第6話:新しい物語の始まり
物語を書き上げることは、こんなにも自分を解放してくれるものだったのか。
私は、ペンを持つ手が止まらないまま、自分の記憶と心の奥底に眠っていた感情を綴り続けた。直樹との記憶が戻らないことは分かっている。けれども、その喪失感を抱きしめながら、私は新しい物語を紡ぐことができる。書き終えたページを眺めていると、心の中の空白が少しずつ埋まっていくのを感じた。
私が新しい作品を完成させる頃には、季節がすっかり変わっていた。あれだけ忙しく感じていた日々が嘘のように穏やかで、時間をかけて自分のペースで創作活動に集中できている。
作品が完成したある日、出版社の担当編集者から連絡が来た。
「麻衣さん、すごい作品ですね。このプロジェクトはぜひ進めたいと思っています」
彼の言葉に、私は驚きと同時に深い安堵を感じた。今度の作品は、これまでの商業的なものとは違い、私自身の心を映し出した作品だ。失ったもの、抱えた苦しみ、そしてその先に見出した希望――すべてがこの物語に詰まっている。
「ありがとうございます。この作品を通して、ようやく自分を取り戻せた気がします」
そう答えながら、私はこれまでの歩みを振り返っていた。夢を手に入れるために代償を払い、それを乗り越えるために新しい道を見つけた。すべては失った記憶と向き合うことから始まったのだ。
出版が決定し、私は再び注目を集めるようになった。インタビューやイベントへの参加も増え、忙しい日々が戻ってきたが、今度は以前と違って心が満たされている感覚があった。
そんなある日、偶然書店で彼――直樹の姿を見かけた。彼は私に気づいていないようだったが、私は一瞬、彼に話しかけるべきか迷った。しかし、何も覚えていない自分が彼に何を言えばいいのか分からず、ただその場を離れることしかできなかった。
その帰り道、私はふと「夢を売る店」のことを思い出した。あの店主、大野にもう一度会いに行き、感謝を伝えたくなったのだ。記憶を失ったことで、私は新たな物語を生み出すことができた。喪失感と向き合い、真に自分を見つけることができたのだから。
数日後、再びあの小さな路地に立つと、今まで見えなかったはずの「夢を売る店」の看板が目に入った。店は以前と変わらず、ひっそりと佇んでいる。私は深呼吸をしてからドアを押し、中に入った。
「いらっしゃいませ」
相変わらず静かに店主が迎えてくれた。年老いた大野の顔に変化はないが、その眼差しにはどこか温かみがあった。
「再び、来てくださったのですね」
「ええ。今回は、感謝を伝えに来ました」
彼は私の言葉を聞き、少しだけ微笑んだ。
「あなたは、夢の代償を理解し、その上で歩みを進めたのですね」
「はい。記憶は戻らなかったけれど、そのおかげで自分を見つけることができました。何かを失うことで、ようやく本当の自分を知ることができた気がします」
店主は静かに頷いた。彼の顔には、何か穏やかなものが浮かんでいた。
「失うことの中にも、得られるものはあるのです。それを見つけることができたあなたは、強い人ですね」
その言葉に、私は胸が熱くなるのを感じた。私は彼にもう一度礼を言い、店を後にした。
その日から、私は新たな物語を紡ぎ始めた。作家としての道を歩きながら、自分自身を失うことなく、心の奥底から湧き上がる物語を書き続けていく。
直樹との記憶はもう戻らないけれど、その喪失感が私の創作の原動力となっている。そして、今度は誰かの期待や成功のためではなく、ただ自分のために物語を紡いでいるのだと感じていた。
新しい物語の始まりを感じながら、私は心からの満足感に包まれていた。
夢を売る店 @pinkuma117
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