《2》リライト

 名前なんてただの記号だと思っていた。実際、それ以外の何物でもなかった。

 あなたが呼んでくれて、初めて俺の名前は意味を得た。ただの記号が特別なものになってしまった。


 あなただけなんです。

 生き方も、名前の重みも、俺のなにもかもを変えてしまえるのは。


 ねえ、一葉さん。本当に俺を許してもいいの?

 あれほどあなたを苛んで傷つけて、自分勝手な理由で閉じ込めて、挙句の果てに身勝手な願いを叶えるためだけにあなたを妊娠させた、そんな男を相手にどうしてまたそういう顔を見せてしまうの。


『私が愛してるのは、翼くんと楓だけよ』

『騙してたんじゃなくて、私と楓をずっと守ってくれてたんでしょう?』


 ……違う。

 俺はもっと狡くて薄汚い人間だ。一葉さんだって、そのくらい知ってるはずだ。


 あの街に住んでいた頃もそうだった。周囲が流す噂を、都合良く利用した。そうやって、あなたを〝不幸な未亡人〟に、俺自身を〝献身的な義理の息子〟に仕立て上げた。

 内心で他人を嘲りながら、あなたの傍にいるための大義名分を手に入れるべく、本当なら拾うべきでない噂まで利用した。それなのに。

 馬鹿だ。そうやって自分の逃げ道を自分から絶って、どうするつもりなんだ、あなたは。


 けどもう遅い。あなたは俺のものだ。

 もっと焼きつけてやりたい、この細っこい身体に全部。どんな手を使ってでも縛りつけて、あいつの痕跡をすべて消して回って……ああ、結局今も、俺はあいつに縛られたまま。


 だとしても、この人と楓が傍にいてくれるなら、そんなものはもう苦痛にすらならない。


 それで構わない。二度とお前には渡さない。

 強いて心残りを挙げるなら、今の一葉さんの顔を、どうやってもお前には見せてやれないということだけ。



     *



「パパァー、おかえりー!」

「ただいま、楓」


 帰宅とほぼ同時、パタパタと廊下を走る足音が聞こえてきて、知らず頬が綻んだ。

 ガラッと引き戸が開き、そのままの勢いで娘が突進してくる。日に日に力が強くなっていく無邪気な抱擁に包まれ、今度こそ口元から笑みが零れた。


「おかえりなさい。雨、大丈夫だった?」

「うん。会社を出るときにはだいぶ弱くなってた」


 大腿の辺りにぐしぐしと頭を擦りつけてくる楓を抱き上げ、リビングに足を踏み入れると、いつもと変わらず彼女の声が聞こえてきた。

 キッチンから首を覗かせ、帰宅時の様子を尋ねてきた彼女の手元には、美味そうな湯気を立てる料理の大皿が見える。返事をしながら、「ごはん、ママといっしょにつくったー」と得意気に口にする娘の頭を撫でた。


 彼女が記憶を取り戻してから、三ヶ月が経過した。

 その間、変化らしい変化がひとつあった。彼女が俺を本当の名で呼ぶようになったことだ。


 娘の前では名前で呼び合うこと自体少ないから、日常生活でそれを耳にする機会はさほどない。つまりは、以前とほとんど変わらない生活を送っている。

 俺たちの関係も、基本的には変わらない。形式上、あくまで〝親子〟。楓は彼女の死んだ夫――俺の父親との間にできた子で、彼女は、その子と義理の息子と一緒に三人で暮らしている。ふたりとも、息子、あるいは腹違いの兄の扶養に入っている形になる。


 ただ、周囲からはどこからどう見ても夫婦にしか見えないだろうし、楓も俺たちの間にできた子にしか見えていないと思う。互いに、それぞれの親族とは疎遠になっている以上、そうした詳細を知る人間は皆無だ。

 彼女が記憶を取り戻す前は、俺以外、誰も知らなかった事実でしかなかった。職場の一部の上司には、さすがに伝えざるを得なかった内容も若干あるが。

 それだって、余計な詳細まではわざわざ伝える必要がない。複雑な家庭環境と事情、そう強調して切り抜けてきたし、これからもそうしていくつもりだ。


 職場は地元から離れているが、だからといって、今なお戸籍上親子である俺たちが結婚できないことに変わりはない。もしかしたら手段は皆無ではないのかもしれないが、問題はそこよりもむしろ別のところにある。

 どこで暮らしていようと、噂なんてものは簡単に広がってしまう。それも余計な尾ひれ背びれをくっつけながら。


 俺たち家族の誰にとっても、それは決して望ましいことではない。

 だから、俺と一葉さんは、これからもずっと親子のまま。


 ……問題は、多分ひとつもない。

 周囲には仲の良い夫婦に見えている、加えて複雑な詳細を知る人間はほぼ皆無。そこに含まれたさらなる真実を知る人間に至っては、俺と一葉さんのふたりだけだ。


 今の生活を守りたいなら、ふたり目以降の子を望んではならないのだろう。正直を言えば、それが惜しく感じられなくもない。だが、これ以上自分の好き勝手に欲張る気にもなれない。

 親子という関係を使い、一葉さんと楓はきちんと俺の扶養に入っている。ひとりきりで真実を隠し込んでいた頃に比べれば、これほど幸福なことはないとも思う。


 本音を言うなら、彼女のことを名実ともに妻にしたいと少しも思わないわけではない。とはいっても、曲がりなりにも一社会人、そして人の親となったことで、俺自身も以前より考えが丸くなってきているのかもしれない。

 利用できるものは利用する。以前は逼迫した心理状態で抱えていたその考えにも、余裕めいた気持ちが芽生えて久しい。


 ……それでも。


 楓には、いつか本当のことを伝えなければならない日がくるのだろう。

 真実は幾重もの嘘に包まれている。最悪、最愛の娘に軽蔑されてしまうのかもしれない。俺も、一葉さんも。

 けれど、死ぬまで隠し続けるのはきっと俺自身が耐えられない。俺が幼少の頃に感じていたような思いを、楓には少しだって味わわせたくなかった。


 彼女に記憶が戻った今も、不意に不安になることがある。この人は、記憶を取り戻せて良かったと本当に思えているのかと。

 救われたのは俺ひとりだけなのではと、そんな気分に陥るたび、終わりのない迷路を彷徨っていた数ヶ月前までの焦燥が一気に蘇ってくる。


 それを根こそぎ取り払ってくれたのは、他ならぬ彼女自身だった。


『私、思い出せて良かったよ。だからもう、自分ひとりで悪者になろうなんて思わないでね』


 冗談っぽく、それでいて微かに寂しそうな目をして、彼女は記憶を取り戻した日のうちにそう口にした。なにもかもを見透かされている気にさせられ、すぐには返す言葉が見つからなかったことを覚えている。


 俺たちが過ごしたあの五年間は、幸せだけでできあがっている月日では決してなかった。

 だが、俺たちの間にだけあったものが確かにある。つらいだけではない、穏やかなぬくもりに包まれた、そんな時間が。


 本当に、馬鹿な人だと思う。

 痛い目を見るのは――悪者扱いされるのは、あの五年間を壊した俺ひとりで十分なのに、あなたは自ら茨の道を選ぼうとする。選んでしまおうとする。俺のためなんかに。


 わずかに目尻を濡らした涙に、あなたは目ざとく気がついた。あの日――俺が初めてあなたを抱いた日と同じように。

 細い指を俺の目元に滑らせながら、自分も目を赤くしていたあなたの顔が、はっきりと脳裏に蘇る。


『泣かないで』


 いつかと同じ言葉と、伸びてきた指が目尻をなぞる感触。かつてはぎりぎりと胸を締めつけるばかりだったそれらは、今、こんなにも俺を救ってくれている。

 こんな未来があるなんて、あの頃はちっとも思い至れなかった。


 そうやって、あなたはあと何度、俺を掬い上げてくれるだろう。

 逆に、俺は何度あなたを支えてあげることができるだろう。


 数年前には想像さえできなかった未来が、今、確かにここにある。

 俺のなにもかもを変えてしまえるのは、後にも先にも、やっぱりあなたひとりだけだ。


「……パパ?」


 訝しげに俺を覗き込んでくる娘の視線に気づき、ようやく我に返った。

 首を傾げる楓の瞳が心配そうに揺れている。それまでの思考を頭の隅に追いやり、俺は小さな頭をそっと撫でた。


「ごめん、なんでもないよ。……楓、次のお休み、皆で一緒に公園に遊びに行こうか」

「あっ、いくー! すべりだい、するー!」


 途端にコロコロと笑い出した楓は、手を伸ばして勢い良く俺に抱きついてくる。近頃は気を抜いていると押し倒されそうになる。小さな身体をしっかりと抱き留めながら、ふたりで一緒になって笑い合う。

 ふとキッチンに視線を向けると、静かに微笑む一葉さんと目が合った。

 さっきまで俺がなにを考えていたのか、すべてを見透かしているような温かな微笑みが、心のすみずみまでゆっくりと沁みわたっていく。


 つられて緩んだ口元とは裏腹に涙が零れそうになり、楓を抱き締める両腕に、少しだけ力を込めた。




〈パーフェクト・エスケープ 後日談/了〉

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