまりにも現実的過ぎた。


「何でここに居るの」

「さぁ、私にだって分からない。けど、これが夢だからじゃないかな?」

「夢、だから?」

「うん。夢だから、かな」


 そんな風に問い掛けてみても、釈然しゃくぜんとしない答えしか渡されない。ただ、悪い気はしなかった。こうして夢の中で会えるだけでも十分嬉しいのだから。


 しかし、彼女はそれ以降、僕の質問にはただ微笑ほほえみ返すことしかしなくなった。

 そして、不意に歩き出す。「ついてきて」の一言だけで、行き先なんか教えてくれやしない。だけど、きっと彼女のことだから何かあるのだと思い、黙々と付いて行った。


「この道、覚えてる?」


 彼女がそう言って、止まったのは梅の花弁はなびらしきる川沿いの道。彼女との最初の思い出の道だった。あの時も梅が咲いていたような気がする。

 だが、風に揺られ、散り行くはずの花弁はなびらは宙を舞っているままで、少したりとも動かない。まるで、時が止まった世界にでもいるかのようだった。


「覚えてるよ。初めてのデートの時だよね」

「そう」


 告白して付き合うことになった翌日、急に連絡があり、デートすることになった。けれど、あの時はどうすればいいかも分からず、とりあえずお花見でもしようと来て、ちょっとした緊張でぎこちない会話をしていた思い出がある。

 そうやって懐かしさに浸っていると、何も動かないはずの世界で、花弁が一枚降ってきた。無意識に開いたてのひらに乗る。

 淡く燃えるような鮮やかさにほんの数瞬目を奪われた。


「あすか川 淵は瀬になる 世なりとも 思ひそめてむ人は 忘れじ」


 ふと聞こえた声に、振り返る。

 彼女は梅の木から垣間見えるくすんだ空をぼんやりと見上げていた。だが、すぐこちらに気付くと、微笑ほほえみを向け、「次、行こ?」なんて言って、また何処どこかへと歩き始める。僕はただただ彼女の背中を追うだけだった。


 ふと気付けば、景色は変わっていた。


「次はここなんだ。本当に懐かしいね」


 なんて言いながら歩いているのは、よく来たショッピングモールだった。

 いつも人が行き交っていて、雑踏ざっとうさえもうざったく感じていたが、こう誰一人といないと、それはそれで寂しさを覚えてしまう。


「そう言えば、約束に来なかった日あったよね」


 ふと放たれた言の葉に少し体が強張こわばる。

 僕は彼女との約束をたった一度だけ破ったことがあった。


「あの日、とっても寂しかったんだよ」

「……ごめん」

「まぁ、でも仕方がないか。おばあちゃんが亡くなったんだっけ」


 あの時は優しいおばあちゃんが居なくなった寂しさと、彼女に会いたくて逢えない寂しさで、心は引きちぎれてしまいそうだった。

 ずっとおばあちゃんっ子だった僕にとって、それは人生で初めて“もう会えない”を感じた日で、鮮烈せんれつな記憶となって心の奥を深く傷つけた。


「秋の田の 穂の上霧らふ 朝霞 何処辺の方に 我が恋ひやまむ」


 また彼女は、何かを口にした。

 あまりよく聞こえなかったが多分、和歌、なのだろう。けれど、聞き馴染みがないせいか、その意味は全く分からない。

 不思議そうに視線を向けて見ると、彼女は知らん振りをして、「次に行こっか」と誤魔化す。

 気にならないというと嘘になる。興味もある。聞いてみたくはある。だが、触れてはいけない気がした。触れてしまったら、この夢が終わってしまいそうな気がして。


 ふと視界がかすんだ。いや、ゆがんだ。

 はっきりとは分からないが、何かが起こった。


「もう時間が……でも、ちょうどいいかな。次が最後。そこで話そうか」

「最後って……」

「行ってからのお楽しみ。ほら、行くよ」


 悪戯いたずらな笑みは消え、代わりに何かを隠した穏やかな笑みを見えると、「ほら早く」なんて言って唐突に走り出す。彼女は思ったより早く先を行き、置いていかれないように全力で走った。

 そしてしばらくの後、彼女が足を止めると、それに合わせて僕も足を止める。つい夢中になったせいで息を切らしてしまい、その場で思いっ切り咳き込んでしまった。なんとか肺を宥め、心臓を落ち着かせると、ゆっくりと顔を上げる。


「ここって」


 目に入ったのは、この夢の最初の景色。あの踏切だ。


「どうして……」

「ねぇ、知ってる?」


 僕の言葉をさえぎるように彼女は話し出した。


「昔の人はね、夢で恋する人と逢ってたんだって。でも、それは生きている人だけじゃなくて、死んじゃった人とも」


 語り出した彼女の声は、泣き出してしまいそうな程、感情が詰め込まれている。だが、それでも彼女の顔には微笑ほほえみが浮かんでいた。


「それで、もし本当に夢でえたんだったら、現実でもえるって言われてたんだ。そんなハズないのに」


 頬を一筋の涙がしたたり落ちる。勿論、抑え込もうとはした。でも、抑えきれない。次第に、眼からは一杯の涙があふれ出してしまう。

 それを隠すように、顔をうつむけた。


「ほら、泣かないで」

「でも……」

「そっか……。それじゃあ」


 パンッ。

 乾いた音がこの世界に響き渡る。


「ほら、これならこっちを向けるでしょ?」


 ひらひらと左手に落ちてきたのは、一枚の花弁。でも、梅の花ではない。これは……。

 桜の花弁だ。

 顔を上げ、涙を袖で拭うと、彼女の背後には満開の桜が現れていた。そして、ピンク色の雨をこの世界にもたらしていく。


「もう、時間だ。夢から覚める時間だよ」

「待って」


 唐突に告げられた終わりの合図。それを聞くや否や、途轍とてつもなく大きな衝動にられる。

 まだ、一緒に居たい。


「見し夢に うつつの憂きも 忘られて 思ひなぐさむ 程のはかなさ」

「え?」

「またね」


 段々と揺らいでいく意識に、必死で手を伸ばす。遠のいて行く彼女に届くように。

 届け、届け、届け。

 だが、あと数センチのところで届くことはなかった。なのに、最後に見えたのは、満面の笑みを浮かべた真希だった。




 目が覚めると、暗い部屋のベットに横たわっていた。

 飛び起きてみるが、やっぱりさっきのは夢だったのか。そんな時に、ふと左手を見てみると、そこには桜の花弁はなびらが一枚握られていた。


「風通ふ 寝目覚めの袖の 花の香に 薫る枕の 春の夜の夢」


 ふと頭に思い浮かんだものを呟いてみる。和歌、か。聞き覚えがある気がする。

 確か、この和歌の意味は……。

 足場のない床の上を歩き、埋もれた古典の教科書を適当に開いてみる。と、その和歌が乗っていた。


 そして、『朝目覚めると、部屋に風が入ってきて、私の袖が花で薫っていた。枕もそのかおりがしてる。私はその枕であなたの夢をみていたのですよ 』と書いてあった。

 目線を少し下ろし、袖を見てみると、そこにはしっかりと涙の跡がある。そして、カーテンを開けると、ほんの少しばかり窓が開いていた。


 途端とたんに身体は勝手に動き始め、気付いたら家を飛び出していた。向かう先は、初めから決まっている。

 初めてデートした川沿いの道、雑踏ざっとうと思い出が交錯こうさくするショッピングモール、その全てを駆け抜けて行く。

 息を切らしながら着いたのは、あの踏切。

 でも、そこにあったのは梅なんかではなかった。桜だった。夢の中で、彼女が最後に見せたあの満開の桜。


「夢でえたんだから、またえるって言ったでしょ?」


 そんな大きく叫びかけるような声が、警報機が響く中、降りた遮断機の向こうから聞こえてきた。

 そして、そこには確かに彼女がいた。


「真希っ」


 刹那せつな。僕らが過ごした時間と同じ速さで電車が目の前を横切ってしまう。

 それから数秒後、遮断機も上がる頃には、彼女の姿はどこにもなかった。


 春の日を駆けていく風は、僕の部屋も通り抜け、始まりを運び、終わりをさらって、天高く吹き抜けて行った。

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