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私が住んでいた家は、知らない家族のものになっていた。玄関先に三輪車があるから、小さな子どもが住んでいるんだろう。彼らも過疎化の進むこの町からいつか出ていってしまうのかもしれない。
葵ちゃんの家は、なくなっていた。家屋の姿は跡形もなく消え去り、敷地は夏の草が生い茂る一面の緑色だった。隅に一本だけ生えた大きな木は、子どもの頃に木登りをしたクヌギの木だ。私がクワガタを捕まえると、はるくんと葵ちゃんは歓声を上げて興味津々の目を輝かせていた。今も木漏れ日を零すその木だけが、私たち三人を覚えている唯一の証に思えた。
ヨダカの歩みは遅かった。午後の陽射しに貫かれ、その身体は夏の陽炎にふっと崩れてしまう気がした。行きの電車の中ではずっと眠り、柊哉の前で強がったはいいものの、今はもう歩くのさえ辛そうに見えた。汗を拭いていたタオルを被り、帽子忘れたなと笑ってこちらを見る目のクマがより濃い影になっていて、頬はこけていた。儚い身体は何かの拍子にぺしゃんこに潰れてしまうか、瞬きしたきっかけで消えてしまう気がして、私は彼の左手を右手で握りしめた。こうしていれば、彼の命を、私の命に繋ぎとめておける気がした。「暑いよ」と笑って、ヨダカは手を握り返した。
向日葵畑は美しかった。競うように背伸びをして太陽を向く黄色の花たちは、生命力にあふれていた。高く広い青空、もくもくとわく入道雲、蝉のさざめきに道の先の逃げ水。全てが夏を表して、一歩あるくごとに過去に戻っているようだった。何一つ不安も心配もなく、夏の空気を胸いっぱいに吸い込んで、来る日も来る日も駆けずり回って遊んでいたあの頃に。
私の隣りの男の子は、首からカメラを提げて、向日葵畑を見つめている。神隠しでいなくなった、小さなはるくん。いくつもの深く暗い夜を乗り越えて生きてきた、大切な人。その真っ黒な瞳に、金色が映っている。あの頃の眩さを思い出させるように、向日葵の黄金が輝いている。
そっと彼が私から手を解いた。ヨダカは、はるくんは、右手に持ったカメラを軽く掲げて、私に笑いかけた。
「記念写真、撮ろう。三人で」
きっとここなら、葵ちゃんの姿が写る。彼の命が彼女を呼び寄せて、写真の中に収めてくれる。
本当なら、駄目だと言わなければいけない。彼の身体がどこまでもつか、誰にもわからないのだから。
けれど私は笑って頷いた。彼の命が激しく熱を帯びる瞬間に立ち合いたい。残りの魂をかけて、愛しい人に再会する場面に一緒にいたい。この手が焦げて灰になっても、強く燃える命の炎に触れていたい。
彼が伸ばした右手でカメラをこちらに構える。私はできる限り彼に寄り添って、レンズに笑いかける。ゆいちゃんは泣かない、仲良し三人組で向日葵畑にいるのに、涙を流すわけがない。
「撮るよ」
彼の人差し指がシャッターに触れる。大丈夫、この写真を撮り終わっても、彼の命が尽きることはない。
よだかの星は、今もずっと燃え続けているのだから。
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