第5話:新しい未来
ノートに文字を綴る感覚は、何とも言えない懐かしさと安らぎを与えてくれた。机に向かい、私が本当に書きたいものを書き始めたのは、いつ以来だろうか。これまでは、常に他人の期待や評価に縛られて書いていた気がする。だけど今、この瞬間は違う。書くことそのものを純粋に楽しんでいる自分がいる。
けれど、その心地よさに浸るのは一瞬だった。次の瞬間、私は自分の中で抑え込んでいた「疑念」と「後悔」に押しつぶされそうになった。夢を叶えたはずなのに、なぜこんなにも苦しいのか?私は何を犠牲にして、何を得たのか?
頭の中で、再び「直樹」の名前が浮かび上がる。彼の顔、彼の声、それを思い出そうとするたびに、霧がかかったようにぼんやりとして、どうしても思い出せない。けれど、私には確かに彼と共に過ごした時間があったはずだ。
「私は、あの時の記憶を取り戻すべきだったのか?」
ふとそんな考えが浮かんだ。大野の言葉が今でも頭の中で響いている――「一度失ったものは、二度と戻らない」。だけど、戻らないなら、私がこの喪失感とどう向き合うべきかを見つけなければならない。
夢を手に入れた代償として失ったものは、あまりにも大きすぎた。
数日後、沙織に誘われて、都心から少し離れた美術館に足を運んだ。彼女が好きな現代アートの展示があるらしい。普段ならあまり興味を持たない私だったが、今の私は何か新しいインスピレーションを得たかった。
「麻衣、ここの作品、すごくない?色使いとか、表現力が斬新でさ」
沙織は展示を見ながら興奮気味に語っている。彼女はこうした創造的なものに対して、いつも情熱的で、まるで子供のように目を輝かせる。私はそんな彼女に少し嫉妬しながらも、羨ましさを感じていた。彼女には、何も失うことなく、自分の夢を追い続ける強さがあるのだ。
「ねえ、麻衣はどう感じる?」
ふいに沙織が私に問いかけてきた。私は展示されたアートを見ながら、少し考えた。
「表現が自由で、制約がない感じがする。枠にとらわれていないっていうか…」
自分でも驚くほど素直な感想が出てきた。最近の私は、常に何かの枠に囚われている気がしていたからだ。夢を叶えるために必要だと思っていた枠。それがいつの間にか私を縛りつけ、自由に物語を紡ぐ力を奪っていた。
「そうだよね。アートって自由だから面白いんだよ。私たちも、もっと自由にやっていいんだよ」
沙織の言葉は、私にとってはっとさせられるものだった。自由――それが私に欠けていたものかもしれない。夢を追うこと、成功を手に入れること、それに囚われすぎて、私は自分自身を見失っていたのかもしれない。
美術館を出た後、私は沙織に感謝の言葉を伝えた。
「ありがとう、沙織。なんだか、自分の中で少し整理できた気がする」
「ほんと?良かった!また一緒にどこか行こうね。麻衣には、もっといろんな刺激が必要かもしれないよ」
彼女は無邪気に笑った。その笑顔に、私は少しだけ救われた気がした。
美術館から帰宅した夜、私は再び机に向かい、ペンを手に取った。今回書くのは、誰かのための作品ではない。私自身のための物語。私が心の中でずっと抱え続けていた喪失感と葛藤を、言葉にして書き記すことにした。
頭の中でぼんやりとしていた直樹との思い出は、姿を変えながら物語として形になっていった。彼の顔や声を思い出すことはできなくても、私が彼に抱いていた感情は、確かに存在していた。そして、その感情が私の中で物語として膨らみ始めた。
「これでいい」
私は初めて、自分の心に正直に向き合うことができた気がした。夢を手に入れるために犠牲にしたものを、言葉で埋めることで、私は新しい何かを得られるのかもしれない。記憶が戻らなくても、その空白を自分なりに埋めていくことはできる。
数日後、私は出版社に次の作品のプロットを提出した。それは、これまでの私が書いていた商業的な作品とはまったく違うものだった。もっと個人的で、内面的な物語だ。編集者は最初、戸惑いを見せたが、私の意志を尊重し、プロジェクトとして進めてくれることになった。
「これが、私の次の一歩だ」
夢を手に入れるために犠牲にしたものを乗り越えるために、私は再び自分の道を歩き始めた。これからは、成功や他人の期待に縛られることなく、自分の言葉で物語を紡いでいく。
直樹との思い出はもう戻らない。けれど、その喪失感を抱えながらも、私は前に進んでいかなければならない。自分のために、そして新しい未来のために。
その夜、私は再び夢を見た。夢の中で、私は広大な荒野を歩いていた。周りには誰もいないが、不思議と孤独ではなかった。遠くに光が見える。その光に向かって、私は一歩ずつ歩みを進める。
その先に何があるのかは分からないけれど、今の私にはもう怖くはない。私は自分の道を歩いているのだと、確信できるから。
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