雲間の雨(短編)

凩芥子

『雲間の雨』

 彼女は雨の中立ち続けていた。誰を待っているというのでもなく、また雨が止むのを待っているというのでもなく、彼女はただ、その空間の一部になったかのようにただただ立ち続けていたのである。彼女は空を見上げ、雨粒が額に当たる感触を過ぎ去っていく時間の中で一つ一つ確かめているように見えた。しばらくしてから彼女は道路を挟んで向かい側にある小さな喫茶店に入っていった。僕はそんな彼女の様子を近くのバス停で雨宿りしながら眺めていたが、彼女が喫茶店に入ったので僕はその後を追って喫茶店に入った。


 彼女は奥のテーブルで赤ん坊を湯船に入れるように髪を丹念に乾かしていた。彼女のそんな姿を見るのは初めてだったので何だか彼女だけが突然僕の頭の中に飛び込んできたみたいだった。雨の匂いとコーヒーの匂いが混ざった店内は外とは切り離された別世界のようで、その中にいる彼女は別人のようで、そんな彼女が髪を乾かす姿はとてつもなく美しかった。 僕が近くに行くと彼女は僕に気付き、

「ここの席、座ってもいい?」

と僕が聞くと彼女は髪をなでながらこっちを見ないでうなずいた。

「どうして傘をささないで外に立っていたの?」

と僕が聞くと彼女はそっと

「持っていなかったからよ。」

とだけ言った。その言葉を聞いた時、店員が一人やって来た。僕は少しメニューを見てからブラックのコーヒーを注文した。

「朝から雨が降っていたというのに傘を持たずに外に出たっていうのかい?」

「だって持たずに出たんだもん。別にいいでしょ。」

「何でそんなことになった?」

「あのさぁ、少しほっといてくれない?いきなり喫茶店に入ってきて私の向かい側に座って、そんな他愛のないことをずけずけと聞いてくるなんて気分のいいものじゃないわ。」

そして僕と彼女の間にしばしの沈黙が流れた。


  特にすることがなかったので彼女の背面にある窓から見える雨に濡れた街を僕はただ呆然と眺めていた。僕はいつも窓から見える景色を眺めることが好きだった。それが車の窓であれ、電車の窓であれ、怒った彼女の背面にある窓であっても僕は同じように好きだった。街を歩く人、街を形成するビル群、行き交う車の群れ。その何気ない一瞬はどこにでもあふれていそうではあるが、同じものは一つとしてない。そういった景色を眺めながら物思いにふけるのもまたたまらなく好きなのだ。


  店員がブラックのコーヒーを持ってきて僕の目の前に置いた。この店員も窓から外の世界を眺めることがあるのだろうか。まぁ少なくとも仕事中の今ではないはずだ。目の前に置かれたコーヒーを一口飲む。舌先に冷たく苦い味を感じる。そう。目の前に置かれたのはアイスコーヒーなのだ。この寒い季節にアイスで注文してしまうなんて、普段から注文し慣れていないことが一目瞭然だ。ここで一応断りを入れておくが僕は今までの人生で一度もコーヒーというものを美味しいものだと認識したことがない。嫌いなわけじゃない。毎朝かかさずに飲んでいるし、人の家に上がった時にコーヒーを出されても全く嫌悪感を抱かない。もちろんそれがホットであってもアイスであってもだ。だがそれでもなお、この飲み物の美味しさが理解できない。なぜこんな苦い飲み物を毎朝自分が飲んでいるのかが不思議で仕方ない。それは有毒なユーカリの葉を食べて、消化するために十六時間眠らなければならないコアラが持っている気持ちときっと同じだろう。でも僕は結局、今目の前に置かれたアイスコーヒーを飲み干すだろうし、明日の朝になればいつも通りホットコーヒーを飲むことになるだろう。世の中ってのはそういう風にできている。


 「彼氏にね、追い出されたの。」

彼女は雨粒が水たまりに落ちるように沈黙の中に言葉を一滴落とした。

「付き合いたての頃から分かっていたんだけど、カレ、暴力癖があるのよ。」

彼女の彼氏には一度だけ会ったことがあるがその男が暴力を振っている場面を想像してみても、いまいちピンとこなかった。

「どんなに暴力を振られても好きという気持ちは変わらなかったわ。彼はとても優しかったし、私のことをすごく愛してくれていたからね。でも…たまにその性格が変わっちゃう時があったの。」

僕はあまりの速さで言葉を並べられたので何と返せばいいか分からなかった。

「傷ついたことに…気付かないことってあると思う?」

ちょっと待ってくれ。整理が追いつかない。

「私は傷ついていることにさえ気付かなかったわ。もしかしたら今もまだ気付いてないかもね。間違いなんて本人が認めなきゃ間違いにならないのよ。」

整理の追いつかない頭をどうにか片付けようと考えをめぐらせていた時、ある事実に気付いた。


  彼女の瞳から温かい雫が流れていた。


 もしかしたら彼女は僕が喫茶店に入ってきた時からその状態だったのかもしれない。あるいは外で雨が降る中、空を見上げていた時からそうだったのかもしれない。分からないが、とにかく今溢れ出たものではないということは僕にでも分かった。

「今朝ね…彼に別れたいって言われたの。でも私はね…変わらず…彼のことを愛していたから別れたくないって言ったわ…。そしたら殴られて…出ていけって言われたの。」

彼女の瞳から音もなく流れた雫は、頬を伝い、白く透き通った彼女の首筋をそっと濡らした。

「私は彼を愛していたの…本当に…こんなことになってまで馬鹿みたいだけど…本当に愛しているのよ…今もずっと…。一体何がいけなかったのかな。何を間違えたのかな…。この気持ちをどこに持っていけばいいのか分からないわ…。心の墓場みたいなものがあれば私のこの歪んだ心も固い土の中に埋めてしまえるのにね…。」

「君の心は歪んでなんかいないさ。どうしてそんなに自分自身を責めなくてはならないんだ?」

と僕は問いかけてみたが、また圧倒的な沈黙が僕達を包み込んだ。


 今までの人生において後悔していることはたくさんある。自分が傷つくだけならまだいい。だが他人を傷付けてしまった時、僕はどうしたらいいのか分からなくなる。文字通り本当に分からなくなってしまうんだ。途方も無い後悔だけがただその場所に、壁にこびりついたガムのように残り続けるんだ。


  優しい人間になりたい。


  もう過ちを犯したくない。


 そんなどこにでも転がっている理想というものは、大事なことのようで実はそうじゃない。それは自分自身のエゴで、結局何の解決にもなっていないんだ。


 目を覚ましたら全く見たことも来たこともない場所にいて、そこにあるのは足元を包み込んでいる水と限りなく青く、雲ひとつない空だけ。そんな世界に自分がいたとして、そこに絶望はおそらくないだろうが、同じく希望もない。時々そんな世界に行ってしまって、そのまま死んでしまいたいと思うほどだ。


 何もない。

 そこには何もない。


 風に混ざって消え去ってしまいたい。



「あなたは翼をもがれた鳥についてどう思う?」

「鳥?」

「ええ。」

「それは飛べない鳥…じゃないのかい?」

「単純にそれだけじゃないと思うのよ。翼をもがれたってのは言い方を変えると、それだけで済んでいるとも言えるよね?」

「それだけで済んでいる?」

「だから、翼をもがれたって言ってもまだ地面を歩くことはできるわけじゃない?それってまだ可能性が残されているってこと。本当の絶望じゃないわ。」

僕は黙って彼女の言ったことを頭の中で少し考えてみたが、さっぱり理解できなかった。理解できないというのは彼女の発言のことではなく、その話を今持ち出してくることの本意が理解できなかったのだ。

「君の言いたいことがよく分からないんだ。」

彼女の中で今どんな形をしているのか分からない心を、出来るだけ刺激しないように言葉を選んだ。

「何が分からないの?」

「翼をもがれた鳥の話は分かるさ。理解出来る。でもその中にある君の言いたいことが分からないのさ。」

「そんなの簡単よ。今の私はまともに歩くことすら出来ないってこと。泣いて叫ぶことしか出来ない。赤ん坊同然ってことよ。」

「なら、なぜ叫ばない?」

「馬鹿なの?この歳になった女が叫んでたら頭がおかしいと思われるわよ。」

彼女は少し笑った。やはり美しい女性は笑っている方が良い。

「話を聞いている限り、一つだけ僕にも言えることがある気がするんだ。君とその彼の間にどんな出来事が今まであって、どんな関係が形成されていたとしても、そしてそれを僕自身が全く知らなくても、動かない事実が一つだけあると思うんだ。」


 僕はブラックコーヒーを一口飲んだ。


「その事実って何?」

「君は悪くないってことさ。」


 そしてまた僕と彼女の間をコーヒーの匂いがついた暖かい空気が流れた。

「あなたの口から慰めの言葉が出るなんて、どういう風の吹き回しかしら?」

「風の吹く向きなんて気ままなもんさ。」

彼女は笑い、僕も笑った。

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