落とす音ひとつ

丹路槇

落とす音ひとつ

 普段ならまだベッドにいる時間に、ラッシュが少し落ち着いた在来線に揺られている。下り列車はターミナル駅を過ぎると俺ひとりを残して座席は空になった。道のりのほとんどの時間を車窓越しの景色を見て過ごす。朝食を無理やり腹の中に押し込んだせいで既に体が重怠かった。降車駅近くでスマホにメッセージが入っているのを確認する。

《本番終わったらまっすぐ戻る。予定なければそのまま飯にしよう。いつも急で悪い》

 発信者の八木崎さんは大学の二期上の先輩だ。といっても学科が同じわけでも課外活動で知り合ったわけでもない。在学中に交わした会話の記憶ほぼ全てが学食キャッスルの匂いにあふれていた。会えばそこのテーブル席にたむろするのに、外ではほとんど連れ合う関係ではなかった。当時の自分が今の腐れ縁を見れば、ひっくり返って驚くにちがいない。

 改札を出て正面にあるコンビニへ寄る。鉄道事業の資本で展開されている店舗らしく、プライベートブランド商品が多くてなじみの銘柄がなかなか見つからない。アールグレイのペットボトルとゼリー飲料をふたつかごに入れて会計を済ませた。Sサイズのポリ袋を指先に引っかけて持ち、記憶した道順の通り線路の脇道を歩く。

 ライトグレーの外壁が曲がり角の向こうに見えてくる。八階建てのマンションのプレートに記された竣工年は平成十五年、ファーストオーナーが手放してすぐにリフォーム前の物件をたまたま安く購入できたのだという。八木崎さん夫婦ははじめから新居の一室を防音完備にすることを決めていた。潜水艦の回し扉みたいな入口の部屋が完成した時に「これはただのハッタリ」と笑ったのがちょっと意外で、今でもよく憶えている。

 エントランスで部屋番号をプッシュして呼び出しする。数秒の沈黙のあと、通話より先に開錠の電子音が鳴った。向こう側からこちらを見るだけの一方通行のカメラレンズに軽く手を上げ、そのままエレベーターへ進む。

 四階の角部屋にある八木崎さんの家は、通路に門がついている珍しい作りをしていた。ベランダストッカーの隣には折り畳まれたベビーカーが置かれている。門の脇にあるインターフォンを押す前にドアが開いて、中から子どもを抱えた女性が姿を現した。

「いつとほんとごめん、助かる」

 旦那と同じような文句で俺を出迎えたのは八木崎さんの配偶者で郁枝さんという。上背のある八木崎さんに似合いの手足の長い美女でこちらは俺の学科の先輩だ。在学中から花形の彼女は男女ともに人気があった。

 プロの道には進まないと聞いた時、詳しい事情は聞けなかったが、他のやつより彼女の方がよほど弾けるのになぜ、という本音は俺だけでなく周りのほとんどが抱いたのではないだろうか。技巧的で明るくはっきりとした音、何でも要領良くこなす郁枝さんは、国立音大のピアノ科を次席で卒業したが、その後は音楽教室の先生になった。

 今もはじめの職場で働き続けていて、今日はこれからグレード試験の監督役で本部の教室へ出勤するらしい。

 俺がここへ来たのは、ふたりの一歳になったばかりの子どもの世話のためだった。幼児が普段通園している保育園は日曜が休業日で行き場がない。郁枝さんは地方出身者で実家に頼れず、八木崎さんも家庭が複雑で疎遠状態だと聞いている。つやつやした丸ボタンみたいな目をこちらに向ける小さなひとは、前回が二か月前だったふたりの時間を忘れてしまったようだが、さすがにもう泣いたり怖がったりはしないようだった。

「カエ、またよろしく」

 未だ話せないふたりの子どもは楓という名前だった。生まれたての時よりも頬肉が幾分か削がれてすっきりしており、両親に似ているというよりも、古いセルロイドの人形みたいな相貌をしている。唇は薄く剥いたばかりの桃のよう、髪は線が細くてまだこころもとない薄さだ。乳児の時にはぎくしゃく動いていた腕が今は自然に伸ばされ、緩く拳を突き出される。

 そのまま楓の脇下へ手を差し込み、母親から十キロ足らずの体を受け取った。玄関のドアを背中で押し開けると、郁枝さんは下駄箱の上に置いていた黒の革バッグを掴み、ほとんどヒールのないパンプスにストッキングを被った足をつっこんでいく。

「離乳食、冷蔵庫ね。容器のままぬるめにチンして。朝も食べるの遅くて」

「了解、あとで写真送っときます」

「機嫌悪かったらボーロあげちゃって。最近サツマイモのブーム終わっちゃったの。あとはカウンターにメモ……あー、ほんとだめ、段取りできてない」

「そんなもんでしょ。八木崎さんわりとすぐに戻るし、よければで晩ご飯も外で済ませてきちゃってください」

 肩に顎を乗せられた楓は早速シャツの襟を見つけて熱心に食んでいる。涎で濡らして吸うのが好きだが、決して歯を立てないのが当人のポリシーらしい。前に世話した仔犬の噛み癖に比べたらこれは可愛い分類だと思いつつ、垂れてくる唾液をスタイで拭き取った。

 名残惜しげに振り返りながら門を出て出勤する郁枝さんを、小さな手を振らせながらふたりで見送る。閉じたドアの内側へ入ると、この家独特の匂いがいっぱいに広がっていた。間取りは3LDK、そのうちひとつが工事で防音化されている。居住域は家族の寝室を含めほとんど使用を許されていたが、洗面所の向かいにある洋室には用がないために立ち入ったことがない。

 今の楓は壁を伝わずにひとりで歩けるようになっていた。洗面所やトイレのドアノブに手を引っかけてするりと出入りするひとり遊びを披露してくれた。リビングの中心に置かれているプラスチック製のベビーサークルは八角形のうち一辺が倒されてしまっている。ここは我が城とばかりに闊歩する小さなひとの手を取り、さて何して遊ぼうか、と月並みに声をかけた。

 手に提げた袋ごと冷蔵庫にしまい、アイスティーのボトルだけ取り出して蓋を開ける。フローリングにあぐらをかいてゆっくり口へ流し込む。大きな双眸はとたんにきらっと輝いて、大急ぎでこちらへ近寄ると、ボトルの底にある結露の粒を無心にしゃぶった。冷たいのが口にあるのが気持ちいいのか、ぬるつきが面白いのか分からないが、乳児の時から底面の凸凹を吸うのが趣味のひとつらしい。

「母さん言ってたけど、飯はまだ要らないの」

 色素の抜けた薄髪を額に乗せた顔に、はて、と首を傾げられる。きっとこちらの言うことは既に百ほど理解しているだろうに、大人へはただのひとつも返されない。反対に長く生きているくせに碌に察せられないのは浅慮のせいだと見透かされているようで、この小さなひとにはずっとかなわないのだろう。

 楓がその場で立ち上がった。おもちゃを拾い、その場で座り込んで手元を眺め、また腰を上げてどこかへすたすたと進む。そうやって同じ動作を熱心に反復する姿をのんびりと眺めながら欠伸を漏らした。

 手押し車の荷台から原色に塗られた積み木がひとつずつ取り出される。膝立ちで近寄ると、当然に受け取られるものだという確信で、順番に手渡された。赤の三角柱、黄色の四角柱、青の円錐、立方体の緑は角を打ち付けられたのか、ところどころが禿げて傷んでいた。

 飽きや惰性を知らない、律儀で遠回りな行動の連続に、子どもの頃から体に叩き込み続けているスケールの運指を思う。鍵盤を叩く両手ははじめ、まったく思うように動かない。片側に五本しか与えられない指の数と長さが恨めしくて何度も憤った。ある時、自分の意識を離れてそれがひとりでに働くようになり、またしばらく経つと、全ての神経が思考と繋がって再び動き出す。楽譜を読み取る脳と、演奏する両手の機構がひとつになってはじめて、これでようやくピアノの練習ができる体になったのか、と実感した。

 進学先を考えていた時は自分がピアノで大学受験するとは思っていなかった。科目試験の成績を伸ばすよりは費やした練習時間に見合った成果が出るだろうと、安易に受験対策のレッスンを受け、音大へ進学した。大学には郁枝さんをはじめ、天才と呼ばれるのが普通という学生が腐るほどいて、ああこれはプロになるのははじめから無理な話だったな、と一般大学を選ばなかったことを後悔する。しかしそこまできたらもう選択肢などなくて、楽器屋の販売員かバイトで食い繋ぐ売れないフリーランスでもやるつもりで腹を括った。今はなんとかバレエ団の稽古ピアノとスタジオでの仕事で専業をやれているが、どこにも依らない根無草であることには変わりない。

 郁枝さんのように自ら選択してサラリーマンになることも、八木崎さんのようにオーケストラの首席になることも、俺が大学で経たキャリアからは生まれなかった結果だ。狭い業界だから努力すればなんとかなるひともいるし、箸も棒にもかからず一瞬でバニッシュするひともいる。

 きっと俺は青の円錐だ。底面を下にして積めばなんとか足台の役を担えるかもしれないが、横へ倒してしまえばころころとどこかへ転がっていってしまう。

「ちょっと弾かしてもらうか。カエ、ピアノの部屋行く?」

 延々と持ち物チェックをしていた小さな働き者は、ピアノという言葉を聞いた途端、ぽいと積み木を打ち捨てて、まっすぐにこちらへやって来た。家で一日中聞いていれば何も感じないようになっていると思いきや、楓は鍵盤に触れるのが好きなようだった。

 防音室のドアを開け、幼児が誤って挟まれないよう抱えて運び、そのままふたりでピアノ椅子に座る。郁枝さんの実家からそのままが運んだというカワイのアップライトは丁寧に使われていて、やや軽い指あたりが使うひとの嫋やかさを表しているように思えた。

 俺の太腿にまたがる格好で、楓が拳と人さし指を白鍵に置く。力いっぱい重心をかけたわりに響きは弱かった。

「いいね。プログレッシブ」

 拍手の代わりにぱたぱたと足踏みすると、当人も自慢げにうんうんと頷いている。

 軽くスケールを復習ってから童謡でも弾こうかと思ったが、それは毎日母親がやっているだろうからやめた。

 両手で重音を鳴らすと、楓の動きがぴたりと止まる。本来ならここは弦楽器のトゥッティ、厳格に刻まれる同じ音程の羅列は大地から湧き立つ鼓動を思わせるのだろうか、その曲のタイトルを幼子に伝えた。

「〈春祭〉、カエ知ってる?」

 ストラヴィンスキーの春の祭典は、バレエ音楽という印象よりもディズニー映画『ファンタジア』の一節の方が有名かもしれない。まだ恐竜が尾を引きずって歩くと考えられていた時代のアニメーションで、中でもティラノサウルスがステゴサウルスと一騎打ちをする雨の夜の場面が印象的だ。実際には白亜紀の肉食種とジュラ期の植物食恐竜が対峙するということは有り得ないはずなので、正にファンタジーの世界なのだが、戦時中に制作されたそのアニメーションは、まるで映像にストラヴィンスキーが曲を添えたような出来栄えだった。

 それまで適当に鍵盤に触れていた楓が手を引っ込めた。自由に鳴らされる音の選択に無垢の才能を見出したいこちらはセッションがなくなるのが少し残念だ。脇の下から腕を持ち上げるように手を差し込み、ジャジャーン、と弾くのを促した。

 楓が一瞬ぶるっと身震いをしてから、大きく尻もちをつく。どしんと太腿にぶつかった紙おむつが気づけばほかほかになっていて、健康的に臭った。

「あ、あんた、うんちしたろ」

 空想世界のステゴサウルスが絶命する前に〈春祭〉の演奏は中断された。大仕事を終えて身が軽くなったのか、小さな両手がそれからめちゃくちゃなリサイタルを始める。

 音楽の規則も体系も知らない奔放な選択をする演奏家に、尻がかぶれるぞといさめながら、それでも公演を中断させることができない。口端から涎を溢しながら自分の世界に没頭する横顔に、楓の両親ではなく、別のひとの面影を見てしまう。


 予定より一時間遅れで昼の離乳食を与えていると、楓がゆらゆらと船を漕ぎ始めた。仕切りつきのタッパーから炊き込みご飯を少しすくい、柔らかい唇を匙でつつく。刺激を与えると反射でぱくっと口を開け咀嚼するが、目は一度閉じられ、それきりだ。木製のテーブルつき椅子に寄りかかりながら、黙々とタッパーの中を空にしていく。

 子ども用の食器は、それが利便性の追求なのか、いつもみっつに仕切られていることが多い。ひとつの部屋が広く、残りのふたつがその半分という黄金のバランスが存在している。小さな口に匙で順番に運ぶ時、道のり、速さ、時間、み、は、じ、と心の中で言ってしまうから難儀なものだ。確か昔もその法則を図示した円形をノートに何度も書いた。目の大きな方眼の線まで呼び起こされる。

 片手で動画を撮りながら楓のうたた寝ランチを続け、しっかり最後の一口まで食べさせた。両親のLINEへ動画つきのメッセージを送る。タッパーをシンクで水に浸してから、起きる気はさらさらないのだという突っ伏し方をした小さな体をテーブルつき椅子から引き抜いた。抱えて少し揺れるだけで全身が脱力して意識を手放しているのが伝わる。

 居間とひとつづきの和室に子ども用の布団が一式敷かれたままになっていた。背中にぴたりと両手を当て、胸と腹を寄りかかった俺から離れないように慎重に前へ屈む。

 丸くなった躯体が敷布団に着地した。一秒、二秒、寝返りを打つ。三秒、ぶるぶると腕が痙攣しながら伸びた。四秒、大欠伸。楓は眠ったままだ。

 体をじりじりと畳から剥がして立ち上がり、足音を殺してキッチンへ引き返した。つけ置きしていたタッパーを洗ってかごへ上げる。尻ポケットに差したまま返事を確認していなかったスマホを開いた。袋ごと冷蔵庫に入れたゼリー飲料を出して飲み始める。片手で潰せばあっという間は中身が搾り出されてひしゃげた皺だけが残った。軽く息を吐くと空気で容器が膨れる。緩く形のできたパウチを眺めて、ああ俺は未だうまく呼吸を扱えない、と思う。

 稽古ピアノの仕事では、ダンサーと同じようにピアノ弾きも息をして進行を合わるのが常だ。本番のピットでも小編成だがオーケストラが呼吸を揃えて舞台の流れを作る。ダンサーが跳ぶタイミングに合わせて頭ひとつピットから出ている指揮者が棒を振る、そのひともまた皆と同じように息を吸っていた。

 呼吸をうまく使えるようにようになれば、仕事は次の段階に進行する予感がしていた。ずっと鍵盤を叩くだけの音楽をしていたけれど、すぐにでもそこから脱却していかなければ、と微かな焦燥すら覚える。

 壁の向こうで門が開く気配がして、じきにドアに鍵が差し込まれる音が鳴った。モーニングコンサートを終えた八木崎さんが帰宅したようだ。託児と呼べるほどの役は果たしていないまま時間が来たらしい。家主を出迎えるために廊下へ出る。

 ドアが開く前から話し声が漏れ聞こえていた。明かりも点けずに廊下の隅に立つ俺を見つけると、八木崎さんはややばつが悪そうに苦笑した。

「遅くなった、助かったよ。餃子買ってきたんだ。食って、少し飲んでから帰れば」

 大学の交響楽団で首席フルート奏者をしている彼は、在学中の尖った印象から比べかなり丸くなった。今はすっかり父親顔といった感じで、こうして楓の面倒を頼まれる日は、決まってこちらが気後れするほどの高いワインをふたつ土産に寄越してくる。餃子の袋とともに今日も立派な紙袋がしっかり手に提げられていたが、俺が顔を顰めたのはそのためではなかった。

 玄関のドアがなかなか閉まらない。八木崎さんの背中に隠れて何かがつかえているからだ。足の間からのぞく革靴からこちらが察するよりも先に、背中に隠れた影の方が的確に俺の居所を言い当てる。

「……そっち、馨?」

「は、なんで分かるの? まだ不動なにも喋ってないじゃん」

 八木崎さんがその場で振り返ると、綺麗に切り揃えられた黒髪の頭が現れた。気配でだいたいの見当をつけているのか、ぼんやりと俺の立つ場所へ視線を向けている。

「当たってる? ふふ、そっか。カエちゃんが懐いてる子守役って、馨だったんだね」

 三和土でよろけられるのが怖くて、無防備にこちらへ伸ばされた手を取った。

 八木崎さんが連れてきたひとは彼のフルート科の旧友で、誰もが名前を知る有名オケの首席奏者、姫宮尚宏だった。界隈では有名な、盲目の演奏家だ。

 肘に手を添えて重心が傾けられた体を支えると、慣れてる、とからかうみたいに微笑まれる。そもそも育児経験のない俺が他人の子の面倒をみることになったのは、大学にいたころ、このひとの付き人みたいに世話を焼いて過ごしていた時期があったからだと思う。

「姫宮さんもモーニングの本番だったの」

「そうだよ、今日はヤギがアタマで僕が下吹き。馨も忙しいでしょ。この頃スタジオはどう?」

 当たり障りのない言葉を交わしながら姫宮さんの手を引き、八木崎さんに朝の郁枝さんの様子を簡単に報告した。楓の近況報告が食事の手前で途絶えていたので、書きかけのメッセージに慌てて語尾をつけ足して送信する。母親に報せるのを忘れていた、寝顔の写真を添付して八木崎さんが帰宅したことも書き添えておく。

 十五分もしないうちに人の気配で楓は昼寝を中断している。泣きもせず布団の上でごろごろと寝返りを打っていたので、姫宮さんが「僕もやりたい」と畳まで這って行った。

 突然の侵入者に、昼寝明けの幼児は身を起こして硬直している。子ども用の布団に寝そべり足を畳にはみ出させた姫宮さんは、噛み殺した欠伸をゆるゆると吐き出した。

「馨。あ、間違えた。カエちゃん、今はどこにいるかな」

「どんな間違え方なの」

 光を感知しない目を見開いて、手の先が楓を探している。触れて傷つけてしまうのが恐ろしいのか、目や口に当たるような高さまで持ち上げず、こわごわと敷布を撫でていた。姫宮さんの手の方には何もなかったが、先に楓が四つ這いになって彼の肩を乗り越えた。

「わ、はは、いた、思わぬところに」

「気をつけて。意外と重たいから」

「うん、生まれたてしか知らないから、もうこんなに大きいんだね。手も」

 姫宮さんの両手が木の葉みたいな手を見つけて包み込む。フルート吹きの指はもっと節ばってかくかくと折り曲がっているような印象だが、彼の手は手入れが施されたみたいに綺麗だ。丹念に研磨された爪がつやつやと光っている。肌が白いから赤く見えるその手で楓の手を優しく握ると、手のひらをマッサージするように少し揉んでから手を離した。触覚が面白かったのか、幼子はひとに握られた自分の手をまじまじと見ている。

「カエちゃんも笛吹きになりたがるかな」

「学校の部活でやるくらいにはなるんじゃないの」

「うそ、ピアノができればそっちがいいよね。それかヴァイオリンでも。フルートはあんまり食える楽器じゃないよ」

「姫宮さんみたいに売れてるひとに言われても説得力ないけど」

 どちらも適当なこと言わない、と釘を刺しながら、八木崎さんがオーブンで素焼きにした餃子を運んでくる。取り皿をテーブルに並べ、真ん中に集められた缶ビールからひとつ適当にもらってプルタブを開けた。姫宮さんも起き上がって壁を伝いながら席へ戻ってくる。楓はひとりでたったっと身軽に歩き、俺の膝へよじのぼる動作をした。

 

「不動」

 最後の餃子を割り箸でつまんで酢をつけていると、立ったままビールを飲む八木崎さんがこちらに背中を向けた。リュックみたいな肩当ての抱っこ紐に揺られている楓は、手足をだらりと投げ出して、頭の重さに引きずられ背を丸めながら眠っている。

 昼寝が中断した直後はけろっとしていたが、そのうち楓はみるみる不機嫌になっていった。おやつに出したボーロもだめ、解凍の焼き芋はやけ食いみたいに平らげて、むず痒そうな泣きくずりは止まない。

 父親に求められているのは根気と体力だ、と溜息を吐き出し、八木崎さんはゆらゆらと縦に揺れながら酌を続けた。

 ついにその時が訪れたことを示すように、餃子を口へ運びながら大きく頷く。

「寝た」

「よし、このまま背負っとく」

 淡々とした口調には安堵が滲んでいた。こういうのは日々のことで慣れはするが会得するということがないらしい。ひとつクリアするとふたつ新しい課題が現れる。しばらくすると課題は未解決の大きな壁になり、それがまたある時、さっと溶けてなくなってしまう、掴めないもののようだ。

「ヤギ、お父さんみたいだね」

 頬杖をついた姫宮さんが感心した声を漏らすと、空になったビール缶を振った八木崎さんがしかめ面をした。

「みたいって何だよ」

「だって、馨がお父さんなのは分かるけど、あなたずっと中身が子どもじゃない」

「こら、言ったな。不動の具も俺とだいたい由来は同じだぞ」

「ひどいな、具って」

 取り皿と割り箸を重ねながら立ち上がり、キッチンへ簡単に後片づけをしに行く。缶は濯いだ後に小さく潰してポリ袋にまとめて入れた。流水音を背にしながら、頭だけ出してこのまま出前でも取るかと尋ねると、家主はやや驚いた顔をする。

「郁枝さんに外食いいよって勝手に言っちゃいました。八木崎さん、俺らいるうちに風呂入れば。カエとふたりだと何もできないし煮詰まるだろ」

 学生の頃から腐れ縁の先輩だが、その時の八木崎さんが浮かべた表情は、きっと俺が初めて目にするものだったと思う。彼はいつもやや批判的に現実を冷静に見ていて、周囲に過度な期待は抱かず、何事も自力で解決することを是とするひとだ。しかし新しい命を守るということは、今まで築き上げた彼の前提や常識を全てバラしにしてしまう威力があったのだろう。それは不測の刺激ともいえるし、多くが喜ばしいことでもあるし、同時に恐怖でもある。

 返事は代わりに姫宮さんがキッチンへ寄越した。がちゃがちゃと食器のぶつかる音の間に聞き取ったのは、穏やかで誰にも立ち入れない、光のない世界からの優しい声だ。

「馨、こっちでおかわり飲む?」

 八木崎さんと抱っこを交代して、またしばらく体を揺らして歩いた後、たっぷり時間をかけて楓を再び布団へ下ろす。今度は少々不時着扱いで、体が傾くたびに幼児の体が何度も不随意に動いたが、敷布の感触に慣れたらすぐにすうすうと寝入った。近くで様子を窺っていた姫宮さんは、小さな頭に鼻面を寄せてしきりに匂いを嗅いでいる。

 廊下の向こうから漏れ出る微かなシャワー音から、先輩が束の間のひとり時間を噛みしめているのが伝わった。

「ちょっと無理してるくらい頑張ってるね、ヤギ」

 そう呟いてから、並べた言葉を掻き消すように、すぐに普通の声量で「カエちゃん、煮干しの匂いがする」と微笑する。

「なんとなく分かる。俺は鯵だと思った」

「はは、ね、小鯵ちゃん」

 いい匂いだね、と呟いて、姫宮さんが子どもの寝顔を撫でた。楓の意識は眠ったまま、口元だけ自動運転して、乳をしゃぶるみたいにもぐもぐと頬を上下させる。

 見ていて素直に可愛い生き物だと思う。このまま楓の風呂と夕食、歯磨きに寝かしつけまで手を貸してくれと言われればそうするつもりだ。それが姫宮さんの帰る時間までなら。別に彼をひとりタクシーに乗せてもいいのだが、せっかく自分がいられる時には帰路くらい、そちらの世話もしたくなる。

 どこでも借り物の日雇い扱いだからこそそれができるのだろう。楓が自分の子になったら数時間の託児でワインを貰うこともないし、それどころか自分の仕事を好き勝手に詰め込むことができなくなる。生活や未来への焦燥でひとが変わってしまうかもしれない。

 同じことを考えていたのか、姫宮さんが長い溜息をこぼした。

「尊敬するよ、本当。僕はこういうの、まるっきりだめだ」

 所在なくシーツの皺を撫でる白くて綺麗な手を目で追う。

「だめって何」

「ひとり殺したの、生まれる前の子」

 それは、と追い立てるような言葉が浮かび、とっさに口をつぐんだ。微かにみじろぎするこちらに彼の顔が向く。何も見えていないはずの双眸と視線が合わさる奇妙な感覚がざらっと背を撫でた。瞬きの回数がひとより少ない。じっと見開かれている目の黒さに鼓動が上がる。昔から、姫宮さんの沈黙には支配に似た力があった。それでも目を逸らすことができなくて、ぐっと拳を作る。先に彼がふっと表情を緩め、自嘲気味に口角を上げた。

「堕ろしてってお願いしてしまった。よく知らない人だったんだ。声も匂いも、もう憶えていないくらいの」

「それから」

「連絡もないよ。本当のことだったかも分からない。送金した分は受け取られたのかな。それで終わり。これ、子どもの前で話すことじゃないね」

「……あんたの見えないのと、関係あるの」

「遺伝の話? いや、あまり。目は見えた方がいいけど、見えなくても生きられることを知ってしまっているからね。むしろ、そうではなく、ただ」

「うん」

「いずれ自分に似てしまったら、やっぱり殺してしまいそうだな。思うより自分が可愛いみたい、僕」

 それから姫宮さんは早口で、お父さん役のできる馨には分からないことだね、と言って笑った。場違いに延伸した会話をぷつりと断ち、また魚の干物の匂いの話に戻そうとして楓の寝顔に鼻面を寄せている。 

 姫宮さんの独り言ちに、小さな生き物への唐突な殺意よりも、堕胎した生命の行方に思いを馳せずにはいられなかった。それはなぜか。姫宮さんでは感じることのできないものが、目の前で夕寝をする幼子と彼を繋いでしまっていたからだろう。

 独身男が不慣れな託児を請負うなんてそれだけでそれは奇妙なことではないのか。自分でもこんなに執心して楓の世話に勤しむのには別の理由があるからだという理解が始まる。

預かっている小さな命を、彼らの子だと思っていないからではないか。俺は単に、楓という構築途中の人格を傍で観察したい欲求に駆られているだけなのではないか。敢えて言葉にするならば、この子は姫宮さんにそっくりだった。

 気づいてしまってから猛烈な後悔が襲う。加速する鼓動や、背筋に湧き出る汗のぷつぷつという聞こえるはずのない音まで、すべてこのひとに悟られるような錯覚に苛まれた。

「姫宮さん」

「はい、どうしたの、変な声出して」

 呼びかけると、いつもと変わらない柔らかな返事が戻ってくる。姫宮さんの手を掴んで握ると、嵌めた指輪が浮き出た筋に擦れてこりっと小さく動いた。痛がられないのにいっそう居心地が悪くなり、すぐに手を離す。

「殺したら、俺が埋める」

 言ってから、自分の苛立った語調が格好悪くて嫌になった。布団に視線をやりながら襟足をぐしゃぐしゃに掻く。廊下の向こうで鳴り続けていたシャワー音が止む。しばらく沈黙していた姫宮さんがはっと顔を上げて腕を伸ばした。行先は闇雲、俺の肩にも幼児の背にもかすらない。やはり彼には何も見えていないのだった。バランスを崩した上体を支えると、姫宮さんは曖昧に腕に寄りかかる。

「音ひとつ落とせば何もできない僕が、ひとなんて殺せないよ」

 崩れた相好の意味に気づいたのは後になってからだった。次の言葉を探すより先に、呆気なく手を解かれてしまう。

 紙おむつで膨れた尻がもぞもぞと動く。何も知らない穏やかな寝息が、ぷうぷうと心地よいリズムで音を立てていた。

 

〈了〉

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落とす音ひとつ 丹路槇 @niro_maki

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