スターシーカー

灰都とおり

スターシーカー

 それ・・が起こった日、少年は兄の馬に乗せられて高原を走っていた。

 まだ自分で馬を駆れない歳だったのだ。

 夏の熱気に、コイカプの国から吹くような冷ややかな風がまじり、雲のない空が翳りはじめる。少年は馬上から仰ぎ見る。真昼の天で、陽が眼に見えぬなにかにべられている。

 きみにわかるだろうか。視界の涯まで広がる青空が蒼い闇に沈み、星々が現れ、陽が環と化すのを目撃したときの驚きが。

 その驚異が私を生み、そしてきみをここに導いた。


 さて、少年の名を黄金アルタンとしよう。

 物語の時代ときはきみの生まれより一〇〇〇年よりも遠い太古むかし、舞台はユーラシア大陸のなかばで栄えた都城まち――。

 ほら、彼は今夜も城壁の上に佇んでいる。

 幽かに日中の熱気をとどめた日干し煉瓦を砂漠の風が冷やし、少年の髪を撫でていく。

 アルタンの眼は門から地平へと延びる公路へ、そして月が照らすザラフシャン山脈の稜線へと移り、やがて星々の光を捉える。

 空を眺めているのではなく、観測ている。

「またおまえか」

 少年の足下から衛士たちの荒々しい声がする。毎晩のように夜禁を犯す悪童を引きずり降ろそうと毒づきながらやってくる。しかしアルタンは一顧だにせず、天を見上げたままだ。幼き日、草原の天に観た金の環――その記憶が彼を支配している。

 粗野な男たちの腕がアルタンの身体を引きずり降ろすとき、少年の左足が利かないことがわかる。脇に抱えていたのは杖だったのだろう、それもいま衛士が乱暴にへし折ってしまう。

「お強いテュルク様は都城の規則なんて知ったことじゃねえってか」

 衛士たちが面倒そうにアルタンを引きずっていく。

「俺はテュルクじゃない。クルグズだ」

「どちらにしろその足じゃ馬に乗れねえだろ。ならもう馬を駆る者チャカルじゃねえな」

 人気のない夜の街路に放り出すついでに、衛士たちは少年の利かぬ左足を殊更痛めつける。都城に住まう者には、騎馬の者たちへの畏怖とぬぐいがたい敵意がある。

 衛士たちが警備に戻ったあとも、少年は地に転がったままだ。なに、心配はない。変わらぬ日々に飽いただけだろう。都城に捨て置かれたとき、いつか迎えに来ると兄たちは言ったが、そんな日を頼る気持ちはとうに捨てている。

 昼の喧噪が嘘のように静かだ。遠くで鳴く犬の声と、ゾロアスター寺院から漂う香だけが都城の息づかいだった。

 どのくらい刻が経ったか、いま死んだように動かない少年のそばにひとりの男が立っている。

「夜ごとに城壁から星を眺める足萎えのチャカルがいると聞いたが」

 エーラーン訛りの公用語ソグド語だ。

「この画を描いたのは君かな」

 アルタンは不貞腐れたように起き上がり、男に背を向けたまま目の前の城壁を見上げる。月が照らす壁面には、木炭で描かれた大小無数の点と線の集合体が浮かんでいる。

「この季節の星座だね。正確に夜明け前の位置だ……が、沈んでいるはずの天の貴婦人バーヌーがあるね」

「……北の高原でなら見られる」

 少年はぶっきらぼうに返す。

「うん」

 男は意を得たと言わんばかりに頷く。アルタンが振り返るが、男は嬉しそうに壁面を眺めたままだ。

「素晴らしい。大地の傾き・・と星との関係を理解しているんだね。僕は君を誘いに来た」

 ひとり興奮して話す男をアルタンは見上げる。ふたりの眼が合う。

「〝智慧の塔〟か」

「そうだとも。僕たちは常に求めている。探求の徒よ、歓迎するよ」

「いくらだ」

「……なんだって?」

「俺をいくらで雇うんだ」

 交渉ごとのつもりもない。少年はただ純粋に尋ねている。

「草原も都城も仮初かりそめの宿だ。俺はそこで求められる役割を果たし、対価をもらう。そうやって居場所を決めてきた」

「なるほど……」

 男は面白そうにアルタンを見下ろす。

「そうだな、この都城に一〇〇〇年蓄えられた知識では不足かな」

 アルタンは動かない。

 いつしかその眼は、男の後ろ、遥か遠い星の光に囚われていた。

「おまえらの時間ときは廻らない。だから一○○○年などと途方もない数を数える」

「であればこそ、一〇〇〇年の未来さきを観ることもできるというものさ」

「調子のいいことを」

 折れた杖を支えに起き上がろうとする少年の声には、口調に反してどこか明るい響きがある。

 男が手を差し伸べる。

「僕は智慧の塔で学ぶ者のひとり、シャフリルという」

「アルタンだ」

「チャカルの言葉で黄金ザール、いい名だ」

 男の手を取ったとき、少年は故郷を離れてはじめて在るべき場所をみつけたのだった。


 ◆


 ふたりの出逢いから、少し時間ときを先に進めよう。

 アルタンは都城に暮らす青年として成長している。向こう気の強い少年の面影は宿したままだ。

 その日アルタンが召し出されたのは、城塞の高廊にある広々とした一室だった。

 衛士の武装と真紅の絨毯が目を引きこそすれ、数々の書簡筒が並ぶ棚、卓に積み上がった羊皮紙を照らす油燈オイルランプなど、部屋は完全に実務的な用途で設えられている。

 両手を前で合わせて頭を垂れるソグドの礼をとりながら、アルタンの眼は室内を観察する。都城のイフシードは豪勢な謁見の間で各国の遣いをもてなすというが、外交的演出の不要なその部屋はつまり執務室プレジデンツ・オフィスというわけだ。

「おまえが智慧の塔へ入ってどれほどの時が経つ」

 王の声には関心も親しみもない。アルタンはその背後に統治者の鋭い思考を感じとっている。

 七年、と答えた。王は軽く頷き、評判は聞いている、と返す。予め知っていたのだろう。

「おまえの知るとおり、ここサマルカンドには交易路を通じて四海の品々と最高水準の知がもたらされる。数多の帝国が移ろおうとも、この都城が永らく知を蓄えてこられたのはなぜだと思う」

 問いではない。アルタンは壁掛けの地図を視野に入れながら、王の言わんとすることを推し測る。

「遠くの……より遠くの世界と繋がってきたからでしょう」

「そう、おまえはチャカルなのだったな」

 王の声色に微かに好奇心めいたものが混じる。

「遠くを――それは馬を駆るものたちの本質だ。しかし我らにとっては前提に過ぎない。重要なことはその径路をより多く、そして長く保つということだ」

 王は地図に眼をやる。中央にサマルカンドがあり、西にはペルシャエーラーン、その先には東ローマ帝国ルームの版図が見える。そして東と北に広がる大地に何よりも大きくテュルクの文字が記されている。

「ひとつの力に頼ることは脆弱さと停滞を生む。いま東の涯では漢人の新たな帝国が興こり、西では預言者のもとに新たな信仰集団が形成されているが、我々はこうした諸力とも繋がりを保たねばならない。そのことで常に新しい知を蓄積し、新たな価値を生み出し続ける。わかるか」

 アルタンは頷く。東西の学知技芸が蓄積された研究機関「智慧の塔」に招かれてから、交易の重要性は身に沁みて理解されている。しかし王に何を求められているのかが見えない。

「季節がひとつ巡ると、テュルクの皇帝カガンがやってくる」

 後ろに控える衛士たちから息を呑む気配が伝わる。

「都城のそばにあの大天幕が張られるのは数年ぶりだな。そのあいだにこの地が蓄積してきたものをカガンはけみし、その価値を認めればこの広範な交易も我ら自身による都城の統治も引き続き容認するだろう」

 王の言葉が、アルタンの脳裡に過去を呼び起こす。かつて故郷の草原で見た、巨大な天幕の威容を――。


 彼はキルギスクルグズの一族だった。馬を駆り、天幕ユルトを張り、狼の毛皮を纏い、馬乳酒クミスを飲んだ。冬季と夏季の移ろいに合わせ、羊たちとともに宿営地を変えた。

 テュルクたちの矢が天幕を裂いたとき、その暮らしが一変した。騒乱のなかで斬りつけられた刀が左脚の腱を断ち切った。

 大陸に覇を唱える、もっとも猛々しいチャカルの軍事機構に組み込まれた一族は、そのままカガンのもとに拝謁した。

 それまで羊を放してきたクルグズの草原に一夜にして建てられた大天幕が、かの地がテュルクの支配圏に入ったことを宣言していた。

 天を突いてそびえる半球状の大天幕は、五○○人の諸侯兵士を収めてなお余る空間をもち、豪奢な織物や煌煌きらぎらしい宝器で満ちていた。奥には木で組まれ絹と宝石で飾られた高床と、大きな玉座があった。

 征服者の力を目の当たりにしながら、アルタンは左脚の痛みに呻いていた。自分が二度と大地を駆けることはないのだと理解していた。走るべき方向や速度を馬と共有する機能は永遠に損なわれたのだ。

 高座を見上げると、天幕内を睥睨するカガンの瞳があった。

 それは巨大な意志だった。

 大地を縦横に駆け、形あるものもなきものも巡らせる力。

 決して一処ひとところに留まらぬ衝動。


「――カガンが満足するような価値を示せと?」

 アルタンの言葉を受け、王は明確に命じる。

「知恵の価値はかたちを示すことでのみ測られる。眼に見える驚異を造り、カガンの満足を得よ。この都城が、そしておまえたちが在り続けるために」

 もし満足が得られなければ都城はどうなるのか、アルタンは尋ねない。己の範疇でないことがわかっているからだ。

「カガンの意志は見慣れぬものだけを求める。智慧の塔の叡智を集め、未だだれも眼にしたことのないものを見せるのだ」

 王は傷の由来を知っていたのかも知れない。

 部屋を辞し、王の城塞を出て街を歩くころ、アルタンはようやく己の半生にかかる使命を負ったことを自覚した。


 ◆


 夕暮れの都城では市場バザールが畳まれ、ひとびとは家路を辿る。しかし工房では、なお灯りがその一角を照らしている。

 書を蔵する「智慧の塔」と違い、その隣に建てられた工房は〝眼に見えるもの〟のための場所だ。無数の天窓をもつ空間には金属や薬品の臭いが漂う。いまそこに、作業に没頭するふたりの人間がいる。

 ――これは私自身が実際に眺めていた光景だ。

 あのとき私の身体は、煉瓦造りの壁面に設けられた陳列棚の上にあった。

 棚の品々をきみにも見せたいものだ。西方のアレキサンドリアで造られた自動人形。東の漢人たちが愛でた細密画ミニアチュール。それは大陸の最高水準のアートだった。そこに並ぶ私の身体は、子供ほどの大きさの直方体と半球体で構成されていた。

 私が生まれたのは、まだ詩歌と工芸がひとつのものだったギリシャグラエキアだった。私はひとつの技巧テクネであるから、さまざまな身体を与えられ、その身体も一処に留まることはなかった。いくつかはフェニキア人ポイニケスの侵入の折に破壊されたし、船ごと中つ海に沈んだものもあった。そのひとつが交易商人の手をわたって都城に辿り着いたのだ。そこで左脚の利かない若きチャカルが私を見つけた。

「――放すぞ」

 室内にアルタンの声が響く。

 ぎぎ、と金属が擦れる音がして、数瞬ののちシャフリルのため息が漏れるのを私は聞いている。

「まただ、動いてくれない。どうして膝に回転が伝わらないんだろうな」

 汗と油にまみれたシャフリルが一心に見つめているのは、図版や金属部品が散乱した作業台の上で心許なげに震える、犬ほどに小さな馬だ。精錬された銅と鋼で造られ、無数の歯車によって発条動力を伝える馬の器械メカネ

「……重心だ」

 アルタンが呟き、後脚の角度を示す。しばらく考え、そうか! と勢いこんだシャフリルが骨格を解体し始めると、アルタンの手もこれを手伝って、見る間に馬は部品に還元されていく。

「さすがチャカルだね。本物の馬を走らせた君の経験がこいつの血肉になる」

 嬉しそうに作業に没頭するシャフリルを眺めながら、アルタンは「本物」の馬の記憶を思い出す。


 天に金の環を観た日から幾月も経たぬうち、少年は馬を覚えた。その才はやがて父や兄たちも認めるものとして開花した。

 数日をかけ、大人たちにも信じられぬほど遠くまで行って戻ることもあった。どれほど遠くからでも宿営地へ還ることができたのは、アルタンの眼が天の星々から方角を割り出せたからだ。

 その眼は夜空のうしろに精妙に働く〈機構〉を捉えた。一族の語り部はコブスの旋律とともに創世神ジャラトカンが陽と月の上に六層のテンゲルをつくったと歌うが、それが数多の星々が棲まうひとつの層と、独立して天を彷徨う五つの〈放浪者〉の層のことなのだと、少年はひとり理解した。

 その知覚が少年をさらに遠くへ駆り立てた。人間の待つ最速の移動手段である馬が、大地を移動することで星々が位置を変えるという事実の発見を可能にした。世界は広がっている。より遠く、より彼方まで――ただそのことを考えていた。テュルクの刀が思いを断ち切るまでは。


「――ああ、そいつが天の機構だと見抜いたのも、チャカルの眼あってこそだったんだね」

 作業を終えつつあるシャフリルが、陳列棚のそばで佇むアルタンへ話しかける。作業台の上にはふたたび「馬」が組み上げられている。興の乗ったシャフリルの手は神業を為すから、アルタンはその仕上げを彼に委ねて、ひとり気に入りの陳列品を――私の身体を弄んでいる。

「こいつには回転する八つの層がある。形状から天を模したものだと推測できるし、八つの層はそれぞれ太陽と月、五つの放浪者、そして星々に対応する。そこまでならだれでもわかる」

「はは、七二○もの歯車を持つ機構を理解し、錆びついた部品を組み替えられるだけで常人ではないよ」

「おまえの助けがあったからな」

 ふたりが私の身体を直すとき、カガンへ披露できる品となることを期待もしたのだろう。

「しかし俺たちは結局こいつがなんのために造られたものなのか理解していない。下部構造は把握できても、上部に収められた機構は精妙すぎて手に負えない。ここから漏れる光がなにを意味するのか――」

 アルタンが灯器を私の身体の然るべき位置に設置すると、上部に空いた無数の穴から朧な光が滲む。

「ふーん、恐ろしいほどの時と場所を超えてここに至り、ただ薄ぼんやりと工房を照らすのみとはね。黄金なみに高価な灯りだ」

 笑って作業に戻るシャフリルを、アルタンは静かに見守る。

 精巧な器械を造りあげるシャフリルのわざは彼にとって都城の象徴だ。高原では天も地もひとつであり、己もその一部だった。風、けものたち、そして時ですらも。しかし都城ではそのすべてが切り離され、個別の部品に解体される。だからこそ、それらを再構成できるつくりだせる。いつかはきっと天の〈機構〉をも――アルタンはそう考える。

「いいぞ! 動く!」

 シャフリルの歓声とともに、作業台の上をぎこちない動きで「馬」が歩く。

「間に合いそうだな」

「いや馬だけじゃ足りない。鷹も飛ばせたいんだ」

 シャフリルの声は無邪気なほど明るい。アルタンの顔に微笑みが浮かぶのを私は眺めていた。


 ◆


 刻は過ぎる。

 草の凍れる季節の訪れとともに、都城の東からチャカルたちの馬の脚音が聞こえてくる。先遣がすでに郊外で無数の天幕を建て始めていて、かの大天幕もその異形の骨格を見せている。一夜明ければ玉座の主が到着するだろう。

 深い夜だった。

 アルタンとシャフリルが出逢った刻のように、都城は闇のなかで静かにその息づかいを伝えている。

 工房にはまだふたりがいる。私の身体も、いつもの朧な光をふたりに投げかけている。

「いくぞ」

 アルタンが手を放すと、綿密に調整された「鷹」が精妙な自動機械の羽ばたき音をたてて飛ぶ。それは待ち構えていたシャフリルの手を飛び越えて扉へ突き当たりそうになる。

「いいぞ! これならカガンの眼も満足するだろう」

 慌てて扉を開けて「鷹」を逃し、そのまま追いかけるシャフリルが夜の路地へ消える。静かになった工房で、アルタンは明日のことを考える。カガンは――あの巨大なる意志は、本当に満足などするのだろうかと思う。

 外から微かな音がした。

 それは忘れようもない――かつて身体の一部であったと思うほどの響き。

「――アト?」

 開け放たれた扉から外を伺った瞬間、金属部品が壊れるような音と押し殺された人間の叫びがした。

 アルタンは咄嗟に隠れようとするが脚が利かず、扉を出たところに倒れ込んでしまう。

 闇のなかになにかがいた。

 それは幼い彼がいつも見上げていたもの。

「……アルタンか?」

 馬上の人間が彼を見下ろしていた。

 よく訓練され、物音をたてない数騎の人馬が佇んでいた。

 叩き落とされたらしい「鷹」が無残な破片となって地に転がっている。馬と接触したのか、そのそばでうずくまったシャフリルが呻き声をあげている。彼の造ったものも、彼自身も、たやすく壊した目の前の人物に、アルタンはただ懐かしさを覚えていた。

「……兄さん」

「そうだ。迎えに来た」

 シャフリルの体を跨いで、兄の馬がアルタンの前まで歩み寄る。

「あれから一族はカガンの命に従い多くの武を示した。そして独立して動ける地位を得た。明日が好機だ」

 馬が首を下げてアルタンに顔を寄せる。親しみあるしぐさ、暖かい吐息、そのうしろにあるしなやかな筋肉と力強い骨格、すべてが懐かしかった。

「都城に大天幕があるうちはカガンは動かない。その隙に俺たちは東の高原へ向かう。テュルクの勢力の未だ及ばぬ地……そこを一族の新たな故郷とする。そこでおまえはベグの末子としての役割を果たせる」

 馬の頬に手をあて、アルタンはその奥にある夜そのもののような瞳を見つめる。かつてその眼とともに遠くを望んだ。彼は思う。兄の言う地にはすでに住まうものたちがいるのだろう。そこへ矢を放ち、刀を振り下ろして、一族は「故郷」を造るのだろう。そして王の執務室にあった地図のどこかに、またひとつ小さな文字が記される。

 それはこの世界の倣いだ。アルタンには故郷を喪ったことへの怒りもテュルクへの憎しみもない。少なくともきみたちが思うほどには。草が羊の歯を避けないように、狼に喰われる羊が憎しみをもたないように、彼もまた求められる役割を果たすだけだ。

「草原も都城も、仮初の宿――」

 そう呟いて、アルタンは兄の手を取ろうと立ち上がる。

「はははは……っ」

 宵闇に響く声がシャフリルのものだと、はじめその場のだれも気づかなかった。

 さきほど馬の前脚に胸の骨を折られた男が、倒れ伏したままあらぬ方を眺めて笑っている。騎乗のものたちはその男の視線の先に目をやり、息を止める。

 工房に隣接する煉瓦造りの塔、その壁面に光の群があった。小さな、しかし燦然と輝く、それは星々の光だった。

 アルタンは工房を振り返る。

 開け放たれた扉の向こうで、ひとつの器械が朧な光を湛えている。それは私の身体だった。私の体内に幾重にも設置されたガラスヒュアロスの層が、灯器の光を集約し、上部に穿たれた一○八の穴から発している。その光がようやく、然るべき位置に投じられたのだ。

「……距離だったのか」

 アルタンとシャフリルは瞬時にすべてを理解する。私の造られた目的も、使い方も。

「はは……もっと早く……気づけていれば」

 馬上の人間たちが呆気に取られて見守るなか、歩み寄るアルタンのそばで、脇腹を押さえたシャフリルがなお顔を歪めながら笑っていた。

 きみならわかるだろう。私の上部構造が球体であるのは、天とは球の内側からの眺めだからだ。私の発する光を正しく投影するには、内部が球体の構造物が必要なのだ。だがいかにサマルカンドの建築術でも、夜が明ければやってくるカガンのために、いまからそんな巨大なものを建てることはできない。

「ああ…… 時があれば……あの光を映し出す建物を造れたのにな……」

 砕かれた「鷹」の破片をそっと撫で、シャフリルは泣いていた。その怪我ではカガンへの謁見も難しそうだった。

「アルタン、もういいだろう」

 馬上から兄が呼びかける。

「我らは陽が地を照らす前に出発する。カガンの来る前に」

 アルタンは兄にもシャフリルにも目をやらず、じっと工房の私を眺めていた。

 いや、それ・・はある――。

 その呟きは都城の夜の風に溶けていった。

 

 ◆


 陽が中天に昇るころ、城壁に比肩する巨大な天幕が現れている。

 その内部空間にはテュルクの諸侯と兵士たち、都城の王や官吏たち、さらには東から来た漢人や西の新たな信仰集団の姿がある。それら数百の人間たちを、大陸を支配するカガンが見下ろしている。

 さて、アルタンはどうしただろう?

 そう、彼もまた天幕にいる。

 兄の誘いを断り、シャフリルの代わりにいまカガンに口上を述べるところだ。

 彼の要請を受け、すべての煙窓が閉ざされる。暗い天幕のなかを、アルタンの灯器だけが照らしている。

 そのそば、天幕の中央に置かれた卓に私の身体がある。

「それでは、我らが智慧の塔に結晶した驚異のわざをお見せする」

 アルタンの灯器が私の身体に設置されると、ひとびとの囁きが掻き消える。私から発せられる光は、巨大な半球状・・・・・・をなす大天幕の内側に投影され、真昼に夜を造りだした。

 一瞬のち沸き上がるどよめきが収まるのを充分に待ったあと、アルタンは口上を続ける。

「草原を駆ける方々よ――あなた方がテンゲルと呼ぶ星々の座は、かつて古都バビロンでディンギルと呼ばれ、その観測術が究められた。その業は西涯のギリシャグラエキアに渡って工学となり、のちにローマルームでさらなる精妙を極める。永い年月を超えてかの技巧はいまこのサマルカンドにある。これが都城において星を観る業だ」

 私の身体は正しく機能する。シラクサを包囲するローマの艦隊を焼いたアルキメデスの集光技術が、仮想の天球上に星々を光らせる。天幕の形状は求められる球面ではなく、歪みは避けがたい。しかしなお、居ならぶひとびとの目にそれが星々であることは紛れもなかった。

「方角を確かめよう。こちらが陽の沈む向きだ。いま現れているのは陽が落ちてすぐの星々だ」

 いま――?

 その囁きに応えるよう、アルタンが私に備え付けられた取手を回し始めると、星々がその位置を変える。グラエキアで造られた私の身体は、海を渡って辿り着いたアレキサンドリアのヘロンの工房で改変されている。上部に搭載された精密な球機構スファイラが作動し、一刻ごとに天を移る星々の移動を正確に再現する。

「我々はいまときを超えて進んでいる。季節を星々で測るあなた方ならわかるはずだ。この天の動きは、まさに今夜この地で見ることのできるものだと」

 しかしその速度は尋常ではない。天の北極を回転軸に、すべての光が東から西へと流れる。その驚異はひとびとに悲鳴も歓声もあげさせず、だれもが息を止めて「天」に見入る。

 アルタンは高座のカガンの瞳を探す。星の光だけが照らす暗がりのなか、玉座の人物はしかし驚きというほどのものを見せていない。

「それでは、季節ときを進めよう」

 その言葉とともに、アルタンが私の外部に備わる円板を回し始めると、星々はさらに目まぐるしく動く。一日が瞬きほどの間となり、星々の渦がゆっくりと傾いては戻るなか、五つの光が彷徨うように天球を移ろっていく。

「あれらが、季節ときのなかで天を彷徨う放浪者プラネテスだ」

 呆然と天を仰ぐひとびとのうち幾人かは――東から来た博士たちや西の学者アーリムたちは、放浪者わくせいの移動の本質を朧げに理解する。

 だが「天」はさらに速度を上げ、すでに人の眼ではその動きを追いきれない。

「いま我らは時代ときを超える」

 アルタンの操作は無謀極まりないが、私の機構はこれに応え、星々の大局的な移動を制御する。ヒッパルコスが記述しプトレマイオスが私の身体に刻んだ歳差運動プロエーゲーシス――。

 いまや天幕内には巨大な竜巻が生じ、星々は明滅する光の乱流となって視界を覆う。あるものは恍惚と、あるものは絶叫をこらえて、しかしだれひとり眼を逸らせない――カガンでさえも。

 どれほどの刻が実際に流れたのか、いつしか「天」はふたたび日没後の星々を映していた。

 ようやくひとびとは息を吐く。

 倒れ込むものもいるなか、「天」に見慣れた星を探す声も発せられる。

 すると新たなざわめきが立ちのぼる。

 いまの季節にしては、星の位置に大きなズレがある。天の北極フシムを指す星ですらその角度を変えている。訝しがる声が広がり始めるのを、カガンの声が静めた。

 支配者の言葉はただひとことだった。

――ここはどこか?

「いまより一〇〇〇の年を超えたところです」

 天幕を満たすアルタンの声には、黄金をみつけたものが発する響きがあった。


 ◆


 その後のアルタンがどうなったか?

 彼は都城に留まった。その後も天を観測続けただろう。

 カガンは満足したのだろうか?

 私にはわからない。いずれにせよサマルカンドはその後も栄え、東西から集う博士学者たちによって大陸最高の天体観測術が究められた。イスラームと呼ばれる信仰集団が治める時代ころになると、都城には史上類をみない巨大な観測台が建てられ、季節を通して天を観測ていた。

 ああ、そこからは別の物語だ。

 私は技巧テクネ。時と場所を超えて身体が与えられる。

 その業を十字軍が西へ持ち帰ってのちは、きみにも馴染みの物語がたくさん生まれる。

 投影時刻が終わったあとの無人のドームでひとり私を見上げるきみには、しかし私の言葉は届かない。アルキメデスにもヘロンにも、あのチャカルの少年にも届かなかった。だが、伝わるものはある。

 きみはいま、一九六○年にカールツァイス・イエナ社から与えられたこの身体を、無数の複眼と節足を備えた自律機械ロボットと見立てている。

 そう、私は自律的に動くものだ。時と空間の座標系を常に移動している。人間には捉えにくい速度だが、ときどき観測る眼をもったものを魅了することがある。――天の星々のように。


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