恋に落ちる観覧車

三嶋悠希

恋に落ちる観覧車

「観覧車から落ちたら恋に落ちるって、知ってます?」

 沈黙を破るように口を開いたのは、目の前に座る後輩、紅々李である。

 十一月十一日。外の景色は赤や黄に色づき始めた。ついこの間まで半袖を着ていたのに、もうカーディガンの季節がやってきた。ミステリー研究会の部室では、二人の人間が片手をポケットに突っ込みながら、本を読んでいた。

「ああ。知っている」

 地元の遊園地の話だ。そこの観覧車は、全国的に見てもかなり大きな規模を誇っている。平日でも多くの人が並び、土日の夜となれば大行列だ。

 そんな子どもから大人まで幅広い世代に親しまれている観覧車を巡り、地元民の間では、とある都市伝説が伝わっていた。

「一体なんなんでしょうね」

 いつからそのような噂が拡がったのか分からない。この辺りで育った人が皆口々にそれを言うせいか、あそこの観覧車はカップルが訪れる定番スポットとして認知されるようになった。

「急にどうしたんだ。何か気になるのか」

 俺はほとんど流し読みをするように文字を目で追いながら聞いた。

 しばらく興味もないミステリー小説と睨めっこをしていたが、あまりに返答が遅いので、目線を上げて紅々李を見た。

 紅々李は船を漕ぎ、うとうとしていた。目は閉じており、腰まで落ちる黒髪は揺れていた。昨夜もよく眠れなかったのだろう。わざとらしく大きな咳払いをすると、紅々李の意識は現実に戻ってきた。

「あれっ、先輩……すみません」

「大丈夫だ。観覧車のことを考えて昨日も眠れなかったのか?」

「そうです」

 道端に転がっている石ころみたいにどうでもいい都市伝説に、なぜ頭を使ったんだ。俺は不思議で仕方なかった。

 紅々李の目の前に置かれた分厚い本を見る。あのときと同じ本だ。不眠症、という言葉が一際大きく表紙に書かれていた。

 紅々李はずっと、夜に眠れなかった。具体的な理由は当の本人もよく分かっていない。精神科や心療内科にかかったが、心身どちらも健康的ということで問題なかったと聞いた。

 もしかすると、初めての大学生活に身体が追いついていないのかもしれない。

 たしか、紅々李は幼稚園から仏教系のお嬢様学校に通っていたと、サークルの会長が言っていた。慣れないレポート、浅いのに広がっていく友人関係、急激に長期化した夏休み……それらは、お嬢様としてゆったりと育てられてきた紅々李にとって、想像を超える負担になっていたのだと、俺は思う。

「あんまり身体を酷使しないことだな」

 二年生になった俺は、経験者だから気持ちがわかる。紅々李ほどではないものの、一年生のときにそのつらさを味わっていた。

 俺たちの通う大学は夏休みが丸々二ヶ月ある。暑さがピークを迎える七月下旬から、徐々に空気がひんやりしてくる九月下旬までだ。

 夏休みになれば、バイトに行くことはあれど、一気に外出する機会が減る。昼に起きて朝昼兼用のごはんを食べる毎日が続く。そうなると、次第に時間の感覚が狂っていき、この夏休みは永遠にあるんじゃないか、という錯覚が身体を蝕み始める。結果的に、夜更かしを続ける生活習慣が治りきらず、夏休み明けに学校を休む学生が続出するというわけだ。俺もその中の一人だった。

「気持ちは元気なんです」

 なら、まだマシか、と思う。そもそも紅々李は休まず学校に来ているのだから、俺から見れば優秀なほうだ。

「高校のときは眠れてたのか」

「ええ、まあ」

 やはり、大学生活に身体がまだ順応していないのだろう。唐突な環境の変化は人を苦しめる。

 不眠症の本の横には、ペットボトルが置かれている。可愛らしいキャラクターのカバーがとりつけられていた。保冷機能がついており、そこもお気に入りだと言う。飲み物は常に冷たくないと飲んだ気にならない、というのが紅々李の主張だ。

「水、まだあるのか」

 紅々李は、お茶ではなく水を好んでいた。むしろ水じゃないと困ると言う。

「大丈夫ですよ、先輩。水くらい自分で買えます。優しいんですね」

 カバーを取り外し中身が空になっているのを確認した紅々李は、水を買いに行くために立ち上がろうとした。だが、俺の後ろを見つめたまま、ぴたりと動かなくなってしまった。いや、後ろというよりは、少し目線は下──俺の腰の背後を見つめていた。

「なんだ、そんなにびっくりして」

 もしかしてまたあれか? と俺は体を強ばらせた。

 紅々李は何も答えず微動だにしない。痺れを切らした俺は、ふっと息をついて背後を振り返ろうとした。すると、紅々李が張り詰めた様子で制止してきた。

「先輩、待ってください」

 俺はすんでのところで身体を捻るのをやめ、視線を前に戻した。

「視えるんです」

「今日はなんだよ」

「女の子です」

 背筋を伸ばし、仕方なく手を膝の上に置いた。変な真似をすると取り返しのつかないことになるらしい。礼儀は大事、ということだった。

「先輩に、近づいています……」

 ポーカーフェイスを装いながら、俺の脚は震えていた。身体は正直だった。首筋をすっと冷たいものが降りていった。

「幼いのか」

 紅々李の視線の位置から、俺は女の子の年齢の低さを読み取った。

「小学生くらいです。目が見えません」

「どういうことだ」

「髪で隠れています。こういう風に──」

 紅々李は突然頭をぐるっと回転させた。一瞬で顔が見えなくなった。艶のある長い黒髪が紅々李を覆った。薄らと覗く唇が口角を上げて笑っていて、俺は思わず肩をぴくりと上下させた。唾を飲み込んだ。

「紅々李……」

 全身を硬直させて馬鹿みたいに口を開けていると、紅々李はにやにやと笑い始めた。

「冗談ですよ、先輩」

 頭を軽く振り、髪を整えていく。すぐに普段の顔に戻った。

「おい」

 紅々李は何のことでしょうとでも言いたげに首を傾げた。一応先輩なのに、参ってしまう。

「先輩って面白いですね」

「女の子はどうなったんだ」

「もう居なくなりましたよ。すーっと消えました」

 冗談ですよ、と言うのは、背後にいた女の子の存在についてではなく、顔を髪で覆い俺を驚かした行為についてだろう。実際にやってしまっているのだから冗談では済まされないのだが、背後から女の子が消えたという安心感が俺を寛大にさせた。

 紅々李は人ならざるものが視える、と言う。俺は以前まで幽霊の存在を信じていなかった。しかし、紅々李の雰囲気はどこかそれを事実として認めざるを得ないような妖しさを孕んでいた。だから、俺は指示に従って、幽霊の前では姿勢を正し、振り返らないことで彼らを刺激しないようにしている。

「先輩、汗だくじゃないですか。水が要るのはどちらなんでしょうね」

「慣れないんだよ。顔の見えない少女なんて怖すぎるだろ」

「わかりました。では、頑張った先輩のために一つ言うことを聞いてあげましょう」

 まださっきの感覚が抜けきらず、紅々李の細い体躯をなぞる黒髪に恐ろしさを感じながら、俺は望みを口にした。

「さっき、観覧車の都市伝説が気になるって言ってたよな。その理由を教えてくれ」

 人は誰しも、解決していない謎があれば、気になってしまう。なぜあんな都市伝説を紅々李が持ち出してきたのか、俺はずっと疑問に思っていた。

「そんなことでいいんですね。助かります」

 紅々李は目を閉じて微笑み、言った。

「私、好きな人がいるんです」


 ◇


 バスの車窓からは、黄色く彩られた銀杏並木が見えた。先が少しオレンジに染まっていて、西陽の当たるそこは幽かに輝きを放ちながら、揺れていた。

 観覧車から落ちたら恋に落ちるという都市伝説について、紅々李は単純に、その根源が気になったのだと言う。好きな人と結ばれるにはどうしたらいいのか、ということを考えているうちに、そういえば変な都市伝説がこの街にはあったなと思い出したらしい。

 推理してみませんか──紅々李はそう言った。たまにはミステリー研究会らしいことをするのも良いではありませんか、とノリノリだった。俺たちはバスに乗って実際に遊園地を訪れ、なぜ観覧車から落ちたら恋に落ちるという都市伝説が生まれたのか、推理することにした。

 隣をちらりと見ると、紅々李は気持ちよさそうに眠っている。開いたチャックから覗いているのは、僅かに橙を帯びた睡眠薬だ。作用時間が一時間程度の、短時間型のものである。健康的で問題が無いと医者に判断されたため、効果の弱い睡眠薬しか処方してもらえなかったらしい。

 紅々李は、夜に睡眠薬を飲まない。だから日中に空いている時間を見つけて服用し、仮眠を取るような生活をしている。夜に飲んでも効果が全く表れてくれないと嘆いていた。リュックには水の入ったペットボトルが差し込まれている。お茶よりも水を好んでいるのは、常備している睡眠薬を飲むためだ。

 都心部から少し離れた郊外の景色をぼんやりと見つめながら、俺は紅々李と初めて出会った日を思い出した。

 あれは、深夜二時の遊園地前の出来事だった。

 何月だったか具体的には覚えていない。涼しい風が吹いていた。辺りに人はいなかった。流石に深夜二時ともなれば、大抵の人間は眠る。

 俺は夜の散歩が好きだ。九時や十時くらいの、まだ人が出歩く中途半端な時間帯ではなくて、ほとんど人がいない深夜二時に街を歩くのが好きだった。静かな街に浸りながら浴びる夜風が気持ちいいからだ。

 何も考えずに夜道を歩いていた俺は、そこに少女がいるなんて思いもしなかった。遊園地なんて目も向けずに通り過ぎようとしていたが、思わず足を止めた。

 少女は壁に背を預けるようにして立っていた。虚ろな目で天を仰ぐその姿は、弱々しかった。俺が近づいても何も反応せず、生気がまるで感じられなかった。

 右手には分厚い本が握られていた。こんなところで読書をしていたのかと、俺は不思議に思った。しゃがんで表紙をよく見てみると、不眠症という文字が読み取れた。俺は何かを理解したような気がした。

 足元には色褪せたペットボトルが置かれていた。中は空だったが、底にいくらかの水滴が溜まっていた。このときはまだ、あのキャラクターのペットボトルカバーはつけられていなかった。

 どう話しかけようか迷っていると、少女の本に挟まっていたであろう一枚の紙が、ひらひらと宙を舞って地面に落ちた。俺はラッキーだと思った。これを拾って渡せばいい。

「あの、落ちましたけど」

 その紙は俺の通う大学のミステリー研究会のものだった。4月の新歓で配られたのであろう。新入生大歓迎、と書かれていた。俺と同じ大学に通っているのだと察した。この深夜二時に起きた事件をきっかけに、後日俺はミステリー研究会を訪れ、サークル無所属の大学生活に終止符を打つことになる。

「あぁ……ありがとうございます」

 少女は精一杯、力無く笑った。しゃがむのもしんどそうである。ペットボトルを拾ってあげようと思った。

「これは、あなたのペットボトルですか」

「そうです。睡眠薬を……」

「睡眠薬?」

 どういうことだ。まさか、入っていた水で睡眠薬を飲んだから空になっている、ということだろうか。

「夜、眠れないんです」

「ここで飲まれたということですか」

 少女はこくんと頷いた。

 まずい。俺はもう戻れなくなった。話しかけてしまった以上、このまま見放して去ることは出来ない。

「家は近いんですか?」

「歩いて……三十分くらいかと」

「それは危険です。タクシーを呼びますから、住所を伝えて家に帰ってください」

 こんな路上で眠ってしまえば、何が起こるかわからない。少女を一人で夜に晒しておくことは非常に危ないと、俺は判断した。

「視えます」

 少女は俺の発言を無視して、よくわからないことを言い出した。

「はい?」

「夜は活発になるのです。レイの動きが」

 レイ、という言葉の意味がすぐには理解できなかった。少しの間を置いて、霊のことだと理解した。冷たい風がさっと後ろを吹き抜けていった。心なしか、さっきよりも寒くなった気がした。

 この健康状態で霊の話を持ち出す辺り、少女は冗談を言っているようには思えなかった。本当に視えているのだろう。

「お兄さんも早く帰ったほうがいいです。今日はいつもより空気がどんよりとしています」

「空気?」

「ええ。霊たちの空気です」

 俺は何も返せなかった。目を細めて遠くをじっと見つめる少女にぞわりと惹き付けられるような感触が、全身を包んだ。

 タクシーが到着するまで、俺と少女は遊園地前でずっと立っていた。

 普段は緑を基調としてカラフルなイルミネーションが施されている観覧車は、洞窟の最奥のように黒みがかっていた。それが得体の知れない巨大な目となって、俺を見つめていた。中心にある円が瞳孔、円を守るように連なるゴンドラがまつ毛だった。

 思い出す内に危うく観覧車に飲み込まれそうな予感がして、俺は自然と意識を現実に戻していた。

 外を見ると、すぐそこに遊園地が見えていた。一段と大きい観覧車が、街の中で存在感を放っている。昼間なのに、観覧車が一瞬暗闇に染まった──ような気がした。

「紅々李、着いたぞ」

 少し肩をくっつけて揺すってやると、紅々李は目をぱちぱちさせて眠りから覚めた。

「あら、先輩。おはようございます。もう着いたんですか」

「ああ」

 紅々李がぐっと伸びをした拍子に、リュックが膝の上からずり落ちた。入っていた睡眠薬が、床に落ちた。

 その夥しい量の睡眠薬を見て俺は、初めてこう思った──平気でこの量を服用するのは恐ろしい、と。

 紅々李は手段を厭わない性格である。夜に眠れないからと言って、バスや電車で睡眠薬を飲む人間が、果たしてどのくらいいるだろうか。


 ◇


 平日の昼間でも、遊園地は多くの観光客で賑わっていた。紅葉が最も綺麗なこの季節は、夜でなくても観覧車から見える景色は美しい。街全体が優しい色に染まっている。

「先輩、どこに行きましょう」

「観覧車じゃないのか」

「正解です」

 紅々李は嬉しそうにふふんと鼻歌を歌っていた。地元民である俺たちは目的も無しにこの遊園地には来ない。俺も、久しぶりの遊園地に気分が上がっていた。

 観覧車の列に並ぼうとするとチケットを購入しなければならないため、やむを得ず俺たちは同じ階の逆方向から観覧車を観察することにした。

「ここにしよう」

 ちょうど、観覧車の上から下まで全てを眺望できる場所だった。目の前には柵が張られていて、風通しも良い。カフェではなくただの通路ではあるものの、テラス席を思わせるような雰囲気が漂っていた。

「見晴らしがいいですね」

 観覧車を観察することで、糸口を見つけることができるのだろうか。俺は正直、紅々李に着いてきただけだった。

 観覧車を眺めていると、次第にあの夜を思い出してきた。気づけば俺は聞いていた。

「今日は、何かいるのか」

「霊ですか?」

 ああ、と頷くと紅々李は、いないですね、と答えた。

「なら、よかった」

「小さいものならいますよ。でも、彼らは私たちにこれと言った害を及ぼしません。急に大きい霊が出てきてしまうこともありますが、今はいないので心配しなくても大丈夫です」

 特徴的な凛とした目を観覧車に向けながら、紅々李は言った。長い黒髪が少しだけ、風で靡いていた。

「やっぱり、視えてるんだな」

 初めのうち、俺は紅々李の発言を半信半疑で聞いていた。冗談を言っているようには見えなかったが、本当に霊などいるのだろうか、と。

 ただ、紅々李がいると言うときは毎回空気が微妙に変わっているように感じていたし、そこには何かしら人ならざるものがいるんじゃないか、と思うようになった。

「どうしたんです、今更」

 紅々李には隠された能力のようなものがあると、俺は推測している。紅々李は、俺のように霊を怖がる素振りは見せてこなかった。あの夜もそうだったが、淡々とした俯瞰的な性格が滲み出ている。この辺りは治安がいい街とはお世辞でも言えない。深夜二時にこの街を徘徊する勇気が、普通の女の子にあるとは思えないのだ。まさに、何かの力がなければ……。

「いや、何でもない。それにしても凄いな。常に視えてる世界なんて、俺には想像もできない」

「慣れれば普通ですよ。先輩にも、視えてたらよかったのに」

「俺は勘弁」

 そうですか、と紅々李は不服そうだった。

「あ、見てください先輩」

「ん?」

 紅々李が見ていたのは、観覧車の列に並ぶ人たちだった。行列はその階では収まらず、階段まで押し寄せている。

 俺はそこでふとおかしなことに気がついた。

 全員が、手を繋いでいるのだ。

 先頭に並ぶ人も、その後ろに並ぶ人も、その後ろも、その後ろも、最後尾の人まで……。

 カップルが異常に多い。他のどの遊園地よりも多いだろう。違和感を覚えてしまうくらいに、それは奇妙な光景だった。観覧車の中の様子が気になるが、ここからでは到底見えない。

「カップルだらけですね」

「どういう状況だ……」

「やっぱりあの都市伝説は本当だったんですよ」

 俺は引きつった顔で再び観覧車のほうへ視線を向け、唖然とした。

 全員と目が合ったのである。

 観覧車の列に並ぶ全ての人間が、手を繋ぎながらこちらをじっと見つめている。

 なぜか目を背けることができなくなり、俺は視線を交わしたままの状態で硬直した。彼らには目が無かった。俺を見つめているのは焼かれたような黒い二つの穴だった。口が半開きになっていた。涎を垂らし、腐った泥沼のような色の液体が地面に溜まりを作っていた。

 はっとして、さっきの紅々李の言葉を思い出した。

 ──急に大きい霊が出てきてしまうこともあります

 そうだ。これは霊だ。さっきまで息を潜めていた霊が出てきただけだ。紅々李がきっと解決してくれる。

「なあ、紅々李。大丈夫なんだろ」

 まだ奴らから目が離せなかった。俺は、全身が粟立ち逆立った髪の毛がばれてほしくない一心で聞いた。質問というより願望に近いものだった。

「怖がらなくても大丈夫ですよ、先輩。私がいますから」

 紅々李はさっと俺の前に回り込んで、俺を覗き込んできた。

 紅々李の目は、穴が空いたように真っ黒だった。


 ◇


 後日、紅々李に呼び出された。喫茶店で前回の話を整理することになった。

 整理と言っても、困ったことに俺はほとんど何も覚えていなかった。紅々李と遊園地に行ったことは覚えているが、観覧車を一緒に眺めているところから記憶がないのである。

 紅々李によれば、俺は突然意識をなくして倒れたらしい。救急車で運ばれたあと、異常はなかったため、紅々李が呼んでくれたタクシーで帰ったということだった。

「先輩、大丈夫ですか?」

「問題ない」

 なんだかふわふわとした感覚が残っているが、そのうち良くなるだろう。レポートに追われすぎて体調を崩したのかもしれない。

「これを見てください。図書館で借りてきました」

 紅々李は目の前に一枚の新聞を広げた。

 見出しにはこう書かれていた。


 ──観覧車から男女がそろって飛び降り自殺


 半世紀ほど前にあそこの観覧車で事件があったという旨の記事だった。若い男女が中から観覧車のガラスを割り、心中したことが書かれている。かなり有名な観覧車であるため、話題になったのだろう。

「あそこの観覧車、カップルがとても多かったのを覚えていますか」

「そんな気もする」

「やはり、都市伝説があの観覧車にカップルを呼び寄せているのかもしれません。この新聞を元に話を整理しましょう」

 ミステリー研究会に入ってから初めての推理だ。

 やっぱりコーヒーを飲むと頭が冴えますね、と言って紅々李は手元のコーヒーに砂糖を入れた。無言で俺の分を取り、それも入れた。

「おいおいちょっと待て。そんなに入れて大丈夫なのか」

「甘いほうが美味しくないですか?」

「そうかな」

 甘いのが好きなら最初からコーヒーなど頼むな、と言いたいが、もしかしたら今日も眠いのかもしれない。

「最近ハマっているんです」

「何に?」

 俺は目の前で上機嫌にコーヒーを飲む紅々李を見つめて聞いた。

「こうやって飲み物にアレンジを加えることにハマっています」

「それはアレンジじゃない」

 先輩にはわからなくていいですぅ、と紅々李は口をすぼめた。

「さて、休憩したところで推理を始めましょう」

「紅々李は推理が好きなのか?」

「好きです。そのためにここに入ったんですから」

 俺にはとんと分からない。何が面白いのだろう。サークル活動においては一応周りに合わせてミステリー小説を読んでいるふりをしているが、実は全く読んでいない。

「まあでも、今回の件は推理と呼べるようなものではないですね」

「簡単、ということか」

「さすが先輩。ご名答です」

 なぜあのような都市伝説が生まれたんだ、と俺は核心に迫る質問を投げかけた。

「恐らく、単純な話でしょう。昔、ここの観覧車から飛び降り自殺をした人がいました。彼らは中からガラスを割って飛び降りたのです。そして、二人はカップルでした。ここは予測になりますが、観覧車に乗る男女なんて、カップル以外ありえません。この話が次第に変容していき、今のような都市伝説になったのではないでしょうか」

「なんで飛び降りたんだろうな」

「わかりません。追い詰められていたのかもしれませんし、永遠に一緒にいたかったのかもしれません」

 追い詰められて自殺を選ぶのは理解できたが、永遠に一緒にいたいという理由で自殺を選ぶのは、あまり理解できなかった。

「なぜずっと一緒にいたい相手と死ぬんだ。それだと意味がないんじゃないか」

「二人で地獄に落ちた可能性はありますね」

「地獄?」

「二人で落ちれば、永遠に一緒にいられます。先輩、聞いたことあります? 地獄ってほとんどの人が行き着くところらしいですよ」

 そういえば、紅々李は仏教系の学校に通っていたお嬢様だ。この分野に詳しいのかもしれない。

「色々守らなければならないことがあるんです。生き物を殺してはいけない、嘘をついてはいけない、盗みを働いてはいけない、享楽に溺れてはいけない、酒を飲んではいけない」

「それを破ると地獄に落ちるのか?」

「そうです。でも、現代において嘘を一つもつかずに人生を終えることなんて不可能ですし、普通に生活しててお酒を飲んだことがない人も存在しません。なので、基本的にはほとんどの人が地獄に行きます」

「それは嫌だな」

「仕方ありません。個人的には、盗みを働いた人が一番酷い目に遭う気はしますけどね。普通に犯罪ですし」

 何かを盗むことは、現世でも犯罪とされていることだ。それをした人は地獄に行くだろうし、バチが当たるように思える。

「先輩は盗まないでくださいね」

「当たり前だろ」

 あはは、と紅々李は愉快そうに笑った。

「とりあえず、都市伝説問題は片付きました」

「そうだな」

「ただ、行動に移してみないと何事もわかりません」

 紅々李は目を瞑り、コーヒーを飲んだ。そして、ふっと息をついてから、告げた。

「ということで、今から二人で観覧車に乗りましょう」

「はー?」

 俺は一度断った。しかし、この後に予定があるわけでもなかったので、仕方なく紅々李と観覧車に乗ることになった。

 俺の頭の隅には、一つの疑問がくるくると渦を巻いていた。

 部室に現れた幽霊の女の子は、この記事の女性なのではないだろうか。

 しかし、そんな小さな疑問は、観覧車へと紅々李に先導されるうちに次第に消えて無くなった。


 ◇


 観覧車乗り場までやってきた。紅々李の粋な計らいなのか、喫茶店は遊園地に近いところに位置していたため、歩いて数分で着いた。

 腕時計を確認すると時刻は十六時過ぎだった。この時期になれば、日が暮れるのが早い。もうすぐ夜の帳が下りる。薄暗い遊園地は喫茶店の中よりも空気が冷えていて、俺の身体は小刻みに震えていた。

 何か不吉な気配が漂っている。俺に霊感などなかったはずなのに、一定の速さで回り続ける観覧車を見ていると、そんな気がしてきた。周りのアトラクションは全てゴールドに輝いているのに、何かの主張をするように一つだけ緑を纏うそれは、場違いなほど目立っていた。

 一緒に列に並ぶ紅々李は、特に何も言ってこなかった。視えるときはいつもそう言ってくれるため、今は霊はいないのだと、ほっとした。

「先輩。これ、あげます」

 紅々李はリュックの中からペットボトルを取り出した。例の如くペットボトルカバーが掛けられていた。普段使っている、あの可愛らしいカバーの色違いだった。

「わざわざ用意してくれたのか」

「そうですよ。先輩とおそろいにしようと思いまして。ほら、先輩はいつも飲み物を持ち歩かないじゃないですか」

 たしかに、俺は飲み物を外に持っていかない。用意するのが面倒くさいからだ。

 俺は礼を言ってペットボトルを受け取った。自分が外で飲み物を持っているという事実が新鮮だった。

「申し訳ないな。また何か奢るよ」

「いえいえ。さっきの喫茶店のお礼とさせてください。観覧車の中で飲みながらゆっくりしましょう」

 世間では、大学生は割り勘のほうがいいみたいな風潮が浸透しているが、俺はバイトで得たお金を使うあてもないため、後輩と出掛けた際は毎回奢ることにしていた。

 雑談をしているうちに、気づけば俺たちは列の前の方へと進んでいた。辺りはすっかり暗くなっていて、秋の夜が遊園地を包み込んでいた。影の落ちたゴンドラが俺たちを迎えた。

 観覧車は緩やかに上り始めた。たしか十五分で一周だ。その間に何か都市伝説に関わるヒントを得られると良い。

 郊外でも、立ち並ぶビルは高かった。ずらりと白い光が無数に集まって煌めいていた。蛍の光のようだった。

 紅々李はそれらの景色を眺めながら、わー、と言って写真を撮りまくった。俺も、昼間に見ていたビル群が光り輝いているのを見て、同じ街かと疑うくらい、目を奪われた。

 写真を撮り終えた紅々李がこちらを振り返ったとき、紅々李の手が俺の腕にぶつかった。その手はぞくりとするほど冷たくて、俺は思わず腕を引っ込めた。

 紅々李は慌てながら、ごめんなさい、と謝った。俺はいいよ、と言いながら顔を窓の方へと向けた。観覧車は頂上に近づいていた。

「なにか手がかりは掴めそうか?」

 俺は横に座る紅々李を振り返った。しばらく無言だった紅々李は、あの、と呟いてよくわからない発言をした。

「隠しててごめんなさい。実は私、推理なんて全く興味ありません」

「……興味がない? 推理が好きでミステリー研究会に入ったんじゃなかったのか」

 突拍子もない発言に、俺は驚くことしかできなかった。

「先輩と観覧車に乗りたかっただけです」

「どういうことだ」

 紅々李は俺の質問には答えなかった。会話が噛み合っていなかった。

 次の瞬間、突然視界が暗くなった。外を見ると、ビルのライトが消えている。停電したのか。

「嘘をついてしまいました」

 瞬きをすると、さっきと同じ景色に復元された。幻覚だったのだろうか。

 ざわっと全身に鳥肌が立った。乗り始めたときよりもゴンドラの中が随分と寒くなっていることに気がついた。

「私、先輩と永遠に一緒にいたいです」

 俺は紅々李のその言葉を聞いて、喫茶店で妙な違和感を覚えていたことを思い出した。紅々李の、永遠に一緒、という言葉が引っかかっていたのだ。わざわざそんな言い方をしなくても、ずっと一緒、でいいじゃないか。

「紅々李」

「先輩。もし私が、先輩のことが好きだと言ったら、どうしますか?」

 まさか。

 そんなはずはない。紅々李の言っていた「好きな人」が俺のはずが……。

「冗談はやめろ」

「はい、そうですよね。知ってました。先輩は私のことを好きじゃないって」

 ゴンドラが頂点までやってきた。観覧車は少しずつ、だが確実に回り続けている。紅々李から目を逸らそうとしたが、なぜか思うように目を動かすことができず、俺たちはそのまま見つめあった。紅々李の瞳の奥には、正体不明の禍々しい邪気が宿っているような気がした。俺の唇は不規則に痙攣した。

 ──紅々李がいると言うときは毎回空気が微妙に変わっているように感じていたし、そこには何かしら人ならざるものがいるんじゃないか、と思うようになった。

 俺は紅々李の黒い瞳に吸い込まれながら、自分が根本的な過ちを犯していた可能性を、今になって考え始めた。空気が変わっていたのは、そもそも紅々李の仕業だったのではないか。

 ──何か不吉な気配が漂っている。

 観覧車に乗る前に感じた厭な兆しは、間違っていなかったのではないだろうか。実は、霊は俺のすぐ傍に、ずっと潜んでいたのではないか……そんな気味の悪い実感が、俺を震わせた。

「ところで、私は先輩に嘘をついたので地獄へ落ちます」

「なんだと」

「先輩も地獄に落ちますよ」

 俺が何か罪を犯したとでも言うのか。俺は何もしていない、はず。

「もしかしたら一番酷い目に遭うかもしれませんね」

 ──個人的には盗みを働いた人が一番酷い目に遭う気はします

 ──先輩は盗まないでくださいね

 喫茶店での紅々李の発言が蘇った。

 俺は、何も盗んでいない。

「わかりました?」

 いや、違う。そんなわけがあるはずがないと思ったが、一つの答えが俺の頭に浮かんだ。これしかない。

 恋心だ。俺は紅々李を好きにさせた。それは、恋心を盗んでしまったと言い換えられるのではないか。

 気づけば唾を飲み込んでいた。全ての水分が蒸発したかのように口が乾燥し、喉が渇いた。

 しかし、まだ打つ手はあるはずだ。とりあえず落ち着けと、自分に必死に言い聞かす。

 観覧車が段々と落ちていく。夜が、俺を頭の上から覆っていく。

 俺は乾いた喉を潤すために、ペットボトルを口へ近づけた。凍えるように冷たい水が、すっと喉を流れ落ちて行った。

「あっ、飲んでくれてありがとうございます。お水にとっておきのアレンジを加えておきました。美味しいですか?」

 アレンジという言葉を聞いて、俺は紅々李が言っていた変な趣味を思い出した。

 ──こうやって飲み物にアレンジを加えることにハマっています

 ペットボトルをリュックに入れると、唐突な睡魔に襲われた。意識が朦朧として、身体から生気を奪われたように脱力していった。

 睡眠薬は飲料水に混ぜると発色すると、どこかで聞いた‪ことがあった。紅々李は常にペットボトルにカバーをつけていた。カバーがあれば中身が見えないため、睡眠薬を混入してもバレることはない……。俺は大事なことを忘れていた。紅々李は手段を厭わない性格である。‬‬‬‬‬‬‬

 睡眠薬は早くても効果が現れるのに十五分くらいかかるが、それは適切な量を服用した場合だ……。ぞっと血の気が引いた。既に手遅れだった。瞼は着実に閉じていく。

 俺は眠りに落ち、死へと一直線に進みながら、少女の声を聞いた。聴力は、死ぬときに最後まで残る。

「先輩、一緒に落ちましょう」

 地獄に。

 そう、聞こえた気がした。

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