昨日に咲く梅、夢に散る桜
月宮 和香
梅と桜、夢と現、部屋と踏切、風通う。
この時期の梅の花はきっと綺麗なんだろうな。そんなことを床に落ちたカレンダーを見て思う。“彼女”さえいれば、今頃は花見にでも出かけていたというのに。
七光を奪い取る
ふと時計を見てみると、日付が変わろうとしている。また気付かない間に夜が来ていたみたいだ。
けれども、それさえ今は馬鹿馬鹿しくて仕方がない。変わることが、気付くことが、指し示すことが、考えることが、知ることが、その全てが傷に
頭で
午前一時。
––––未だに寝付けなかった。
無意味に手を伸ばしてみる。何かが掴めそうな気がして。
なんとなく目を
何も無いのにスマホをみる。連絡が来るような気がして。
ただぼんやりとドアをみる。彼女が来るような気がして。
どんなことをしても現実は何一つとして変わらないのだと知っている。それでも心の
脳裏を過ぎる彼女の笑顔。
一回、もう一回でいい。あと一回笑った顔を見られれば、思い残すことはないだろう。いや、本当のことを言えば、話がしたい。
別に
どれを取ってもとても
つい鮮明に思い出してしまうと、大切な記憶までも涙と一緒に
こんな夜を、
空が
今日もまた、何もない一日が終わるのだ。
ふと目を覚ますと、見知らぬ場所で立っていた。––––いや、違う。ここは、見覚えのない場所ではない。
冬明けを知らせる梅の花が狂い咲く並木道。小さな橋の真下を流れる用水路。片方だけ折れた踏切。そして、ボンネットが
––––三月十四日、午前十時四十二分。
丁度二人で下校をしており、踏切が開くのを待っていた。
だが、突然の悲鳴と衝突音が背後で聞こえた時にはもう手遅れ。
道路側に立っていた彼女だけ、暴走した黒い車に突き飛ばされ、足を強く地面へと打ち付けてしまい、
偶然に偶然が重なって生まれた不幸な事故。何か一つでも違っていたら、どれか一つでも起こらなければ、悲劇は起こらなかった。
そんな
そして、同時に悟った。
これは、“夢”なのだと。
「正解」
後ろから聞こえてきた声。優しいけど、
彼女が、いる、のか。
「それも正解」
恐る恐る振り返って見ると、そこには数え切れない程の時間を共に過ごした人が立っていた。
ゆっくりと視線を上げていき、見慣れた笑顔を認識した瞬間、数々の記憶がフラッシュバックしていく。学校の屋上、公園、図書館、カラオケ、僕の部屋。いろんな場所で見せたその笑顔が脳裏を過っていくにつれて、言葉には出来ない感情が胸の奥底から
あの時にいなくなったはずの彼女。
「
「ちゃんと覚えてくれてたんだね」
––––彼女は
いつも着ていたピンクのスカートに、可愛いロゴの入った白いシャツ、そして、お気に入りだったベージュの上着を着ていた。あの時のままの格好をしている。
「ほ、本物……」
「偽物に見える?」
そんな
「何でここに居るの」
「さぁ、私にだって分からない。けど、これが夢だからじゃないかな?」
「夢、だから?」
「うん。夢だから、かな」
そんな風に問い掛けてみても、
しかし、彼女はそれ以降、僕の質問にはただ
そして、不意に歩き出す。「ついてきて」の一言だけで、行き先なんか教えてくれやしない。だけど、きっと彼女のことだから何かあるのだと思い、黙々と付いて行った。
「この道、覚えてる?」
彼女がそう言って、止まったのは梅の
だが、風に揺られ、散り行くはずの
「覚えてるよ。初めてのデートの時だよね」
「そう」
告白して付き合うことになった翌日、急に連絡があり、デートすることになった。けれど、あの時はどうすればいいかも分からず、とりあえずお花見でもしようと来て、ちょっとした緊張でぎこちない会話をしていた思い出がある。
そうやって懐かしさに浸っていると、何も動かないはずの世界で、花弁が一枚降ってきた。無意識に開いた
淡く燃えるような鮮やかさにほんの数瞬目を奪われた。
「あすか川 淵は瀬になる 世なりとも 思ひそめてむ人は 忘れじ」
ふと聞こえた声に、振り返る。
彼女は梅の木から垣間見える
ふと気付けば、景色は変わっていた。
「次はここなんだ。本当に懐かしいね」
なんて言いながら歩いているのは、よく来たショッピングモールだった。
いつも人が行き交っていて、
「そう言えば、約束に来なかった日あったよね」
ふと放たれた言の葉に少し体が
僕は彼女との約束をたった一度だけ破ったことがあった。
「あの日、とっても寂しかったんだよ」
「……ごめん」
「まぁ、でも仕方がないか。おばあちゃんが亡くなったんだっけ」
あの時は優しいおばあちゃんが居なくなった寂しさと、彼女に会いたくて逢えない寂しさで、心は引きちぎれてしまいそうだった。
ずっとおばあちゃんっ子だった僕にとって、それは人生で初めて“もう会えない”を感じた日で、
「秋の田の 穂の上霧らふ 朝霞 何処辺の方に 我が恋ひやまむ」
また彼女は、何かを口にした。
あまりよく聞こえなかったが多分、和歌、なのだろう。けれど、聞き馴染みがないせいか、その意味は全く分からない。
不思議そうに視線を向けて見ると、彼女は知らん振りをして、「次に行こっか」と誤魔化す。
気にならないというと嘘になる。興味もある。聞いてみたくはある。だが、触れてはいけない気がした。触れてしまったら、この夢が終わってしまいそうな気がして。
ふと視界が
はっきりとは分からないが、何かが起こった。
「もう時間が……でも、ちょうどいいかな。次が最後。そこで話そうか」
「最後って……」
「行ってからのお楽しみ。ほら、行くよ」
そして
「ここって」
目に入ったのは、この夢の最初の景色。あの踏切だ。
「どうして……」
「ねぇ、知ってる?」
僕の言葉を
「昔の人はね、夢で恋する人と逢ってたんだって。でも、それは生きている人だけじゃなくて、死んじゃった人とも」
語り出した彼女の声は、泣き出してしまいそうな程、感情が詰め込まれている。だが、それでも彼女の顔には
「それで、もし本当に夢で
頬を一筋の涙が
それを隠すように、顔を
「ほら、泣かないで」
「でも……」
「そっか……。それじゃあ」
パンッ。
乾いた音がこの世界に響き渡る。
「ほら、これならこっちを向けるでしょ?」
ひらひらと左手に落ちてきたのは、一枚の花弁。でも、梅の花ではない。これは……。
桜の花弁だ。
顔を上げ、涙を袖で拭うと、彼女の背後には満開の桜が現れていた。そして、ピンク色の雨をこの世界に
「もう、時間だ。夢から覚める時間だよ」
「待って」
唐突に告げられた終わりの合図。それを聞くや否や、
まだ、一緒に居たい。
「見し夢に うつつの憂きも 忘られて 思ひなぐさむ 程のはかなさ」
「え?」
「またね」
段々と揺らいでいく意識に、必死で手を伸ばす。遠のいて行く彼女に届くように。
届け、届け、届け。
だが、あと数センチのところで届くことはなかった。なのに、最後に見えたのは、満面の笑みを浮かべた真希だった。
目が覚めると、暗い部屋のベットに横たわっていた。
飛び起きてみるが、やっぱりさっきのは夢だったのか。そんな時に、ふと左手を見てみると、そこには桜の
「風通ふ 寝目覚めの袖の 花の香に 薫る枕の 春の夜の夢」
ふと頭に思い浮かんだものを呟いてみる。和歌、か。聞き覚えがある気がする。
確か、この和歌の意味は……。
足場のない床の上を歩き、埋もれた古典の教科書を適当に開いてみる。と、その和歌が乗っていた。
そして、『朝目覚めると、部屋に風が入ってきて、私の袖が花で薫っていた。枕もその
目線を少し下ろし、袖を見てみると、そこにはしっかりと涙の跡がある。そして、カーテンを開けると、ほんの少しばかり窓が開いていた。
初めてデートした川沿いの道、
息を切らしながら着いたのは、あの踏切。
でも、そこにあったのは梅なんかではなかった。桜だった。夢の中で、彼女が最後に見せたあの満開の桜。
「夢で
そんな大きく叫びかけるような声が、警報機が響く中、降りた遮断機の向こうから聞こえてきた。
そして、そこには確かに彼女がいた。
「真希っ」
それから数秒後、遮断機も上がる頃には、彼女の姿はどこにもなかった。
春の日を駆けていく風は、僕の部屋も通り抜け、始まりを運び、終わりを
昨日に咲く梅、夢に散る桜 月宮 和香 @hoshimiyawakou
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