ああ!昭和は遠くなりにけり!
@dontaku
第4話
初めての保育園でのクリスマス会での演奏会は無事に終了した。
美穂にとってこの演奏会は大成功だった。美穂は自分より年下の子供たちと触れ合うことが無かったからだ。美穂は一人っ子。上にも下にも兄弟姉妹はいない。それでも小さな子供たちと仲良くなれたことに大いに満足していた。
「ねえ、パパ。私、弟か妹がいても大丈夫だよ。」帰りの車でいきなり美穂に切り出された。
「小さな子たちを見ていたら欲しくなっちゃったかい?」私は笑いながら助手席の美穂に聞いてみた。
「うーん、私一人だけだとパパとママは寂しいのかな?」少ししんみりした口調の美穂。
「パパもママも美穂の成長を見守っているだけで十分だよ。美穂の才能はずば抜けているからね。パパとママは美穂に全力投球しているよ。そして美穂はすべて答えてくれる。それ以上のものを求めることなんてこれっぽっちも思っていないよ。確かに一人っ子だと寂しく思う時もあるかもしれない。でも、今の美穂には兄弟以上に仲の良い優太君がいるじゃあないか。お互い助け合って、支え合ってお付き合いしているから私たちはそれで十分だと思っているよ。」
美穂は黙って頷いてくれた。
「明日は楽団のクリスマスコンサートだぞ。」
翌日、早朝に家を出る信子を車で駅まで送る。昨夜も遅く帰宅した信子。そんな信子に保育園での美穂の演奏会の報告をした。演奏だけでなく進行なども自分でこなすことを話すと信子は笑みを浮かべて嬉しそうに聞いてくれた。その話の中で優太君の男の子としての目覚めの話になった。私たちの世代は、女子は一堂に集められて説明、指導があったが男子はほったらかしだった。兄がいれば教えてもらえるが私は長男。クラスメートとの怪しいうわさ話などに惑わされることが多かった。今の様にググれば「はいどうぞ!」と情報が出てくる時代ではなかった。週刊誌や月刊誌でわずかな情報を得るのが精いっぱいだった。だが美穂や優太君のこの時代は男女ともにそういう授業があるとのことだ。お互いに知識を得れば二人のことだ、間違いは起こすまいという信頼と安心感が私たちにはあった。
信子を送り家へ戻ると美穂が朝食を作って待っていてくれた。
父と娘で朝食をいただく。何時もの厚切りトーストとハムエッグと野菜ジュース、コーヒーだ。
「そろそろ優太君が来るんじゃないか?」美穂にそう言った時だった。チャイムが鳴った。優太君だ。
「おはようございます。」そう言って入ってきた優太君をまず座らせる。朝食は済んだか、と美穂と二人で同時に聞いてしまう。笑う優太君。
「はい。いただきます。」優太君も加わり3人での賑やかな朝食となった。
朝食が終わると後片付けは私がやる。その間は美穂の着替えなどの準備をさせる。私はラフなスタイルで行こうと思っているので着替えは簡単だ。
美穂はグリーンのシャツに赤いチェックのスカート、白いvネックのセーター、そしてやはり白いダウンジャケットというクリスマスを連想させるような出で立ちだ。
優太君は濃紺のシャツに黒のデニムパンツ、白いベストを着こんで結構ダンディーだ。そして紺色のダウンジャケットを羽織る。
私は用意が済むと二人を後部座席に乗せて車をスタートさせる。
通い慣れた道を走ると音大の大ホール入口に車を付ける。ここで二人を降ろしそのまま地下駐車場へ。
私がロビーへ行くと二人は音大関係者の方たちに捕まっていた。音大では二人は人気者のようだ。ピアノコンクールで知りあった人、ヴァイオリンコンクールの予選で出会った人など同じ演奏者としての繋がりが築かれているようだ。普段なかなか見ることのない二人の顔が見れたようでしばらく離れたところからじっと眺めていた。
こうして見ていると二人とも小学4年生とは思えない位お兄さんとお姉さんになったと思う。あっ!美穂と目が合ってしまった。
「ちょっとおーっ!何してたの!いろんな人から声掛けられて大変なんだから!」美穂が口を尖らせて怒る。優太君はそんな美穂を見て笑っている。
「美穂ちゃんは去年の「運命」のイメージが強いみたいですね。皆さんその話をされます。」優太君が私に教えてくれた。去年のクリスマスと言えば美穂は3年生、コンク-ル2連覇を達成し総合3位に入賞した後だ。楽団の公演終了後に即興で舞台にあるグランドピアノで「運命」の第1楽章を弾いて見せたのだ。粗削りではあったもののコンサート最中に曲とピアノの指使いを覚えての演奏だった。後から信子に聞いたのだが、ホールにあるグランドピアノはうちにあるグランドピアノと同じメーカーのものだそうだ。だが、こちらのピアノは鍵盤をしっかり叩かないと澄み切った音が出ないとのこと。私は美穂の“やっとお友達になれた”という言葉の意味がようやく分かった気がした。
「おまたせーっ!」お手洗いから帰ってきた美穂と優太君との3人で指定された席へ。舞台へ向かって左側の前列を確保していた。信子のピアノのすぐ近くで、優太ママの第2ヴァイオリンの皆さんもその近くの位置だったからだ。
本日の曲目は「ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64」、そう、優太君の自由選択曲だ。しかも著名なプロの女性ヴァイオリニストを招いての演奏会だ。この作品をフルで、しかも生演奏で聴ける機会は滅多にないと私は思っている。優太君にもプロの演奏を吸収してもらいたい。そんな私の横で幕に隠れた舞台のピアノの方向を凝視する美穂。
開演の時間だ。ホールは次第に暗くなる。そして舞台の幕が静かに上がる。楽団が姿を現すと同時に拍手が起こる。美穂は信子を見つめていた。そんな美穂が「あっ!」と小さな声をあげた。美穂と信子の途中に席に見覚えのある人が。そう、美咲さんだ。そうだ、美咲さんは信子が美穂の母親であることを知っているのだった。それで気になって信子の演奏を聴きに来たのだろう。美穂の実力を高く評価してくださる美咲さんだ。信子の演奏が気にならないと言えば嘘になる。偶然とはいえ一直線上に3人が並ぶ結果となったのだ。
演奏が始まる。優太君はヴァイオリン奏者の演奏を凝視している。
片や、美穂と美咲さんは信子の演奏を凝視している。のんびり聴いているのは私だけだった。
2曲目の恒例の曲「第九」が終わると公演終了だ。割れんばかりの拍手が起こる。特にプロのヴァイオリニストさんの演奏が見事だった。
あの早い弦の抑えと移動、弓捌き、まるで曲芸のようだった。
美穂は信子に大きく手を振っている。信子も美穂の方をちらりと見て笑ってくれた。やがて幕が降りホールが明るくなった。
美穂は美咲さんの元へ行こうとしたが出口へ向かう人の波に押し戻されて近づくことが出来なかった。人の波が落ち着くまで3人で席に座って待つことにした。
「優太君、流石にプロはすごいね。」私は優太君に話しかけた。
「はい!参考になりました。曲のスピードに合わせたあの弓捌き。俺も練習してみます。」力強い返事が返ってきた。
「皆さん、こんにちは。」女性2人の声が後ろから聞こえた。
「ああーっ!美咲お姉さん!遥香お姉さん!」後ろを振り返った美穂が驚く。2人とも前方の席に居たみたいで退席する時に私たち3人を見つけてくれたようだ。「これから花束を持って楽屋へ行くんだけど一緒に行きませんか?」私の誘いに喜んで乗ってくれた。
受付に預けていた花束を貰って控室へ。途中の案内係のお姉さんたちとはもう顔なじみだが、ピアノコンクール上位入賞者が3人揃っての楽屋訪問に驚かれていた。
楽屋に入る。「おはようございます!」美穂は慣れたものだ。
早速指揮者の方に花束を渡す。優太君はプロのヴァイオリニストさんの楽屋へ花束を持って伺う。その間に信子と優太ママの元へ。
突然のピアノコンクール3人娘の訪問に2人ともびっくりしていた。
「あらあーっ!ありがとう!演奏していてすぐに分かったわ。だって皆さん中央のヴァイオリニストさんの方を見ているのに3人だけ私の方を見ているんだもの。」信子はそう言って笑った。美穂が花束を渡す。「美穂、ありがとう。」喜ぶ信子。丁度優太君が戻って来た。
優太ママに花束を渡し戻って来た優太君に尋ねた。
「ヴァイオリニストさんにもお花、渡せた?」私が聞くと大きく頷いた。どうやら少し話も出来たようだ。コンクールで第1楽章を弾きますと言うと「まあ、わざわざ難しい曲を選ぶなんて。おばかさんねえ。でも私、そういう人が大好きなの。失敗なんか気にしないで思いっきり弾いてみて。きっと良い結果が出るわよ。」そう言って両手で握手してくださったそうだ。おまけにサインまでいただいたようですごく嬉しそうだ。
「もう、優太くんったらあ!」少しご機嫌ななめな美穂に皆大笑いだった。
「でも、信子お姉さまの演奏を聴いていて、何故美穂ちゃんがあんなに上手に弾けるのかが分かったような気がしました。」美咲さんはそう言って信子にお礼を言った。
「私も信子お姉さんの指捌きに驚きました。私があのピアノを弾く時ってきちんと思った通りの音が出ないことがあります。もっと鍵盤捌きを見習って練習します。」遥香さんもそう続けた。
「そうだ、美穂ちゃん、優太君。来年はうちの学園祭にも来てちょうだいね。」「はい!」二人は二つ返事だった。
これからミーティングだという2人のママから花束を預かって車に積み込む。家のピアノルームでドライフラワーを作るという。
ホール入り口で美咲さんと別れる。美咲さんの住まいは横浜方面のようだ。私たちは遥香さんを誘って一旦わが家へ向かう。
遥香さんがわが家を訪れるのは初めてだ。4人が乗った車はわが家へ向かった。
音楽談議に花を咲かせている間にわが家へ着く。美穂が先に出て遥香さんを案内する。遥香さんはやはり美穂の練習場所が気になるようだ。それを察した二人は遥香さんをピアノルームへ。驚く遥香さん。部屋の真ん中にグランドピアノが鎮座している。その横に美穂のスタンダードピアノがある。
「な、なに!このピアノ…。」遥香さんは信じられないという表情でグランドピアノを見つめている。
「遥香お姉さん、弾いてみて。」美穂が促すがなかなか指が鍵盤に出て行かない。
「遥香お姉さん、遠慮しないで。美穂も弾いてるし、他の人も弾いているから。」美穂にそう言われて恐る恐る鍵盤を叩く遥香さん。
澄んだ心地良い音が響く。意を決したように遥香さんの演奏が始まる。美穂も得意な「トルコ行進曲」だ。軽快な音を鳴らし続けるピアノに心を奪われたかのように弾き続ける遥香さんだった。
演奏を終えて遥香さんがため息をついた。
「美穂ちゃんはこのピアノで練習しているのね。」そう言う遥香さんに美穂は言った。
「ううん。このグランドピアノはママのだから。私のもう一人のお友だちはこの子だよ。」そう言って自分のスタンダードピアノの鍵盤カバーを開けた。何処にでもある普通のピアノだ。「えっ!こっち?」
「遥香お姉さん、私のピアノも弾いてみて。」
美穂に勧められるまま今度は美穂のピアノで弾いてみる。「あっ!」
「トルコ行進曲」が流れる。普通のピアノから普通の音が流れる。
「さっきの音と違うでしょ。でも、さっきの音に似せようとして何時も弾いているの。」
美穂の言葉通りに弾いてみようとするがそう上手くは弾けない。
「遥香お姉さんのピアノで試してみて。」美穂はそう言って微笑んだ。
「ありがとう。美穂ちゃんの演奏の基本はそれにあるんだね。」遥香さんもそう言って微笑んだ。
練習するという優太君を残して美穂と遥香さんはリビングへ。
遥香さんのために紅茶を入れる。遥香さんは童謡について美穂に聞いた。ピアノルームにあった美穂の手書きの楽譜が気になったようだ。保育園での演奏会の話をすると食い入るように聞いていた。
「ひょっとして、遥香さんは児童教育の方面への進路を考えているのかな?」私の問いに頷く遥香さん。
「遥香お姉さん、次は一緒に行こうよ。」美穂の誘いに微笑む遥香さんだった。
雑談を重ねていると信子から連絡が入った。早速2人のママを駅まで迎えに行く。今日はクリスマスパーティーを開くようだ。
遥香さんの都合を聞く美穂。「寂しいけど、予定はないです。」俯き加減で答える遥香さん。お宅のことを尋ねるといつも一人でピアノの練習をしているとのこと。ご両親は会社を経営されているとのことで遥香さんも鍵っ子だった。
「みんな鍵っ子だね。」美穂が笑いながら言う。
「そう、美穂も優太君も、そして昔の私も。」私の言葉に笑顔を見せる遥香さんだった。
買い物を済ませて2人のママが帰ってきた。大量の食材を両手に抱えて台所へ。目ざとい美穂が気付く。「あれえ。ケーキは?」
「うふふ。遥香さんいらっしゃい。もうピアノは弾いてみたの?」
「はい、弾かせていただきました。」少し緊張気味の遥香さん。
「ねえ、ママ。クリスマスなのにケーキは?」
「もう美穂ったら、食いしん坊さんね。ケーキは優太ママが作ってくれるわ。」そう言って続けた。「優太ママは大学時代にお菓子教室に通っていたのよ。」「そうよ美穂ちゃん。任せといて!」
パーティーの準備は2人のママと美穂に任せることにした。人数が多いと作業がしづらいと言って遥香さんと私は追い出されてしまった。二人でソファーに座って幼児教育について雑談する。正直な話、遥香さんのピアノの腕前なら音楽科も選択肢に入ろうかと思った。来年は3年生ということで悩んでいるようだった。
良い匂いがしてきた。食卓に料理が並び始めた。「うわあーっ!すごーい!おいしそう!」遥香さんが無邪気に喜ぶ。やがてメインのチキンのローストが。そして電気オーブンでは美穂のドリアが完成する。一通り料理が完成すると優太ママのケーキ作りだ。手際よく作業を進めていく姿はまるでパテシエだ。
パーティーの準備が整った。美穂が優太君を呼びに行く。ピアノルームのドアを開けるとヴァイオリンの甲高い音色が聴こえてくる。そしてその音は止み美穂と優太君が戻って来た。
「メリークリスマス!」楽しい聖夜の宴は遅くまで続く。
「私、そろそろ…。」そう言い出す遥香さんを美穂が留める。
「遥香お姉さん、今日は泊っていって。」そう言う美穂に皆が賛成した。「わかりました。すみませんがお電話お借りします。」
優太ママのクリスマスケーキが出来上がった。たっぷりの生クリームに包まれたケーキだ。
「それがね、苺が売り切れだったの。だから別のものが入っているわよ。」優太ママはそう言いながらテーブル中央にケーキを置いた。
「美穂ちゃん、切り分けてくださいな。」美穂は慣れた手つきでケーキを切り分ける。何が入っているのだろう?皆興味津々だ。
ケーキ皿に取り分けていく美穂。最後に自分の分を取り分ける。
「いただきまーす!」皆でケーキをほおばる。「あっ!メロンだ!」
楽しいパーティーもいよいよ終わりだ。先ずは遥香さん、小学生の二人からと順番にお風呂に入る。来客用の準備をするのは美穂だった。そして入浴中に遥香さんの服を洗濯、乾燥させる。
「美穂ちゃん、いろいろごめんね。ありがとう。」そう言う遥香さんに美穂が提案する。「明日のホームでの演奏会、一緒に行きましょうね。」
パーティー後の後片付けもスピーディーだ。また3人の流れ作業で
次々に片付いていった。
美穂と優太君は休む間もなく明日の演奏会に向けての最終チェックだ。気が合っているとはいえ油断大敵、きちんと1曲ずつ確認し合っていく。そんな中、お風呂上がりの遥香さんが合流。お風呂へ行く美穂の代わりに伴奏を担当する。遥香さんも二人と同様に楽譜を直ぐ読めて演奏出来た。「イージーリスニングってムーディーで良いわね。私好きかも。」そう言いながら美穂のピアノを弾き進めていく。
優太くんとのセッションもばっちりだ。それにしても、このアレンジ、とても小学生のものとは思えなかった。スムーズに次の曲へと繋がっていく。それが心地よい遥香さんだった。
「今までこんなに楽しいと思ってピアノを弾いたことはなかったわ。コンクールの練習ばかりしていたから。」小休憩を取る優太君にそう話す遥香さんの目は活き活きとしていた。
美穂がお風呂から出ると私は優太君親子を家まで送って行く。遥香さん、美穂と信子の3人が玄関で盛大なお見送りだ。こうしてイブの夜が更けていった。
翌25日はクリスマス当日だ。今日は老人ホームでのクリスマス会だ。
早起きの美穂は遥香さんを含めた全員分の朝食を準備していた。良い匂いに誘われるように遥香さんが起きてきた。
「おはよう美穂ちゃん。偉いわね、美穂ちゃんは。」遥香さんが感心する。遥香さんは美穂が家事や家族の世話をしながら何時ピアノの練習をするのかが気になっていた。自分は好きな時に好きなだけ練習が出来る。しかし、美穂はそんなに思った様には練習出来ていないように感じていた。何故ならピアノルームは信子と美穂、そして優太君が共有しているからだ。
「遥香さんおはよう。」信子が遥香さんに声を掛けた。
「おはようございます。お陰様でぐっすり眠れました。」そう言って続けた。「信子お姉さん、美穂ちゃんって何時練習しているんですか?」
「あら、美穂なら今も練習しているわよ。」微笑む信子。遥香さんは意味が良く分からなかった。
「遥香さん、美穂は何時も頭の片隅でピアノを弾いているのよ。そして何時でも再生するように演奏できるの。私にはそんなことできないけどね。」信子はそう言って洗面所へ向かった。
遥香さんは信じられなかった。本当にそんなことが出来るのだろうか。確かに、昨日一日美穂は全くピアノに触れていない。しかも今日はホームのクリスマス会で演奏しなければならないのだ。
「美穂ちゃん、私が代わるからピアノ弾いておいでよ。」思わず美穂に声を掛けた。
「やだ、遥香お姉さん、大丈夫だよ。何時ものことだから。」美穂が笑う。しかし納得がいかない遥香さん。
「だって、今日はクリスマス会だよ。演奏するんじゃないの?」あまりにのんきな美穂に驚く遥香さん。「おはよう遥香さん。」私が声を掛ける。「おはよう、美穂。何時もすまないね。」美穂に声を掛けるとにっこりと笑って「おはよう、パパ。」と返してくれた。
「おとうさん、美穂ちゃんに練習するように言ってるんですが・・・。」
遥香さんは私に助けを求めてきた。「そうだね、遥香さんにしてみれば練習無しで本番に臨むなんてありえないよね。でも美穂は今も頭の中で練習しているよ。あのリズミカルな動きを見てごらん、美穂に言わせるとピアノを弾きながら料理をしているそうなんだよ。」
私の言葉に唖然とする遥香さん。
ピンポーン!インターホンのチャイムが鳴る。優太君だ。
「あっ、遥香さん。おはようございます。」「美穂ちゃんおはよう。」
私が洗面所から戻るなり「おはようございます。」と挨拶してくれる。
すぐに2階から降りて来た信子にも朝の挨拶をする。
「おはよう、優太君。今日は夕方まで良いわよ。」信子は優太君にそう告げた。「朝ごはんはもう済んだの?」「はい。」そう言ってピアノルームへ向かう。
遥香さんを含め4人で朝食を食べる。
「何だか、お姉さんが出来たみたいだね、美穂。」信子が美穂に優しく話しかける。「うん!」美穂は本当に嬉しそうだ。
「何時もこんな感じでお食事を?」遥香さんが尋ねる。
「ううん。何時もバラバラ。今日は遥香さんとパパもママもいるから最高な朝ごはんだよ。」美穂が声を弾ませてそう答えた。遥香さんも久しぶりの人と話しながらの食事だという。
「そうか、遥香お姉さんも美穂と一緒なんだね。」私が言う。
遥香さんは思った。「美穂ちゃんってかなりポジティブだわ。」
「遥香お姉さん、今日のクリスマス会を楽しんでいって。」美穂はそう言って自分で作ったスクランブルエッグをぱくついた。
「うん、わかった。楽しませてもらうわ。」
朝食が終わると朝から優雅なティータイムだ。優太君も誘っての団らんだ。
「優太君、悩んでたところ弾けるようになった?」信子がお茶を出しながら優太君に聞いた。
「はい。何とか弾けるようになりました。後で母に見てもらいます。」優太君はそう答えてお茶をいただく。
「優太君のママ、また昨日のケーキ作ってくれないかなあ。」美穂の食いしん坊な発言に皆大笑いだった。
遥香さんと3人で車をスタートさせる。車の中では遥香さんが美穂の練習についての質問攻めだ。2人のやり取りを聞いていて私も思った。「やはり美穂は天才なのかもしれない。」
車は何時も通り職員専用駐車場へ。ここから一旦事務室へ顔を出す。
何時もの事務のお姉さんが出演者控室へ案内してくれる。3人で部屋に入ると他の出演者さんの視線が一斉に美穂に向けられる。
「おおっ!美穂ちゃん!」皆さんが手招きしてくださる。美穂は皆さんに向けて挨拶をしてそれぞれの出演者さんたちへと挨拶回りをする。漫才をする方、手品をする方、ギターを弾く方、そして津軽三味線を弾くお姉さま方に挨拶をして回るのだ。皆さんはもう美穂が大のお気に入りでなかなか離してくださらない。手品をいきなり見せてもらったり、漫才のネタ振りをされたりする中で最も強烈なのが津軽三味線を弾くお姉さま方だ。皆さん良く喋る。さすがの美穂も付いて行くのがやっとな位のマシンガントークの連続だ。
そんなお姉さん方の話に飛び出してきたのが美穂の2位入賞の話だ。やはり音楽業界ではかなり話題になっているようだ。
「高校生のお姉ちゃんと同率2位なんて凄いわあ。」「ピアノ弾く人達って仲が悪いて聞いたけど?」などの質問が飛ぶ。
「演奏前は真剣勝負なので皆寡黙になっています。でも演奏が終わると和気あいあいです。特に上位4人は仲良しですよ。あちらの遥香さんは同率2位の高校生のお姉さんです。」そう言って遥香さんの手を引いて仲間の輪に加わらせた。そしてその輪を囲むように他の出演者の方々が集まる。最初は遠慮気味だった遥香さんも何時もの遥香さんに戻っていた。
やがて開演時間だ。今日はクリスマス会ということで会場は立って観る人でごった返している。演目をゆっくり見る余裕もなく美穂は事務室脇の女子更衣室へ向かう。遥香さんが付き添ってくれた。
美穂が着替えている最中に掲示板の美穂の記事を見つける遥香さん。
メッセージを1点1点読んでいく。やがて涙が溢れてくる。『美穂ちゃんってこんなに慕われているんだ!』
「遥香お姉さん、どうしたの?」着替えを終えた美穂が尋ねる。
「ううん。何でもないの。」そう言って振り向き美穂の姿に驚く遥香さん。美穂は真っ赤なサンタさんの衣装に着替えていたのだ。
「み、美穂ちゃん。かわいいーっ!」
そのまま控室に戻る。出演者の皆さんから悲鳴に近い声が上がる。
「わあ!可愛い!」「おおっ!可愛すぎだよ!」そう言いながら美穂に見惚れている。中には一緒に記念撮影する人まで現れた。皆すごく嬉しそうにサンタの美穂と写真に納まっていく。
やがて美穂の出番となった。エレベーターで1階のホールへ向かう。出演終わりの津軽三味線を弾くお姉さま方とすれ違いながらハイタッチ。「やだ!かわいいーっ!」お姉さま方からも悲鳴に近い声が上がる。
いよいよ舞台へ登場する。ホール内は大歓声に包まれる。
入居者の皆さんは両手を叩いて大喜びだ。「美穂ちゃーん!かわいいーっ!」と声援が飛び交う。立ち見の皆さんからも声援が飛ぶ。
美穂はマイクを手に挨拶をする。「みなさーん!メリークリスマス!」
入居者を始めホール中の皆さんから「美穂ちゃーん!メリークリスマス!」と返事が返ってくる。「今日も懐メロ弾いていきますね。」
そう言ってピアノへ片手を添え何時ものルーティンだ。演奏が始まる。毎度おなじみの1曲目は「リンゴの唄」だ。得意の連続演奏で「南国土佐を後にして」、「青い山脈」、「高原列車は行く」、「青春サイクリング」、「人生の並木道」、「影を慕いて」で懐メロは終了した。
「はい、今日はクリスマスです。」そう言って再びピアノを弾き始める。流れて来たのは「サンタが街にやってくる」だ。そしてこちらも美穂お得意の連続演奏だ。「赤鼻のトナカイ」、「ありがとうクリスマス」、「ジングルベル」、「きよしこの夜」、そして締めくくりは「ホワイトクリスマス」だ。皆うっとりと美穂の演奏に聴き入っている。
「美穂ちゃんすごい!素晴らしいわ!」改めて涙する遥香さんだった。こうして美穂のショータイムは終了した。ホールは大歓声に包まれた。手を振る入居者のみなさに一人一人握手して回る美穂。
かわいいサンタ美穂に顔をくしゃくしゃにして喜んでくださる皆さん。一斉にカメラのシャッターが下りフラッシュが焚かれる。皆さん美穂のサンタ姿を一生懸命カメラに収めようとしているのだ。
学校長さんのお母さまとのハグを終え、入居者の皆さんとの触れ合いも終わったところで、ホールの皆さんに最後の一礼をする。「きょうはありがとうございましたあーっ!みなさんよいおとしをーっ!」
舞台裏にはけてきた美穂は顔を紅く高揚させとても嬉しそうだった。
「美穂ちゃん!最高だよ!」そう言って遥香さんが抱き付く。
「ありがとう!遥香さん。美穂、嬉しい!」2人で抱き合って涙を流していた。興奮冷めやらぬ2人を連れて3階の控室へ戻る。
何と皆さん全員が美穂を待っていてくださった。
「美穂ちゃん、最高のステージだったよ!」皆さんの美穂への称賛の嵐だ。美穂は一人一人にお礼を言って回った。こういう礼儀正しさも美穂を気に入ってくださる一因かもしれない。
「美穂ちゃん、うちの附属中学に来ないかしら。」そう思う遥香さんだった。皆さんにご挨拶をして3人でホーム長さんにご挨拶をする。
ホーム長さんは保育園の園長さんと一緒に大絶賛だった。特に園長さんはもう美穂の大ファンのご様子で先の保育園のクリスマス会の話をホーム長さんにされたそうだ。その場で一緒に居る遥香さんを紹介する。私も「遥香さんは美穂と同率2位の高校2年生のお嬢さんで、入居されているお母さまの息子さんの学園の生徒さん」だと紹介した。
お二人ともたいそうお喜びでぜひ今度来てくださいと言うお誘いをいただいた。遥香さんも「よろこんで。」と明るく答えていた。
帰りの車中は遥香さんの出し物の話になった。
「“連弾”が良いんじゃあないかなあ。」何気なく私が言った一言が決定打になった。遥香さんを送って自宅へ伺う。閑静な住宅街の一角に遥香さんの自宅はあった。今日はご両親がいらっしゃるとのことで美穂とご挨拶することにした。
遥香さんがインターホンを鳴らすとドアが開いた。
「ママ、ただいま。昨日はごめんなさい。」遥香さんに続いて私がご挨拶をした。「昨日はお嬢さんを無理にお引留めして・・・。」
「あらあーっ!」お母さんの驚く声。
「えっ!」私も驚いてお母さんを見た。「ああーっ!」2人で大声をあげた。それに驚く遥香さんと美穂。「な、なに?」
「ああーっ!これはこれは。」2人で挨拶し合う。お母さんは急いでお父さんを呼びに行った。
「パパ、どうなってるの?」美穂が問いかけてきた。
「うん。実はね、パパの会社の大切なお取引さんなんだよ。」
そう言うとこちらの2人もびっくりしていた。
「いやあーっ!どうもどうも。娘がお世話になりまして。立ち話もなんですので是非おあがりください。」そう言われてリビングへお邪魔させていただいた。リビングには白いピアノが置いてあった。国産メーカーのかなりハイクラスのグランドピアノだ。美穂は初めて見る純白のピアノに釘付けだ。
「いやあ。常々娘から聞いている美穂ちゃんはあなたの娘さんだったんですか。」そう言ってピアノを見やっている美穂を見つめた。
「最初は信じられませんでした。小学生の子が総合5位以内に入っただなんて。」お母さんもそう言って美穂を見つめた。
「お父さん、お母さん。美穂ちゃんの演奏を聴いてみて。」そう言って美穂の手を引いて自分の白いピアノの傍に連れて行った。
「わあーっ!真っ白だあーっ!」そう言って目で遥香さんの許可をもらいそっとピアノに触れる美穂。その様子を驚きながら見守るお2人。美穂が鍵盤に触れて演奏が始まる。まさか!4人が耳を疑った。美穂が弾き始めたのはベートーベンのピアノソナタ「悲愴」だ。
「うそ、何時の間に練習していたの!」驚く遥香さん。それ以上に驚かれたのはお2人だった。まだ小学4年生の子が弾き熟せる曲ではないからだ。私たちの驚きに意を介さずに美穂の演奏は続く。
「楽譜も無しに…。」譜面立てに譜面はない。白いピアノは綺麗な旋律を奏でていく。さすがの私も脱帽だった。信子の言葉は本当だった。“美穂はね、一度聴いた曲をそのまま再現できるの。そして忘れないのよ。”まさにその通りだった。
遥香さんのピアノでの初演奏は大成功だった。
お名残り惜しそうな3人にお礼を言ってわが家へ戻った。
ピアノルームでは優太君と優太ママの猛練習が続いていた。
信子は次の演奏会の曲の楽譜をチェックしていた。
今日のクリスマスパーティーの様子を報告すると笑いながらも満足しているようだ。美穂のサンタ姿を見たいということで美穂は着替えるため洗面所へ。「それは、それは、美穂は可愛かったよ。」そう言う私を親ばかだと言って笑い飛ばす信子。しかし、美穂サンタの出現に言葉を失った。「な、信ちゃん。美穂、可愛いだろ?」私がそう言うとうんうんと頷く信子。美穂サンタは母親信子までノックアウトさせてしまったようだ。「美穂、今日一日サンタのままでいておくれ。」私がそう美穂にお願いすると信子も大きく頷いた。
サンタ姿の美穂を交え信子と3人で記念写真を撮る。そして久しぶりの一家団欒だ。遥香さんのご両親が会社の取引先の経営者であること、白いグランドピアノ、美穂が弾いた「悲愴」の話など話題には事欠かなかった。「悲愴」は初めて弾いてみたとのことだ。さらにあのパートはもっとペダルを弱めるべきだったとか頭の中で反省し修正を図っている。そんな美穂の横顔を見ながら信子が言った。
「美穂さん、今度はしっかり弾けそうですか?」
「はい、信子先生。楽譜を取り寄せてチェックします。」
話は弾みもう夕方の5時だ、そろそろ2人のヴァイオリンの練習が終わる。美穂は優太君のために特製ココアを作り始めた。そして、
「練習終わ、うわあーっ!」優太君の叫び声が上がる。
「ちょっと優ちゃん、何大声・・・きゃあーっ!可愛い!」優太ママの驚く声も上がる。真っ赤なサンタ姿の美穂に相当驚いたようだ。
特に優太君はサンタ姿の美穂を凝視して立ちすくんでいる。
「み、美穂ちゃん、可愛いわあ!えっ?その格好で演奏会したの?
大丈夫だった?入居者の皆さんたちは。」あまりの可愛さに美穂の周りをぐるぐる回る優太ママ。優太君は美穂のサンタ姿をポカンとして見つめ立ち尽くしていた。
「優太君、可愛いだろう。わが娘ながら本当にカワイイと思うんだよ。」私がそう言うと優太君も「はい。」力強く答えてくれた。
「もおう!何言ってるの!優太くん、はい!ココア!」少し口を尖らせながらも美穂は嬉しそうに優太君を見つめた。
夕食は何時もの5人で何時もの様に済ませる。今日は美穂お得意のイカとしそのスパゲッティーだ。併せてブロッコリーのミモザサラダとポタージュスープも作ってくれた。その横では信子が美穂の大好きなレモンパイを焼いてくれていた。
そんな食事の後で美穂と優太君にクリスマスプレゼントを渡す。
二人は嬉しそうにリボンを解き、包装紙を丁寧に取って現れた箱を見て驚く。
「わあーっ!携帯電話だ!」優太君が驚く。美穂もそれに続いて声をあげる。「わあーっ!かわいい!」そう言いながら箱から電話機を取り出す。
「これから先、急な連絡事項があるとお互いに直ぐ話が出来るからね。でも、ホールとか電車の中は“マナーモード”にするか一旦電源を切っといてね。後は呼び出し音。大きすぎると周りの人の迷惑になるからね。私たち3人の携帯電話は“短縮ダイヤル”に登録してあるからね。説明書をよく読んで上手に使ってね。怖いことがあったら“110番”だからね。最後に学校には電源オフで持って行って。“110番”と“防犯ブザー”は電源入れてなくても使えるからね。くれぐれも授業中に鳴らさないようにね。」大まかな注意事項の後はレモンパイの登場だった。二人はほうじ茶、大人3人は紅茶を入れて美味しくいただいた。
クリスマスが終わるとお正月を迎える準備だ。大晦日までの間に少しずつ大掃除をしていく。2人のママは年忘れの“大晦日公演”が控えている。優太君に練習を優先してもらうために家の大掃除は美穂が担当することになる。私も土日休みに美穂の応援をする。特に窓ガラス清掃は美穂には危なすぎるので私が行うことにしていた。
毎年のことながら主婦不在の大掃除となっていた。今年から私は御用納めから休めるようになった。いざとなれば携帯電話で連絡が取れるからだ。こうして私は大晦日まで美穂と一緒に大掃除に励むのだった。
大晦日、信子は楽団の“大晦日コンサート”で家にはいない。当然優太ママも同様だ。今日ばかりは優太君も自宅の大掃除だ。美穂が手伝いに行くというので送って行く。そのついでに頼まれたものを買いに行くが何処も大混雑だ。やっとの思いで買い物を済ませ家に戻る。午後には注文していたおせち料理が届く予定だ。
一方、美穂と優太君は優太君宅の大掃除に取り掛かっていた。マンションということもありわが家と比べると外回りが無いだけ楽が出来るがすることは多い。優太君は窓を、美穂は台所周りを中心に掃除を進めていく。一段落付くころにはもうお昼だ。
「美穂ちゃん、お昼どうしようか?」優太君が手を洗いながら美穂に尋ねる。その後ろで順番待ちの美穂が答える。
「うーん。せっかく台所を綺麗にしたからあまり汚したくないなあ。そうだ、年越しそばもまだ買っていないんでしょ。駅前のスーパーに行ってみようよ。」
二人で仲良く出かけることになった。優太君宅のあるマンションからは歩いて2分と駅近でもある。住宅街の中の駅ということもありこれといった店はスーパーくらいしかない。こちらも大混雑だ。
優太君宅のおせち料理も夕方辺りに届くという。まだ時間に余裕があるせいか二人ともあまり混雑を気にはしていなかった。二人で人混みを縫うように買い物をしていく。
「優太くん、伊達巻好きでしょ?」美穂はそう言いながら大人たちの隙間から手を伸ばして伊達巻を手に取り優太くんが持っている買い物かごへ入れる。「美穂ちゃん、何で分かるんだろう?」不思議に思いながら美穂に付いて行く優太君。紅白のかまぼこをかごに入れると鮮魚コーナーへ。
「優太くん、お刺身は何時も何を買っているの?」美穂が聞く。
「うーん、マグロとサーモン、いくら、ウニかなあ。」それを聞くやマグロを手に取って見比べる美穂。それを横で見守る優太君。
「何を見ているの?」真剣にマグロの柵を見比べていく美穂に優太君が尋ねる。美穂は選んだ策を手にして言う。
「少しでも美味しいものをと思ってね。お魚の選び方はパパに習ったんだよ。あと、お野菜も。」嬉しそうに話す美穂の笑顔をじっと見つめる優太君だった。年越しそばと天ぷらを追加。あとは二人のお昼ご飯だ。大晦日ということもあり色んなお惣菜やお弁当が並んでいる。二人で一通り見てから再度見ながら決める。
「私、これにする。」美穂がそう言って手に取ったのは“助六寿司”だ。「美穂ちゃんって好き嫌いが無いんだね。」優太君もそう言いながら同じものをかごに入れる。二人で同じものを食べたいからだ。
「美穂ちゃん、デザート買おうよ。」優太君に誘われてお菓子コーナーへ。「そう言えば美穂ちゃんって“ポテトチップス”食べないね。苦手なの?」優太君は常々気になっていたようだ。
「嫌いじゃないよ。ただ、ピアノさんを汚したくないだけなの。洗ってもなかなか油が落ちないから。」美穂はそう言いながら“のり塩”味の袋をかごに入れた。チョコレートを追加して美穂が気付く。
「お雑煮のお餅ってどうしているの?」
店頭でみかんを売っている顔なじみの店長さんに挨拶して優太君の家に戻る。買ったものをそれぞれ冷蔵庫へしまう。そしておもむろにお昼ご飯だ。緑茶を入れて二人で同じ“助六寿司”をいただく。「太巻きって美味しいよね。」そんな他愛のない会話でも楽しい二人だった。
「デザートにしない?」優太君が取り出したのはポテトチップスだ。
「でも、指が油まみれになっちゃうよ。」躊躇する美穂。
「こうすれば大丈夫だよ。」そう言って先ほど使っていた割りばしでポテトチップスを1枚掴んだ。そしてそれを美穂の口元へ。
「・・・。」無言でぱくつく美穂。ばりばりぼりぼり。
「うん、おいしいね。これなら指も汚れないね。」今度は美穂が優太君の口元にポテトチップスを運ぶ。
「ありがとう。いただきま-す。」そう言ってパクリ。
今度はお互いに口元へ運びパクリ。「うふふふ。」幸せな二人だった。
ぴんぽーん!インターホンが鳴った。マンション入り口からだ。優太君が対応する。どうやらおせちが届いたようだ。
再びぴんぽーん!と違う音が鳴る。二人で玄関を開けておせちを受け取った。届いたおせちを美穂が手早く冷蔵庫へしまう。
「おそばのおつゆ作っておくね。」美穂は昆布でお出汁を作り始めた。
がちゃがちゃ。玄関の鍵を開ける音がした。
「あっ!パパだ!パパが帰ってきた。」玄関へ走る優太君。
「パパお帰りなさい!」声を弾ませる優太君。
「おっ!優太!大きくなったな。おや、出汁のいい匂いがするな。ママは今日休みだったっけ?」そう言いながら台所に入ってくるお父さん。
「今日は・・・。」そう言いながら後を追う優太君。
「だ、誰?」絶句するお父さん。優太君にピアノが上手なガールフレンドが出来たとは聞いていたが、まさか出汁まで取ってくれるなんて。
「あっ!初めまして。美穂と言います。」そう言って丁寧に挨拶をする美穂。
「ああーっ、はい!優太の父です。」背の高い細身の男性で一目ではダムの総監督責任者とは思えない位優しそうだった。
「それにしても、優太。可愛いお嬢さんだな。」奥の部屋ででネクタイを外しながら優太君に耳打ちしるように話すお父さん。
「うん。可愛いのはもちろん、ピアノは全国2位の腕前なんだよ。勉強も出来るし、言うことなしの女の子だよ。」優太君が自慢気に小声で話す。
「しかも、料理も出来る・・・ということか。」普段着に着替えながらにこにこ顔のお父さんだった。
「いやあー、大掃除までしてもらって申し訳ないね、美穂ちゃん。ありがとうね。」そう言ってお土産を出すお父さん。
それは竹皮に包まれた茶色い大福?いやクルミ餅だ。
「お茶を入れますね。」そう言って台所へ向かう美穂。
「すまないね、美穂ちゃん。でも、何だかお嫁さんみたいだな。」そう言って明るく笑うお父さん。傍で優太君は真っ赤になっていた。
急須と湯呑みを運んできた美穂も頬を赤く染めていた。
3人でクルミ餅をほおばる。クルミの風味が鼻を抜ける。
「わあーっ!おいしい!」思わず声をあげる美穂。
「うん、おいしい!」優太君も満足そうだ。
「そうかそうか。それは良かった。」お茶をすすりながら仲の良い二人を満足そうに見つめるお父さんだった。
「ごちそうさまでした。」美穂はそう言って帰り支度を始める。
「美穂ちゃん、今日はありがとう。送って行くよ。」お父さんに促されて優太君も外出の準備だ。お父さんの車で送ってくれるとのことだ。その車はマンションの臨時駐車場に停まっていた。管理人さんに声を掛ける。「なんだ、優太君のお父さんだったんですね。」そう言いながらチェーンを下げてくれた。「後で戻られたらご自分でチェーンを下ろして止めてください。鍵はそのままお持ちください。それではよいお年を。」管理人さんはそう挨拶をして部屋へ戻って行った。その車は大きな四輪駆動車だった。美穂は初めて見るこの大きな車にびっくりだ。「どうやって乗るの?」乗り方が分からない。
「美穂ちゃん、ほら。」反対側から乗り込んだ優太君が手を差し出してくれた。「ステップに左足を乗せて。」優太君の言うように足を乗せると優太君が引っ張り上げてくれた。高い位置からの車窓の眺めは格別だった。何時もと異なることで新しい発見もあった。
「ちょっと寄り道しても良いかな?」そう言いながら車を酒屋さんのパーキングに停めた。
「一緒に酒屋さんに入る二人。子供には無縁の場所で来てはいけない様な所だと思っていた。だが、いろいろなお酒が並んでいて結構楽しい。美穂の顔より大きな焼酎のボトルもある。大人の世界へ足を踏み入れた二人をお父さんはビールコーナーに連れて行った。
「美穂ちゃん、お父さんはどのビールを飲んでいるのかなあ?」美穂はそう聞かれて「はっ!」と思った。パパが美穂の前でお酒を飲むことが無かったからだ。当然ながら信子もそうだ。お酒を飲んで帰って来ても酔い潰れていることはなかった。
「そうかあ。美穂ちゃんの前ではお酒は飲まないんだね。」感心したようにお父さんは言った。美穂がいかに大事に育てられているかが良く分かったお父さんだった。そんなお父さんはビールのケースを2箱カートに入れてレジへ向かった。
精算が済むと2箱のビールを車に積み再び走り出した。
やがて車はわが家の前へ。美穂が玄関を開けて中へ案内する。
「おい、勝手にお邪魔になっていいのか?」お父さんは躊躇していたが優太君はわが家の様にお父さんを連れてリビングへ。
「パパーっ!お客さんだよおーっ!」階段下から私に声を掛けた。
私は慌てて玄関へ行きドアを開けるが誰もいない。
「パパ、お客様はもうお通ししているよ。」美穂に声を掛けられて少し不思議に思う私だった。
応接間に入ると背の高い男性が立っていた。その横には優太君が立っている。なるほど、そっくりな親子を見て私は全てを理解できた。
「初めまして。優太の父です。何時も優太と女房がお世話になっております。」物腰の柔らかいお父さんだ。
「いえいえ、初めまして。こちらこそお2人にはお世話になっております。」そう言いながら2人に座っていただく様に勧めた。
美穂がお茶を入れてくれた。
「いやあ、美穂ちゃんは良く出来たお嬢さんですね。わが家のことまでやっていただいて本当に恐縮です。」お父さんはお茶を出してくれている美穂を見ながら褒めてくださった。
暫く世間話が続いたが、私が優太君にヴァイオリンの練習成果をお見せしたらと勧めた。もう1年以上優太君のヴァイオリンは聴いていないという。早速4人でピアノルームへ。
入ってすぐに目に飛び込んでくるグランドピアノの迫力に驚くお父さん。優太君はその横に立ちヴァイオリンを構える。
「優太くん、普通の速さで良いかしら?」美穂が尋ねる。
美穂がグランドピアノの椅子に腰を下ろす。
「えっ?美穂ちゃんってこのピアノが弾けるんですか?」
小学生が勝手に弾いて良いものかと思われたようだ。
「お父さん、大丈夫ですよ。美穂は何時も弾いていますから。」私の言葉にもまだ信じられないという感じのお父さんだった。
二人で目配せして美穂の前奏が始まる。「チゴイネルワイゼン」だ。澄んだピアノの音が鳴り響く。直ぐに優太君のヴァイオリンの演奏も始まる。澄み切った力強い優太君のヴァイオリンと美穂のピアノの迫力のある調べが身体を震わせる。早すぎるテンポでのヴァイオリンの最高の見せ場も難なく弾いていく優太君。「優太くん、一生懸命練習してたからね。」そう思いながら嬉しそうに伴奏する美穂だった。
そして、第1楽章を演奏しきった二人に大きな拍手を送ってくれた。
「いつの間にこんなに上手くなった?」驚きながら優太君に問いかけるお父さん。美穂も優太君が仕上がっていることを確認できたのかとても嬉しそうだ。
「それにしても、美穂ちゃん。どうしてそこまで弾けるの?」お父さんは美穂のピアノ演奏にもただならぬものを感じたようだ。
「来年の正月2日には4人で演奏会を催します。是非おいでください。」
夏の避暑地での演奏会の想い出話をしながらリビングへ戻る。
お父さんに夏も都合が付けば合流しましょうとお話しした。
一方で美穂は優太君におそばの茹で方とおつゆの温め方を伝授していた。だが、優太君は今一つ良く分かっていないようだった。
「美穂ちゃん、ありがとう。大丈夫、俺出来るから。」そう言って笑って美穂を小突いた。
外までお見送りをする。お父さんは車からビールの箱をひょいと降ろし私に手渡ししてくださった。「つまらないものですが、気持ちばかりのお礼です。良いお年を。」そう言ってさっそうと車に乗り込み
去って行った。私はボール箱を抱えて美穂と一緒に手を振った。
「そうだった。年賀状の途中だった。」ビールを開封し数本を冷蔵庫へ入れた。その様子をじっと見つめる美穂だった。
2階の部屋で年賀状を作成し終わる頃、美穂が年越しそばが出来上がったと教えに来てくれた。年賀状は信子を迎えに行くときにポストに入れるつもりだ。
親子二人で温かいおそばをいただく。美穂のそばの味は信子の味そのものだ。関西風で昆布出汁が上手い。親子2人でふうふう言って食べ進める。そして食事が終わるとしばし美穂との雑談だ。雑談しながら美穂は私が作った美穂の年賀状に一筆一筆メッセージを書き込んでいく。これらが終わるとお風呂の時間だ。
お風呂上がりの髪を乾かせながら美穂が話しかけてくれた。
「パパ、1年間ありがとう。」素直な気持ちで言ってくれた美穂の言葉を胸に大事に仕舞いながら私は答えた。
「美穂。1年間よく頑張ったね。美穂が一回りも二回りも大きく成長してくれてパパは嬉しいよ。」私はそう言ってお風呂上がりの少し色っぽさを見せる美穂を見つめた。
「うん。来年もよろしくね。良いお年をね。」美穂はにっこり笑うと2階の自分の部屋へ上がって行った。
「さあ!後は奥様のお帰りの電話を待つだけだ。」
今年の大晦日もこうして暮れていくのだった。
新年を迎えた。信子とゆっくりと寝坊を楽しんでいる間に美穂は相変わらず新年から早起きだ。おせちは既にお重に入っているのでお刺身とお雑煮の準備をしてくれていた。それが終わるとピアノルームで2台のピアノとヴァイオリンを初演奏する。
「今年もよろしくね。」1台ずつにそう言って声を掛けて演奏していく。グランドピアノでは「トルコ行進曲」を、スタンダードピアノでは「エーゲ海の真珠」を、ヴァイオリンでは「シバの女王」をそれぞれ奏で初演奏を楽しんだ。
また、美穂には私たちに聞きたいことがあるという。クラスのお友達とかは毎年貰っているという“お年玉”だ。優太君に貰っていないと言うと驚かれたそうだ。なぜ自分は貰えないのか?不思議に思っていたようだ。
3人揃って新年の挨拶をしておせちをいただく。昨晩帰りが遅かった信子もお寝坊のおかげですっきりと目覚めたそうだ。形だけのお屠蘇を3人でいただく。美穂の分は白酒だ。お屠蘇の独特の風味が何とも言えない。そんな時美穂が口を開いた。
「ねえ、どうしてパパとママは私の前でお酒を飲まないの?」
予想していたものと違った問いだったが信子が答えてくれた。
「それはね、酔っぱらって大事な美穂を傷付けたくないからだよ。
判断力が鈍った状態で美穂のお世話をしたくないの。美穂とは常に真面目に向き合おうとパパとも約束をしているんだよ。いい加減なことを美穂に教えたくないの。」信子はそう言って美穂を見つめた。
「うん。わかった。2人ともありがとう。」美穂はにっこりと笑ってくれた。
「美穂、もう一つ聞きたいことがあるんだろ?」今度は私が口を開く。美穂は少し俯き加減で頷いた。
「“お年玉”のことなの。私だけが貰えていないの。」寂しそうに美穂が答える。
「美穂、内緒にしていてごめんね。」私はそう言って1冊の通帳を美穂に渡した。黙って通帳を受け取る美穂。表紙には自分の名前が。そして中のページをめくると私たちや両家の両親、そして親戚一同からの振り込みが列記されている。過去2年分の美穂へのお年玉の入金だ。唖然とする美穂。そしてその残高は30万円ほどになっているのだ。今年のお年玉が振り込まれると・・・。じっと通帳を見つめる美穂。
「美穂。ママは美穂位の時にアメリカへ行ったんだよ。だからお年玉が貰えなかったんだ。それを可哀そうだとおじいちゃんがママの口座を作ってそこに振り込んで貰っていたんだ。だから美穂もその名残りって感じで引き継いでいるんだよ。お小遣いはその都度渡してあげているけど“お年玉”は教えていなかったね。ごめんね。」
私がそう言うと美穂は嬉しそうにはにかんだ。
「美穂、何時か一緒に記帳しに行こうね。」信子はそう言いながら美穂の通帳を預かった。
「美穂、“お年玉”とは違うけどパパからプレゼントがあるのよ。」信子が美穂に伝える。
「えっ?パパ、なあに?」美穂は待ちきれないように聞いてくる。
「一つはこれ。美穂の“クレジットカード”だよ。急な時に使って構わないよ。お金を払う時にお店の人に渡せば大丈夫。利用明細書にサインすれば物が買えたりサービスが受けられたりするんだ。落としたり無くした時はすぐに連絡すればカードの機能を止めてくれるよ。後のもう一つはこの“ハイヤーとタクシーの利用カード”だよ。何時もパパ、ママ、優太ママが必ず一緒に居るようにしているけど都合がつかない時もあろうかと思ってね。パパの会社でお世話になってるタクシー会社さんのお客様カードだよ。これもお金を払う必要はないんだ。サイン一つで乗れるよ。予約の電話番号も裏に載っているから表の会員番号を伝えるだけで大丈夫。」そう言って美穂に2枚のカードを渡す。しかし信子に直ぐに預かられてしまう。
「通帳と一緒にしまっておくからね。」信子はそう言いながら2階に向かった。それでも美穂は十分幸せだった。「パパ、ママありがとう!」
美穂は気持ちが晴れたのかおせちをモリモリ食べ始めた。数の子に大海老、昆布締めと黒豆。お刺身は中トロをお腹いっぱいいただいた。さすがにお雑煮はお昼にすると言い出す。まあ、「それだけ食べればそうなるわな。」と信子と大笑いした。おせちを食べ終えると今度は信子の初演奏だ。グランドピアノで「カノン」、スタンダードピアノで「トルコ行進曲」を。最後はヴァイオリンで「G線上のアリア」を弾きあげた。美穂と私はチェアに座って信子の演奏を堪能した。「美穂さん、明日の演奏会の練習をしましょうね。」そう言って美穂にグランドピアノでの伴奏を依頼した。
「はい、信子先生。」私はお正月から音楽三昧だった。
お正月2日、正午過ぎに優太君一家がやって来た。美穂は優太パパの大きな車が気になって仕方ないようだ。“お神輿みたいな車”と信子に説明するのだが信子は余り車に詳しくなく今一つ理解出来ていないようだ。
「おめでとうございます。」両家全員での初顔合わせとなった。
お茶をいただいてから演奏会を始める。お客は優太パパと私の二人だけ。贅沢な演奏会だ。夏の避暑地での演奏会を知らない優太パパはさぞかし驚くことだろう。演奏が始まる。今年初めての演奏は優太君の課題曲「ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64」だ。オーケストラほどの迫力は無いものの、ヴァイオリンのソロ、第1パート、第2パートそして美穂のピアノと綺麗にまとまった演奏が特徴だ。
優太君のヴァイオリンが今年初めての音を奏でる。優太君のパパはじっくりと耳を傾けている。優太君の成長ぶりが良く伝わっているようだ。1年近く会っていなかったこともありその成長ぶりは愕然とするくらいなのだろう。私も聴いていて優太君のテクニックもそうだが、大人に近づいているような気がして頼もしくさえ感じていた。それにしてもプロの2人のママが加わるとこんなにも厚みが出るのか!と感心させられる。美穂も優太君の弾くスピードに併せて伴奏を続ける。こうして新年の演奏会は無事に終了した。優太君のパパも私も椅子から立ち上がって4人に拍手を送った。
折角なので2家族6人で近所の神社に初詣に出かけることになった。
小さな神社なので出店はないものの結構人で溢れていた。
本当はそれぞれの家族でと思っていたが優太パパの“優太君と美穂の仲睦まじい姿が見たい!”という二人には内緒の2家族での初詣となったのだ。大人だけでなく、周りの子供たちも振り返るくらいお似合いの小学生カップルだ。二人でお参りして、二人でおみくじを引く。そしてお揃いのお守りをいただく。
「美穂、何てお願いしたんだい?」私は少しからかうように美穂に聞いた。
「うん、優太くんがコンクールで優勝出来ますように!って。もちろん皆の健康も願ったよ。」嬉しそうに話す美穂。優太君のパパはそんな美穂を目を細めて見つめている。
「優太は何てお願いしたのかな。」優太パパが尋ねる。
「うん、美穂ちゃんが春のコンクールで4連覇、総合1位になれますように。あとね、俺もコンクールで入賞出来ますように!って。」
少し遠慮がちながら目標の落としどころが的確過ぎるぞ!と言われて恥ずかしがる優太君。そして、おみくじは二人そろって“大吉”だった。「願い事叶うって書いてあるよ。」「良縁に恵まれるって。」二人ともお互いのおみくじを見比べながら楽しそうだ。明日は2人のママは新春コンサート、そして優太パパは仕事場へ戻るという。私もゆっくり出来るのは明日までだ。
「道中お気をつけて。」そう優太パパに告げてそれぞれの家へ帰っていく。また明日から新たな仕事が始まる。明日は、老人ホームへの新年のご挨拶に伺う予定だ。
お正月の3日、早朝に信子を駅に送る。戻ると美穂はもう朝食の準備をしてくれていた。「おせちも飽きたでしょ?」まるで信子の様に私に問いかけてくる美穂。そう言えば最近急にお姉さんぽく見える。今度の4月で5年生になるんだなあ。そんなことを考えていたらいつの間にかニヤけていたらしい。
「やだあ!何喜んでるの?」美穂はおどけながら私に厚切りトーストを渡してくれた。
「いや、美穂がお姉さんになってきたなあと思ってさ。」私はそう言いながら何時ものようにトーストにバターを乗せる。
「スープはインスタントだけど、これって美味しいよね。」私と自分の分をよそいながら美穂は嬉しそうに私に言った。何気ない親子の会話ながら美穂は信子に似て来たと思う。私は小学5年生から大学3年生までの信子を知らない。それを知らしめてくれるのが美穂ではないかと最近になって思うようになった。
老人ホームは玄関に立派な門松が飾られていた。次の土曜日が新年会ということもあり結構人の出入りが多かった。美穂は掲示板に自分が書いたレターを貼り付けると新たな掲示板が新設されていることに気付いた。少し離れたところにあったのは“美穂ちゃん掲示板”と名が記された美穂専用の掲示板だった。そこにはサンタ姿の美穂の写真、美穂へのメッセージなどが張ってあった。美穂もそうだが、私の方が胸が熱くなりありがたい気持ちでいっぱいだった。気付くと美穂はレターを貼り替えていた。そうこうしていると事務のお姉さんが何処からか戻ってこられた。新年のご挨拶を済ませて新しく設置された掲示板の話になった。美穂へのメッセージが増えてきて手狭になってしまったとのことだった。美穂はその場で手持ちの付箋にメッセージを描き、貼られている皆さんのカードの下部に貼り付けていく。その手際の良さも信子譲りだ。
ホーム長さんは新年の挨拶回りということでご不在だったのでそのまま失礼してホームを後にした。保育園も回りたかったがさすがにお正月休みなので今度の日曜日に伺うことにした。
帰りの車の中でホームの新年会で着る衣装の話になった。どうやら着物を着るようだ。どうやら信子の着物のようだ。次の土曜日は信子が居るので3人でのお出かけになる。その間は優太君の最後の追い込みだ。優太ママにも力が入る。
明けて最初の土曜日。新年初日の演奏会に臨む。
今日は親子3人での老人ホーム訪問だ。恒例の掲示板に立ち寄り1件1件読んでは返事を書いて貼り付ける。そんな美穂と一緒にメッセージを読む信子。母親として、一人の女性として、こんなに皆さんから慕われる娘を誇らしく思っている。
事務のお姉さんにご挨拶してホーム長さんに新年のご挨拶をする。
世間話の中で当ホームが明るくなった、入居者の皆さんがお互いに良く会話をするようになったと話された。
「これも美穂ちゃんのおかげです。それと入園希望者が増えましてね。現在待機中の方が約10名様いらっしゃるのですよ。」ホーム長さんはそう言って頭を下げられた。
挨拶を終えて控室へ。早速美穂は晴れ着に着替えるという。「手伝おうか?」私の問いに信子が笑って答える。
「ありがとう。でも、大丈夫。私、着付けの免状持っているから。」
後ろを向いて美穂の着替えが終わるのを待つ。わが娘とは言えもうお年頃だ。時折、私を外して買い物に行くことも出来てきた。少し寂しいがそこは女の子同士の世界ということで知らんふりしている。
「おわったよーっ。」美穂の弾んだような声がして振り返った。
「かっ!かわいい!」わが娘の可愛さに思わず声が出てしまった。
薄いピンク色の生地に様々な花模様が織り込まれ振袖は美穂のためにあると錯覚を覚えさせた。元は信子が着ていたものだ。だが、今は美穂が着こなしている。そんな美穂の姿を信子と眺めていると目頭が熱くなってくる。
「もうーっ。娘に弱いんだからーっ!」信子にそう言われて照れる私を見てくすくすと笑う美穂。サンタ姿も良かったが振り袖姿も最高だよ。
開演の時間が近づく。ホールへ降りていく。
ホールは一も通り熱気がこもっていた。新年早々の美穂の演奏会ということもあり定例会よりもはるかに大勢の皆様が来てくださっていた。ステージの後ろに待機。「じゃあ、行くね。」美穂は笑顔でステージへ出ていく。
「うわあーっ!」「きゃああーっ!」振袖姿の美穂の登場にホールは歓声に包まれた。「美穂ちゃん可愛い!」黄色い声援が飛ぶ。遥香さんと音楽部の皆さんだ。
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。」マイクで新年のご挨拶をすると直ぐに最初の曲に入る。
「春の海」が今年最初の曲になる。しかも尺八と琴のパートを左右の指で弾き分けていく。年配の方には聴きなじみのある曲だがなかなかピアノでは聴く機会はない。皆さん少し驚かれていた。
2曲目からは何時もの曲が続く。「旅の夜風」「ああ上野駅」「赤いランプの終列車」「青い山脈」「リンゴの唄」「南国土佐を後にして」「人生の並木道」そして「影を慕いて」へと続く。するとピアノの演奏が美穂から信子へバトンタッチされた。初めての信子の登場に驚きの声が上がる。
「皆さん、私の母が代わりに伴奏してくれます。」そう言って信子を紹介する美穂。会場からは大きな拍手が。
「さて、多くのリクエストをいただきましたので歌を披露させていただきます。」そう言って信子に合図を送る美穂。会場には「おおーっ!」というどよめきが起こる。信子の伴奏が始める。会場には驚きの声が上がる。流れて来たのは「乱れ髪」だ。年配の方にはなじみのある名曲だがこれを小学生の美穂が歌うというのだ。
しかし美穂の歌声は澄んだ清らかな声だった。しかし、強弱をつけ、表現力豊かな歌声はもう小学生の歌唱力をはるかに超えていた。
会場の皆さんはじっと美穂の歌声に耳を傾けてくださっていた。
美穂の歌唱が終わり信子の演奏も終わった。
「わあーっ!美穂ちゃんうまいーっ!」思いもよらない歌のプレゼントに沸き立つ会場。
「ありがとうございました。」そう言いながら美穂は続けた。
「駅長さんだったお父さんはいらっしゃいますか?」マイクを持った美穂が呼びかける。すると複数の人たちが一人のお年寄りの男性に声を掛け無理やり手を揚げさせる。お年寄りの男性は何が何だか分からないでいた。美穂は信子にマイクを預けピアノに戻る。信子はお年寄りの男性の隣に行きマイクを向けた。
美穂のピアノからは山手線の発車メロディーが流れる。
「山手線内回りドアが閉まりまーす!」力強い声がホールに響く。
「わあーっ!」と大きな歓声が上がる。お年寄りながら職業癖は健在だった。まるで現役そのものの活き活きした声だった。皆さんから大きな拍手をいただきその男性はとても嬉しそうだった。
楽しかった時間も終わろうとしていた。
「美穂ちゃん、「トルコ行進曲」弾いてくださいな。」学校長のお母さまのリクエストだ。
「はい。よろこんで。」美穂はにっこり笑ってピアノを弾き始める。
美穂お得意の高速タッチが冴える。信子が居るからだろうか、それとも美穂が成長したのか、それはもう去年の美穂の演奏ではなかった。そしてこの演奏に身震いしたのは遥香さんだ。練習もほとんどしていない美穂がここまで上達している理由が全く分からなかった。
演奏が終わると歓声と拍手の嵐だった。そんな中、美穂は一人一人に声を掛けて回る。何時もの恒例行事だ。
「美穂ちゃん、どうして?どうして?」遥香さんはもう言葉が出てこなかった。
「遥香お姉さん、後で3階の楽屋まで来てくださいね。」美穂の言葉に頷く遥香さん。
「美穂ちゃん、リクエストに答えてくれてありがとう。」お母さまはまた涙ぐみながら美穂の手を強く握りしめた。
「美穂ちゃん、君って子は!ただの奏者だけではなくなってしまったんだね。素晴らしいの一言だよ!」学校長さんも学園長さん絶賛してくださった。
そうしている間に信子の演奏が始まる。「年の始めの試しとて終わりなき世のめでたさを・・・。」
こうして新年の演奏会はお開きとなった。
控室に遥香さんと音楽部の皆さんが来てくださった。
そう、保育園で披露する連弾の打ち合わせだ。音楽部の皆さんも興味津々で聞き入ってくれた。
日にちがあまりないので2回くらいしか時間が取れないこと。美穂の家のピアノルームは通太くん最優先で使ってもらっているので美穂の部屋か遥香さんの家かを決めなければならない。お互い、学校もあるので次の土曜と日曜日に練習することにした。さて、問題は場所だ。「美穂ちゃんの部屋ってピアノがあるの?」遥香さんが不思議増に尋ねた。
「うーん、本物ではないけど電子ピアノがあるの。申し訳ないって優太くんのママが買ってくれたの。何時もヘッドホンを使って練習しているけど連弾となると鍵盤が少ないかあ。」
「そうか、そういう方法で練習していたんだね。いいわ、良かったらうちに来て。本物のピアノの方が良いわ。あと、行ったり来たりするのは大変だから泊りがけで来てちょうだいな。」
次の土曜日、今日は美穂が初めて遥香さん宅へお泊りに出かける。
夜8時以降はピアノが弾けないため電子ピアノを持たせることにした。信子に見送られて出発。遥香さん宅までは車で30分ほどだ。
美穂は助手席でピアノの練習をしている。もちろんエアーだ。
おそらく新しい曲を頭に叩き込んでいるのだろう。私たちには理解しがたいのだが、実際に成し遂げている美穂を見ていると信子も私も否定することは出来ない。それに反して優太君は練習の鬼だ。何度も何度も練習をする。納得がいくまで練習をする。以前と比べて防音が強化されたピアノルームでの練習が大きな成果をもたらしていると優太ママが感謝してくれている。今までは週に一度のペースでのレッスン、学校から帰ってからの公園での練習と限られた時間でしかヴァイオリンを手にすることが出来なかった。先日の4人での演奏会は優太君の成長ぶりが顕著だった。素人ながら、小学生が弾くレベルではないと思った。上位入賞も夢ではない。
そんなことを想っていたら遥香さん宅へ到着した。
美穂が玄関のチャイムを鳴らす。「はーい。いらっしゃい。」インターホンから遥香さんの明るい声が聞こえる。
程なくして玄関の扉が開く。「おはようございます。」
一旦、リビングへお邪魔する。私は電子ピアノを運び込んでセッティングする。少し大きな電子ピアノだが美穂一人でも十分に持ち運びができる。便利なものが出来たものだ。
「遥香さん、ご近所ってあちこちでピアノの音がするね。」美穂が切り出した。私は全く気が付かなかったが流石に美穂の聴覚は研ぎ澄まされている。美穂曰く5種類のピアノの音が聴こえるとのことだ。
「美穂ちゃん、良く分かったわね。この区画だけで5軒のお宅にピアノがあるの。町内のお約束事で朝9時から夜8時までは音を出しても大丈夫なのよ。お茶を入れながら遥香さんが話してくれた。
私はお茶をいただく。ややぬるめのお湯呑みにお茶のいい香りが鼻をくすぐる。「おっ!玉露だね。」
「わあ!さすが大人ですね。正解です。」遥香さんが嬉しそうに言った。「産地は何処だかわかります?」さらに難問を投げかけてくる遥香さん。美穂はお茶をすすりながら遥香さんと私の会話を聞いていた。そして、「うふっ。美穂分かっちゃった。」そう言って微笑んだ。
「えっ!美穂ちゃん分かったの?」驚く遥香さん。
「うん、優太くんのお宅でいただいたお茶と同じ味だよ。正解は京都の宇治茶でしょ?」美穂は確信したように言った。
「ピンポーン!正解でーす!」遥香さんは驚きながらも冷静さを保っていた。
「美穂、すごいなあ。良く覚えていたね。」感心する私に美穂は得意そうに言った。
「だって、すごく美味しかったから。」少し照れたように話す美穂をじっと見つめる遥香さんだった。
美味しい玉露をいただいて私は家に戻ることにした。
「遥香さん、美穂をよろしくお願いします。」
早速連弾の打ち合わせに入る2人。
「ねえ、美穂ちゃん。先週の演奏会の最後にリクエストをいただいたじゃなあい。ずっと引っ掛かっていたんだけど、あのお母さんはなぜ「トルコ行進曲」をリクエストしたんだろう?」どうやらあのタイミングでの唐突な「トルコ行進曲」のリクエストの意味が分からないようだ。
「あのお母さまは音大の学校長さんと遥香さんの学園の学園長さんのお母さまなの。それで、来週伺う保育園の園長先生はホーム長さんの妹さん…。」美穂も良く分からなかった。
「ちょっと待って。ということはホーム長さんとお母さまの雑談の話題に上ったんじゃあないかしら。ピアノが1台、奏者が2名。おのずと連弾に結び付くわ。きっと「トルコ行進曲」は連弾の曲にふさわしいと思われたんじゃないかしら。」名探偵遥香さんの推理に思わず頷く美穂。
「他にも候補に数曲上げたいわね。メインはちびっ子ちゃんたちだし。」美穂はそう言って電子ピアノのスイッチを入れる。
「美穂ちゃん、どうするの?」遥香さんは不思議そうに美穂に尋ねた。ピアノならすぐそこにあるからだ。
「遥香さん、この子ってね、いろいろな曲を覚えているの。童謡を選択して探すとほら!こんなに出てくるのよ。」そう言って小さな液晶画面を遥香さんに見てもらった。
「わあーっ!小さいのに頭良いんだね!」初めて見る電子ピアノの機能に驚く遥香さん。そして気付いた。
「ねえ、ピアノ以外の音も出せるんだね。演奏の幅が広がるわよ!」
二人でいろいろ曲名を見て口ずさんでいく。
そして「ドレミの歌」「小さな世界」の2曲に絞り込んだ。
早速弾いてみる。連弾となると音階を違えて同じように弾くだけでは面白みに欠ける。連弾用の楽譜があるはずだ。
「学校でお世話になっている本屋さんがあるの。そこに聞いてみようね。」早速電話して問い合わせる遥香さん。
その間に美穂は「トルコ行進曲」の譜面を基にアレンジを加えて行くことにした。とは言ってもやはり楽譜があればすぐに練習できる。
「あっ、分かりました。今から伺います。ありがとうございます。」
遥香さんはにこにこ顔で電話を終えた。
「美穂ちゃん、大丈夫。あるって。すぐ出かけようね。」
遥香さんは着替えを済ませると美穂の手を引くように最寄りのバス停へ。バスで揺られて30分ほどで大きなターミナル駅前に着く。
初めて乗る路線バス。整理券を取るのも見よう見まねで、料金箱に料金を入れるのも初めてだった。そのことを歩きながら遥香さんに話すと遥香さんは笑っていた。「美穂ちゃんは小学生だし、お出かけは車だから仕方ないよね。」そう言いながら賑やかな商店街を進んでいく。美穂にとっては初めての商店街だ。威勢のいい呼び込みの声に驚きながら遥香さんと歩いていく。「まさかと思うけど、美穂ちゃんってこういう商店街って初めて?」遥香さんが笑いながら聞いてきた。「はい。スーパーしか行ったことが無くって…。」美穂が答えると遥香さんはびっくりしていた。「そうだね。しょっちゅう出かけるわけでもないからね。」遥香さんとそんなやりとりをしている間に大きな本屋さんに着いた。エレベーターで3階へ上がる。
「わあーっ!広お―い!」驚く美穂。広いフロアに音楽関係の書籍が整然と並んでいる。遥香さんに付いて奥のコーナーへ。そこには数人の女の子たちが一生懸命楽譜の本を探していた。
「あっ、この辺が連弾の本みたいだよ。」そう言ってその内の1冊を取ってくれた。予定している曲はあったが、「トルコ行進曲」が入っていない。美穂は背伸びをして本を取ろうとした。
「美穂ちゃん、「トルコ行進曲」はこれに入ってるんじゃないかな。」遥香さんはそう言って背伸びをして一番高い棚からその本を取ってくれた。「遥香さんありがとう。」美穂は早速“クラッシック連弾楽譜集”の目次を開き「トルコ行進曲」を探す。「美穂ちゃん、どう?」遥香さんも目次を覗き込む。「あ、あった。でも、この本いろいろ載っているからだね、結構するよね。」遥香さんは本の値段が気になるようだ。
「2冊だと1万円超えちゃうわね。私、今はそんなに持っていないし・・・。」残念そうな遥香さんだ。
「遥香さん、大丈夫。」美穂は2冊の楽譜本をレジへ持っていく。
「すみません。これでお願いします。」そう言って取り出したのはクレジットカードだ。
「えっ!美穂ちゃん、何でそんなもの持っているの?」驚く遥香さん。驚いたのは店員さんもだ。小学生が自分名義のカードを持っているなんて信じられなかったからだ。店員さんはカードを機械で読み取る。エラーもなく無事に事が進んでいく。最後に美穂がサインをして決済の完了だ。
「ありがとうぼざいました。」の声を背に本屋さんを出る。
「何だかごめんね。後で半分返すからね。」申し訳なさそうに話す遥香さん。
「大丈夫ですよ、遥香さん。」美穂は嬉しそうに本が入った楽譜集を胸に抱えて商店街を歩いていた。
「ねえ、美穂ちゃん。お昼と夕食はどうする?」遥香さんが聞いてきた。折角商店街に居るのだから何か買って帰ろうということだった。「うちはあまり料理とかしないから何か買って帰らないと・・・。」どうやら遥香さんの家ではご両親が何時も夜遅いため食事は各自で済ませているようだ。
「遥香さん、美穂はコロッケが食べたいです。それと明日の朝とお昼と夕食の買い物をしたいです。」
八百屋さんで玉子、キャベツと人参、パン屋さんで食パン2斤、乾物屋さんでインスタントラーメン、最後にお肉屋さんでハムとコロッケを買う。これで今日と明日の食事の準備は万全だ。
再びバスに揺られて遥香さん宅へ戻る。
「遥香さん、取り合えずお昼にしませんか?」美穂が買ったものを冷蔵庫にしまいながら遥香さんに言った。
「遥香さん、私、インスタントラーメンを食べてみたいです。」美穂の言葉に驚く遥香さん。今時インスタントラーメンを食べたことが無い子が居るなんて!
「うん、良いわよ。あっ、私作ろうか?」遥香さんがそう言ってくれるのだが美穂は自分で作ってみたかった。
「ねえ、美穂ちゃん。本当にインスタントラーメンとか食べたことが無いの?」やはり遥香さんは信じられないようだ。
「はい。うちはパパが大学生の頃沢山食べていたみたいで飽きちゃったって、ママはアメリカにいたからインスタントラーメンには縁遠かったみたいです。だからうちのラーメンは生めんを茹でて別売りのスープを使うんです。」ラーメンの袋の裏面の作り方を読みながら答える美穂。そしておもむろにキャベツと人参の千切りを刻む。
鍋にお湯を沸かし乾燥させた麵を入れほぐす。同時にキャベツと人参をフライパンで炒める。さっと炒めたら粉スープを少々振りかけて味付けをする。面が茹で上がったら火を止めて残りの粉スープを投入。どんぶりに盛り付ける。そして炒めたキャベツと人参を乗せて出来上がりだ。
「遥香さん、出来ましたあ!」テーブルに運びながら遥香さんに声を掛ける美穂。
「わあーっ!美味しそう!」大喜びの遥香さん。
「うん。我ながら美味しそうに出来ました。」満足げな美穂。初めて作ったインスタントラーメンに舌鼓を打つ2人だった。
お昼ご飯が終わると早速連弾の練習だ。最初に取り掛かるのは「小さな世界」だ。簡単に弾き熟してしまう2人だが、同時となると話は別だ。メインとサブを合わせるのが難しい。
「遥香さん、電子ピアノでメインを弾いてください。それを録音して再生しながらサブを練習します。美穂は遥香の演奏を聴きながらサブを奏でていく。遥香の演奏の特徴も掴めてなかなか良いアイデアだ。ヘッドホンで聴きながら演奏していく美穂。その間に遥香さんはみっちりとメインを仕上げていく。
「遥香さん、私覚えました。一緒にお願いします。」美穂に言われて初めての連弾に挑む。美穂は優太君の伴奏も務めているので気が楽だったが、遥香さんは人と一緒に弾いた経験が無いという。
最初は美穂一人が優しくピアノを奏でる。そして遥香さんが加わり連弾の始まりだ。さすがの2人の演奏だ。上手くかみ合って連弾が成立している。「さすが遥香さん。基本に忠実だわ。」美穂はお手本のような遥香さんの演奏にしっかりと合わせて弾いていく。
「美穂ちゃんすごーい!直ぐに覚えて弾けてしまうなんて!」あまりの出来の良さに大喜びの遥香さん。
「いえいえ。遥香さんの演奏がぶれないから入って生き易いんですよ。」美穂も初回の出来栄えに満足していた。
「もう一度、ね。」お互いにそう言って2回目の演奏に入る。
何度も繰り返して納得がいくと次の曲に移る。「ドレミの歌」だ。
こちらも遥香さんに演奏してもらってそれをコピーする。再び美穂が電子ピアノで練習をする。遥香さんはクラッシックを専門に弾いていたのだが正確な演奏が美穂の手助けになる。そしてあっという間に連弾を成功させてしまう。「楽しいね。」2人で次に挑むのが「トルコ行進曲」だ。これは音程を変えての同時演奏もあり中々手ごわそうだ。しかも電子ピアノのメモリーに収まり切らないのだ。
そう言うことで、二人で一緒に弾いてみることに。美穂が遥香さんの演奏に合わせていく。2人での「トルコ行進曲」は迫力も2倍だ。
特に速い展開の部分を合わせるのが難しい。遥香さんと美穂の指の長さの違いもある。それでも2人は根気よく弾き続けた。
あっという間に時は流れもう夕方の4時くらいになっていた。
「少し休もうよ美穂ちゃん。」遥香さんの掛け声でおやつタイムになった。「美穂ちゃんはお紅茶は飲めるの?」遥香さんはそう言いながらとっておきのクッキーを出してきてくれた。
「うわあーっ。美味しそうなクッキーですね。あっ、私、紅茶は大好きです。いただきます!」早速クッキーに手を伸ばす美穂。
熱々の紅茶を入れていた遥香さんが何かに気付いた。
「やっぱり。遥香さんも耳が良いんですね。玄関の辺りが騒がしいですよね。」美穂が紅茶をすすりながら言った。二人で階段の小窓から玄関の外を見下ろす。そこには10数人のご近所さんたちが集まっていた。5人位の中高生の女の子とその母親のようだ。
「ピアノがうるさかったかなあ。」そう言いながら遥香さんがインターホンで話しかける。
「もしもし。皆さんピアノがうるさくてごめんなさい。」謝る遥香さん。すると意外な返事が返ってきた。
「あら、遥香さん。うるさいとかじゃないのよ。うちの娘が遥香ちゃんが2人いるって言い出したのよ。まさかと思ってお宅の前まで来たら同じピアノの演奏が聴こえてくるものだからもうびっくりして。他の方々も同じ音が流れているって言って。」
これを聞いてお互いに顔を見合わせて笑ってしまった2人だった。
2人で玄関を開け表に出る。「こんにちは。初めまして。美穂と言います。今日と明日遥香さんのお宅にお邪魔しています。」美穂が丁寧にご近所さんにご挨拶をする。「あーっ!遥香さんと同じ2位の子だ!」女の子の一人がそう叫んだ。「わあーっすごい!2人とも仲良しだなんて!」「どうりで同じ音が聴こえるわけだわあ!」となり皆さんに理解していただけた。
ダイニングテーブルに戻った頃には紅茶も冷めてしまっていた。しかしそれはそれで美味しいクッキーのお供としては全く遜色なかった。2人でくすくすと思い出し笑いをしながら遅めのティータイムが過ぎていった。
夕飯までに更に仕上げていきたい。思いは同じだった。
再び2人の連弾が始まる。玄関周りの皆さんは帰られたのだろうか。そんなことはどうでも良かった。今はただ2人合わせて「トルコ行進曲」を奏でることしか考えられなかった。
しかも、何度も弾いているうちに何故か楽しくなってきた。
阿吽の呼吸が生まれた瞬間だった。高校生と小学生、お互いが認め合い信じ合って生まれてきたものと言えるだろう。もう無敵に思えた。少し休みを置くことにし、遥香さんはお風呂掃除、美穂は夕飯の調理に取り掛かった。
トントントン。美穂の包丁さばきを感心して眺める遥香さん。ほとんどを外食で済ませているという。
「栄養が偏りませんか?」小学生の美穂の問いに思わず苦笑いしてしまう。なるべくなら学食の定食類を食べたほうが良いですよ。」そう言いながらアルミホイールにコロッケを並べオーブンへ。コロッケが焼けている間に千切りキャベツを刻んでいく美穂。
「美穂ちゃんって料理も出来るのね。羨ましいわ。」遥香さんはため息交じりにそう言ってテーブルを拭き始める。
「私、“栄養士”さんになりたくって。でも専門の学校を卒業しなければいけないみたいなんです。」そんな世間話をしながら料理が出来上がっていく。しじみの味噌汁はインスタントとは言えなかなかのお味だ。コロッケも余計な脂分が落ちさくさくの仕上がりだ。そして添えられているとは言い難い量の千切りキャベツ。遥香さんは久しぶりの自宅での食事に目を輝かせている。
「いただきまーす!」2人で手を合わせて夕食をいただく。
「コロッケ、美味しい!」からっと揚がったかのような感触が堪らない。美穂も大満足だ。
「あのお肉屋さんのお惣菜、どれも美味しそうでしたよね。」
「うん、うん。」
「遥香さん、今度はとんかつを買ってカツサンド作りましょうよ。」
「うん、うん。」
「遥香さんったら、うんうんばっかり。」そう言って笑う美穂。
「だって、いつも一人だし、今日みたいに美穂ちゃんがいてくれたら明るくて楽しいだろうなって。」遥香さんも独りぼっちでの生活なのだと美穂は思った。
「遥香さん。お姉さんって呼んでも良いですか?」美穂がいきなりお願いする。
「えっ!も、もちろんよ、美穂ちゃん。」嬉しそうな遥香さんの笑顔をおかずに食が進む美穂だった。
食後のお茶をいただきながら今度の土曜日の保育園での演奏曲の選出に入る。童謡とアニメソングから選んでいく。明日は早速弾いてみようね。
「洗い物は私がやるから美穂ちゃんゆっくりしていて。」遥香さんはそう言いながら台所へ。そこには調理に使ったものが既に洗われていた。驚く遥香さん。
「あっ!遥香お姉さん、食器だけですから。」美穂がリビングから声を掛ける。
「美穂ちゃん、いつの間に?」あまりの要領の良さに脱帽の遥香さんだった。「えっ?今、お姉さんって言ってくれた?」嬉しそうに皿洗いをする遥香さんだった。
美穂は「アンパンマンのテーマ」と「ドラえもんの歌」が連弾できないかと五線譜にアイデアを記入していた。もう夜遅いため電子ピアノでの編曲だ。
皿洗いを終えた遥香さんはその姿にびっくりだ。4年生の女の子が編曲をするなんて!
「遥香お姉さん、ここってこう弾くのが良いかしら?それともこう?」ボリュームを下げた電子ピアノで弾いて比べてみる。こうしたことの積み重ねで美穂流の楽譜が完成する。
「うわあーっ!明日が楽しみだわ!」遥香さんは待ち遠しいようだ。
「ねえ、美穂ちゃん。一緒にお風呂に入らない?」
2人がお風呂ではしゃいでいる時、ご両親が帰っていらした。
「おやおや。2人とも仲が良いな。」お父さんはそう言いながら着替えのために2階へ上がる。続いてお母さんも。
普段着に着替えてダイニングテーブルに目を遣ると電子ピアノと手書きの楽譜が置いてあった。2人でそっと覗き込む。
「!」2人で顔を見合わせる。
「これって編曲ですよね。」お母さんが驚いたように楽譜を目で追う。
「いやあ!これはすごい!」お父さんも驚愕の声をあげる。
「それにしても賑やかだな、ははは。」お父さんは何時もと違い笑い声をあげている遥香さんに安心したようだ。
「あなた!遥香が“お姉さん”って呼ばれていますよ!」
やがて2人がはしゃぎながらお風呂から出てきた。
「あっ!パパ、ママ、お帰りなさい!美穂ちゃんが来てくれているの。」髪を拭きながら遥香さんが美穂を紹介する。
「お邪魔しています。お帰りなさい。」美穂も濡れた髪のままご挨拶をする。
「まあまあ、いらっしゃい。早く2人とも髪を乾かしていらっしゃい。お土産があるのよ。」お母さんはそう言ってお茶の準備を始めた。
その間、お父さんは終始ニコニコ顔だった。
「あら。」台所に入ったお母さんは2人が自炊したことに気付いた。
洗い物がきちんと水切りケースに並べられていたからだ。
「お父さん、あの子たち家で何かを作って食べたようですよ。」さっそくお父さんに報告するお母さん。
「えっ?遥香は何も作れんだろう。ということは美穂ちゃんが?」お父さんも読みかけの新聞を置いて台所へやって来た。
「小学生ながら料理も出来るのか。うん、大したものだ。」と感心するお父さん。
「あーっ!良いお風呂だったあ!」遥香さんと美穂は髪を乾かしてリビングに戻って来た。
「ママ、お土産ってなあに?」遥香さんが台所を覗き込みながら尋ねる。その間、美穂は慌ててテーブルの上の電子ピアノと楽譜を片付け始めた。
「慌てなくても大丈夫だよ、美穂ちゃん。ところで、美穂ちゃんは楽譜が書けるのかい?」お父さんはそう美穂に話しかけた。
「あ、はい。演奏する時の編曲を自分で考えています。」そう言って電子ピアノをリビングのテーブルに置いた。
「美穂ちゃん、ケーキがあるんだって!」声を弾ませる遥香さん。
「お父様、お気遣いいただいて申し訳ありません。いただきます。」美穂はお父さんにお礼を言って頭を下げた。
「いやいや。美穂ちゃんは本当にしっかり躾けられた子だねえ。うん、うん、良い子だ。良い子だ。」笑いながらそう褒めてくれるお父さん。「さあ、好きなものを選んできなさい。」
美穂が食卓に行くと遥香さんが真剣な面持ちでショートケーキを選んでいた。美穂が覗き込むとショートケーキのクリームの良い匂いが鼻をくすぐる。なんと10個近くもある。遥香さんが悩むのも無理はない。美穂もケーキを一つ一つ見ていく。美穂も大抵のケーキは食べたこともあるし作ったこともある。しかし、1個だけ食べてみたいケーキがあった。それはモカクリームがたっぷり乗ったショートケーキだ。お母さんが美穂の視線の先のモカクリームケーキに気が付いてくれた。
「あらら。美穂ちゃんはこれがお好きなのかしら?」そう言いながらケーキ皿に取り分けてくれた。
「わあーっ!お母さま、ありがとうございます。」嬉しそうにケーキを受け取る美穂。
「ははは。美穂ちゃん、食べれるだけ食べていいんだよ。」お父さんは上機嫌だ。「遥香も、どんどん食べなさい。」
「いただきまーす!」2人で声を揃えてケーキをいただく。
「おいしいね。」「うん。」黙々と食べ進める二人をお父さんとお母さんは目を細めて見つめていた。
「さてと、私もお風呂に入ってと。」そう言いながらお父さんはお風呂へ。お母さんは美穂に紅茶のお替りを勧めてくれる。
「はい、いただきます。あと、抹茶クリームのケーキもいただいて良いですか?」
女性3人での話は賑やかだ。2人で街まで出かけたこと、楽譜集を美穂がカードで買ったことなどを話した。
「まあ、カードを持っているの?美穂ちゃんはご両親からの信頼が厚いのね。しっかりしているからだわ。でも、遥香さん、半分はお小遣いから美穂ちゃんにお返しするのよ。」そう言って美穂に楽譜代を渡そうとする。
「お母さま、それは大丈夫です。この楽譜集は私のですから。」きっぱりとお断りする美穂に感心するばかりのお母さまだった。
「そう言えば、遥香さん、お勉強の時間ですよ。」お母さんの声掛けで何時もの生活に戻る遥香さん。
「遥香お姉さんは受験勉強なの?」美穂がそう尋ねると小さく頷いた。
「じゃあ、遥香お姉さんがお勉強の間に明日の「アンパンマンのテーマ」と「ドラえもんの歌」を仕上げておきますね。」そう言って美穂は2階の自室へ上がっていく遥香さんを見送る美穂。
「えっ!美穂ちゃんも今から?」お母さんが驚いて尋ねた。
「はい。金曜と土曜は0時まで起きているんです。」そう言って笑う美穂。食卓を片付けながら美穂の作業スペースを作ってくださった。
「お母さま、ありがとうございます。テーブルを使わせていただきます。」電子ピアノにヘッドホンを付けて編曲開始だ。何の音もしないが鍵盤を叩く音、楽譜に音符を書き込む音が静かになった食堂に響く。そんな美穂をじっと見守るお母さん。“美穂ちゃんって本当にすごい子だわ”
そんな時だった。「ああーっ!良いお湯だった。」お父さんがお風呂から出てきた。シーンとした中で鍵盤を叩く音はしている食卓にお母さんと美穂がいた。お父さんが近づくと美穂は何やら楽譜にペンを走らせている。なるほど、これは便利なピアノだ!
お母さんがお風呂へ行くとお父さんが美穂の編曲を見守ってくれた。
そんな中、美穂は「アンパンマンのテーマ」の編曲を終えて通しで演奏を始めた。音は聞こえないが美穂は身体を揺らしながら鍵盤を叩いている。「うふふ。最高!」ひとり言をあげる美穂に思わず微笑んでしまうお父さん。いつの間にか目の前にいるのがお父さんだと知って驚く美穂。慌ててヘッドホンを外す。
「お父さま、ごめんなさい。気が付かなくて。」
「いやいや、お気遣いなく。さあ、続けて、続けて。」そう言いながら冷蔵庫から缶ビールを持ってきてプシュッ!と開けるとぐびぐびと飲み始めた。美穂はそれを微笑みながら眺めていた。
「ああーっ!2人で何やってるのーっ?」2階から降りてきた遥香さんだ。どうやらお勉強は終わったようだ。一生懸命編曲をする美穂をじっと見守るお父さん。
「パパ!美穂ちゃんの邪魔をしちゃ駄目だよ!」そう言う遥香さんにお父さんは言った。
「美穂ちゃんは可愛いよね。今度お前と2人でわが社のCMに出てくれないかなあ。」お父さんは真剣だった。
「はい、はい。分かりました。明日も朝早くからゴルフの打ちっ放しに行くんでしょ。早く寝たほうが良いわよ。」そう言ってお父さんを追い出そうとする。
「いやいや。明日は2人の練習に付き合うよ。では、おやすみ。」そう言って美穂に向かって手を振るお父さん。
「おやすみなさい。」ヘッドホンを外してお父さんを見送る美穂。
「遥香お姉さん、「アンパンマン」と「ドラえもん」、書き終えました。録音しているので聴いてください。」そう言ってヘッドホンを遥香さんに渡す美穂。
「わあ、楽しみだわ。」ヘッドホンを付けた遥香さんの耳に「アンパンマンのテーマ」が流れてくる。「うわあーっ!良い音!」思わず声を出してしまう遥香さん。続いて「ドラえもんの歌」が流れる。
「両方とも良く出来てるわ。明日の朝、早速2人で弾いてみましょうね。」
翌朝、目が覚めると遥香さんのベッドに居た。そうだ、夜更けまで2人で話し込んでいたのだったが、途中で寝てしまったのだった。
隣でまだ寝息を立てている遥香さんを起こさないようにベッドから降り着替えを済ませる。脱いだパジャマをたたんで持参したボストンバッグに詰め込んだ。お父さんもお母さんもまだ寝ているようだ。
足音を立てないように階段を下り洗面所へ。顔を洗い、歯磨きを済ませると一目散に電子ピアノの元へ向かう。そしてヘッドホンを装着しおもむろに弾き始める。昨日商店街で流れていた映画音楽のテーマ曲「ひまわり」をどうしても弾いてみたかったのだ。「なんだかとても悲しそうな曲。」それでも何か伝わってくるものが感じられた。
覚えている範囲だけだが、弾いているうちに曲の全体像が浮かんでくる。映画は見たことが無いが、この曲が語る物悲しさが気になるのだった。どんなシーンでこの曲が流れるのだろう?そう思いながら何度も弾いているうちに自然と涙が出てきた。それでも何かを感じ取りたい一心で弾き続ける。
そんな美穂をじっと見つめていた人がいた。お母さんだ。お母さんは美穂の前にそっと座り話しかけた。
「美穂ちゃん、おはよう。どうして泣いているの?ホームシックかしら?」
美穂は涙を拭いながら首を横に振った。
「おはようございます。この曲を弾いていたら涙が出ちゃって。」そう言いながらヘッドホンを置いてボリュームを絞って再度弾き始めた。お母さんはその曲を聴いて驚いた。
「「ひまわり」ね。悲しい映画の名曲だから知らない美穂ちゃんが涙するのも当然かもね。美穂ちゃんはこの曲の背景が分かるのね。だから泣けてきてしまったのね。遥香が言っているわ。美穂ちゃんの演奏には心がこもっているって。そして、私は弾かされているけど美穂ちゃんは自分から弾きに行っているんだよとも言っているわ。」
お母さんはそう言いながら優しく美穂の涙を自分のハンカチで拭いてくれた。“美穂ちゃんってとても素敵な女の子だわ”
「お母さま、ありがとうございます。美穂はもう泣きません。」そう言いながらもまた違う涙を流す美穂だった。
「ああーっ!美穂ちゃんがいじめられてる!」起きてきた遥香さんの第一声だった。
「やだわ、遥香ちゃん。美穂ちゃんは自分で曲を演奏して泣いていたのよ。」そう言って笑いながら美穂の顔を見た。美穂はもう泣いてはいなかったが目が真っ赤だった。
「何の曲で?」遥香さんが美穂に尋ねる。
「「ひまわり」っていう映画のテーマ曲なの。とても悲しいメロディーなの。」美穂はそう答えた。
「ああーっ、そうかあ。うちの音楽部では「ひまわり」と「ロミオとジュリエット」はご禁制なのよ。必ず泣き出して演奏出来なくなる人が出てくるからね。」そう言うが早いか洗面所へと向かう遥香さん。美穂は一旦電子ピアノと楽譜類を片付ける。朝ごはんの準備をするためだ。
「美穂ちゃん、申し訳ないけどお手伝いをお願いね。」
やがてお父さまも起きてきた。全員揃ったところで朝ごはんだ。遥香さんが言うには家族が揃うのは日曜日だけなのだそうだ。そんな貴重な時間の中に入れてもらえて美穂は嬉しかった。うちはママが楽団員で日曜にも出勤の日があること、パパも急な出張があることなどを話した。
「そう言えば、美穂ちゃんのママって帰国子女だよね。憧れるわあ。」どうやら優香さんは信子ママにぞっこんのようだ。
「ママは5年生の時にニューヨークへ渡ったの。4年生の時にパパと知り合って1年で離れ離れになったんです。最後に空港でパパに言われた“必ず東京で待ってる!”という言葉が寂しさを吹き飛ばしてくれたと何時も言っています。」
「それで?それで?」遥香さんは身を乗り出して美穂の話に夢中だ。
「ママは音大に受かって一人で東京に戻って来たんです。でも直ぐにはパパとは会えなかったんです。3年生の時、ジャズ喫茶でピアノを弾いていた時に偶然パパが来店したんだそうで、一目でパパだと分かったそうです。パパはママのピアノの演奏を覚えていたみたいでめでたしめでたしとなったみたいです。」そう言って美穂は冷めた紅茶をごくりと飲んだ。
「それでそれで?」遥香さんはもう夢中だ。お父さんもお母さんもその姿に大笑いだ。
「大学を卒業と同時に結婚するんですけど、最初におじいちゃんとパパが出会った時がまたすごいんです。2人とも同じ会社に勤めていたんです。」そう言ってまた紅茶に口を運ぶ美穂。
「えっ!ちょっと待って。同じ会社?ニューヨーク帰り?」お父さんは何か心当たりがあるようだ。「まさかと思うが・・・お母さんの旧姓は?」
「はい。○○です。」美穂がそう答えるとお父さんは飛び上がった。
「○○さんと言えば取締役大阪支店長だよね。」
「うーん。詳しくは知らないんです。でも、ただの優しいおじいちゃんですよ。」そう言いながら紅茶を飲み干す美穂。
「そうかあ。美穂ちゃんは○○さんのお孫さんだったのか。どうりでしっかりしていると思ったよ。そうか、そうか。実は昔お世話になっていてね、私の会社を取り立ててくださってね。今でも大阪支店は可愛がっていただいているんだよ。早速週末にでも大阪にお伺いしてみようかな。」上機嫌なお父さんに遥香さんが言った。
「世の中広いようで狭いのね。」
9時になった。いよいよピアノの解禁の時だ。ご両親の見守る中「トルコ行進曲」の連弾を初披露する。
軽やかな遥香さんのパートからスタートし美穂がそれに続く。
遥香さんの純白のピアノが何時もと違った迫力のある音を響かせる。2人の息はぴったりでご両親ともに余りの迫力と2人の指捌きにあっけにとられていた。この2人の総合2位の実力は本物だった。まさに“遥香さんが2人いる”いや“美穂ちゃんが2人いる”という表現がぴったりだった。曲が終わってもご両親はしばし呆然としていた。
続いては「アンパンマンのテーマ」だ。こちらは子供向けのためあえて優しく弾いていく。先ほどとは違って軽快なリズムに乗って旋律が踊る。オリジナルのオーケストラのパートを美穂がピアノ宵に編曲したものだ。そのため低音部と高音部を弾くために美穂が移動するという曲芸に近い状態での演奏となる。そこでそれぞれが鍵盤の左右を受け持ち、ボーカルのパートとオーケストラのパートを左右の手で弾いてみる。しかし、たどたどしさがどうしても残ってしまう。やはり美穂が頑張るしかなさそうだ。忙しい動きは子供たちへのウケとしては結構良さそうだった。
最後の3曲目は「ドラえもんの歌」だ。ドラえもんのセリフ部分は美穂がピアノで表現する。本当にそう聴こえてしまいそうなクオリティーだ。
「遥香お姉さん「セーラームーン」弾けますか?」美穂はそう言って弾き始める。そしてサビの部分から遥香さんが合流して終盤へ向かっていく。本当に気の合った演奏だった。ご両親は息がぴったりの2人の演奏を十分に堪能出来たようだ。
「ねえ、美穂ちゃん。懐メロ教えて。」遥香さんは老人ホームでの演奏会で聴いた懐メロが頭から離れないと言ってくれた。
「はい、遥香お姉さん。最初は、学校長さんが大好きな「旅の夜風」から弾いてみますね。そういって前奏から弾き始める美穂。
「おお!懐かしい!」ご両親ともに子供の頃巷に流れていた曲の一つだと教えてくださった。
「次は学校長さんと学園長さんのお母さまが大好きな「湖畔の宿」を弾いてみますね。純白のピアノが静かにメロディーを奏でる。
ご両親は目を見張るばかりだ。
「これは私が好きな「影を慕いて」です。何か物悲しくて、でも大好きなメロディーなんです。」そう言って弾き始める。
メロディーを聴きながら曲を覚えていく遥香さん。
美穂の演奏が終わると直ぐにチャレンジ開始だ。ゆったりと流れる曲調に少し戸惑いながらも弾き熟していく遥香さん。
「まあ、初香ちゃんがクラッシック以外の曲を弾くなんて。」お母さんが嬉しそうだ。
「遥香お姉さんの弾き方なら“イージーリスニング”の曲がぴったりだよ。」美穂はそう言って楽譜を自分のバッグから取り出してきた。
「ありがとう!美穂ちゃん。」早速楽譜をめくってその中の1枚を譜面台に乗せた。
「まあ、何の曲かしら。」ご両親は遥香さんの新境地にわくわくしているようだ。
「恋はみずいろ」の前奏が流れる。純白なピアノから質の高い高音域のメロディーが流れる。やっぱり!美穂はそう思った。純白のピアノさんは低音部よりも高音部でポテンシャルを発揮することに気付いたからだ。遥香さんの弾き方、ピアノの特性を見抜いていた美穂の感性が活かされたジャンル設定と言えた。
「弾いていて気持ちいいわ!」そう言いながら身体をリズムに合わせて動かして演奏する遥香さん。
「こんなに楽しそうにピアノを弾く遥香を見たのは初めてだな。」お父さんが目を細めてお母さんに話しかけた。「はい。本当に!」
その間にも2人は次々に曲を弾いていった。そして気に入った曲を何度も繰り返し練習した。これは美穂にとって初めてのことに近かった。最初にメヌエットを信子に習った時以来だった。美穂は信子の演奏を覚えて再現が出来た。しかし、遥香さんの様に何度も弾くことで楽曲の深みを知ることが出来ると感じたのだった。同じことを繰り返えす・・・まったく意味が無い訳ではない!遥香さんと練習することでその楽曲の背景を感じ取ることが出来るかも知れない。
そう確信する美穂だった。
「遥香お姉さん、もう一度お願いします。」
夢中でピアノを弾いていたらお昼を回っていた。
ピアノの音が止むと玄関の辺りが騒がしい。
「また皆さんが集まっているのかしら?」遥香さんが鍵盤カバーを閉じながら言った。
「皆さんって?どなた?」ご両親が不思議そうに尋ねる。
「ピアノの音で集まって来られる皆さんなんです。昨日もそうでした。遥香さんが2人いるって。」美穂が笑いながら説明する。
「2人で連弾しているから2人いるってことなんだけど、美穂ちゃんと私が弾いているから区別がつかないみたい。だから“私が2人いる”ってなっちゃったのよ。」遥香さんはそう言いながらくすくすと笑い始めた。
「今日はアンパンマンから懐メロまで弾いていたから昨日よりは多いかもですね。」美穂がそう言うが早いか遥香さんとお父さんが階段を上がり小窓から玄関付近を覗く。美穂の予想通りちびっ子からお年寄りまでの老若男女の皆さんが何事かと集まっていた。
「こりゃあ近所迷惑だったかな?」お父さんもびっくりだった。
「遥香さん、優太君のコンテストが終わったら家でもやりましょう。」美穂の提案に賛成するのが無難かも、と遥香さんは思った。
次の土曜日は遥香さんが美穂の最寄り駅まで出向いてくれた。
車を駅のロータリーに停めると美穂が走り出る。
「遥香お姉さーん!」人目も気にしない大きな声で遥香さんの名前を呼びながら駅の階段を駆け上がっていく。付近の人たちは何度も振り返ったりして何事かと言わんばかりに美穂を見やっていた。
「わあーっ!美穂ちゃん!嬉しいけど、恥ずかしいよおーっ!」遥香さんは顔を真っ赤にしながらも結構喜んでいた。
2人を後ろの席に乗せ保育園へ向かう。道中は賑やかだ。私は先週美穂がお泊りさせていただいたお礼を言ったのだが逆にお礼を言われてしまった。しかもその理由は今も分からずじまいだ。
保育園に着いて園長さんにご挨拶をし、続けて職員室へ。私も幼い頃は保育園通いだったので何だか胸がきゅっとする。無邪気な園児たちが遊びながら挨拶をしてくれる。そんな体育館へ向かう。
初めての保育園に驚く遥香さん。何もかも小さいからだ。テーブル、椅子、靴箱などなど、すべてが小さい。そして部屋に置かれたピアノだけがやたらに大きく見える。遥香さんが早速座ってみる。
「遥香お姉さん、何か弾いてみて。」美穂にお願いされた遥香さん。弾いてくれたのは「アマリリス」だ。簡単な曲だがここまで本格的に弾かれると思わず唸ってしまう。
開演10分位になると園長先生と職員さん数名がいらした。
遥香さんは少し緊張気味だ。
やがて入り口付近から園児たちの声が聞こえ始める。
おもむろに美穂がトトロのテーマ曲「さんぽ」を演奏し始める。
「わあーっ!園児たちの歓声が聞こえる。そして音楽に合わせて次々に子供たちが入場してくる。ピアノの前に並ぶ園長先生と2人の職員さんの前にクラス毎に整列していく。
全員が揃うと園児たちは一斉に座る。そして園長先生のお話だ。
最初に遥香さんの紹介をしてくださる。少し声を上ずらせながらも何とか園児たちに挨拶を済ませた遥香さん。ここからは美穂の独壇場だ。
「よいこのみんあーっ!こんにちわあーっ!みほおねえさんだよおーっ!」大きな声でご挨拶をする美穂に「こんにちわーっ!」と元気な返事が返ってくる。「きょうは、はるかおねえさんといっしょにきましたーっ!きょうもいっしょにうたっておどりましょう!」
ノリノリの美穂に驚きを隠せない遥香さん。最初は童謡からスタートだ。保育士の皆さんも園児たちと一緒に座って見てくれている。
「げんこつ山のたぬきさん」「いぬのおまわりさん」「もりのくまさん」「おうまのおやこ」「シャボン玉」とメドレーで演奏していく。そしてまたおしゃべりを挟んで「はるかおねえさーん!」と遥香さんを呼んで連弾のスタートだ。園児たちがざわつく。「なんでふたりなのー?」という声があちらこちらから聞こえてくる。
「わああーっ!」園児たちの歓声が上がる。連弾による「アンパンマンのテーマ」だ。余りの迫力に立ち上がって喜ぶ園児たち。本当に嬉しそうだ。次は「ドラえもんの歌」に移る。さすがに2人のコンビネーションはばっちりだ。園長先生、保育士の皆さん、職員の皆さん、さらに詰めかけてくださった父兄の皆さんとご近所の皆さんも唖然とした表情で2人の連弾に聴き入ってくださっていた。
更に演奏は続く。「マジンガーZ」だ。余りの迫力に言葉を失う子供たち。皆目をきらきらさせて聴き入っている。そして今度はセーラームーン主題歌「ムーンライト伝説」だ。これには女の子たちが大喜びだ。きめのポーズを取る子が続出だ。そのかわいらしさに大人の皆さんから微笑みがこぼれる。こうして2人の演奏会はお開きとなった。園長先生のご挨拶の後、全員で2人に「ありがとうございました!」と元気なお礼をいただいた。
手を振りながら見送る遥香さんに「ありがとう!おねえちゃん!」と口々にお礼を言いながら美穂の弾く「さんぽ」のメロディーに乗ってそれぞれの教室へ戻っていく。
演奏を終えた遥香さんと美穂の周りに大勢の大人の皆さんが集まってくる。皆さんは子供たちの弾ける笑顔に感動されたようだ。
「また来てくださるんですよね?」「2人とも何でそんなにお上手なの?」ここでも嬉しい質問攻めにあってしまう2人だった。
その日の夜、優太君の練習も終わりお風呂に入ろうとしていた美穂は信子に呼び止められた。
「ママ、なあに?」着替えを脇に置きながらソファーに腰を下ろす美穂。
「美穂、お願いがあるんだけど、この次の日曜日にピアノを弾いて欲しいんだけど。」信子が切り出す。
「うん、この次の土曜日は老人ホームの演奏会は無いし、日曜日も空いているよ。それで、何処で弾くの?」美穂はそう言って目を輝かせた。土日が暇で、優太君が最後の追い込みでピアノルームを使うし、遥香さんも用事があるみたいで特にこれと言った用事が無かったからだ。
「実はね、優香さんの代役なの。優香さんはお友達の結婚式でピアノを演奏する予定だったのだけど急遽出張になってしまったの。だから結婚式にも出られなくなったのよ。代わりの人を探したみたいだけどお日柄が良い日で見つからなかったみたいなの。そこで美穂に白羽の矢が立ったの。まだ小学生だからってお断りしようと思ったんだけど優香さんが「美穂ちゃんなら大丈夫!」って言うものだから一応話だけでもと思って・・・。美穂の気が向かなければお断りするからね。」そう言って美穂の目を見つめる信子。美穂がNOと言う訳がないとほぼ確信している信子だった。
翌日、信子と美穂はとある結婚式場に居た。
ロビーでお茶をいただきスタッフの方と面談するのだ。豪華絢爛のインテリアやふかふかのカーペット。まるで別世界だ!と美穂は思った。
程なく担当のチーフマネージャーさんがいらした。立ってご挨拶して名刺をいただいた。初めていただく名刺に感動して思わずギュッと胸に抱いてしまう美穂を見て優しく微笑まれるチーフのお姉さん。
美穂の自己紹介と信子の補足説明に熱心に耳を傾けられるチーフのお姉さん。どうやら小学生の女の子と聞いてえっ!と思われたようだが美穂がピアノコンクール総合2位であること、信子が楽団員であることからぜひお会いしたいと思われたようだ。
「美穂ちゃん、早速ピアノを弾いてみてくださいな。」チーフのお姉さんの案内で広い会場へ案内された。
「わあーっ!」美穂が思わず声をあげる。白とピンクで彩られた部屋はまるで絵本に出てくるお城の一室のようだった。丸いテーブルがいくつも並び一番奥に何と!ピンク色の可愛らしいグランドピアノが鎮座している。駆け寄る美穂を追いかけるようにチーフのお姉さんと信子が後に続く。美穂はピアノの鍵盤カバーを開ける。その慣れた仕草に若干驚くチーフのお姉さん。
「「結婚行進曲」を弾いてみて良いですか?」美穂がチーフのお姉さんに尋ねる。
「はい、良いですよ。是非聴かせてください。」チーフのお姉さんは快く受けてくれた。
美穂の力強い演奏が始まった。前奏は力強く、後は扉が開いて新郎新婦が入場する頃合いを見計らって音を絞っていく。とても小学生のテクニックではない。身震いをするほど驚くチーフのお姉さん。
“この子とんでもない子だわあ!”
式の進行に合わせて曲を弾いていく。どの曲も当たり前の様に弾いてしまう小学生に脱帽のチーフのお姉さん。“美穂ちゃん!あなた音大生よりうんと上手ですよ!”
結婚式当日は冬晴れの澄み切ったような朝だった。
13時の開宴に備えて午前中から待機する。今日はお日柄も良く大きな結婚式場は人で大賑わいだった。控室で信子と待つ美穂にその時がやって来た。「ママ、行ってくるね。」何時もの様に手を振って会場へ向かう美穂。それに手を振り返して見送る信子。
披露宴会場の裏から会場内に入りピアノに着席。招待客の皆様の入場を待つ。係員さんたちの視線は美穂に向けられていた。小学生が演奏を任されるなど未だかつて無かったことだからだ。
「あの子大丈夫かしら?」「代わりの人いるの?」そんなささやきが聞こえてきそうな雰囲気だった。チーフのお姉さんが美穂の傍に付いていてくれる、それだけで美穂は安心できた。
「招待客の皆さんが入られまーす!」男性スタッフの掛け声で全てが始まった。正面扉が大きく開けられると同時に美穂が演奏を始める。ランダムにイージーリスニングを弾いていく。穏やかな演奏に招待客の皆さんは小学生が弾いているとはまだ気が付いていないようだ。正装した男女の集団が用意された席に次々と収まっていく。
それを目で追いながら演奏を続ける美穂。スタッフの皆さんももう当たり前の様にきびきびと接客をこなしていく。小学生の美穂にとって初めてのプロ集団の仕事ぶりを見た瞬間だった。
招待客の皆さんの着席が終わるタイミングでピアノをフェードアウトさせる美穂。これにも驚きを隠せないチーフのお姉さん。
司会の男性が披露宴の開催を告げる。そして本日のピアノ担当の美穂の名を告げる。会場内は驚きの声が飛び交った。やはり小学生が披露宴でピアノの生演奏を担当するなど前代未聞だったからだ。余興でならば小学生の可愛らしい演奏も数えきれない位あっただろう。しかし、進行に合わせての通しの演奏は初めてだろう。皆さんの目が美穂に集中していた。
「それでは、新郎新婦のご入場です!」司会者の言葉が終わるとスポットライトが正面扉に当てられる。この習慣に美穂のピアノが音を弾かせる。「結婚行進曲」だ。その力強さに圧倒される招待客の皆さん。中には正面扉ではなく美穂を見つめる方々も。
扉が開き、純白のウエディングドレスを纏った花嫁とやはり純白のタキシード姿の新郎が登場し高砂の席へとゆっくり歩いていく。
ゆったりとした美穂のピアノの演奏に合わせて、周りの方々ににこやかに会釈をしながら進んでいく。そして高砂の席の前で向き直って一礼し席に着く。その際、花嫁が美穂の弾くピンクのピアノの脇を通る。その時に美穂と視線が合った!「ええっ!」小さな声で驚かれたようだ。そして隣の新郎にそっと小学生がピアノを弾いていることを告げたようだ。新郎新婦は2人して美穂をじっと見つめていた。
式は順調に進みそれぞれのスピーチの後、新郎新婦のお色直しとなった。美穂のピアノに合わせて退場する2人を見送るように演奏をする美穂。暫くはご歓談の時間だ。美穂は再びイージーリスニングを弾き始める。会場の、特に若い女性たちは美穂に釘付けだった。
とても小学生の演奏とは思えなかったからだ。そんな中、退屈したのか、ちびっ子たちがピアノの周りに集まって来た。
「おねえちゃん!何か弾いて!」急なリクエストだ。その声に他の招待客の皆さんから歓迎の拍手が起こった。
「弾いて良いですか?」美穂はチーフのお姉さんに尋ねた。
「良いわよ。好きな曲を弾いてあげて。」そう言って微笑んだ。
美穂の保育園の演奏会の経験が活かされる。
流れ始めた曲、イントロの部分でちびっ子たちの歓声が上がる。
「アンパンマンのテーマ」だ。これを聞いてぐずっていた他の子供たちも美穂のピアノの周りに集まって来た。これには場内の皆さん方はびっくりだ。若いママさんたちには大好評で今のうちに食事にありつこうといった感じだった。正装させられたちびっ子たちはよほど退屈していたのだろうか、男の子も女の子も大はしゃぎだ。
まだまだ時間はある。2曲目は「ムーンライト伝説」だ。女の子たちはもうノリノリだ。正装している男の子たちを“タキシード仮面様”と呼びながら仲良く手を繋いでいく。それを見て会場内が湧く。
「はい、それでは・・・。」司会の男性がちびっ子たちに席に戻るように話すのだがいうことを聞いてはくれない。たまりかねた美穂が司会の男性からマイクを借りた。
「はーい!みんなーあ!パパとママのところへもどってくださーい!わかったひとーっ!」そう言って右手を揚げる。
「はーい!」ちびっ子たちも右手を上げて「おねえちゃんありがとう!」と口々に言いながら各自の両親の元へ戻って行った。
「すごい!すごすぎる!」「何という統率力!恐るべし!」会場の大人たちは口々に感心して美穂を見つめていた。
式は元に戻った。お色直しを済ませた新郎新婦の入場だ。ここではお二人のリクエストで「キャンユーセレブレイト」を演奏してお迎えする。この演奏が流れ始めると皆うっとりして新郎新婦のドレス姿とタキシード姿を見つめていた。そんな中あちらこちらから「タキシード仮面様だね。」と言うちびっ子たちの声が。訳が分からずキョトンとする新郎新婦に多くのカメラが向けられていた。
こうしてご両親への花束贈呈を以って披露宴はお開きとなった。そして最後の方が会場を後にされた時に美穂の演奏もお開きとなった。
会場内に居たスタッフの皆さんが美穂の周りに集まってくれた。そして口々に「ありがとう!」「おつかれさま!」と言いながら拍手をしてくださった。
「こちらこそありがとうございました。大変お世話になりました。本当にありがとうございました。」美穂は笑顔で皆さんにお礼を言って控室へ戻って行った。
「ママ!お待たせ!大丈夫だったよ!」そう言いながら信子の胸に抱き付き泣き始めた。何だかんだと言ってもまだ小学4年生。2時間以上披露宴という場所でピアノを弾き続けるプレッシャーが相当強かったのだろう。
「良く長い間演奏出来てたわよ。ちびっ子たちへの対応も素晴らしかったわ。やっぱり美穂はママの自慢の娘だわ。」信子もそう言って涙を流した。こうして初めての結婚式場での演奏のお仕事が終了した。事務室へ親子2人でご挨拶へ伺う。2人の元へチーフのお姉さんとフロアマネージャーのお2人がいらした。
「この度はお世話になりました。お陰様で娘の良い勉強になりました。ありがとうございました。」信子はお2人にそう言って深々と頭を下げた。美穂も信子に習って同様に頭を下げた。
「まあ!何をおっしゃいます。お勉強させていただいたのは私共です。ピアノも大人顔負けの演奏でしたし、何といってもちびっ子の皆さんへの対応。素晴らしかったです。小さいお子様はどうしてもぐずりがちになってしまいますが対応に苦慮しておりました。中には泣き出してお母さまが気を使われて会場の外へ連れて行かれることも多く見受けられます。お色直しの間の歓談の時間をあの様に利用すれば良いのかと教えていただきました。本当にありがとうございました。あと、本日の薄謝でございますが、美穂ちゃん、こちらをお受け取りください。」そう言って大きめのポチ袋を美穂に手渡してくれた。美穂は少し驚いたものの素直に受け取りそのまま信子に渡した。
「美穂ちゃんの演奏は“プロの方と同等”と評価させていただきました。」
美穂は嬉しかった。“プロの方と同等”という評価がすごく嬉しかった。
「本当にいただいてよろしいのですか?」プロである信子は当然演奏料の相場を心得ている。
「はい。私どももプロの皆様にはその位お渡しております。」そう言ってフロアマネージャーさんが続けた。
「よろしければ不定期で結構ですのでこちらで演奏をお願いできないでしょうか?」
いよいよ待ちに待った日曜日がやって来た。
何かあってはいけないと私は優太君と優太ママを車で音大の大ホールへ送って行くことにしていた。それを追うように信子と美穂が電車で向かう。久しぶりの親子での外出にウキウキの美穂だった。
「まあ!美穂ったら自分で切符が買えるのね!」娘の成長ぶりにわざと大袈裟に驚く信子。
「もおーっ!ママったら!」そう言ってふくれっ面を見せる美穂。そんな二人を駅員さんがじっと見ていた。
「おはようございます。」そう言って駅員さんに切符を渡す信子。
「あっ、おはようございます。」駅員さんも挨拶を返す。もう顔なじみなのだろう。
「お、おはようございます。」少し緊張気味に美穂も駅員さんに声を掛ける。
「はい、おはようございます。気を付けて行ってきてくださいね。」駅員さんから優しい言葉が返ってきた。
「あっ!はい!ありがとうございます!」嬉しそうに笑顔で切符を受け取る美穂。一足先に改札を抜けて待っていた信子と合流し、2人仲良くホームへ降りていく。
電車が滑り込んでくる。日曜日の朝7時台と言うこともあり車内はガラガラだ。2人で電車に揺られて世間話をする。なかなか忙しい信子とこうしてレッスン以外で纏めて話をすることが少ない美穂はずっとおしゃべりを楽しんでいた。そのせいか、あっという間に終点に着いてしまった。この大きなターミナル駅で乗り換える。
鉄道警察のお姉さんたちにお世話になった改札を抜けようとした時だった。
「お嬢さん。今日はお母さんと一緒なんだね。気を付けて行ってらっしゃい。」改札の駅員さんに声を掛けられた。そうだ、あの時の!
「あ、あの時はありがとうございました。行ってきます!」美穂は笑顔で切符を受け取ると信子の元へ駆け寄った。
「なあに?どうしたの?」信子に聞かれて美穂は答えた。
「優太君と二人で走って逃げて来た時に助けてくださった駅員さんだったの。」
「まあ、そうだったの。ママも地方公演の帰りに夜遅くあの改札を通るの。いつも挨拶をしてくださるのよ。うふふ、今度お礼を言わなくっちゃあね。」信子はそう言って美穂の手を握り締めた。
「美穂って結構有名人なんだね。」「やだあっ!ママったら!」地下の連絡通路に2人の笑い声が響いた。
音大の近くの駅で電車を降りる。銀杏並木を通り抜けるとそこはもう音大の大ホールだ。何度も足を運んでいるはずなのだが、何時も訪れるたびに季節季節の表情を見せてくれる。。
美穂は大ホールの入り口で一旦立ち止まり深呼吸をした。そんな美穂を見て信子が笑う。
「何時もは緊張なんてしないのに。どうしたの?」信子は分かっていた。自分の事は自分で判断できる美穂。だから自分に自信があるときは堂々と振舞える。しかし、今日来たのは自分の事ではないのだ。そう、優太君のコンクール出場を応援しに来たのだ。
「なんでこんなに緊張するんだろう?」何度も大きく空気を吸い込んで自分を落ち着かせようとする美穂。
「美穂ったら。自分の事なら大丈夫なのに優太君のことがすごく気になるのね。」信子に言われて少し照れながら美穂が頷く。
「いいわ。美穂にママの感想を言っておくわ。優太君ってずっと籠り切って練習していたじゃない?だからあの自由選択曲に関してはプロレベルよ。あとは美穂が優太君を信頼して応援をするだけ。何の心配も要らないわ。」そう言って美穂の手を引いて受付へ向かう。
受付けのお姉さんに挨拶される。もう顔なじみとなってしまった。
その時、信子に声を掛ける人物が。
「信子さんこんにちは。」その人は信子より若干若い・・・。
美穂は驚いた。その人は優太君が会ってサインをいただいたプロのヴァイオリニスト響子さんだ。なぜママと知り合い?美穂はそこで気が付いた。昨年末のクリスマスコンサート、美穂は信子のピアノ演奏に見入っていたが本当は響子さんがゲストの演奏会だったのだ。思えば大変失礼なことをしてしまった!
「信子さん、クリスマスにはお世話になりました。信子さんの伴奏のおかげでストレスなく弾くことが出来ました。本当にありがとうございました。」そうお礼を言われた。
「いえいえ、見事な演奏を聴かせていただきました。私もとても気持ち良く演奏が出来ました。楽団の皆さんも同様のことをおっしゃっていましたよ。さすが響子さんだって。」
そんな2人の会話をじっと聞いている美穂に気付く響子さん。
「こんにちは。あなたが美穂ちゃんね。写真より実物の方がうんと可愛いわ!」そう言って少し前かがみになって美穂と視線を合わせた。美穂もじっと響子さんを見つめた。
「美穂ちゃん!良い目をしているわ!本物のピアニストの目だね。これからもよろしくね。」そう言ってお付きの人と会場へ向かって行った。
「美穂、響子さんって美穂にそっくりなの。だから気が合うかどうか少し心配なの。美穂はどう思った?」信子に聞かれて美穂は答えた。
「ううん。素敵なお姉さん。美穂も響子さんみたいな大人の女性になりたいな。そうしたら優太くんに浮気をされなくて済むから。」
「ええっ?優太君浮気しているの?」そう言いながら美穂に目覚め始めた乙女心に理解を示す信子だった。
ロビーで2人と合流する。
すると遠くから美穂を呼ぶ声が。それは遥香さんを始めとする音楽部の皆さんだった。速足で遥香さんの元へ向かう美穂を見送りながら信子と話す。「さっき話をしていた響子さん、今日の特別審査員みたいだよ。」「えっ!そうなの。」少し驚く信子。それよりも気になるのは優太君だった。優太ママが付いているとは言え美穂と同じ小学4年生だ。どんな様子なのかが気になった。
「優太君は何時も通りだったよ。自信があるからだろうね、美穂みたいに落ち着いていたよ。だから優太ママも何時もの通りだった。」私の報告に安心したような表情を見せる信子。時折美穂を見やると音楽部の皆さんと楽しそうにおしゃべりをしている。
案内が流れ場内への入場が始まった。美穂が駆け寄ってきた。
「音楽部の皆さんと一緒に応援しても良い?」
場内の中央前列に信子と二人で陣取る。すぐ前は審査員席だ。
しばらくすると審査員の皆さんが入って来られた。2人でお一人お一人に会釈をする。学校長さんはにっこりと笑顔で返してくださった。響子さんも同様に微笑みながら会釈をしてくださった。
いよいよ開幕だ。司会者が審査員各人の紹介をしていく。それが終わると審査委員長の理事長さんのご挨拶が始まる。信子に小声で尋ねると、どうやら老人ホームのお母さまの息子さんとのことだ。こんな大きな大学を始めとする学校法人だが家族経営なのか!と変な所に興味を持ってしまう。
いよいよコンクールの開幕だ。
緊張気味のトップバッターの男の子がステージ中央へ。さすが本選出場者だけあって上手に弾き熟している。以降の皆さんの演奏に期待が持てる。しかも最も期待しているのは身内ながら優太君だ。
ここのところずっとわが家のピアノルームで籠って練習に励んでいた。完全防音ということもあり私は優太君の演奏を聴いたのは夏休みのあのミニ演奏会以来だ。自ずと期待に胸が膨らんでくる。恐らく美穂も私と同様だろうか。特に美穂はここ2か月の間自分の練習時間を優太君のために削ってくれていた。期待感は半端ないだろう。
放送で優太君の名前が告げられ課題曲と自由曲がそれぞれ告げられる。それを聞いた場内からは「おおーっ!」と言う声が上がった。それだけ自由曲の「ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64」は上級者向けの、いや、プロ向け言った方が正しいような難しい曲なのだ。
『優太くん!美穂のためにも上手く弾いてくれえーっ!』私はそう祈った。信子も同じ気持ちのようだ。両手を合わせて膝の上に置いている。美穂も同様だろう。
課題曲の「カノン」が流れる。場内からため息が漏れる。確かに上手い!今までの出場者とは一味違う音を奏でる優太君。ふと響子さんを見ると何度も頷きながら聴いている。
そしていよいよ自由曲だ。「ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64」が流れ始める。場内にどよめきが走る。音が、音が全く違う。夏に聴いた音とは全く違う。まるでプロの音だ。あの練習量によって造られた音なのだろうか?場内は優太君の独演会と化していた。早いパートも難なく弾き進めていく優太君。これはすごいことになるぞ!素人の私でさえそう思った。無事に長丁場の演奏を終えた優太君に場内から盛大な拍手が沸き起こった。美穂を見ると立ち上がって両手を振っている。遠くからでも美穂の目がきらきら光っているのが分かった。信子も拍手しながら美穂の様子を見つめていた。
私は急に全身の力が抜けて行った。よかったあーっ!無事に終わった!それにしても素晴らしい演奏だった。響子さんも拍手を送ってくださった。
最後の出場者の演奏が終わりいよいよ小学生の部の審査となる。
審査員の皆さんが一旦引き上げる。別室で審査が行われるのだ。
それまで自由時間だ。美穂が駆け寄ってくる。嬉しそうだ。
「美穂、優太くんすごい演奏だったね。」私がそう言うと満面の笑みを浮かべる美穂。
「ね!言ったとおりでしょ?」信子が美穂を抱き寄せる。美穂は何度も頷きながら信子の胸に顔をうずめた。
そして再び遥香さんたちの元へ戻って行った。
いよいよ審査員の皆さんが戻って来られた。司会者が書類のような紙を受け取りステージへ戻っていく。
「それでは小学生の部の発表です。第3位は○○くん、第2位は○○くん、そして優勝は優太くんです!会場から歓声が上がる。そして笑顔が弾ける優太君の登場だ。会場も全員一致での優太君の優勝だった。学校長から賞状と盾が手渡された。美穂も大喜びだ。
「ちょっと質問して良いですか?」響子さんだ。皆何事かと響子さんに注目した。進行係のお姉さんが響子さんにマイクを渡した。
「優太君、優勝おめでとうございます。素晴らしい小学生らしからぬ堂々とした演奏でした。場内の方もお気づきと思いますが、優太君の奏でる音が他の方と違うんです。優太君は普段、何処で練習しているのかしら?」響子さんはにこにこと優太君に質問した。
今度は優太君がマイクを借りて響子さんに返答する。
「響子さん、お褒め頂きありがとうございます。とても嬉しいです。練習場所ですが、普段は公園で弾いています。」そう答えて一礼した。
「やはり屋外で弾いて鍛えていたのね。音が力強くてノイズもほとんど聞こえない、お教室や室内だけでは出てこない音なので念のためにお尋ねしました。優太君のワイルドな、ごめんなさい、力強い正確な演奏、私大好きです。本当におめでとう!」響子さんはそう言って再び優太君に拍手を送った。そして会場方にも再び拍手が巻き起こった。
美穂は両手で顔を覆って泣いていた。自分以外にも、しかも音だけで優太君のことを分かってくれる人の出現に感激して泣いたのだった。そんな美穂を遥香さんがしっかりと抱きしめてくれた。
小学生の部が終わるタイミングでロビーへ移動。
関係者全員がロビーに集まる。遥香さんと音楽部の皆さんも優太君の総合得点が気になるようだ。そこで、大学構内フリーパスの信子が控室の様子を見に行くことになった。美穂はもう泣き止んで音楽部の皆さんと笑いながらお喋りを楽しんでいた。遥香さんはそんな美穂を優しく見守っていてくれた。見ていると本当の姉妹のようだ。
やがて優太君と優太ママを連れて信子が戻って来た。
「うふっ!待機ですって!」信子が嬉しそうに皆に報告する。
優太くんも優太ママも嬉しそうだ。まさか総合選考まで残れるとは思っていなかったようだ。優太君は美穂を始め皆さんに応援のお礼を言って回る。特に音楽部の皆さんは全員が優太君のファンなのだ。それを見ながら美穂は嬉しく思うのだ。自分が好きな人が皆から愛されている!そのことが一番嬉しい美穂だった。
早速全員でお昼を食べに音大の食堂へ向かう。
「入っていいの?」「すごく綺麗な大学だね。」音楽部の皆さんは初めての音大にきょろきょろするばかりだ。
「こんにちは。皆さんお入りください。」何時もの警備の方が信子と優太ママに声を掛けて門を開けてくれた。ぞろぞろと門を通ると美穂に声を掛けてくれた。「お嬢さん、お久しぶりですね。」
もう美穂も顔を覚えていただいたようだ。「ありがとうございます。お世話になります。」そう挨拶する美穂に感心する遥香さんだった。
何時もの様に中庭を抜けて学食へ。中庭の植木の刈込の見事さに圧倒される音楽部の皆さん。音大は狭き門だ。なかなか来れるところではないからだ。
食堂は賑わいを見せていた。「どう?座れそう?」中をのぞく2人のママ。
「あらあーっ!信ちゃんと美っちゃんじゃないの!お久しぶり!」
食堂のチーフのお母さんが2人のママに声を掛けてくれた。
「わあーっ!おばちゃん!久しぶりですうーっ!」大はしゃぎする2人のママ。他の人たちはポカーンとその様子を眺めていた。
「今日は美智子さんの息子さんがヴァイオリンコンサートへ出場されて、それで皆でお昼をいただこうかと…。」信子がそう説明すると
「個室使いなさいよ、昔みたいに。」そう言って私たちを奥の個室へ案内してくれた。そこは昭和初期の佇まいの部屋で格式溢れる雰囲気に包まれていた。思いもよらない個室での昼食に感激する皆さん。
早速メニューが全員に渡されオーダーを取っていくチーフ。
「遠慮はしないでちょうだい!今日は優太のママのおごりだからね!」にこにことそう宣言する優太ママ。ここはもうご厚意に甘えよう。そう思って私と信子が遠慮なく注文をする。それに美穂と優太君が続く。そして全員のオーダーが決まった。
皆それぞれ好きなものをいただきながら話に花が咲く。音楽部の皆さんが初めて美穂の演奏を聴いた時の話が楽しかった。やはり演奏を聴くまでは学芸会的な演奏を想像していたそうだ。しかし部長さんは2位の遥香さんの次の3位だと聞かされ大変驚いたそうだ。
「だからパンフレットを刷り直したんですよね?」部員の一人が部長さんに聞いた。
「そう!2位の遥香と3位の美穂ちゃん、これを前面に出して配ったの。最初は皆どうせ!って感じだったけど遥香の演奏が終わった後の美穂ちゃんの演奏にはびっくりしたわあ。どういう小学生?って思っちゃった。」部長さんはそう言ってハンバーグを口に運んだ。
「そして去年は優太君が加わったのよね。優太君はあの当時も上手だと思ったけど今日の演奏には鳥肌が立ったわ。」「そう、私も。」
賑やかな会話が続いた。
「優太くん、まだ緊張しているの?」心配した美穂が優太君の顔を覗くようにして尋ねた。
「うん、少しね。でも美穂ちゃんって毎年こんな感じなんだよね、遥香さんも。」優太君がそう言って箸を置こうとした。
「優太くん、残さず食べて!最後に演奏することになったら体力持たないよ。」美穂がそう言うと「うん。そうだね。」と言ってまた食べ始める優太君。
「美穂ちゃんったら!奥さんみたい!」遥香さんが笑う。そして皆も笑う。「やだあっ!遥香お姉さんったら!」美穂も笑う。
今思うと、美穂はそれを予感していたのかもしれない。
全員会場へ戻る。控室へ向かう優太君に美穂が声を掛ける。
「もう一度弾けるからね。」最高の励ましの言葉だった。
私たちは中学生の部には間に合わなかったが、高校の部、短大・大学の部の出場者の演奏をチェックしていた。個人的には上手な人も多かったが余りにも無難過ぎて優太君の演奏に匹敵する人は現れなかった。信子に聞いてみたがやはり私と同じ意見だった。
冷静に考えると、美穂の時以上のインパクトになる。小学生の総合優勝など音大の長い歴史上無かったことだからだ。最後の出場者の演奏が終わった。その時点で信子と私は確信した。優太君の時代が始まる!
審査の時間に入る。美穂がやって来た。
「ママ、優太君が1位だよね。」信子に尋ねる。信子はこくりと頷いた。「大丈夫だよ。優太くんより上手な人はいなかったわ。」
そして運命の審査結果の発表だ。
短大・大学の部の入賞者3名が発表される。この授与式が終わるといよいよ総合の上位3名の発表だ。第3位、まだ呼ばれない。第2位まだ呼ばれない。この時点で会場が大騒ぎになった。2位と3位の人より上手だったのは小学生のあの子しかいないからだ。
「総合第1位は史上最高点を獲得した小学生の部の優太君です!」
司会者が高らかに告げる。会場内は全員総立ちとなった。余りにも立派過ぎる演奏だった。審査員の皆さんも立ち上がって優太君に祝福の拍手を送ってくれている。響子さんも涙を流しながら何度も頷いて拍手してくださっていた。
驚いた表情の優太君が登場すると更にボルテージが上がった。美穂は大きく手を振って優太君に「おめでとう!」と叫んでいた。そんな美穂の姿を見つけて手を振り返す優太君。カメラのフラッシュが止むことは無かった。
学校長が満面の笑みで表彰状を優太君に手渡す。
「優太君、立派な演奏でした。あの曲は君の代名詞だね。おめでとう!」
その後、3位入賞者から演奏をしていく。優太君は再び演奏を披露する。初めて聴く小学生の演奏に信じられないといった表情の2位と3位の大学生のお兄さんとお姉さん。その演奏に会場が再び酔いしれた。演奏が終わり審査委員長の理事長さんからのご挨拶があってコンクールは終了した。
引き揚げる人の混雑を避けて私たちは集まっていた。そこへハンカチで涙を拭きながら走り寄ってくる人が。そう、担任の井上先生だった。先生は嬉しさのあまり泣きじゃくっていた。自分のクラスから総合1位と2位の児童が誕生したからだ。その時信子の携帯に着信が。相手は優香さんだった。信子が舞台裏に回って電話をかけなおす。内容は結婚披露宴の演奏のお礼だった。新郎新婦だけでなく式場からもお礼の電話をいただいたとのこと。その話が終わると信子は優太君が総合1位になったことを告げた。電話機の向こうから歓喜の叫び声が聞こえた。
ロビーへ出ると大騒ぎだった。写真撮影、インタビューと入賞者の皆さんは大忙しだ。優太ママもインタビューされ嬉し涙を流していた。優太君は堂々として受け答えをしていく。やはり優等生なのだと思わず感心てしまった。音楽部の皆さんも歴史的瞬間に立ち会えたと大喜びで写真を撮りまくっていた。学園新聞に載せるのだという。美穂は遠くから喜び一杯の優太君を見つめていた。
そんな美穂に声を掛けてくれた人がいた。響子さんだ。
「美穂ちゃん、優太君1位おめでとう!美穂ちゃんの“内助の功”だわね。優太君、相当練習したみたいね。独奏にはなっていたけど誰かとリズムを合わせているんだって気付いたの。もう美穂ちゃんしか考えられなくって。これからも二人仲良くね。」そう言ってにっこりと微笑んだ。
「響子さん!ありがとうございます!」美穂は涙を流しながら深々とお辞儀をした。「何かあったらここへ連絡してね。」そう言って名刺を渡される美穂。そして響子さんはマネージャーらしき人と足早に大ホールを後にした。
雄太君と優太ママが自由になったのは約2時間後だった。それでもああだこうだと皆でよもや話をしているとあっという間に感じられた。帰りはどうしようか?大人数になってしまったため大人3人と優勝盾などは車で、井上先生と学生の皆さんは電車で帰ることにした。途中で遥香さんと音楽部の皆さんと分かれ、井上先生に駅まで送っていただく二人。今夜は祝賀会だと言ってある。二人で駅構内で待っているようにとも言っておいた。駅の改札内のベンチに二人で腰掛ける。久しぶりのデート気分だ。
「優太くん、おめでとう!」美穂は涙ぐみながら優太君に抱き着いた。ここ2か月優太君の練習を竿優先させていた美穂。会いたい気持ち、話をしたい気持ちが積もり積もっていた。
「俺の方こそごめんね。ゆっくり話も出来なかったね。でもおかげで結果が出せた。本当にありがとう。」そう言って今度は優太君が美穂を抱きしめた。そんな姿を見てしまった私は駅前のロータリーへ戻って無意味にぐるぐると歩き回った。
ああ!昭和は遠くなりにけり! @dontaku
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