ある日のこと

霧谷

✳✳✳

──「お前は私のようにはなるな」と言い聞かせてきた。舌の上に乗る苦味を肺腑に回せば思考回路が明瞭になる感覚を憶えて深く息を吐き出す。常日ごろから言い聞かせていたそれに飽き飽きしていたのか、我が子は眉根を寄せて渋い顔をしてみせた。


「聞き飽きた。どういう意味だよ、それ」


粗野な口調は私と似ても似つかない。表紙の草臥れた読みかけの文庫本は我が子の手の内で所在なさげに身を縮めており、次いで烈火のごとく怒りだすことを恐れているように感じられた。


まあ聞け。私は骨格のしっかりとした手を我が子に向け、そのまま左右に振ってみせる。憤懣やる方ないとまでは言わずとも感情の煮え滾った瞳が、刹那、ゆるく細められた。


「私は自分の生に後悔を残してきた」


記憶を手繰れば、それはいくつもいくつもある。取るに足りないものから黄泉路に瑕疵を残すものまで。

我が子は手の内に込めていた力をゆっくりと緩める。文庫本が本来の形を取り戻し、たわんだ表紙が正しく並ぶ文字列に被さる。


私は僅かにわらう。粗野だが他人の話にはきちんと耳を傾けられる優しい子に育ったものだ。


そして僅かにわらい、言葉を続けた。



「一番は自分を押し隠して生きてきたことだ。



誰かの望む言葉を形として成すのは喜ばれることだが自分自身の心にはなにひとつ響かない。つまらない生き方をしたくなければ、感じたことは感じたままに吐き出せ」



「……それで誰かに嫌われたらどうすんだよ」




──俯いた我が子の声が、かすかに震えた。


自分自身に正直であること。それがどんなに難しいものかは身をもって知っているつもりだ。


誰かに嫌われることは辛いうえその相手から向けられる感情は棘のように深く刺さって残り続ける。傷は膿み、ふとした瞬間にじくりと痛む。永劫に思える痛みに苛まれるくらいなら八方美人と言われようとも自分自身の心を消してしまった方が余程いい。


私の心もそうして摩耗し、消えていった。


「──」


心の痛みから逃れるために心を消す。永遠の痛みに耐えかねるのなら根本的な対処として余程いいのは事実だ──ただ、ただ。この子には。願わくば、同じ道を辿ってほしくない。


私は睫毛を伏せると小さく笑った。




「──自分自身に嫌われなければいい話だ」



それは誰よりも、何よりも、親しい存在。

一番に自分のことを見つめている存在。



「な、」


我が子は驚きに言葉を失っている。


私は怯ませぬよう、驚かせぬよう、静かに続けた。



「自分自身に嫌われることは何よりも怖い。この世に味方が一人も居ないと感じて、何かに救いを求めて毎晩考えを巡らせてみても当然答えは出やしない。そのうちに夜が来るのが恐ろしくなって、毎晩、毎晩。答えの出ない問いに頭を悩ませ続けるんだ。




いいか。お前は誰かに嫌われても一人じゃない。その身の内にお前自身を好きな自分が居る限り、何度でも立ち上がることが出来る。


だから言いたいことは言え。やりたいことはやれ。他所様を傷付けるような真似は絶対に許さんが……、




……人生は一度しか無い。後悔が無いように生きるのが一番だ」




煙草の煙が、細く、ほそく宙にたなびく。


それは過去の自分を弔うかおり。


骨身に染み付いた後悔の残滓。

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ある日のこと 霧谷 @168-nHHT

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