終章
52
私は、二十歳になっても絵描きとして独立は出来なかった。当初の約束通り正社員として就職活動を始めようとしたとき、母親が描きながら専門学校に通ったらと提案した。ここまで続けた絵は描き続けなければもったいないというのに、働きながらでも絵は描けると返したけど、結果として時短勤務の契約社員をしている。正社員とは使える時間が段違いで、残りの時間は続けて絵を描くことに費やしている。お金が貯まったら、並行して専門学校に通うつもりだ。
独立できる収入は得られていないけど、十九歳の時、比較的大きな賞を取った。それが母の心を動かした一因だったのだろう。
「カシオピアの隣人」と題したその絵は、夜の海と一面の星空、そして一際強く輝く星を描いた作品だった。その星は、一羽の鳥の姿をしている。カシオピア座の隣りで燃えるように輝く、私の中で形作られたよだかの星だ。
仕事を終えた私は、今日も硬い椅子の上でスケッチブックに色鉛筆を走らせる。面会時間の終わる夜の七時まで、黙々と絵を描き続ける。
就職して忙しくしている高瀬さんと美月さんは、昨日も連れ立ってお見舞いに来てくれた。待ち合わせて高瀬さんの車でやって来るんだからどう見てもカップルなのに、お互いにその気は全くないという。
「荷物預かってるからさ、早く起きて引き取りに来てほしいんだよね」
「高瀬、遅くなったら捨てるつもりとか言うんじゃないよね」
「そんなわけないって。僕が言いたいのはつまり」
「わかってるわかってる」
どう見ても立派な社会人なのに、学生同士のようなやり取りをするのが可笑しくて私はいつも笑ってしまう。笑いながら、私は視線を彼の寝顔に移す。
あれから、彼はずっと眠っている。お医者さんは、身体に特別な異常は見られないのに不思議だと首をひねったけど、私たちには分かっていた。彼はゆっくり命を取り戻している。多くの人のために削ってきたものを、少しずつ回復させている。
高瀬さんは、事前に約束させられていたらしい。彼が預かってほしいと部屋に残した荷物は、小さな段ボールひと箱分しかなかった。高瀬さんがそこに収められた雑誌をぱらぱらめくると、一枚の封筒が落っこちた。
「前賃だとか言ってたけどさ、使えるわけないよ」
中身を見て苦笑する高瀬さんの手にあるのは、ヨダカが奨励賞と共に手に入れた一万円だった。うっかり涙が零れそうにになるのを、私は堪えなければならなかった。
今日は私以外にお見舞いの人はいない。腕時計が夜六時を過ぎているのに気が付いて、手を止めて息をつく。大部屋は彼と同じ状態の人が大半で、ひどく静かな空間だ。
枕元の床頭台の写真立てには、私が飾った二枚の写真がある。向日葵畑で笑う三人の子どもたちと、その十一年後を撮った写真。同じ場所の同じ構図、私たち三人は夏の真下で笑っている。あの日見つけたトイカメラに残ったSDカードには、カメラの持ち主である彼自身の写真は一枚しかなかった。だからこれが、十一年の歳月を結ぶ唯一の写真。
大丈夫。彼の命は、ずっと燃え続けている。二十年間、その魂はひと時も休むことなく炎を宿している。私は知っている。私には、分かっている。
だから、驚きも不思議さもなかった。シーツの上に垂れた彼の右手の指先がぴくりと動いたのに、夜明けが来たことを知った。長い長い夜が明けて、朝の光に目を覚ます。その瞬間に彼のそばに居られることが、なによりの幸福に思える。
すっかり黒くなった髪、こんこんと眠り続けたおかげで真っ白な肌。ゆっくりと瞼が開き、瞳はまだ眠りの底にいるようにぼんやりとしている。
彼がこちらを向いたのは、ぽたぽたという微かな音と、私の気配を感じ取ったからに違いない。私は頬からシーツに零れ落ちる涙を拭った。あの時、泣いてたよな。後で彼に笑われないように、そして何よりも、笑顔で彼の目覚めを迎えるのだと決めていた。
「おはよう、晴」
泣き笑いの私の顔を見て、彼は柔らかく目を細めて笑った。おはようと動いた唇が、続けて私の名前をなぞった。ヨダカの星は命を燃やして燃やし続けて、ようやく夜明けを迎えた。そしてこれからも燃え続ける。カシオピアの隣人は、晴れ晴れと輝く空のもとで、眩い炎をいっそう煌かせるに違いない。
カシオピアの隣人 ふあ(柴野日向) @minmin
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