【SF短編小説】記憶の残響―Digital Requiem-(約6,300字)
藍埜佑(あいのたすく)
【SF短編小説】記憶の残響―Digital Requiem-(約6,300字)
青白い蛍光灯の下で、母は私を見つめていた。かつての凛とした姿はなく、痩せこけた頬には深いしわが刻まれている。それでも、その眼差しは昔と変わらず鋭かった。
「消してほしいの」
突然の母の言葉に、私は耳を疑った。
「何を消すんですか?」
「私の記憶よ。デジタル霊廟に保存される予定の、私の記憶全部」
母・綾瀬千鶴子の声は、驚くほど冷静だった。
私たちは東京郊外の緩和ケア病棟にいた。窓の外では、人工知能制御の医療ドローンが静かに飛び交っている。2070年の春の午後。世界は、まるで母の死期が近いことなど知らないかのように、穏やかな日差しに包まれていた。
「でも、それじゃあ……」
「そうた。あなたはお母さんの記憶を永遠に失うことになるわ」
私は言葉に詰まった。デジタル霊廟は、人々の記憶をデジタルデータとして保存するシステムだ。死後も、残された家族は故人の記憶にアクセスし、対話することができる。もはや当たり前の技術として社会に根付いていた。
「なぜですか?」
「記憶を残すことは、生きた証を残すことだと思う?」
母は私の目を見つめながら問いかけた。
「そうじゃないでしょうか? 残された人のためにも……」
「違うわ。それは逃避よ」
母の声は静かだが、芯が通っていた。
「生きることの意味は、その人が生きているその瞬間にしかない。記憶を残すことで、私たちは『生きる』という行為の本質から目を逸らしているのよ」
私は母の言葉の重みを感じながら、窓の外を見た。そこには、まるで永遠に続くかのような都市の風景が広がっていた。
医師から余命宣告を受けたのは、一週間前のことだった。末期の膵臓がん。母は驚くほど冷静に受け止めていた。むしろ、動揺していたのは私の方だった。
「記憶を消すということは、お母さんの存在そのものを消すようなものです」
「存在? そうた、あなたは私の存在が記憶の中だけにあると思っているの?」
母は穏やかな表情で私を見つめた。その瞳の奥には、何か確固たる信念のようなものが宿っていた。
「デジタル霊廟に保存された記憶は、所詮はデータの集積よ。それは本当の私じゃない。でも、人はそれを『私』だと思い込んでしまう。そうやって、本当の死から目を逸らしてしまう……」
母の言葉は、まるで長年温めてきた思いを吐露するかのように、静かに、しかし力強く響いた。
「私は、あなたにそんな偽りの慰めを残したくないの」
その時、病室のドアがノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、白衣を着た初老の男性だった。しかし、その襟元にはローマンカラーが覗いている。
「内藤神父様……」
母が穏やかな声で呼びかけた。
「今日は早めに来られましたね」
「ええ、綾瀬さんとお話ししたいことがありまして」
内藤玄哉。デジタル霊廟の開発者であり、カトリックの神父でもある男性だ。その二面性は、私には常に不思議な存在に映っていた。
「蒼汰さんもいらしてよかった。あなたとも話がしたかったんです」
内藤は私にも微笑みかけた。その表情には、どこか悲しみの色が混じっているように見えた。
「デジタル霊廟の件で、千鶴子さんから相談を受けました」
私は思わず身を乗り出した。
「神父様、お母さんを止めてください! 記憶を消すなんて……」
「蒼汰さん」
内藤の声は静かだが、確かな重みを持っていた。
「あなたは、なぜデジタル霊廟を作ったのか、私に尋ねたことはありましたか?」
その問いかけは、私の言葉を途中で止めてしまった。
「人は死を受け入れられない生き物です。だからこそ、私たちは記憶を残そうとする。でも、それは本当に正しいことなのでしょうか?」
内藤は窓の外を見やりながら、続けた。
「私がデジタル霊廟を作ったのは、人々の魂の探求のためでした。しかし今、このシステムは、多くの人々にとって『死』から目を逸らすための道具になってしまっている……」
その言葉は、先ほどの母の言葉と、不思議なほど重なり合っていた。
「でも、記憶があれば、母との対話を……」
「対話?」
母が静かに笑った。
「そうた、あなたは誰と対話したいの? データの中の私? それとも、本当の私?」
その問いかけに、私は答えることができなかった。
その夜、私は母の病室を後にした。初夏の風が、微かに汗ばんだ頬を撫でていく。街路樹の影が、LED街灯の青白い光の下でゆらめいていた。
「蒼汰さん」
背後から内藤の声がした。
「少し歩きませんか」
私たちは病院の裏手にある小さな公園へと足を向けた。かつては子供たちの声が響いていただろう遊具が、今は静かに月明かりを浴びている。
「死とは何だと思いますか?」
突然の問いに、私は立ち止まった。
「……肉体の消滅ですか? 意識の終焉?」
「では、『生きている』とは?」
内藤は優しく、しかし鋭い眼差しで私を見つめた。
「記憶を持っているということ……でしょうか」
「本当にそうでしょうか?」
内藤は古びたベンチに腰を下ろした。
「私がデジタル霊廟の開発に携わったのは、二十年前のことです。妻を病で亡くしたばかりでした」
その言葉に、私は思わず息を呑んだ。
「当時の私は、妻の存在を少しでも留めておきたいという思いに取り憑かれていました。科学の力で記憶を保存し、死後も対話を続けることができれば……そう考えたんです」
街灯が風に揺れ、内藤の表情が明暗を行き来する。
「しかし、開発が進むにつれて、私は大きな疑問に直面することになった。デジタル化された記憶は、本当に『その人』なのか? むしろ、私たちは記憶という『形』に執着することで、本質的な何かを見失ってはいないか……」
内藤は深いため息をついた。
「あなたのお母様は、それを見抜いているのかもしれません」
「でも、記憶がなければ、人は……」
私は言葉を探した。
「人は何もなくなってしまう。存在の証しも、生きた意味も……すべて消えてしまう」
「本当にそうでしょうか?」
内藤は立ち上がり、夜空を見上げた。
「私たちは、記憶という『形』に固執するあまり、もっと大切なものを見失っているのではないか。お母様は、そのことを教えようとしているように思えます」
その時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。病院からの着信だった。
「綾瀬様、お母様の容態が急変しました」
私は走り出していた。既に、救急ドローンのサイレンが、夜の静寂を引き裂いていた。
病室に駆け込んだ時、母はかろうじて意識を保っていた。医療スタッフが忙しく行き交い、生体モニターが不規則な音を鳴らしている。
「そうた……」
か細い声で、母が私を呼んだ。
「お母さん、喋らないで!」
「大丈夫……これが私の選んだ時なの。すべてに時があるわ……生まれるに時があり、死ぬのにも時がある……」
母の言葉に、私は思わず手を握りしめた。
「選んだって……何を言って」
「生きることも、死ぬことも、私たちには選べない。でも、どう生きるか、どう死ぬかは選べる……」
モニターの音が更に不規則になる。医師が「容態が危険です」と告げる声が聞こえた。
「約束して。私の記憶は……消して」
「できません。そんな……」
私は必死で首を振った。
「母さんの最期の言葉さえ、残らなくなってしまう」
母は微かに笑った。その表情は、不思議なほど穏やかだった。
「言葉は消えても、意味は残る……。あなたの中に……」
その時、モニターが甲高い音を立て始めた。
「心肺停止です!」
医師の声が響く。すぐさま蘇生処置が始まった。
しかし母は、最後まで穏やかな表情を崩さなかった。
だが僕は最後に母の願いを受け入れることができなかった……。
*
葬儀は電子香が漂う中、静かに執り行われた。参列者の多くが、スマートフォンでデジタル献花をする。かつての献花の香りは、もはやここにはない。
式の後、内藤が私に近づいてきた。
「デジタル霊廟のシステムは、いつでも準備が整っています」
その言葉に、私は深く息を吐いた。
「神父様」
「はい?」
「人は、なぜ生きているんでしょうか?」
その問いに、内藤は少し考え込むような表情を見せた。
「その答えを探すことが、生きることなのかもしれません」
「でも、母は答えを知っていたように見えました」
「いいえ」
内藤は静かに首を振った。
「お母様は、答えを知っていたのではありません。ただ、問いの本質を理解していたのです」
「問いの本質?」
「生きる意味は、記憶の中にあるのではない。今、このときの『生』の中にある。お母様が伝えたかったのは、そのことだったのではないでしょうか」
私は黙って祭壇を見つめた。そこには母の遺影が、穏やかな笑みを浮かべている。
葬儀から一週間が経った。母の記憶データは、まだデジタル霊廟のシステムに取り込まれていない。決断を先延ばしにしている自分が情けなかった。
その日、私は内藤の教会を訪れていた。古い木造の建物は、周囲の近代的な高層ビルの間で、まるで時間の裂け目のように佇んでいる。
「記憶を読み込むか消去するか、まだ決められないのですね」
内藤は静かに言った。薄暗い告解室の中で、私たちは向き合っていた。
「神父様のお考えを聞かせてください」
「蒼汰さん。私の考えが、あなたの答えになることはないのです」
「それでも……」
内藤は深いため息をついた。
「デジタル霊廟を作った時、私は『記憶』こそが人格の本質だと信じていました。しかし今は……」
言葉を切った内藤は、小さな十字架を手に取った。
「妻の記憶データを前に、私は気づいたのです。そこにあるのは、確かに妻の記憶でした。でも、それは私の中にある妻の『意味』とは、まったく異なるものだったんです」
「意味、ですか?」
「はい。記憶は事実の集積に過ぎません。しかし、その人が私たちに与えた意味は、記憶を超えた場所にある」
外から、電子広告の光が差し込んでくる。未来的な輝きが、古い木の床を淡く照らしていた。
「お母様は、その違いを理解していたのでしょう」
私は黙って床を見つめた。母の最期の言葉が、再び耳の中で響く。
『言葉は消えても、意味は残る……』
「神父様」
「はい」
「デジタル霊廟には、どのくらいの人の記憶が保存されているんですか?」
「現在はおよそ三百万人分です」
「その中に、神父様の奥様の記憶も?」
内藤は静かに首を横に振った。
「消去しました」
その言葉に、私は思わず顔を上げた。
「なぜ……」
「妻は私の中で生き続けています。データではなく、意味として」
内藤の瞳が、薄暗がりの中で静かに光っていた。
「人は誰しも、自分の生に意味を見出したいと願う。だからこそ、記憶にすがりつく。でも、その執着が、かえって本質的な意味を見えなくしてしまうことがある」
私は深く息を吐いた。
「決められません」
「それでいいのです」
内藤は優しく微笑んだ。
「答えを急がなくていい。大切なのは、この深淵な問いと向き合う過程なのですから」
教会の古い時計が、静かに時を刻んでいく。その音が、まるで母の心音のように感じられた。
教会を出た後、私は母が好きだった駅前の小さな公園に立ち寄った。久しぶりの雨が、初夏の埃を洗い流していく。
ベンチに腰かけ、ポケットからデータキーを取り出した。母の記憶が詰まった小さな装置。これを霊廟に接続するか消去するか、その決断の期限まであと三日。雨粒が、キーの表面を伝って落ちていく。
ふと、十年前の記憶が蘇った。私が会社を辞めたいと言い出した時のことだ。
「そうたの人生だから、そうたが決めなさい」
母はそう言って、ただ黙って私の背中を押してくれた。その時の温もりを、私は今でも覚えている。データの中の記憶では、きっとその温もりは伝わらないだろう。
スマートフォンが震えた。デジタル霊廟システムからの通知だ。
『記憶データ保存の期限が近づいています』
画面を消すと、雨に濡れた公園が、より鮮明に見えた。遊具に降り注ぐ雨粒が、街灯に照らされてきらきらと光っている。
その時、私は気づいた。母が残そうとしていたのは、データ化された記憶ではない。この瞬間、この場所で感じる「何か」なのだと。
公園を出て、私は急いで内藤の教会に引き返した。扉を開けると、内藤は祭壇の前で祈りを捧げているところだった。
「神父様」
私の声に、内藤は振り返った。
「蒼汰さん」
「決心がつきました」
内藤は静かに頷いた。
「私は、母の記憶を消去します」
その言葉を口にした瞬間、不思議な安堵感が全身を包み込んだ。
「本当によろしいのですか?」
「はい。母が教えてくれたんです。生きることの意味は、記憶の中にあるのではないと」
雨音が、教会の天井を優しく叩いていた。
「母は今、データの中ではなく、この雨の音の中にいる。私の感覚の中に、この瞬間の中に……」
内藤は穏やかな表情で頷いた。
「それこそが、お母様の望んでいたことかもしれませんね」
私はポケットからデータキーを取り出した。手のひらの上で、小さな装置が雨に濡れた光を放っている。
「ただ、一つだけ」
私は言葉を継いだ。
「最後に一度だけ、母の記憶データを見せてもらえませんか?」
デジタル霊廟の端末室は、静寂に包まれていた。青白い光を放つモニターの前で、私は深く息を吸い込んだ。
「準備ができました」
内藤が静かに告げる。彼の手でデータキーがシステムに接続された。
「どの記憶を見たいですか?」
私は少し考えた。
「最も古い記憶を」
スクリーンが淡く光る。そこに映し出されたのは、三十年以上前の風景。まだ幼かった私を、母が抱きしめている場面。
『大丈夫よ、そうた。お母さんがついているから』
転んで膝を擦りむいた私を、母が優しく慰めている。データとはいえ、その声は確かに母のものだった。けれど、何かが違う。
温もりがない。
記憶は鮮明なのに、そこに込められていたはずの愛情が、どこか希薄に感じられた。まるで古い映画を見ているような感覚。それは確かに「記録」ではあるのだが、「記憶」とは違っていた。
「母さん……」
私は思わず呟いた。その瞬間、不思議な確信が胸の中に広がっていく。これは「母」ではない。これは単なるデータ。母の本質は、もっと別の場所にある。
「消去してください」
私の声は、思いのほか力強かった。
内藤が黙って頷き、消去プロセスを開始した。画面上の映像が、少しずつ霞んでいく。
『そうた……』
最後に聞こえた母の声は、病室で聞いた最期の言葉と重なり合った。
『言葉は消えても、意味は残る……』
スクリーンが完全に暗転する。
「これで……」
内藤が静かに告げた。
「はい」
私は立ち上がった。窓の外では、雨が上がり、朝日が差し始めていた。
*
それから一年が経った。
私は今でも時々、あの公園のベンチに座る。雨の日も、晴れの日も。
データこそ消えたが、確かに母は生きている。この風の中に、木漏れ日の中に、そして私の内なる声の中に。それは説明できないが、確かな感覚として存在している。
時々、内藤を訪ねては、存在の意味について語り合う。答えは見つからないが、それでいい。問いを持ち続けること。それ自体が、生きることの証なのかもしれない。
ベンチに座りながら、私は空を見上げた。
「母さん」
声に出して呼びかける。返事はないが、温かな風が頬を撫でていく。
生きることの意味は、この瞬間の中にある。母は、そのことを教えてくれたのだ。
新しい朝の光が、ゆっくりと街を包み込んでいく。私は立ち上がり、歩き始めた。
これから先も、問いは続くだろう。しかし、それは重荷ではない。
生きるということは、問い続けること。
そして、その問いの中に、確かな意味が宿っているのだから。
(了)
【SF短編小説】記憶の残響―Digital Requiem-(約6,300字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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