suicidal/leniency
ましろぬぃ
Prologue:死の国ヴェルティ
***
『───ヴェルティ国内、深夜三時……突如として発生した集団自殺行動。道路の飛び出しや高所からの飛び降り、線路への飛び込みなどで街は混乱に陥っています。現在警察と消防がこの奇怪な現象の調査に当たりながら傷病者の搬送を行なっていますが、原因は未だ不明で───』
『現場の皆様は焦らず、落ち着いて安全な場所に移動してください!繰り返します、現場の皆様は───』
『速報です!ヴェルティを混乱に貶めている国民の集団自殺行動は、新型の感染症であるという声明をヴェルティ医学会が公表しました。我が国は、自死を招く病魔に蝕まれているのです───!』
………民衆の、悲鳴が聞こえる。
救急車の、サイレンの音が聞こえる。
そして───泣いている、あなたの声が聞こえる。
どうか、泣かないで。
僕の声が聞こえますか。
どうか、そんな事を言わないで。
だって、あなたは────
***
「………『だって』も『どうして』も無いだろう、何が何でもいきなりすぎる」
「はっはっは、お前に止められるとは思わんかったのう……てっきり賛同してくれると思ったんじゃが、なぁ───クレマリー」
豊かな髭を蓄え、赤のラインが入った白衣に身を包んだ老人男性───リズベルト・ゴッドフレイは、長い白髪に透き通ったルビーのような瞳を持ち、赤を貴重としたドレスのような衣服に白衣を纏った女性「クレマリー」を見遣った。
クレマリーはじと、とリズベルトを睨んで答える。
「賛同すると思うか?この診療所はどうする」
「心配しなくとも、リューデンなら病院は山ほどある」
「リューデンは確かに医学の中心地だが、それはあくまで都心だけだ。この地域に病院は此処しか無いんだぞ……お前が居なくなれば大勢が困る」
「医師ならお前が居るじゃろう」
「…は?」
「儂も定年が近い、後継者の事くらい考えておる。儂の一番弟子のお前なら、この診療所を継ぐに相応しいじゃろう……クレマリー、どうかYESと言ってはくれんか」
この通り、と弟子に頭を下げる師匠───彼に威厳という言葉は存在しないのだろうか。クレマリーは溜息を一つ吐いた。
此処は国家リューデンの地方の街にある小さな診療所。
医療技術が進歩しており、医学の中心地として栄えているリューデンには、病院は星の数ほど存在する。首都ノーヴァに足を運べば大抵の病気は完全に治す事ができるし、新薬や新型ワクチンの開発もリューデンは盛んなため「治す事が出来ない病気は現段階で存在しない」という言葉さえ豪語にならないだろう。この国に留学を志す医師や医学生も多く、リューデンへの留学は夢と名誉、とまで言われている。
……話が逸れてしまった。
この診療所は都市圏から外れた郊外にこぢんまりと造られたものであり、手術室やリハビリテーションの設備は設けられていない。しかし、此処で医師を務めているDr.リズベルトの元にはしばしば留学生が訪れたり、彼は齢六十を超えてなお公開手術に呼ばれたりしている。
───Dr.リズベルトはただの「診療所の医者」では無いのだ。
若い頃に数多くのオペレーションを行なって大勢の命を救い、リューデンの医学の発展に貢献したリズベルト・ゴッドフレイ。寸分の狂いもない彼のオペレーションは最早芸術だと賛辞する者も多い。
さらに彼はリューデン精神医学界の第一人者でもあり、うつ病や双極性障害、統合失調症などをはじめとした精神疾患の患者が暮らしやすい国づくりを目指して医療の見地から政治活動にも参加している。
そんなリューデンにとって必要不可欠なDr.リズベルトが、弟子であるクレマリーに診療所を一任してまでやりたい事とは───?
「……偉大なるDr.リズベルトが職務を投げ出し、私を此処の後継者にしてまでどうしてもヴェルティに行きたい、と」
「そうじゃ」
そう───目の前のこの男は、リューデンの隣国ヴェルティに移住したいと宣っているのだ。クレマリーは治らぬ頭痛に、額に手を当ててもう一度溜息を吐いた。
……クレマリーがリズベルトの移住に賛同できない原因は、この診療所を放置する事だけではない。
「はぁ……よりによって今【死の国】と噂されているヴェルティに、何故…」
「【死の国】だからじゃよ」
「【死の国】だから?意図が読めないな……ヴェルティで死者が年々増えているのは知っているだろう、感染症か治安の悪化を疑うのが普通だ…そんな場所に行くと言われて賛同するわけが───」
「ほう……鋭いなクレマリー。ヴェルティには病が流行っておる」
「……鋭い?嘘を吐いて私の同情を得ようとするならそうはいかないぞ」
「誰が嘘を吐くか。今感染症を疑うのが普通だ、と言ったな。まさにその通りなんじゃよ……ヴェルティには、《病魔》と呼ばれる新型の病が流行しておる。【魔が刺す】…という言葉があるじゃろう。《病魔》は人を破滅に導く……人に【魔を刺す】事によって感染し、悪事を行わせる精神的な病じゃ」
「《病魔》……聞いた事がないな。感染症でありながら精神疾患なのか?治療は心理療法が有効、とでも?」
「勿論心理療法も効果的じゃが、基本は腫瘍を取り除く外科手術じゃな。感染すると体内にクリスタルのような腫瘍が形成され……それがじわじわと心を蝕んでいく。最終的には希死念慮を呼び、思考能力を奪って自殺を決行させる。儂はその《病魔》をこう名付けた───自死を招く病魔 《スアサイダル》、と。」
「スアサイダル…」
「じゃが、これに気付いたのはどうやら儂とヴェルティ国立中央病院の院長だけのようでな……治療法を早くヴェルティに広めなければならん。」
「そのために、お前がヴェルティに行く……そういう事だな」
「そういう事じゃ。理解が早くて助かるのう……。これは儂一人の問題ではなく、ヴェルティの全国民……もっと言えば周辺国家全域の命を守るための一大プロジェクトじゃ。じゃから……頼むクレマリー、この診療所を任されてくれんか」
「………。そこまで言われて、NOと言えるわけがないだろう……はぁ、今日は溜息ばかりだ……。いいだろう、此処は私が受け持とう…」
「すまんな……この恩は必ず返す……」
「それで?出発はいつなんだ?」
「明日じゃ」
「……はぁ?」
明日??
思わず素っ頓狂な声を出してしまうクレマリー。引き継ぎの手続きなどやる事は沢山あるだろうに……。…まさかこの男、最初から私にこの診療所を任せる事を決めてかかっていたのか…!?有り得る。非常に有り得る。彼の事だ……私が最終的にYESと言うと確信を持って既に手続きを済ませていたに違いない…!
そんな事を考えながら、それでもクレマリーはその混乱を飲み込んだ。
「全く、頭痛が酷いな……明日、か。明日から私は此処の院長、というわけだな」
「クレマリー院長、いいではないか…。ふぉっふぉっふぉ、一番弟子が出世したのう…」
「事の原因が何か言っているな…。それじゃ、話がついたわけだし…私は失礼する。Dr.リズベルト、出発の支度が出来たら早く休むように。寝坊して行けなかったとのこのこ診療所に顔を出しても入れてやらないからな」
「こりゃ手厳しいのう。そうじゃな……もう十八時じゃ。診療所も閉める時間じゃし……儂も早く休むとするかのう…」
「嗚呼、そうしてくれ……」
クレマリーはそう言うと踵を返して診察室から出て行った。リズベルトは笑顔でそれを見送ると、窓の外に目を遣る。初春はまだ、日が暮れるのが早い。太陽が傾いて、オレンジの夕陽が窓から柔らかく部屋に差している。リズベルトは目を細め……「必ず、《スアサイダル》を撲滅せねばならんな」と零した。
その背後に迫る影に───彼はこの時、まだ気付かなかった。
───翌日。
初春の朝はまだ冷えていて空気が冷たい。風がひゅうひゅうと頬に当たり、髪を撫ぜて走り去ってゆく。桃の蕾が膨らんでいる事だけが、季節が春に近づいていると告げていた。
いつも通り診療所に出勤し、靴を脱いで室内用の上靴に履き替えるクレマリー。そんなクレマリーを、看護師の一人が呼び止めた。……彼女の額には、汗が滲んでいる。
「クレマリー先生ッ!大変です…!」
「どうした…急患か?」
「いえ…ッそ、その……リズベルト先生が……」
「リズベルト?Dr.リズベルトに何かあったのか…?」
「リズベルト先生が────倒れて息をしていないんですッ!!」
血相を変えてそう叫ぶ看護師。その言葉に嘘は感じられなかった。
その言葉を理解するのに数秒を要した……Dr.リズベルトが呼吸をしていない?心肺停止?一体それは、どうして、何が……ッ!?
クレマリーは乱雑にマフラーを解いて投げ捨て、言葉尻を強くして告げる。
「───リズベルトは何処だッ!?案内しろ!」
此方です、と案内されたのは昨日彼と話していた診療室だった。机に積まれていたものが散乱したのであろう───床に資料が散らばっている事だけを除けば、暴れた様子もなく綺麗な部屋だ。そのデスクに突っ伏するように、リズベルトは力無く倒れ……瞳は固く閉じられていた。クレマリーがゴム製の手袋をして彼に触れる。
───脈は、無かった。肌は冷たくて、外の風と同じ温度がした。
「……いつからこの状態だ?」
「え…と……私達看護師が出勤した時には既に……」
「心肺停止になってから数時間は経っているな……これは、もう……」
「え…そんな…ッ、リズベルト先生、が、死ん────!」
顔を手で覆って泣き崩れる看護師。彼女の後ろでは、覗きに来た他の看護師も絶望でその場に釘付けにされていた。その姿がいたたまれなくて……クレマリーは思わず目を逸らす。私があと数時間早く出勤していたら救えたかもしれない。昨日、彼が帰宅するまで病院に居たら救えたかもしれない。私が……ッ!!
そう思いながら目尻に涙を溜め────その視界に、二つの薬の瓶が映った。机の上のものに同化していてさっきまで気付かなかったが、これは……?
「睡眠薬、か…?なんでまた二つも空瓶が───」
そこで、クレマリーははたと気付く。
ヴェルティでは睡眠薬の過剰摂取───俗に言うオーバードーズで自殺を図る人が多いと、リズベルトはそう言っていた。
「……まさか!」
乱暴にペン立てからライトを掴むと、クレマリーは舌圧子を取り出してリズベルトの口内を覗く。温度の感じられない口内……その舌は、青く染まっていた。
間違いない───リズベルトは、オーバードーズを行った……もしくは「行わされた」のだ。ヴェルティを救うと意気込んでいた彼が自殺を図るとは考え難い…ならば、誰かに薬を飲まされたと考えるのが妥当だ。
誰に?リズベルトを殺そうとした何らかの犯罪者の仕業か?
それは医療従事者?反社会勢力?それとも………
『─── 最終的には希死念慮を呼び、思考能力を奪って自殺を決行させる。儂はその《病魔》をこう名付けた───自死を招く病魔 《スアサイダル》、と───』
………スアサイダル?
不意に、リズベルトが生前言っていた話を思い出す。
病魔 《スアサイダル》は人に希死念慮を抱かせ、思考能力を奪って自殺に導く。それに、彼が感染したのだとしたら───?
「……クレマリー先生?」
硬直したまま動かないクレマリーを心配して、看護師の一人がそう声をかける。クレマリーは振り返る事なく、淡々と告げた。
「…すまない、少し席を外してくれないか。確かめたい事があるんだ」
そう声をかけると、看護師達は顔を見合わせ……それでも、リズベルトの孫のような存在であるクレマリーを気遣って診療室から出て行ってくれた。クレマリーはリズベルトの亡骸を抱え、備え付けられたベッドに運んだ。亡骸は、とても……重く、冷たかった。
……スアサイダル症候群、とでもいうのだろうか。
その病には、クリスタルのような腫瘍が存在し、外科手術で切除する事が可能……リズベルトは生前、そう言っていた。もし彼が《スアサイダル症候群》で命を落としたのなら、どこかに腫瘍があるはずだ……。
そう思いながら衣服を脱がせ、上半身を露わにする。
───結果は、一目瞭然だった。肋骨の中央……心臓があるはずの部位が、ぼこりと不自然に膨らんでいる。簡易的な手術着を纏ったクレマリーは、メスを取り出してその部位に刃を当てる。
皮膚を胸の真ん中で真っ直ぐに切り、胸骨を切って左右に広げ、開胸すれば……心膜を切らなくともその「違和感」は「異物によるもの」だという事がはっきりわかった。動きの停止した心臓から、血に塗れててらてらと光る赤いクリスタルのような鉱石が生えていたのだ。
やはりそうか。
Dr.リズベルトは、殺されたのだ。
病魔 《スアサイダル》によって、殺されたのだ。
《スアサイダル》に身体を蝕まれたままに師匠に別れを告げるのは癪だったので、クレマリーはその鉱石のような腫瘍を、心臓を傷つける事なく取り除いて───ゆっくりと縫合し、閉胸した。
「有難う」も、「まさか儂が」も……彼は、治療したところで何も言わなかった。
「救えなかった」───それが堪らなく悔しくて、クレマリーは奥歯を噛んだ。
《スアサイダル》。
私はお前を赦さない。
大切な師を殺めたお前を……絶対に、赦してなるものか。
怒りに燃えながら、クレマリーは拳を握り締め……その怒りを収めようとリズベルトから視線を逸らす。逸らした視線の先に、ヴェルティ国立中央病院のパンフレットがあった。
『これに気付いたのはどうやら儂とヴェルティ国立中央病院の院長だけのようでな……治療法を早くヴェルティに広めなければならん───』
リズベルトの決意の声が、蘇ってくる。
ヴェルティでは今も、リズベルトのように……《スアサイダル》によって何の罪もない命が奪われているのだろうか。
『───これは儂一人の問題ではなく、ヴェルティの全国民……もっと言えば周辺国家全域の命を守るための一大プロジェクトじゃ』
「………この病を今知っているのは、ヴェルティ国立中央病院の院長と……それから、私だけ、という事か…」
震える泣きそうな声で骸となったリズベルトを見遣ってそう呟く。かち、かち、と規則的に針を進める時計だけが、クレマリーのその呟きに応えてくれた。そうじゃのう……言葉は発さなくとも、リズベルトはそう語っているように見えた。
……ならば。
ならば、私は彼の意思を継いで、ヴェルティに向かわなければならないだろう。
これ以上、《スアサイダル》の好きにさせてなるものか。
これ以上、苦しむ人を出してなるものか。
───クレマリーは決意を胸にリズベルトと決別し、診療室を後にした。嘆き合っている看護師達は、つかつかと玄関に向かって足を進めるクレマリーに驚いて声をかける。
「く、クレマリー先生…!?どちらに…!?」
「ヴェルティだ」
「え…!?」
「私はDr.リズベルトの意思を継ぎ、ヴェルティでこの病魔と戦う。【死神】にこれ以上暴れられては困るからな」
「病魔…?あ、ちょ───ッ、クレマリー先生!!」
こうして彼女───クレマリー・ルーヴィルは一人、心に燃え盛る熱意と憎悪を秘めてヴェルティ、首都エルシアにある国立中央病院に足を運ぶのだった。
物語は、動き始める。
人類と死神との聖戦が、幕を上げる。
さぁ、始めよう。
これは、医師達が《病魔》に立ち向かう───そんな希望に満ちた
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