パーフェクト・エスケープ 後日談
《1》リマインド
「あー、ママーぽすとー」
「ん? ああ本当だ、手紙だね。わ、風まだ強いなぁ……あっ、こら
その日、先週末から降り続いていた雨がようやく上がった。
雲の切れ間から陽射しが覗く時間を待ってから、娘と一緒に外へ出た。吹きつける風はまだ完全には弱まっていないが、数日ぶりの外遊びだ。娘は目を輝かせ、キャッキャッとはしゃいだ声をあげている。
集合住宅の前に延びる控えめなアプローチを、娘は小さな歩幅でとてとてと走り抜けていく。駐車場まで出てしまっては危ない。慌てて追いかけようとすると、ポストに突っ込まれた封筒が不安定に風に揺れる様子が目に入り込んできた。
角型の大きな封筒は、設置しているポストに入りきっていない。半分ほどが強風に揺らされ、今にも飛ばされていってしまいそうだ。
『郵便物には触らなくていいよ、俺が目を通すから』
夫にはそう言われているが、このままにしておいて風に飛ばされては困る。
一瞬ためらった。けれど結局、私は洒落っ気のないその薄茶色の封筒をポストから取り出した。
*
お腹が大きかった頃や産後間もなかった頃は、私のためを思って気を遣ってくれているのだと思っていた。けれど、近頃では疑問に思ってしまうことばかり。そしてその燻りは日に日に大きくなっていく。
夫は私に、郵送物の確認を絶対にさせない。ポストの中をひとりで確認しないで、とまで言われている。
それ以外にも、言い表しがたい違和感を覚えることは幾度もあった。楓の産後、それはさらに顕著になっていた。
例えば、夫は私に触れない。
妊娠中も出産後も、それから三年近い月日が過ぎた今でも変わらない。もはや神経質とも受け取れるほど、私を丁重に扱い続けている。
楓を連れ、ふたりで外出する機会も増えた。
以前の私は、日がな一日家の中で過ごすことが多かった。妊娠中の健診にもほぼ毎回夫がついてきてくれていたし、ここ数年、自分ひとりで外出した記憶はあまりない。
日常の買い物も、夫が休みの日にまとめて買い出しに行く場合がほとんどだった。ひとりでの外出なんて、美容院に行くときくらいしかない気がする。
元々活発なタイプではない私のような人間でも、何日も自宅にこもりきりではさすがにストレスが溜まる。楓が生まれてからはなおさらだった。
そんな私の内心を察してか、楓が生後三ヶ月を過ぎた頃から、夫は私と楓を連れ、公園やらショッピングモールやらいろいろな場所に連れ出してくれていた。平日も週末も、自分の時間など一切ないのではと思えるほどに。
ありがたい。感謝だって、しきれないくらいにしているつもりだ。
楓が産まれてから大学を卒業し、今の会社に就職した夫にとって、日々の仕事や通勤が相当な負担になっていることは想像にたやすい。それも、住み慣れた街を離れての就職だったからなおさらだ。
それなのに、いつもこんなふうに私と楓に気を配りながら、私たちを大切にしてくれる。帰宅後や週末には、率先して家事や育児に力を尽くしてくれる。
……どうしてだろう。違和感が残るのは。
どちらかといえば、夫は、自分が不在のときに私と楓がふたりで外出することこそを不安に思っているのでは。ふとそう思うことがある。
楓は育ち盛りの子供だ。風邪をひいたり高熱を出したりする日も多く、それでなくても、予防接種などのために小児科や健診センターにはよく足を運ぶ。
それに、そろそろ幼稚園への入園も考えて良い時期になってきている。夫が休みの日だけを選んですべての予定を組むのは、どうしたって難しい。はっきり言うなら、いい加減限界が近づいているのだ。
夫だって、せっかくの休日を私や子供のために使ってばかりでは、ストレスが溜まってしまうのではないか。私はそう思うのに、彼自身はそんなことなど少しも考えていないようだ。
やはり、私たちだけで行動することを――いや、自分のいないところで私がなにかすることを心配している感じがする。元からこんなに神経質だったっけ、と思えてくるほどに。
加えて、私たちはここ数年、夫婦らしい生活が皆無だ。いわゆる夜の生活のみならず、夫は口づけさえ躊躇する。
私自身、常日頃から甘えるタイプではない。それでも、夫のあまりに淡白な態度を眺めていると、無性に寂しくなることがある。そういうときに口づけをせがむと、彼はためらいがちに瞳の奥を揺らす。そうして、唇に触れるだけのキスをそっと落としてくれる。
楓が誕生してから、まだ三年も経っていない。
新婚の頃より落ち着いてきたからでは、とも確かに思う。小児科や支援センターなどで知り合った母親たちの中にも、似たようなことを嘆いている人は実際にいる。
でも、結婚した当初は私たち、もっと……、……、
……?
……ああ、まただ、この感じ。
急に靄がかかったみたいに、大切なことを思い出せなくなる感覚。
これまでは、それを追いかけているうち、やれ楓が泣いただの授乳だのと忙しなさに奔走させられてばかりだった。結論を導き出す前に、抱いた感覚そのものを忘れてしまうことがほとんどだった。
しかし、今では楓もある程度大きくなった。育児に家事にと躍起になって走り回っていた日々よりも、少しは余裕が生まれている。そのせいもあってか、その手の違和感は、以前よりも遥かに濃厚な気配を宿して襲いかかってくるようになった。
そもそも、私たち、いつ結婚したんだっけ。
そんなことすら思い出せない気がして、言いようのない恐ろしさに背筋が震えた途端、ふっと我に返る。こういうことが、もう何度も続いている。
哲哉さんは、ここ数年は以前ほど忙しく仕事に飛び回らなくなった。
『妻がひとりで子育てしてて、頼れる親類も近くにいないからって、会社にはちゃんと伝えてあるんだ。本当は育児休暇を取れれば一番いいんだろうけど、今はどうしても難しくて……ごめんね』
出産して半年が経過した頃だったか、産後初めて産褥以外の理由で体調を崩して高熱を出した私に、残業を切り上げて帰ってきてくれた夫はそう言った。
育休だなんて、そんなことまで考えてくれてるの? だってあなた、前はもっと……私のお母さんのお葬式にさえ来られなかったくらい忙しく働いてたんじゃなかった?
いや、でもあのとき、隣に寄り添って私を支えてくれた人がいたはずだ。そう、あれも哲哉さんだった。当時まだ高校生だった哲哉さんが、心細くて仕方なくなっていた私の傍に、ずっと寄り添ってくれていた。
……じゃあ、葬儀のときに私の傍にいてくれなかったのは、誰?
楓を出産したとき、哲哉さんは大学生だった。彼が大学を卒業して今の仕事に就いてから、まだ二年も経っていない。
仕事をしていた、お葬式に来られなかった……なんだろう、これ。
いや、それ以前に〝哲哉さんは、ここ数年は以前ほど忙しく仕事に飛び回らなくなった〟ってなに? 私、考えてること、おかしくない?
近頃では拭い落とすのが大変だ。
違和感の塊が、以前より大きく、さらには数まで増やしながら私に圧しかかってきている。
「……あ」
溜息が零れかけたそのとき、手を添えていた封筒の先端が、風に揺らされてばさばさと音を立てた。我に返った私は、自由に庭先を歩き回る楓を捕まえて手を引き、茶封筒へ視線を向ける。
そして封筒に記された宛名を目にした瞬間、とうとう私は、違和感の正体を知ることになったのだった。
*
ここ数日の雨のせいでしばらく家の中で遊ぶばかりだった楓は、久しぶりの散歩がよほど楽しかったのか、かなり激しくはしゃいでいた。それもあってか、入浴を済ませると早々に眠りに就いてしまった。
あの人が帰ってくるより先に寝るなんて、珍しい。
相当疲れたんだろうと苦笑しながら、健やかな寝息を立てる娘のやわらかな頬をそっと撫でる。それから静かに立ち上がり、音を立てないように寝室の扉を開け、リビングに戻った。
『伏見 翼 様』
ソファの前のローテーブルに置いておいた封筒を、ちらりと見る。
夫のものではない名が記された封筒。だが、それが〝彼〟宛のものであることを、私は理解できていた。
むしろ、どうして今の今まで忘れていられたのか、その気持ちのほうが遥かに強い。そのせいで彼の心を無下に傷つけ続けていたのだと思うと、じくじくとした痛みが胸の底を蝕むようにして広がっていく。
邂逅は一瞬だった。
不自然に記憶から除かれていたピースは、まるで初めからその場に戻ることを望んでいたかのように、あっさりと私の記憶に収まった。動揺も困惑もなく、私は彼の正体をすんなりと認識できている。
どうして、私が郵便物の類に触れることを許さなかったのか。不自然なほどだった彼の言動、その底に隠されていた理由にようやく思い至る。
楓のために必要な手続きは、私ひとりで行ってきたものもある。ただ、母子手帳の交付や出生届などの重要な手続きの際は、彼ひとり、あるいは彼が必ず私に同伴して行われていたように思う。
私は、どんな手続きの場合も、楓の父親の氏名欄に夫の名前を――〝哲哉〟の名を記載してきた。そんな私を、彼は一度たりとも止めなかったし遮りもしなかった。それを踏まえれば、戸籍上、楓は確かに哲哉さんの子ということになっているのだと思う。
私にとっての哲哉さんと、彼にとっての哲哉さんが、完全に食い違ったまま。
彼自身が真実を口にしない限り、記憶が錯綜していた当時の私はその欺瞞に気づけなかった。つまり、すべてを知った上で、彼は。
私たち母子を守るためなのかもしれなかった。死んだ夫の息子との間に子を成した女と、その子。そうやって、私と楓が世間から後ろ指を差されてしまわないように、と。
そして、彼は自宅アパートの中だけで――この小さな箱の中だけで、私のために哲哉さんを演じ続けていた。この封筒の宛名を見る限り、さすがに彼自身が改名の手続きまではしていないことが分かる。
靄が晴れていく。
正体不明の息苦しさからやっと解放されたような、そんな気分だった。
衝撃的なはずの事実を、これほど平然と受け入れてしまえている。その時点で、もしかしたら私は、心のどこかでこのことに気づいていたのかもしれないとすら思う。
明確な自覚こそないが、いつバレてもおかしくない、こんなにも安易で幼稚なからくりに、私は自ら騙されていたいと願っていたのかもしれない。
ああ、あなたって、本当に馬鹿な子。
そこまで考え至ったとき、玄関の鍵がガチャリと開く音がした。
*
「ただいま」
いつも通りそう口にしながらリビングへ入ってきた彼に、ソファへ腰かけたきり、視線だけを向けて口を開く。
「おかえりなさい、……翼くん」
私の声を聞くなり、彼は手にしていた通勤用の鞄を取り落とした。それが床に落ちたときの鈍い音が、妙に鼓膜をひりつかせる。
例の茶封筒を手にして彼を見つめる私を、相手の両目が呆然と捉えている。あまりに深い困惑を見せるから、つい悪いことをしている気分になる。かける言葉が見つからず、私は曖昧に微笑み返すしかできない。
その場に立ち尽くした夫――いや、翼くんは、まるで罪を暴かれた罪人のような顔をしている。
普段ならすぐ自室に向かって着替えるのに、今日の彼はそうしなかった。震える溜息を口端から零した後、傍のダイニングチェアに力なく座り込んだ翼くんは、片手でこめかみを押さえながら目元を覆ってしまった。
「……思い出したのか」
感情の削げ落ちた声で問われ、言葉に詰まる。
想像していたよりも遥かに苦しそうな姿を前に、胸が痛む。
「……ごめんなさい。ポスト、見ちゃった。封筒が届いてて、風に飛ばされそうだったから」
それだけはなんとか声に乗せた。
震える息を零した翼くんは、一向に私と目を合わせない。舞い降りた沈黙がにわかに恐ろしく感じられ、気づけば私は縋るような声で口にしていた。
「翼くん、こっち向いて」
「……」
「お願い」
畳みかけるように告げると、彼は静かに顔を上げた。
今にも泣き出しそうな顔で私と目を合わせた翼くんは、どう見ても、四年近く前に亡くなった夫とはもう似ても似つかない。
顔は確かによく似ている。それはあの頃のままだ。むしろ、相応の月日を重ねたことで、結婚当時の夫により似てきている気さえする。
だが違う。根本的な部分で、ふたりはまったく似ていないのだ。
私のためを思ってこんなことを……いつバレてもおかしくなかっただろうに、一体いつまで続けるつもりだったのか。
楓が成長すれば分かってしまうことだってある。あの街を離れたところで、いつか必ず限界がくる。私が公的な書類を目にする機会が一度でもあれば、その瞬間にすべてが露呈するに決まっていた。そのくらい、分かっていなかったはずはないだろうに。
この人の、そういう脆い優しさを、心の底から愛おしく思う。
私より年下の哲哉さんなんてあり得ない。私を愛する哲哉さんなんて、もっとあり得ない。なにより、これほど大切なこの人の記憶を、どうして私は幾年にもわたって頭から弾き出せていたのか。
自分の浅ましさから目を背けるため、逃げるため、私はこの人の傷を深める選択をした。もっと早く気づいても良かったのに、と思うと途端にやりきれなくなる。けれど、その選択を望んだのは他ならぬ私自身。
そうやって自分だけが救われて、それがなんになる?
大切な人を苦しめながら、救われたような気分に浸ったところで、私になにが残る?
座り込んでいたソファから、そっと立ち上がる。
伏せていた目を私に向けた翼くんは、怯えた表情を隠そうともしない。すぐにもその細身の身体を抱き締めたい衝動に駆られ、私はゆっくりと彼の傍へ足を進めていく。
「ごめんね。私、こんなに大事なことを忘れてたなんて。私が愛してるのは……翼くんと楓だけよ」
喉を通った声は、思っていたより掠れていた。それでもなんとかそれだけは口に乗せ、座ったままの彼の頭を抱きかかえる。
こういうふうにこの人に触れるのは初めてだった。現に翼くん自身、最初から強張りがちだった身体をますます硬くしている。その事実を受け入れきれず、腕にさらなる力を込めかけた、そのときだった。
強引に腕を振りほどかれ、小さな痛みがそこを走る。驚く間もなく、身体ごと捕らえようと伸びてくる長い両腕が覗き……次の瞬間には、椅子から立ち上がった彼にきつく抱き締められていた。
急な衝撃に足元が崩れ、半ば倒れる形で彼の胸元に飛び込んだ。巻きついてくる両腕は微かに震えている。それが伝染したかのごとく、私の胸もふるりと震えてしまう。
「……一葉さん。俺」
一葉さん。
懐かしい呼称に、場違いにも口元が緩みそうになる。広い背中に回した腕へ、私は思わず力を込めた。
死んだ夫を演じ続けるためだったのだろう。今まで、この人がその呼称で私を呼んだことはなかった。無論、〝翼〟だった頃を除けば。
あるいは、私に余計な記憶が戻らないように――妊娠を知ったときのようなショックを無下に与えてしまわないためにという配慮なのかもしれなかった。どちらにせよ、本当にこの人は、一体どこまで。
顔は見えない。腕に込めた力は、緩むどころか一層強さを増していく。痛むほどの抱擁に、それでも私が感じていたのは、胸を満たしていく幸福感だけだ。
だから私に触れることを避けていたのか。
下手に触れれば、私があのときと同様に取り乱してしまうのでは、と不安に思っていたのかもしれない。そうやって、慈しみに満ちた視線を私と楓に向けながら、この人はただひたすらに死んだ夫を――哲哉を演じ続けてくれていた。
……なんてこと。
私がこの人に課した苦痛は、これほどまでに大きく深い。
私は、あなたの子を妊娠したことが嫌だったのではなかった。
『なるべく早く妊娠させてあげるから』
あの日、あなたはそう言った。だから妊娠したら最後、あなたは二度と私に触れなくなるのだろうと思った。
正常な意識が碌に機能しない中、私はそのことだけを恐れていた。罪深い私のことなど、やはり誰も愛してはくれないのだと、濁った思考はそれしか紡げなくなっていた。
そして、私は都合の悪いことをすべて忘れた。
あなたのことを苦しめてばかりになってしまった。
「怒らないの?」
「……どうして?」
「だって……騙してたことに、変わりない」
「そんなことないよ。騙してたんじゃなくて、私と楓をずっと守ってくれてたんでしょう?」
最後の言葉を口にしたと同時、祈る気持ちで彼の唇に触れる。
人差し指でなぞったそこは冷たく、気づけば背伸びをして自分から口づけていた。私からの唐突な口づけを呆然と受け入れていた彼は、間髪入れずに私から主導権を奪う。
……火傷してしまいそうだ。
ずっとキスしてほしかった。私のなにもかもを奪ってほしくて仕方なかった。やはり、心のどこかでは覚えていたのかもしれない。こんな口づけをくれるのはこの人だけ。こんなにも激しい熱を込めて、私に触れてくれるのは。
堪えきれず、しがみつくように両腕に力を込めた。
スーツを身に着けたままの背中は、三年前――最後にこの人を抱き締めた日よりもずっと逞しく感じられ、口づけられながら私は泣いた。
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