Karte01:聖戦の幕開け

───【死の国】。


この国……国家ヴェルティがそう呼ばれるようになったのは、ここ最近の事だ。

本国における自殺者は年々増加し……昨年ついに5万人を超えた。死者だけでは年間200万人を超えている。経済は大打撃を食らい、人口は急速に減少し───この国は今、衰退の一途を辿って破滅の危機に瀕している。


何故急に死者、それも自殺者が増えているのか。

国民の精神力が急激に低下したとでも云うのだろうか。

社会的な問題が急に増えたわけでも、貧困に悩まされているわけでもなく、では一体何故───?


………今日もまた、死者が出た、自殺未遂事件が発生したなどという不穏なニュースが…医局の壁に備え付けられたテレビから聞こえてくる。それを横目で見て───柔らかな黒髪を後ろで一つに束ね、胸に青い宝石のブローチを身につけた白衣の青年……ルミエール・シュヴァリエは溜息を吐いた。


いけない、勤務中に溜息なんて溢している暇は無いな……。そう思って一つ深呼吸。顔を上げてルミエールはデスクの上の資料に目を落とし────


───その刹那、横のデスクにどさりとリュックサックが落とされた。


……何事?

ルミエールはその音に驚いて、横のデスクに目を遣る。そこには音の原因である黒いリュックサックと………長い白髪にルビーのような瞳を持ち、赤いドレスのような衣服を身に纏った女性の姿があった。

彼女はリュックサックとは別に持っていた白衣をばさりと羽織った。その白衣は此処───ヴェルティ国立中央病院の職員である事を示す、袖と裾が黒色で右腕に二本のベルトがあり、左腕にジュエルで造られた病院のロゴがあしらわれている特注のものだ。勿論ルミエールも全く同じ白衣を身に纏っている───違う点を一つ上げるとするなら、目の前の彼女の白衣の方が少し裾が長い、という事だろうか。

それからリュックサックを開き、デスクの上にペンケースやファイル、医学書などをおもむろに置く彼女。……新しく入ってきた医師だろうか。医師らしき女性は、一通り机の上に最低限必要なものを置くと、一つ呼吸をしてルミエールを方に向き直った。彼女はルミエールを頭の先から爪先まで見ると───声をかける。



「……お前がルミエールか」


「え……あ、そう…ですけど……。あの……誰、ですか…?」


「クレマリー。クレマリー・ルーヴィルだ。出身はリューデン。専門は精神科と総合外科。よろしく頼む」


「え…?よろしく頼むって…」


「心配するな、院長には全て許可を取ってある。ルミエール・シュヴァリエ……お前は今日から私の上司だ。そういうわけでルミエール、これからの事だが───」


「ちょ…ッ、ちょ、ちょっと待ってください…!クレマリーさん…でしたっけ、あの、僕が上司ってどういう…!だ、だって僕、この前研修が終わったばかりなんですよ…!?」


「それがどうした?私は今日来たばかりだぞ、私よりはお前の方が先輩だろう」


「そ……それは、そうですけど……」


「大丈夫だ、手術の事や病気の事は一通り頭に入れてある……此処の内部事情が確認出来たら私は構わない。お前は私と一緒に【使命】を果たしてくれたらいい」


「【使命】…?」


「嗚呼…【使命】というのは───」



クレマリーがそう言いかけた途端、ルミエールのデスクに備え付けられた内線電話が鳴り響く。クレマリーは「説明するまでもなかったな」とぼやき、ルミエールは慌てて電話を取った。



「……は、はいっ、ルミエールです……院長先生!───え?手術を?今から───クレマリーさんと!?そんなの何かの間違いでは───そ、そんな…!だって僕───」



……院長から回ってきた内線電話は、今から第一手術室でオペを行う、執刀医はルミエール、助手にクレマリーをつける事。看護師はオペナースを二人つけるから頼むぞ───そういう内容だった。

どうして研修が終わったばかりの僕が!?どうして今日来たばかりのクレマリーさんと!?そんなの絶対に無理───!

そう言おうとした時、クレマリーがルミエールの持つ電話を奪い取った。



「クレマリーだ、手術は【例の件】だな?看護師達には説明していいのか?───そうか、先程病院全体に連絡が回ったのか。流石院長、仕事が早くて助かるな。一つ質問だが、執刀医はルミエールだけで私は助手に回っていいのか?……成る程、私とルミエール二人でやるんだな……嗚呼、今すぐ向かう…」


「く、クレマリーさん何言ってるんですか…!」



受話器を置いたクレマリーは髪を一つに束ねると、ルミエールに「行くぞ」とだけ声をかけて医局から出て行こうとする。ルミエールは混乱しながら「クレマリーさん、」と呼び止めた。



「ぼ、僕には無理です…ッ!まだ未熟者なんです、そんな僕が執刀医だなんて……!」


「ルミエール、患者を救う気はあるか?」


「え……?」


「苦しんでいる患者を、救う気はあるか?」


「……勿論です。僕はそのために、医者になったんですから…」


「なら大丈夫だ。絶対に救うという強い意志があれば、恐怖に駆られて変なミスさえしなければ、オペという勝負には絶対に勝てる。お前は一人で戦うんじゃない───私が居る」


「!」


「不安だからと人に頼ってばかりでは、一生上手くならないぞルミエール。お前と私でやるしかないんだ。患者は、私達に救われるのを待っている。さぁ、どうする?行くか?行かないか?」


「………ッ」



クレマリーはルミエールの瞳をじっと見て語りかけた。宝石のような真紅の両眼には、一点の曇りも存在しない。ルミエールは瞳を揺らして悩み……心の中でクレマリーの言葉を反芻する。


───苦しんでいる患者を救う気はあるか?

患者は、私達に救われるのを待っている───


………。

不安がないかと言えば、嘘になる。

手術は、生きるか死ぬかを自分達医師が決める行為だ。

もし万が一失敗して、命を救えなかったら……そう思うと、手が震える。足がすくむ。喉がからからに渇いて動悸がする。だけど………。


だけど、救えるのは自分達しか居ないのだ。

手術をしなければ、患者は助からない。

何度だって繰り返そう。

救えるのは、自分達しか、居ないのだ。


怖いなどと言っている場合ではない。

何のために僕は学を積んできた?

何のために此処に勤めている?

何のために医師になった?

決まっている───患者を、救うためだ。


だから───。


ルミエールは瞳に決意を宿して、クレマリーより先に扉を開いて廊下に躍り出た。



「……行きます。やります、僕が……僕達でやりましょう」


「いい返事だ。やはりお前を上司に選んで正解だったな」



クレマリーはくすりと笑うと、ルミエールに続いて廊下に足を進めた。

機械的なLEDの灯りは、床に二人の影を落とす事を許さない。クレマリーが「第一手術室は何処だ?」とマスクをしながら問いかける。それにルミエールは「こっちです!」と応えて───急ぎ足で手術室に向かうのだった。














「───ルミエール先生!」



第一手術室に急ぐと、そこでは看護師二名が既に手術の準備を終えていた。患者である女性は意識がなく、ぐったりと横たわっていた。ルミエールはそれを心配そうに見てから看護師に向き直る。



「彼女は、一体……」


「市販薬のオーバードーズです。それから、リストカットによる大量出血で血圧低下が見られています」


「オーバードーズ…!」



……ルミエールも、聞いた事はあった。

身体及び精神にとって有害な作用が急速に生じるほどの量の薬品を使用する、オーバードーズ。市販薬───睡眠薬や風邪薬で行われる事が多く、それを懸念したヴェルティ政府は市販薬の購入を一人一箱に限定しているが……複数のドラッグストアを回れば簡単に薬が入手出来てしまうので、オーバードーズの撲滅には程遠いと聞く。

自傷行為の一つとして挙げられるこのオーバードーズ……患者は希死念慮を抱いているケースが殆どだ。目の前にいるこの女性も、死にたいと願っているのだろうか───。そう思うと、悲しい気持ちになってくる。

彼女には彼女なりの事情があって心を病んでしまったのだと分かっている。それでも───ルミエールは目の前の彼女に、「生きていてほしい」と願わずにはいられない。これは、僕のエゴなのだろうか……ルミエールの瞳が再び揺れる。

クレマリーはそんなルミエールを一瞥し、手袋と手術着を装着しながら看護師に指示を出す。



「30Frの胃管、ゼリー、洗浄用の注射器、バケツを用意してくれ。それから活性炭75グラム、ソルビトール60グラム、輸液も」


「は、はい!」


「ルミエール、始めるぞ……今は目の前の命を救う事だけ考えろ。いいな?」


「クレマリーさん……」


「死んだら全てが終わりだ。彼女を取り巻く状態が改善する未来は絶対に訪れない。だから私達は命を救って───それから彼女が生きやすくなるよう最大限の手伝いをする。手術だけが医者の仕事じゃない……患者が安心して『生きていける』ようにするのが私達の【使命】だ」


「!!」



クレマリーの言葉が、ルミエールの心にスッと入ってゆく。

そうか……患者が生きていけるように支援するのが自分達医師の使命なのか。手術だけで自分の仕事はお終いなのだと、命を救った後の支援の事など考えていなかった自分を殴りたい。

『手術だけが医者の仕事じゃない』───患者を救う、という言葉を綺麗事でなく現実のものにするなら、患者一人一人に真摯に寄り添って、全力を尽くして患者達と向き合い、彼女達が生きやすくなるよう手助けをしなくてはならない。それが、医者の使命。僕の使命。僕はこれから、その言葉を肝に銘じて───患者を救える存在になろう。


ルミエールの瞳から、迷いの色が消えた。



「……分かりました。僕が、僕達で、必ず彼女を救います。始めましょう───彼女を救うサージェリーを」



クレマリーはそれを見るとマスクの下でにっと笑って見せた。

そして看護師達を見回すと、手術開始を高らかに告げる。



「さぁ───オペレーションの時間だ」










「───点滴入りました!」


「血圧上60、下測れません!」


「私が傷口の止血を行う、ルミエールは胃洗浄を!」


「わ、分かりました…!」



手術が開始し、看護師が静脈ラインを確保して輸液の大量投与を行う。クレマリーは左手首の方に回って止血を開始した。ルミエールは少し慌てながら近くにいた看護師から胃管を受け取る。

少し痛いですよ、頑張ってください───そう声をかけ、腕を下にして左側を下にした横向きで寝た状態…左側臥位の患者の気道を確保しながら胃管を挿入。気管支に迷入せず胃まできちんと入った事を確認すると、胃に残存している薬剤の吸引を開始する。気管や胃を傷つけないように気を付けながら吸引を行う。しばらくその操作を続けていると何も出てこなくなったので……ルミエールは忘れかけていた呼吸を思い出し、一度息を吐いた。



「……よし、吸引は終了…!次は…」


「洗浄だ、生理食塩水は温めてあるか?」



圧迫しているガーゼを一度離して傷口の確認をしながら、クレマリーはルミエールに指示を出す。「38℃に温めてあります!」と看護師が生理食塩水と洗浄用注射器をルミエールに渡し、ルミエールはそれを受け取ってゆっくり注入する。それから注射器で陰圧吸引を行なって排液───これを、排液が無色透明になるまで繰り返す。

200から300mlの注入・排液をおよそ───50回。

途中で体位を仰向けの姿勢に変え、腹壁を揺すって胃体部と幽門部も洗浄する。

術中、食塩水の大量注入により高ナトリウム血症の兆候が見られたので5%ブドウ糖液を輸液しながら治療を続け……注入する生理食塩水の量が11Lに達する頃には、排液は無色透明で無臭になっていた。

胃の中の内容物を除去した後は活性炭を75グラムと緩下剤───ソルビトールを60グラム投与し、薬剤吸着と共に腸からの吸収を抑制し排出する事を試みる。胃管はこの段階で抜いて……これでとりあえずの処置は終了だ。ルミエールはバイタルが映し出されたスクリーンを見遣った。



「───血圧上83、下51……少しずつ回復しています!」


「よ、かったぁ……」



どうやら、薬剤の吸収は手術開始時より抑える事が出来たらしい。浅かった心拍も、手術室に運ばれてきた時に比べると回復の兆しを見せていた。ルミエールはほっと胸を撫で下ろすと、安心感からへたりとその場にしゃがみ込んでしまう。クレマリーが「まだオペは終わってないぞ」と声をかけ……ルミエールは「そ、そうでした…!」と焦りながら両足に力を入れて立ち上がった。……まだ、足が震えている。

クレマリーの方を見れば、止血を終えて深い傷の部分の縫合を始めていた。───速い。それに、物凄く正確だ…!縫合は手術の基本だ。ルミエールも何度も練習を繰り返しているが、丁寧さを意識すると遅くなり、スピードを意識すると雑になり……とまだまだ上手く出来ない。それをクレマリーは、まるで「手元を見なくとも出来る」と言わんばかりのスピードで、それでいてミシンを用いたように綺麗に皮膚を縫い合わせている。ルミエールはそれに見入ってしまう。

……不意に、縫合中のクレマリーと目が合った。クレマリーは一瞬手を止めると、再び視線を落としてハサミで糸を切る。クレマリーはもう一度ルミエールの方を見ると、表情を変えず告げた。



「……ルミエール、安心するのはまだ早い。手術は終わってないんだからな」


「え……?だ、だって胃洗浄も傷口の止血も終わったんですよね…?他に何が、」


「寧ろここからが本番だ。これを見てみろ───」



そう言いながらクレマリーは患者の女性の上半身の衣服を脱がせてしまう。な、何をやってるんですか───!そう言いながら裸体を見まいと両手で顔を覆うルミエール。暗闇の視界の中、クレマリーの声が飛んでくる。



「ルミエール、ここだ……心臓部を見てみろ」


「な、何を言って───」


「いいから早く」



……もう!何を言っているんですかあなたは───そう思いながら半ばヤケになって瞳を開き、患者の胸部を視界に映す。そして、ルミエールは見てしまう。



「………え───?」



ぼこり、と胸骨の中央の皮膚が不自然に腫れ上がっていた。否……「腫れ上がる」という表現は正しくない。皮膚自体は腫れてなどいない……正確には、皮膚の下にある「何か」によって、胸部の皮膚が強く持ち上げられていたのだ。これは、一体───?

ルミエールは混乱しながらクレマリーの方を見た。



「な……なんですか、これ…ッ、何らかの感染症ですか…!?」


「その見当は遠くない、といったところだな。……ルミエール、ヴェルティで年々自殺者が増えているのは知っているな?」


「知って、ますけど……それがこの患者と何の関係が、」


「最後まで聞け。……この国には、《病魔》が蔓延っている。《病魔》とは人に取り憑くようにして…或いは囁きかけるようにして感染し、精神を蝕む新型の病の事だ」


「病魔……」


「そして───この国ヴェルティで流行している《病魔》こそが、人に希死念慮を抱かせ……思考能力を奪って自殺へ導く死神。その名を……《スアサイダル》。この患者もそれに感染していたという事だな。《スアサイダル症候群》に感染した患者は体のどこかに宝石のような腫瘍が形成される……この胸部の違和感こそが、その証拠だ」


「そ…そんな……!」



初めて聞く病気だった。

まさか、この国ヴェルティを衰退させていたのが、新型の病だったなんて───!

……医学書に載っている病気なら、研修医時代に調べた。有名な病気なら、手術を執刀できる自信はなくとも治療法を頭には入れてある。けれど……知らない病に侵された患者を眼前にして、それなのに自分は病の事を何も知らなくて───それは、一寸先が闇に包まれた状態で「道を絶対に間違えるな」と言われているような感覚で…!

……怖い。どうしよう。何だその病気。僕はどうすれば───!

不安から手先がかたかたと震える。それをいなそうともう一つの手で押さえるが……依然として恐怖は消えない。救いを求めるようにクレマリーを見上げれば……彼女は「安心しろ」と凜とした声で告げた。



「治療法ならある……《スアサイダル症候群》の治療は外科手術による腫瘍の切除だ。腫瘍がある限り、患者は抱く必要のない希死念慮に苛まれる───が、腫瘍を切除してしまえば正常な思考が出来るようになる。《スアサイダル》は人の心の弱い部分に付け込んで感染させる病魔と院長から聞いている……故に、オペが終わっても心理治療はしなくてはならないがな」


「腫瘍の切除……そ、それで、患者は助かるんですか…ッ!?」


「あぁ……助かる可能性はぐんと上がるだろうな。この患者の場合は……心臓に腫瘍が形成されているんだろう。自殺行為を決行したくらいだ……腫瘍はかなり成長している。だがこれを取り除けば、オーバードーズを行った頃よりは気持ちが楽になるだろう」


「心臓……」



───心臓手術は、高い技術力が求められる。

心臓は生命維持に最も必要不可欠な臓器だ。その手術の失敗…それは即ち死を意味する。……今の自分には、一人で出来そうもない。この場に居るのは、僕とクレマリーさんだけだというのに……!

だが、どうやらそう不安に思っているのはルミエールだけのようだった。クレマリーは「麻酔を入れるぞ」と看護師に指示を出して麻酔を注入すると……直ぐに顔を上げた。



「只今より、《スアサイダル症候群》のオペレーションを行う───メス。」


「はい」


「く、クレマリーさん…ッ、僕達二人では無理です…ッ!ベテランの先生を呼びましょう…!」


「無理じゃない、出来る……私を誰だと思っている?リューデン医学界───そして精神医学界の第一人者、Dr.リズベルトの一番弟子だぞ。大丈夫だ……私が、必ず助ける。」


「Dr.リズベルト……?」



聞いた事があった。いや、聞いた事があるなどというものではない───ルミエールは彼を知っている。

リズベルト・ゴッドフレイ。

隣国リューデンが医学の中心地と呼ばれるようになるまで医療に貢献した名医。そのオペレーションは最早芸術。至高の領域まで磨き上げられた技術に、医師や医学生達の多くが憧れを寄せている。勿論ルミエールも、一人の外科医として医学生時代から彼に憧れていた。

そのDr.リズベルトの一番弟子が、まさかクレマリーさんだなんて…ッ!


クレマリーは看護師からメスを受け取ると、流れるような動作で開胸を行った。胸骨上部から真っ直ぐにメスを入れ、皮膚を切開する。そして中央にある胸骨を縦に二分し、開胸器を用いて胸骨を左右に広げて術野を作り───

その速さと正確さに唖然としていたルミエールを、クレマリーがそこで呼び止めた。



「……ルミエール、見ろ───これが腫瘍だ」


「え───あッ!」



心臓部を覗き込むと、そこには心膜に張り付くようにして形成された鉱石のような異物が、水晶のようにキラキラとライトの光を反射して生えていた。おおよそ人体に形成されるとは信じ難い腫瘍に、ルミエールは思わず息を呑む。



「…これ、が……《スアサイダル症候群》の腫瘍…」


「心膜もぼろぼろだ…心臓に刺さっていないのと、胸骨にヒビが入っていないのだけが救いだな」


「えと、クレマリーさん……これ…切除出来るんですか…?」


「当たり前だ」



クレマリーはそう言うと視線を術野に戻し、カンシやセッシを持ち替えながら腫瘍を臓器から剥がしていく。その速さと正確性は、まるでドラマのワンシーンを見ているような感じで───。「速い…」と隣でバイタルチェックをしていた看護師がそう漏らすので、そこでようやくルミエールはこれがドラマなどではなく、現実に行われている手術なのだと思い出す。


……何分が経過しただろう。ものの数分だったのかもしれないし、何時間か経過したのかもしれない。クレマリーは器具を置き……両手で体内から腫瘍の結晶を持ち上げた。「それ」は拳大ほどの大きさで、しっかりと見るとやはり鉱山で採掘される鉱石のようにしか見えなかった。

クレマリーは「それ」を一同に見せるとトレーの上に置き、ぼろぼろになった心膜を素早く縫合し───



「……これで、一件落着だな」


「えっ、まだ閉胸してないじゃないですか…!」


「ふっ、後はお前の仕事だ『執刀医のルミエール』。」


「こ、ここまでやって後は僕に任せるんですか…!?」


「見ているだけじゃつまらないだろう?」



何か問題でも?と首を傾げるクレマリー。

……この人、最後までやるのが面倒になったのでは…?という不信感が脳を過ぎるが、ここまでしてくれた彼女の顔を立てて「オペの経験を積ませてくれようとしている」という事にして呑み込む事にする。閉胸操作は外科手術の基本だし……。

そう無理矢理納得すると、ルミエールはクレマリーと位置を変わってゆっくりと閉胸操作をしていく。胸骨閉鎖用のステンレスワイヤーを用いて閉鎖し、胸部を縫合する。クレマリーと比べると、遅くて美しくなどはない。少し恥ずかしいが……それでも、今の自分にできる全力を尽くそう。此処にルミエールを嗤う人など、誰一人として居ないのだから───。


……こうして、ルミエールとクレマリーによる初の手術は成功に終わった。

「手術中」のランプが消え、患者は病室へ運ばれ……一つの尊い命が救われたのだった。





***


Karte


ドロシー・アルベール(二十歳・女性)


・株式会社ロザージュに勤める新入社員

・仕事によるストレスと疲労からODに至る

・精神疾患、内服薬は無し

・《スアサイダル症候群》の発症が確認───


***






手術から数日が経過した。

ルミエールは医局でオペを行った患者───ドロシーのカルテを見ながら思案を巡らせていた。


ドロシー・アルベール。

彼女は秋入学した短期大学を卒業後、昨年の十一月から株式会社ロザージュに就職した新入社員、との事だった。株式会社ロザージュ……その企業は耳にした事はある。確か、ファッションや芸能など様々なジャンルの雑誌を出版していた会社の筈だ。福利厚生はしっかりしていると謳っているようだが、「全ては最高の雑誌を作るため」というスローガンを掲げるロザージュは仕事に厳しく、残業は当たり前でほぼ住み込みの状態で仕事をしている社員もいる……などという噂も聞いた事がある。

その会社に対してのストレスと疲労から薬のオーバードーズとリストカットを行い、ドロシーは自殺を図った───事の成り行きはどうやらそういう事らしい。



「───ブラック企業、ですね……ヴェルティでも最近問題視されています」



そう、カルテから目を離さないまま…隣のデスクでパソコンと睨めっこをしているクレマリーに話しかける。クレマリーもまた、作業の手を止めずに答えた。



「リューデンでも社会問題として医学会で取り上げられていたな。ヴェルティでの近年の自殺者を大まかに調べてみたが、仕事のストレスで亡くなった人も多いようだ……何処の国でも仕事が精神を病ませる原因になるケースは多いみたいだな」


「ですね……。それにしても…クレマリーさん、《スアサイダル症候群》だとよく分かりましたね。服を着ていたら腫瘍も見えませんでしたし…。この事例…僕だったら普通に『精神を病んだ』で済ませてしまいそうです」


「ヴェルティで《スアサイダル症候群》が流行している以上、自殺願望があって行動に移してしまった人は《病魔》の感染を疑った方がいいだろうと思ってな」


「確かに…」


「……ご両親から借りたドロシーの学生時代の資料を見る限り、彼女は冷静な判断と行動ができる人間だったらしい。ならば会社が合わないとなっても自殺を図るより辞職を選ぶと思わないか?……その判断を鈍らせ自死に導いたのが《スアサイダル》だ」


「も、もうそんなに調べたんですか…!?学生時代の事まで…普通はそんな事しませんよ…」


「外科ではそうかもしれんな。患者の出生や学生時代の事を本人の許可を得て調べるのは精神科ではよくある事だ……カウンセリングの際に卒業アルバムや通知表を持ってきてもらう事もザラにある」


「……あ…クレマリーさんって精神医学も専門なんでしたっけ…?」


「一応な。まぁ、その話はおいおいするとして…兎も角、《スアサイダル》は人の弱みに付け込み、心を蝕み……そして死に追いやる。【死神】───その通り名も的を射ている。ドロシーもその《病魔》に唆されたんだろう…」


「……僕は、今回に限っては…《スアサイダル》は最後のひと押しをしただけなんじゃないかな、って…そんな気がしています…」


「ほう?死神を庇うのか?」


「断じて違います!でも…辞職できない理由が、あったのかなって……それでどうも出来ずにいたところに、《スアサイダル》が手を差し伸べた…そんな感じがするんです。その手の差し伸べ方に問題がある、んですけど」


「成る程…。一理あるな」


「まぁ……あくまで僕の予想、に過ぎないんですけど」


「気になるなら確かめに行くか?」


「え───」


「ドロシー本人に話を聞いてくるか?と言っているんだ。患者のアフターケアも仕事だ───『手術だけが治療ではない』……そうだろう?」



そう言いながらクレマリーはノートパソコンを閉じ、積み重なった資料の中からドロシーのカルテと資料を取り出した。……どうやら、ルミエールがNOと言っても一人で向かうつもりらしい。

……そうだ、手術したからといって患者を「救った」事にはならないのだ。

彼女の心の闇を晴らす───それが「救う」という事。

ルミエールは意を決し、手に持ったカルテをぎゅっと握ると……「行きます」と答え、立ち上がった。








入院病棟。

ヴェルティ国立中央病院の入院病棟は、メインエントランスと医局、外来診察室や院内薬局、地域包括ケアセンターのある中央病棟に接する開放病棟の東入院病棟、閉鎖病棟の西入院病棟の二棟だ。東入院病棟は主に検査入院や外科・内科・産科・小児科に関係する患者が入院し、西入院病棟は認知症や精神疾患を持つ患者が急性期病棟と慢性期病棟に分かれて入院している。近年までは閉鎖病棟は西入院病棟の1から3階までだったが、自殺未遂者の増加に伴って搬送される患者が増え、彼らは精神疾患疑いとして精神科急性期病棟に入院する事になり……それに応じて病床数を増やす事になったのだ。

しかし、それら自殺未遂者を増やしている原因が《スアサイダル症候群》によるものだと判明した今───《スアサイダル症候群》の腫瘍切除手術が終わった患者は開放病棟に移ってもよいという事になった。……ドロシーもまた、開放病棟に入院している。


ルミエールとクレマリーは東入院病棟に赴き、ドロシーの病室の前に辿り着く。ルミエールは入るべくノックをしようとして───



「───はい、すみません……はい、そうです……ええ、本当にすみません……」



部屋の中からそんな声が聞こえたので、ルミエールはノックをする手を止める。……どうやら、電話中のようだった。ドアを数センチだけ開けてこっそりと中の様子を見ると、ドロシーはお辞儀を何度もしながら「すみません」と繰り返していた。その表情には恐怖と絶望、それから困惑の色がくっきりと表れている。



「……仕事の話、でしょうか…」



ルミエールがそう小声で告げると、クレマリーは「頭を下げっぱなしだと疲労して当然だな……」とまた小声で返す。

ドロシーは何十回目かの謝罪の後にようやく電話を切り、大きな溜息を一つ吐いた。そして顔を上げ───その視線がドアの隙間から覗いていたルミエールと合う。



「……先生?」


「あ。……あはは、バレちゃい…ました?」


「すみません、会社から電話がかかってきてしまいまして…。もう大丈夫ですのでお入りください」


「す、すみません……」



病室に入ったルミエールとクレマリー。ドロシーはクレマリーの顔を見るや否や頭を下げた。



「あ、あなたが私の処置を担当してくれたクレマリー先生ですね!ありがとうございました……私の身勝手な行動で先生方のお手を煩わせてしまい申し訳ないです…」


「頭を上げてくれ、謝られるのには慣れていない。……それで、どうして私の事を?」


「看護師さん達から聞いたんです。真っ白な髪の凄腕の女医さんが来た、と…」



ルミエールが「もうそんな噂が広まっているんですね…」とクレマリーを見遣る。クレマリーは「病院は閉鎖的なコミュニティだからな。噂など光の速さで伝わる……」と答えた。凄腕の、というのを否定しないところに彼女の自信が伺える。

ドロシーは頭を上げると、「それで何のご用でしょうか?」と問いかける。それにはルミエールが答えた。



「ええっと、あなたのお話を聞かせてほしくて…。」


「お話、ですか?」


「はい、え…と……ドロシーさんのストレス、についてなんですけど……」



どう言葉を選んだらいいものか悩んでいるルミエールに代わって、クレマリーが続きを述べた。



「市販薬のオーバードーズを行ったそうだな。隠す必要はない、否定するつもりはないからな。……その原因が『仕事によるストレス』というところまでは耳にしている。その詳しい話を聞かせて欲しいんだ」


「く、クレマリーさんストレートすぎますって…!」


「否定するつもりはないと言っているだろう。どんな理由でも受け止めよう……そしてこれからどうすればお前が生きやすくなるかについて考えたい。私達医者は手術をしたら仕事が終了するわけじゃない、患者に向き合い…そしてより幸せに生きられるよう手助けをするのが本分だからな」



これから私が、どうすれば生きやすくなるか……。

ドロシーは静かにそう呟いた。そして考え始める。

別に、隠すような事ではない。自分は仕事において何か悪い事をしているわけではないし、自分の仕事に対する考えが正当であるという客観的な思考も持ち合わせている。けれど……。

けれど、「人に相談する」という行為が何故か、ズルをしているような、自分は百パーセント悪くないと決めつけているような気がして、気が引けてしまうのだ。

会社の上司や同僚にとっては私が間違っているのかもしれなくて、しかも同じように苦しんでいる人が大勢居る中で自分だけが相談して救われようとしていいものか。そういう苦悩が頭を駆け巡る。


───どんな理由でも受け止めよう、否定するつもりはない。


クレマリーの優しい声がリフレインする。……被害者ぶるつもりはないけれど、私だって救われたい。死にたいと願うくらいには思い詰めていたのだ。自分はもう十分すぎるくらい頑張った。少しくらい……救われても、いいのだろうか。


ドロシーは小さな声で、ゆっくりと身の上の話を語り始める。



「……私は昨年の十一月からロザージュ……雑誌の出版会社に勤め始めたばかりの新人です。今が三月だから……まだ四ヶ月といったところですね。でも……」



でも、会社があまりにしんどいんです。

震える声で彼女はそう告白した。



「上司のセクハラとかモラハラが酷くて、会社に行くと───いや、電話もしょっちゅうかかってくるので休日もなんですけど───その、暴言を吐かれたりとか。伝達ミスや発注ミスとか、そういうのも多いんですけど、それらは全て私達平社員の責任にされます。聞いていないお前達が悪い、と……それが上司の言い分です」


「ロザージュは『全ては最高の雑誌を作るため』と謳っているそうだが……その内部でそんな事が起きているとはな」


「きっとどこの企業も同じですよ…。読者第一なのは確かですが、私達平社員の人権は無いも等しいです。上司があんな調子で最高の雑誌なんて作れるはずもありません。だから……私達は残業に残業を重ねてなんとか雑誌のクオリティを保っている感じで……。まぁ、それもお偉いさんの指示なんですけどね…あはは」


「成る程な……給料や休暇に関しては?ロザージュは『福利厚生がしっかりしている』と言われているが」


「休暇は週休二日です…が、休日も出勤が暗黙の了解になってますね……特に私達新人は休むな、と。私は四ヶ月働いて、そのうち三ヶ月間連続出勤していました。給料もヴェルティの国の水準ギリギリ……いやひょっとすると低いかも、という感じで。残業手当が出ないんですよね…それがかなり痛いです」



ドロシーは自分の手を見つめ、ぎゅうと握り締めた。

……なんて酷い職場。ルミエールは唖然とする他なかった。

クレマリーは「そうか……辞めようとは思わないのか?」と問う。それにドロシーは苦笑いしながら答えた。



「入って直ぐに辞めるなんて非常識だ、と一度上司に怒られてしまって。その時に『応援しているご両親に対して恥ずかしくないのか』とも言われまして…。うちの両親は父親が厳しくて。それでもロザージュへの就職は二人とも応援してくれているし、辞めるなんて非常識だ…と、父親にも言われる気がして……」


「それで辞められない、と」


「はい……」



ルミエールは、かける言葉を失ってしまった。

自分達医療従事者の仕事も、当たり外れがあると聞く。残業は当たり前、人間関係が悲惨……様々な噂を耳にする。

ヴェルティ国立中央病院は労働省と繋がっているため、比較的残業が少なく……あったとしても手当が支給される。育児や介護による休暇制度も認められており、スタッフ間の不仲もそこまで聞いた事がない。比較的ホワイトな病院だと言えるだろう。

それでも、急患が入れば定時退勤は見込めない。手術に失敗は許されないし、命一つ一つに向き合うのは莫大な体力と精神力を要する。「医師」という職業はそれ自体がかなりハードなものなのだ。


何故ルミエールはそんな医師を志したのか。


───それを思い出すといつも、降り注ぐ雨の音と……救急車のサイレンが脳に響き渡る。


『緊急患者です!腹部損傷、腹腔内出血が疑われます!』

『こちらの男性は肺挫傷と心筋梗塞の疑い!早く手術をしないと命に関わります!』


……朧げな意識の中で、そんな声が聞こえた気がした。


あれは、初夏の雨の日。じっとりとした湿気の中、車の中は空調が効いていて快適だった。寧ろ、少し肌寒いくらいだったか。サラリーマンをしている父親と一緒に映画を見に行った、そんな少年時代の温かな思い出。

それは、突如として悲惨な思い出に変わる事になる。


父親が急に心臓発作を起こして意識を失い、ハンドルに突っ伏するように伏せてしまう。不幸な事に───アクセルを踏んだまま。

制御を失った車は車線を超えてスリップし、隣車線を走っている車を巻き込みながらガードレールに衝突。巻き込んだ車には幸い運転手一人しか乗っておらず、エアバッグが作動して肋骨にヒビが入った程度で済んだという。

……だが、ルミエールと彼の父親は重症だった。

父親は心筋梗塞を引き起こしていたうえに肋骨の複雑骨折による肺挫傷。

ルミエールは首を強打した事による呼吸障害と、肋骨の下部が骨折した事による腹腔内出血に見舞われた。事故現場を見た第三者の通報により二人は緊急搬送され───そして、かろうじて一命を取り留めた。


『僕は、助かったの?お父さんは、助かるの?』


病室でルミエールが目が覚めたときには、既に自分の処置は終了していた。

父はどうなったのか───それを聞くと、看護師は決まって言葉に迷った。ルミエールは子供ながらに父親の容態が良くない事に気付いていた。後から知った事だが、父親は一度心肺停止に陥り……術後も意識が戻らなかったという。


『君のお父さんは今、こっちに戻ってこようとしているんだ』


医師の一人がルミエールにそう言った。それでも信じられなくて、ルミエールはもう一度「お父さんは助かるの?」と聞いた。……医者は、静かに───だけど決意を込めた声音で告げた。


『ああ、大丈夫───私が助けるよ、絶対に』


医師は「絶対」という言葉を使うべきではない。これも医学生になってから知った事だ。医療において「絶対助かる」と確信を持てるケースは無い。どの患者も、多かれ少なかれ急変するリスクを抱えているのだから。

けれど、あの医師は───迷う事なく「絶対に助ける」と言った。

その言葉が心強くて心強くて……。


結果、父親は適切な処置を受けて助かった。


この時、ルミエールは医師に救われた。

自分を助けてくれて、大切な父親も助けてくれて───大切なものを失わずに済んだのだ。

お医者さんってすごいんだ。僕も、あんなふうに…誰かの笑顔を守れる存在になれたら………


───それが、ルミエールが医師を…それも外科医を志すようになった理由だ。


医師になるのは昔からの夢で、今も昔も想いは何一つ変わってはいない。医師は厳しい仕事だと、それは分かっている。それでもこの仕事を辞めようと思った事は一度もない。だから───仕事に追い詰められ、辞めたいと嘆くドロシーに…どう声をかけていいかわからなかった。

「あの、」とぐるぐる回る思考を振り払ってドロシーに声を掛けようとした───その刹那。

クレマリーとルミエールの通信機に連絡が入った。それと、ドロシーの携帯電話に電話の着信があったのは同時だった。



『六十三歳男性、心筋梗塞です!緊急オペが必要です、今すぐ来てください!』


「もしもし……母さん?───えッ、父さんが倒れてこの病院に運ばれてくる!?」



クレマリーとルミエールは顔を見合わせる。



「……偶然じゃない、ですよね…これ」


「ああ……ドロシー、父親の年齢は?」


「え……?確か、六十三……」


「決まりだな。お前の父親は心筋梗塞で運ばれて来るらしい。今から私達でオペを行う」


「心筋梗塞ッ!?あの…ッ、父は、助かるんですかッ!?父さ───父は以前も心筋梗塞が起きて、その……それなのにまた再発するなんて……ッ」


「……」



悲痛に問うドロシーに、ルミエールは幼い頃の自分を重ねた。

あの頃と違うのは……今は、自分が救う側だという事だ。

だから……しっかりとドロシーの両手を握り───答える。



「───大丈夫です。僕達が、助けてみせます……絶対に」


「先生……」


「クレマリーさん、行きましょう。手術室は……」


「第三手術室だそうだ…が、まずは救命救急センターだな。行くぞ」



ルミエールとクレマリーは、白衣を翻してぱたぱたと病室から出て行った。ドロシーはルミエールに握られた手を再び握り……祈る。

先生達が助けてくれる……そう、信じながら。








患者を救いたいという気持ちと同時に、どうして救命救急医ではない自分達が緊急の患者を……などと思いながら二人は救命救急センターに赴く。そしてルミエールはその理由を知る。

そこでは多くの重症患者達が搬送され、処置を受けていたからだ。……その人数は二十人を超えている。救命救急医の人員不足───それがドロシーの父親の手術でルミエール達が呼び出された理由だろう。

クレマリーは多くの重症患者を見ても取り乱す事なく、そこで指令を出している医師に情報を要求する。



「クレマリー・ルーヴィルだ。オペの指示を受けて患者を引き取りに来た───それで一体、これはどういう状況だ?」


「あぁ、君達が……。助かるよ、今此処にいる患者の処置で手一杯で、新たに手術をする余裕が無い。工事現場で足場が崩落する事故が起きてね。二十名以上が高所から落下した……それで今はこういう状況なんだ……協力を感謝するよ」


「それは災難だな……同じ病院の医師だ、手はいつでも貸そう。それで……私達が行うオペの患者についてだが……」


「そうだな、すまない。……レオ・アルベールさん、六十三歳。疾患は心筋梗塞……以前に左前下行枝のカテーテル治療を受けているが、再狭窄が起き、それが悪化して再び心筋梗塞に。それから今回新たに右冠動脈後下行枝も詰まっている」


「成る程……やるとするならバイパス術、だな」


「そういう事だ。……呼んでおいて今更だが、クレマリー先生は心臓血管外科医で?」


「呼ばれておいて今更だが、専門ではないな。私は総合外科医だ……一応心臓手術の経験もあるがな」


「そ、それで大丈夫なのか…?」


「心臓外科医が居ないと不安か?それなら丁度いい……此処にもう一人居るからな。なぁルミエール、お前の専門は?」



突然話を振られてびくりと体を跳ねさせるルミエール。彼はえっと……といくつか言葉を選んで、「心臓血管外科です……一応……後期研修中、ですけど…」と恐る恐る答えた。クレマリーは救命医の顔を見てにっこり笑い、「一応専門の者は居る。心配は無用だ」と告げる。

そう───ルミエールは心臓外科を専門に選んでいる。父と自分が運ばれた時に執刀してくれたのは、心臓外科の先生だった。救ってくれたのは、言葉をかけてくれたのは、心臓外科の先生だった。ルミエールが心臓外科医を志すようになったのに、それ以上の理由など必要ないだろう。

……だが、まだ彼は初期研修が終わったばかりの新人だ。故に心臓手術の執刀経験も少ない。縫合ですら緊張するくらいだ。一人で心臓手術など、とても考えられない───。

……脳内にドロシーの不安げな顔が浮かぶ。

彼女を救いたい、彼女の父親を救いたい。それならば───怖いなどと言っている場合では無いのだ。自信は無いが、自分だって何もできないわけではない。医師として、出来る事はきっとある。そのために今まで努力して、学を、そして経験を積んできたのだから。

深呼吸して顔を上げれば、クレマリーが手招きをする。それに従って彼女の傍───パソコンの近くに行く。パソコンの画面に、患者であるレオの胸部の胸部レントゲン写真と心臓エコーの動画が映し出された。ルミエールは目を細めながら患部を確認する。



「……本当ですね、左前下行枝と右冠動脈後下行枝が詰まってます……」


「六十を超えているんだ、恐らく動脈硬化が原因だろうな。これだけ心筋梗塞を繰り返していると───」



クレマリーはパソコンの画面に映し出されたレントゲン画像と心臓エコーの動画を凝視して固まってしまう。ルミエールが心配そうに「……クレマリーさん?」と声をかけた。



「……いや、すまない。そうだな……今回は人工心肺を使ってオペをしよう」


「今時はオフポンプでやる方が多いと聞きましたけど…?」


「なんだルミエール、オフポンプでやりたいのか?難度はぐんと上がるが」


「い、いえ…っ!そういうわけでは…!」


「はは、向上心があっていいと思うがな───それじゃあ先生、患者をオペ室に運ぶぞ。情報の提供と検査、感謝する」



クレマリーはそう言うとレオの乗っているストレッチャーを押して手術室に急いだ。その柵の部分を持っていたルミエールも引っ張られて焦って着いて行く。救命医は「騒がしい奴らだな……」と眉を下げ、再び自分の職務に戻るのだった。









───ピッ、ピッ……とスクリーンに心電図と血圧、脈拍、体温、呼吸数などが映し出されている。看護師達が台の上に必要な器具を乗せる。クレマリーとルミエールは肘まで丁寧に洗浄し、手術着に着替えて手袋を装着し───手術室の中に入室した。

手術室の中では、看護師が三名待っていた。ルミエールは「よろしくお願いします」と頭を下げる。クレマリーは全員を見回すと、手術開始を宣告した。



「……これから冠動脈バイパス術を行う。執刀は私、助手はルミエール。場合によって柔軟に執刀を変えるつもりだ。今回のバイパスは左内胸動脈から左前下行枝へ、大動脈から静脈グラフトを使用して右冠動脈後下行枝へ……と、この二つだ。よろしく頼む」



はい、と看護師達が声を揃えて返事をする。ルミエールも少し遅れて「は、はい!」と返事を返した。全員の気持ちが一つになった事を見届けたクレマリーは、看護師からメスを受け取り───胸部を切開するのだった。


……冠動脈バイパス術。

それは、心筋梗塞や狭心症の患者に対して行われる開胸手術だ。

心臓の血管───冠動脈と呼ばれる三つの血管───のいずれかが完全に詰まってしまう「心筋梗塞」と、詰まって血流が悪くなる「狭心症」には、主に二つの治療法が存在する。

一つが「カテーテル治療」、そしてもう一つが「冠動脈バイパス手術」だ。


カテーテル治療とは、太ももの付け根や腕の太い動脈から「カテーテル」という細いワイヤーのような医療器具を挿入し、詰まっている患部でバルーンと「ステント」という、金属やプラスチックでできた網目状の筒のような医療器具を膨らませて患部を押し上げ、血流を回復する治療方法だ。患部を押し上げた後にステントをそこに留置して、心筋梗塞や狭心症を治療する。患者に対する負担が非常に少ないのが特徴である。

一方、今回の患者のように詰まっている箇所が複数ある場合はカテーテル治療が行えなかったり、カテーテル治療が成功してもステントを留置した箇所が再狭窄───再び狭くなってしまい再発する、というリスクがあったりする。


そんな時に行うもう一つの手段こそが冠動脈バイパス術だ。

冠動脈バイパス術は、狭くなった冠動脈の先に別の血管を縫い付けて迂回路(バイパス)を作り、血流を改善する外科手術である。

心筋梗塞を再発させやすいカテーテル治療に比べ、血流を完全に改善できるという長所を持っているこの手術……それにはごく細い血管を髪の毛より細い糸で繋ぎ合わせる技術が求められる。手術時間が長くなると合併症を引き起こすリスクが高まるのでスピードも要求される───人工心肺を用いて心停止下で行う今回は、心臓を動かしたままで行うオフポンプ式よりも安全で安定している。……ベテランの専門医が居ない今回の手術では妥当な選択と言えるだろう。



「───開胸器」


「はい」



クレマリーは胸骨を真っ直ぐに正中切開すると、開胸器を受け取って胸骨を左右に広げて術野を確保。心臓を包む心膜を切開して心臓大血管を露出させる。そこでルミエールが温めた生理食塩水を心囊内に満たし、上行大動脈壁───心臓に繋がっている太い動脈───を術野エコーで検索。「グラフト」……つまり「新しい血液の通り道となる血管」の吻合が可能かどうかを確認する。それと同時に患部である標的の冠動脈も肉眼で確認。血液を送り出す「入口」となる動脈と「出口」となる冠動脈の両方を確認して、それを繋ぐようにグラフトをデザインする。

……今回の標的は「左前下行枝」、正面から見て右手前側にある血管の中央部分と「右冠動脈後下行枝」、正面から見て左下にある血管の末端の方の二箇所だ。前者の血管は左内胸動脈……心臓に繋がっている大動脈の上側から出ている動脈、「内胸動脈」を切ってバイパスする。後者は脚部の「大伏在静脈」を採取してそれを吻合する予定である。

それをクレマリーや看護師と共有すると、クレマリーは胸壁をグラフトに使用する内胸動脈剥離用のリトラクター───先端がフック状になっている、手術スペースを確保したり筋肉や組織を傷つけないよう避けるために使われる器具───で持ち上げた。



「次、超音波メス」


「はい」


「よし…ルミエールは大伏在静脈を採取しておいてくれ」


「分かりました…!」


「それじゃ、切るぞ」



看護師から超音波メスを受け取ったクレマリーは動脈周囲の脂肪組織や静脈を全て取り除き、内胸動脈そのものを丁寧に剥離し、そのうち左内胸動脈を全長に渡って剥離する。……この血管を左前下行枝に使用するのだ。


一方で、ルミエールは右冠動脈後下行枝のバイパスに使う静脈を採取していた。

冠動脈にバイパスするための血管はどこにすべきか───それは病院によって異なる。クレマリーが剥離した内胸動脈が最も安全性の高い血管である事は共通のようだが、静脈グラフトを使うと弁があるために再発率が高いだとか、動脈グラフトは採取に時間がかかるだとか……ともあれ、「完全な正解」は未だに出ていないようだった。

今回は術後に投薬をする前提で足の表面にある静脈・大伏在静脈を使用する事になっている。十年後に閉鎖する可能性がある…などと言われているが、近年では採取方法や投薬によってそれが改善されている。

これまでは手術に必要な血管の長さだけ皮膚を切開していたが、手術部位以外にも傷跡が出来てしまう点や傷口の炎症などの点を踏まえて、ヴェルティ国立中央病院では内視鏡で剥離する技術が導入されている。ルミエールも研修医時代に勉強し、実技をした事もあった。


エコーで静脈の走り方を確認したルミエールは膝に1センチメートルほどの穴を開けて大伏在静脈を剥離。

そこから内視鏡を「鼠径部」、足の付け根まで入れて静脈を剥離する。枝を内視鏡で切開し、素早く糸を結んで大伏在静脈に糸をかけたら、その糸を内視鏡で鼠径部の根元まで運んで結ぶ。そして大伏在静脈の端を切開し……糸を切断する。その大伏在静脈を創部から取り出したら───右冠動脈後下行枝にバイパスするグラフトの採取は完了だ。

膝に開けた傷口は、皮下に血液が溜まる恐れがあるため手術終了直前まで開いたままにする。血管の枝はクリップで結紮処置を施し、枝抜けした部分は修復しておく。その後生理食塩水で内腔を満たし、水漏れがない事と性状が良好である事を確認する。……よし、大丈夫だ。ルミエールは一つ息を吐くと、クレマリーに声をかける。



「クレマリーさん、静脈グラフトの採取終わりました」


「ああ……そこに置いておいてくれ」



クレマリーは既に人工心肺を繋げる準備を始めていた。……どうやらルミエールの進捗を見ながら採取完了のタイミングで次の指示を出せるように進めていたらしい。最初にも述べたが、今回の手術はスピードが命。ルミエールはクレマリーの手際の良さに感心するほかなかった。



「ルミエール、今のうちにヘパリンを投与してACTの確認を」


「は、はいッ!」



ACT……活性化全血凝固時間とは、血液が凝固するのにかかる時間の事である。これが短いと手術中に血液が凝固してしまう危険があるため、血液の凝固を防ぐヘパリンを投与し、凝固しない事を確認してから手術を行う事が決まりとなっている。

ACTの値が四百秒以上になった事を確認すると、ルミエールはそれをクレマリーに伝える。そして心臓に繋がっている付近の大動脈である「上行大動脈」に人工心肺で血液を送り出すための「送血管」を、右心房の内側に飛び出している耳たぶ状の「右心耳」から「下大静脈」……下半身の使われた血を集めて右心房に送る大静脈に血液を回収する「脱血管」を繋いで体外循環を開始した。

大動脈と心臓の境目のあたりに巡行性の心筋保護液を注入するためのカニューレ、つまり管を挿入し……右心房壁から逆行性心筋保護液カニューレを右心房へ、そして冠静脈洞───心臓の後面に存在する太い静脈───に固定する。



「大動脈遮断」



体外循環で流れる血液量を低下させて大動脈に流れる血流を減らし、遮断鉗子を上行大動脈にかける。遮断が確認出来たら体外循環での血液量を増加させ、大動脈と心臓の境目から心筋保護液を注入───心停止状態を作り出す。

冠静脈洞に置いておいた逆行性心筋保護液カニューレから追加で心筋保護液を注入し……これで準備は整った。



「───ここからだ、始めるぞ」



準備を終えたクレマリーはいよいよ、標的動脈である左前下行枝の剥離と吻合を開始する。

まずはバイパスを繋げる部分の心外膜を剥離。そして血流の上流にあたる部分に、血管の識別と保持のための細い色付きの血管テープを通す。

その後は冠動脈の表面に「別の血管を繋げる穴」を作るべくメスで小さく切開。器具を持ち替えて拡張し、約五ミリメートルの穴を作成する。



「8-0」



看護師から縫合糸を受け取ったクレマリーはグラフトする血管を、U字を描く形で左前下行枝と吻合する。内胸動脈の外から内へ、冠動脈の内から外へ糸運びを行い……糸を結ぶ。



「……問題、なさそうですね」


「だな……続いて右冠動脈吻合を行う。……お前がな」


「えッ…!?僕がですか!?む…無理───」


「経験がゼロでは無いだろう。何事も経験だルミエール……私がついている、やってみろ」


「……は、い……」



ルミエールはクレマリーと位置を代わり、足から頭にかけて体勢が低くなるよう姿勢を変えて右冠動脈後下行枝の処置を行う。

右冠動脈後下行枝は心臓の下側だ。故に、心臓を持ち上げて下の部分を見せなくてはならない。……心臓を持ち上げひっくり返し、心臓の下側の面を露出する。その後は先程クレマリーがしていた操作と同じだ。



「……7-0、お願いします」


「はい」



血管テープを通し、前面にメスで小切開を入れ、拡張し……。

看護師から受け取った7-0縫合糸を用いてトリミングした大伏在静脈を吻合する。大伏在静脈は「静脈」だ。静脈には動脈と違い、血液の逆流を防ぐ弁が存在する───故に、上下を間違えると血流が流れない。しっかりとそれを確認したルミエールはそれを吻合しようとして───



「ルミエール、グラフトが捻れているぞ」


「あ…ッ、本当だ…!あ、ありがとうございます…」


「吻合前で良かったな」



……危ない、静脈グラフトが捻れたまま繋ぎ合わせるところだった…!

静脈グラフトが捻れたり曲がったりしたまま吻合すると、グラフトは簡単に血栓閉鎖───詰まってしまう。ルミエールは捻れたグラフトをもとに戻すと、再び「上下が正しいか」「捻れたり曲がったりしていないか」を確認して吻合する。

静脈グラフトの外から内へ、冠動脈の内から外へ───。

まだ経験が浅く、手が震えてしまう。大丈夫。大丈夫……そう何度も言い聞かせながら、ゆっくりとルミエールは標的の動脈と静脈グラフトを縫い合わせた。縫合糸を結紮し、ハサミで切る。

それから患者の対位を戻し、大動脈との中枢吻合に移る。遮断された大動脈に小さな穴を開け……静脈グラフトの上側の穴と大動脈の穴を6-0縫合糸で吻合。

……これで、右冠動脈後下行枝の施術は完了、の筈だ。ルミエールは緊張しながらクレマリーに声をかける。



「……でき、ました……」


「よし……遮断を解除するぞ」


「───ッ」



内胸動脈グラフトの遮断と大動脈の遮断をクレマリーが解除する。冠動脈には動脈流が流れ出し、心拍が再開され────


ぴっ……!!



「え────っ、?」



不意に、血飛沫が舞った。

それは、大動脈から血液が吹き出した音だった。

視界が紅に染まる。

一体、なに、が───!?



「出血……!!ゆ、輸血とガーゼ持ってきますッ!!」


「血圧下がってますッ!!!先生ッ───!」


「出血止まりません!!」



看護師達の慌てた鋭い声が、脳をガンガンと揺らす。

ルミエールは頭の血が一気に引いて、視界と思考がホワイトアウトするような衝撃を覚えた。駄目だ、駄目だ駄目だ、どうしよう、どうしよう、どうしよう…ッ!

視線が彷徨う。早く縫わなきゃ、一刻も早く縫わなきゃ……!!

でもどこを!?一体どこを縫えばいい!?

吻合が甘かった?血管を傷つけてしまっていた?それとも……!

考えろ考えろ考えろッ!


……だけど、焦れば焦るほど…集中力と思考能力が奪われていく。


───そんなルミエールの横で、クレマリーは静かに…しかし凛とした声で看護師に声をかけた。



「人工血管をもう一セット………早く!!」


「は……はい!!」


「ルミエール、上行大動脈解離だ、聞いた事くらいはあるだろう。……時間はないぞ、驚いている場合じゃない!」



上行大動脈解離……!?

……それは、「外膜」「中膜」「内膜」の三構造になっている大動脈の内膜が縦に裂けてしまう疾患だ。今回はそれが外膜まで達し……血管が裂けてしまっている。

非常に危険な状態で緊急手術が必要になる、死亡率の高い疾患……それがまさか、今起こるなんて……ッ!!



「先生、人工血管です!」


「ああ……あと、」


「ベントカテーテルやフェルトなども用意できてます」


「……これは驚いた」


「オペ看をして長いので」



見れば、看護師は徐々に落ち着きを取り戻していた。この中でルミエールだけが、まだ緊急の事態に焦りと混乱を隠しきれていない。……僕は、なんて駄目なんだ……ルミエールは唇を噛んだ。

クレマリーは先程繋いでいた人工血管を抜去し、新たに繋ぎ直す。送血管を右手側の鎖骨の下にある動脈「右腋窩動脈」に挿入し、脱血管を上下の大静脈に挿入。体外循環を再開させた。

上行大動脈を遮断し、入れ方を変えて再び心筋保護液を注入───心臓を停止させる。


クレマリーは大動脈の切開に取り掛かった。

亀裂が入った部分を切り取り、大動脈の血液の逆流を防ぐ「大動脈弁」が健常かを確認する。それには問題がなさそうなので端の方をカットし、生体接着剤で内膜と外膜を接着。



「ルミエール、此処を押さえておいてくれ」


「………っ…!」


「……4-0」



ルミエールは、混乱で思考がフリーズしてしまい……処置について行く事が難しくなっていた。……無理もないかもしれない。彼はこの間初期研修が終わったばかりの新人なのだ。緊急手術に緊急手術が重なり、重圧と困惑で息すらまともに出来なくなってしまった。

クレマリーはルミエールが声も出せない状態になっている事を察知すると、看護師に縫合糸を要求し、人工血管と大動脈を縫合し始める。それと同時進行で、大動脈の弓のように逆U字を描いている部分から出ている三つの血管にバルーンのついた送血用のカテーテルを挿入。人工心肺装置から脳の血流を保護するための循環を開始する。

高難度なマルチタスクを一人でこなすクレマリー。その速度はまるで機械のような速さで───看護師達は思わず息を呑んでしまう。



「次、3-0」


「は、はいっ!」



大動脈の外側にフェルトストリップを置いて増強しながら縫った後は、さらに太い糸でもう一度縫い合わせる。これで心臓側の吻合は完了だ。先程ルミエールが吻合しようとしたバイパス用の静脈グラフトの上部を人工血管に縫い付け、あとは大動脈側を縫うだけだ。……だが、その前に人工血管の中を心筋保護液で満たして遮断鉗子をかけ……血管内に圧をかけて出血しないかを確認する。

確認が終わったクレマリーは、再びルミエールを見る。……彼はまだ、視線を彷徨わせていた。……そんなルミエールに、語りかける。



「ルミエール、しっかりしろ。お前は医者だろう……医師が取り乱してどうする」


「……っ、で、も……」


「患者は救われるのを待っていると、この前も言った筈だ。私達が行動しなければ助からない。……混乱している場合じゃないぞ」


「でも…ッ!僕が、失敗したから、こんな事に……ッ」


「───違う。今回上行大動脈解離が起こったのは動脈硬化が原因だ。心エコーを見た時にリスクがあるとは思っていた……大動脈に穴を開けるという刺激が仇となった、それだけだ……お前の失敗じゃない」


「………!」


「最初からこうなる事も視野に入れていた。だからオフポンプではなく人工心肺を最初から使う手術にしたんだ───直ぐに置換術に移れるようにな」



───ルミエールは、唖然とするしかなかった。

クレマリーさんは、大動脈が破裂する可能性もあると踏んだ上で手術を行ったのか!?心エコーと胸部レントゲンを見た時から、そう決めていたのか…!?


クレマリーは力強い声音で「ルミエール」と呼びかける。



「ここからはお前の番だ。救うんだろう、患者を。お前がやらなくて誰がやる」


「え…っ……無理、です…ッ、怖い、です……僕には、そんな───」


「大丈夫。出来る。出来るまで私がついている……やれ」


「……っ!!」



出来ない、と言ってもクレマリーはそれを許してくれなかった。ルミエールは泣きそうになるのを必死に堪えながら……縫合糸をゆっくりと受け取った。

手術の長時間化は患者に負担をかける。自分の都合で時間を引き延ばすなど言語道断───つまり、怖くても不安でも苦しくても、やるしかないのだ。命に触れて関わる仕事、それが「医師」というものなのだから。

脳の血流を維持するためのカテーテルが入った大動脈と先ほど心臓と結紮した人工血管を、ルミエールは震える手で縫い合わせ始める。吻合完了の直前にカテーテルを抜いて、フェルトストリップで補強しながらぐるりと縫合し、さらに太い糸で入念に……。

0.1ミリメートルのほつれも許されない。絶対に、絶対に成功させなければならない───!


時間はかかったが、縫合はなんとか終了した。……心臓の鼓動が煩くて、喉まで痛くて、言葉が出ない。びっしょりと嫌な汗をかいて気持ちが悪い。隣で見ていたクレマリーは大動脈と人工血管の空気を抜き、血液の体循環を再開させ……体温を回復させる。

空気を抜きながら大動脈の遮断を解除し───


───出血は起こらず、心臓の鼓動が再開した。



「……出血なし。心拍安定。……なんだ、出来るじゃないか」


「………っ問題…なし……?」


「新人にしては出来が良いな。将来有望なドクターだ……誇れ、ルミエール」


「…………!」



ガチガチだった全身から力が抜けて、かくんとその場に崩れ落ち……地面に膝を付いてしまう。まだ手術は終わってないだろ、こんな事をしている場合じゃ───!……そう思いながらも、体は言う事を聞いてくれなかった。


一度の手術で、危篤と成功の両方を経験した。

殺人と救済の両方を経験した。

手術とは本当に危険な綱渡りだ───ルミエールは再度それを思い知らされた。


クレマリーはそんなルミエールを見遣ると、まだ心臓がばくんばくんと煩い彼に代わって徐々に人工心肺の血液量を減らしていき……体外循環を終了させた。血液をさらさらにする「ヘパリン」を「プロタミン」で中和し、胸部にドレーンを留置して閉胸操作を行う。心膜を縫い合わせ、胸骨にステンレスワイヤーをかけて閉じ、胸部を縫合し───。



「血圧上102、下61……」


「脈拍、安定しています」



……「手術中」のランプが消える。

レオ・アルベールは一命を取り留める。

クレマリーとルミエールの二度目の手術は───無事、終了した。









結局、手術が終了するまで、ルミエールはその場から動く事が出来なかった。クレマリーは手袋を外し、髪を解くとルミエールに手を差し伸べる。



「……怖かったか?」


「………怖かった、です。今も……怖いです…」


「そうか……でも、彼は救えた。それは事実だ」


「クレマリーさんが居たから救えたんです。僕だけだったら…救えなかった。…あのまま僕一人でのオペだったら、間違いなく殺していた。……ドロシーさんにあんな事を言ったのにッ……僕は、本当に…誰かを救える医師になれるのかなって……それどころか人殺しにしかなれないんじゃないかって、怖くて……ッ」


「………」



ルミエールの瞳から、大粒の涙がぼろぼろと溢れた。クレマリーは差し伸べた手を引っ込めると……一心拍置いて、彼の正面にしゃがみ込み、背をさすった。



「……なぁ、ルミエール。お前の目に、私はどう映る?」


「……ッ、クレマリーさんは…天才的で、失敗知らずの凄腕なドクターです……僕なんかとは比べ物に、」


「その私も、最初は恐怖から動けずにいたと言ったら?」


「え────」


「……行き場の無かった私はDr.リズベルトに拾われ、彼の元で修行する形で知識と経験を得た。彼の手術に立ち会い、助手をひたすらこなした。……そんな私が初めてDr.リズベルトに執刀を委ねられたのが、今回と同じ冠動脈バイパス術の吻合だった。そこで私は失敗を招いた……吻合部から出血してな。複数の箇所から出血し───本当にあと少しで殺してしまうところだった。焦ったよ……人殺しになってしまうのではないかと、心の底から恐怖した。お前のようにな」


「………」


「その時Dr.リズベルトは、私の失敗を責めなかった。聞けば、彼も研修医時代は失敗ばかりしていたらしい。患者にとってはたまったものではないだろうがな。……まぁ、つまり…だ」



クレマリーはルミエールの涙でぐちゃぐちゃになった顔を両手で持ち上げると、無理矢理視線を合わせて彼の本心に呼びかけた。



「失敗やアクシデントはどんな手術でも起こり得る。どんな凄腕の医者であろうと最初は誰もが混乱していた……『失敗知らず』の医者なんて居ないんだ。手術にトラブルやアクシデントは付き物だ……お前のような新人が葛藤しながら一人前に成長するためにベテランの医師達は居る。私は居る。そうでなければ新しい医師など育たないからな」


「……!」


「不安に負けるなと言われても無理なのは分かっている。寧ろ、此処で不安を感じられるお前は患者の生死に向き合えるいい医者だ。……少しずつ強くなれ。精神的にも、技術面的にも、な」



いつからか、両手で顔を支えられなくても…ルミエールは自力でクレマリーの顔を見上げていた。クレマリーは優しく肩を叩くと立ち上がり、「その手袋のまま目を擦るなよ」と告げる。ルミエールは贈られた言葉を噛み締め、それ以上涙が溢れないようぐっと堪えると「はい」と掠れた声を振り絞って立ち上がった。


“手術は、生きるか死ぬかを自分達医師が決める行為だ”

“もし万が一失敗して、命を救えなかったら……そう思うと、手が震える。足がすくむ。喉がからからに渇いて動悸がする。だけど………”


……今一度、ドロシーを救うと決意した時の言葉を繰り返そう。

“救えるのは自分達しか居ないのだ”

“手術をしなければ、患者は助からない”

“救えるのは自分達しか居ないのだ”


だから、苦しくても辛くても、逃げてはいけない。

辛い気持ちを呑み込んで、戦うしかない。

……まだ、先程のアクシデントを完全に受け止める事は出来ていない。けれど……だからといって医師を辞めようとなどは思わない。


ルミエールは、恐怖に駆られながらも前を向いた。

彼という蕾が花開くのは───そう遠い話ではないだろう。










そんな手術の一週間後。

解放病棟に移ったレオの病室を、ドロシーとルミエール、クレマリーが訪れた。……親子水入らずの会話の中に自分達医師が混じってもいいものか、とルミエールは悩んだが、ドロシーが「二人だと気まずいので…」と言うので一緒に見舞う事にしたのだ。

……入院患者が入院患者を見舞う、というのもなかなか変な話である。



「……父さん、その…大丈夫?」


「………。」



ドロシーはそう切り出すも、レオは返事を返さなかった。……以前に「厳しい父親」だと聞いていたが、これは確かに厳しそうだ……そうルミエールは苦笑する。

暫くの沈黙。それに耐えられなくなったドロシーが、おずおずと話を切り出す。



「……父さん、私…変な事してごめんなさい。会社が辛くて、それで自殺未遂だなんて……私、逃げてるだけだよね。甘えてる、だけだよね。ごめんなさ───」


「───ドロシー。」



謝罪を遮って、レオは厳かに口を開いた。ドロシーは驚いて彼の顔を見る。

レオは、心臓に手を置いて静かに語り始めた。



「俺には、死にたいという気持ちは分からん。だが……此処が痛くなって、苦しくなって……怖いという感情を、久方ぶりに感じた。そしてこれは、お前が会社に感じている感情と……死にたいと思う程に思い詰めた苦しみと同じ『痛み』に似ているのではないかと思った。」


「父さん……」


「お前はいつも強く優しい。故に、自分の苦しみを苦しみだと認められんのだろう。……なぁ、お前はお前の生きたいように生きていい。逃げてもいい。だから───死ぬな。それだけが俺の……そして母さんの願いだ」


「……っ!!」



───死ぬな。

それは、父親からの唯一の願いだった。

どれだけ逃げても卑怯でもいいから、死んでくれるな、と。


クレマリーはそんなレオに続いて言った。



「…仕事などやってみなければ向き不向きなど分からない。そして、自分で望んだからといって必ずしもそれを貫き通さねばならないとも限らない。───私達は殺されるために仕事をするんじゃない。生きるために仕事をするんだ」



その言葉を聞いて、ドロシーの涙のダムがついに決壊してしまう。

ぽろぽろと、雫が溢れて頬を伝う。

レオは「来なさい」とドロシーを呼び寄せ、優しく抱き締めた。

ドロシーは父親の胸の中で子供のように泣いた。

彼の、救われた心臓の鼓動がゆっくりとドロシーを包む。


───そっか。辞めてもいいんだ。

生きやすいように生きようとしていいんだ。

私は私らしく、生きていいんだ……。


ドロシーは───辞職を、決意した。








───それから、およそ一か月が経過した。

ドロシーはあの後 《スアサイダル症候群》の寛解の診断を受けて退院し、定期通院と父親の見舞いのために現在は週に一度通院する事になっている。父親のレオも順調に回復しており、もう暫くしたら退院できるだろうと見込まれている。

ルミエールは吻合・縫合の猛練習を行い、同期から「そんなに練習していて休んでいるか?」と心配されていた。それと同時に院長やクレマリーから《スアサイダル症候群》に関連する自殺未遂例や症状などの大量の資料を渡され……「そういえばどうして僕が《スアサイダル症候群》の専門に……」と嘆いている。


そんなある日。

その日、ルミエールは薬剤師に通達する事があって院内薬局に訪れていた。

《スアサイダル症候群》は精神疾患の面が強い感染症だ。精神状態を安定させる向不安薬が症状の悪化に対して効果がある、という結果が院長から発表された。従って、薬剤師にも《スアサイダル症候群》の予備軍である患者には精神疾患の診断が下っていなくとも向精神薬が処方されるケースがある……という事を伝える必要があり、ルミエールは院内薬局を訪れたというわけだ。

資料を見せながら説明をし、薬剤部全体への通達を頼んで院内薬局を後にするルミエール。

───そこで、通院していたドロシーと偶然すれ違った。



「───あ、ルミエール先生…!」


「ドロシーさん…!お久しぶりですね、経過はいかがですか?」


「お久しぶりです!いい感じですよ、もう死にたいとは思いません」


「それは良かったです…!お父様の方も順調に回復していますしね…!」


「先生方のおかげです。……あ、そうだ───先生、実は就職先が決まりそうなんです!」


「え、本当ですか!」



ドロシーはロザージュを辞職し、再就職活動を始めていた。上司にあれこれ言われて辞職を引き止められたようだが、「いえ、辞めます」と貫き通して無事辞職出来たという。



「実は、ライブの音響としての仕事に決まりそうで……」


「音楽系に興味があったんですか?」


「はい、ロザージュの就職も音楽系の雑誌を書きたかったからなんです。もう既に面接があったんですけど、かなり第一印象はいい会社でした」


「でも……働いてみないと分からないですよね……」


「合わなかったら辞めるまでです。『私達は殺されるために仕事をするんじゃない』んですから」



そう言ってドロシーは力強く笑った。

ルミエールも「ですね」と微笑んだ。


彼女はこれからも、力強く生きるだろう。

「逃げる」事も生きていく中では大切───そう学べた彼女なら、これから先の人生でまた試練が与えられたとしても、乗り越えていける……そう、ルミエールは信じている。


そろそろ桜が咲き始めてきましたね、とドロシーは言った。

ルミエールは院内薬局の待合室についている窓から外を眺める。薄桃色の花弁が、綻び始めていた。


───そんな桜を、医局の窓からクレマリーも眺めていた。



「……始まったか。人類と死神の生存を賭けた聖戦が」



そうぽつりと溢すクレマリー。

その声は、春の風に揉み消されて……誰にも届く事なく消えていった。











………ヴェルティ某所。


廃墟のビルの屋上から、ヴェルティ国立中央病院のある方向を眺めながら……緑の長髪を後ろで束ねた軍服の青年が嗤う。



「……どうやら、【死神】が本格的に動き始めたようだね。僕という【魔王】を差し置いて」



その呟きに、壊れたデスクに座った……前髪で顔の半分を隠した妖艶な女性が朗らかに、それでいてねっとりとした口調で応える。



「なぁに?《スアサイダル》にジェラシー?」


「はっ、そんな訳ないだろ。でも───」


「でも?」


「僕はあいつが嫌いだ。あいつの病が流行したら人類が滅んでしまうだろ。現にヴェルティの人口は激減している。僕達 《病魔》の使命は【死国】を築き上げる事なのに、あいつがやってる事は僕達への反逆だ!」


「あのコもまだ幼い……若気の至りってヤツよ。……本当に嫌ならアナタも感染を広げればいいじゃない、出来るものならね…うふふ」


「……今感染を広げたところで、あいつの病に負けて撲滅されるだけだ。凶悪な症状を持つ癖に《病魔》としての力も強いとか、本当に最悪だ」


「───《サタナス》、最悪の事が起こりそうになったら俺が審判を下す。故に、【死国】が建国される前に人類が滅ぶ事は無い……《ソルシエール》もあまり《サタナス》を挑発するな…」


「いやね《ペカトル》、挑発じゃなくて助言よ?」


「挑発だろこの【魔女】」


「魔女様とお呼び、坊や」



《ペカトル》と呼ばれた、貴族のような高貴な衣服を纏いつつも手錠と足枷をした老紳士ははぁ、と溜息を吐いた。全く、こいつらは《病魔》としての自覚が足りないのでは……そう思いながら。



「───《スアサイダル》、お前の望む世界は何だ?」



《ペカトル》は厳かにそう口にする。

それに応える者もまた、この世界で誰も存在しなかった───。






Karte01 End.

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