《5》パーフェクト・エスケープ
『俺もあいつと同じやり方で一葉さんを縛ろうとしてる』
どうしてそんなに悲しそうな目をしているの、と疑問に思った瞬間、気づいた。
ああ、そうか。あなたは、こうして孤独を抱えたきり、ずっとひとりぼっちで生きてきたのか。
深く繋がり合いながら交わされる口づけが、悲しいものに感じられてしまう。愛しい人に触れるように頬をなぞる指先も、唇を割って奥へと突き進んでくる熱の塊も、なにもかもが私の知る息子のそれとは噛み合っていない。
いや、違う。私の知る息子――そうではない。そここそが間違っている。単に私に見せてこなかったという、それだけの話だ。
『道具にされる子供のつらさ、俺だってちゃんと知ってるのに』
……なんて悲しい言葉だろう。
夫と結婚して間もない頃、すぐにも非行に走りそうなくらいに荒れていたあなたの素顔を思い出し、胸が軋んだ。同時に、そんなあなたを、まるで厭わしいもののように睨めつけていた夫の視線も思い出す。
本来なら無条件に愛情を注いでくれるはずの親、そんな人たちに大切にされることすら知らず、あなたはここまで成長してしまったのか。
『ご飯、ちゃんと食べてる?』
『学校から連絡があったよ、今日休んだの?』
年頃の子ならうざったさしか感じないだろう私の小言にも、あなたは驚いたように目を見開いて私を見つめ返してくるだけだった。
なかなか帰らないあなたを、夜中遅くにご飯を作って待っていたときだってそうだった。余計なお世話ばかり繰り返す私に、その日も特別文句を言うでもなく、あなたはただ居心地悪そうに箸を動かしていた。
その頃からだ。サボりがちだった学校から、無断欠席しているという連絡が入らなくなった。ピアスまみれだった耳元から、徐々に飾りの数が減っていった。明るい髪色が落ち着いた色に戻ったのもその頃だった。
しばらくすると学校から、今度は逆に、大学への進学や特待生枠に関する話が伝えられる機会が増え始めた。
『すごいね。翼くん、今度の試験、トップだったんだってね!』
そんな私の言葉に、あなたは微かに頬を赤く染め、頷き返してくれた。
このまま、良好な関係と穏やかな日々がずっと続くと思っていたのに。
たとえ夫に浮気されても、必要とされなくても、この子の支えになれるならそれで……そう思えていたのに。
翼くんは、本当は優しい人なんでしょう? ただ傷ついていただけなんでしょう?
痛くて仕方ない傷を誰にも癒してもらえない、それどころか気に懸けてももらえなかった。
だからあなたは、そうやって、今も。
「あ……お願い、待って!」
「ああ、やっと声、出してくれたね。ずっとこうしたかった……もう離さないよ、一葉」
――愛してる。
恍惚と揺れ動くあなたの瞳の奥に、確かな狂気を見出した。
もしかしたら、夫の隣に佇む私を初めて目にしたときから、この子は。そう思ったら恐ろしくて震えが止まらなくなる、それだけのはずだった。
それなのに、今の私が覚えている感情は。
どうして私は、この人にもっと触れてほしいと、そんなことばかり願ってしまうのだろう。
夫を喪った直後だというのに、他ならぬその夫自身の子であるこの人を、ひとりの男性として受け入れたいだなんて。
もっと激しく愛してほしいだなんて、私は一体、どこまで。
*
私が病んだのは、彼に無理やり身体を暴かれたからではありません。
彼の中に、亡くなった夫を見出したから。それだけでは飽き足らず、夫ではなく彼に愛してほしいと願ってしまったからなのです。
だって、私は夫に愛されていなかった。
縋るように私を抱いていた、病気発覚以降のあの人にさえ見出せなかった、瞳の奥に宿る情熱の色。その熱に、瞬く間に囚われてしまったのです。
夫からの愛を知らなかった私は、瞬く間に彼からの愛に溺れた。そんな自分を、自分で許せなかったからなのでしょう。
翼くんは、どうして私を愛してくれるの。いくつも年上で、母親としても中途半端で恋人にもなり得ないこんな女を、どうして選ぼうとするの。
……でも残念、もう手遅れ。
あなたの手を、私は絶対に放さない。
眠っているときは――夢の中では理解できている。あなたが、本当は哲哉さんではなく翼くんだと。哲哉さんはもう死んでしまったのだと。
それなのに、ひとたび目が覚めれば、私の意識は見る間に混濁する。あなたをあなたの父親の名前で呼んでしまうしかできなくなる。
こんなのはおかしいと、どうしても気づけない。哲哉さんは私よりずっと年上で、けれどあなたは違う。私より齢若いあなたが哲哉さんであるわけがない。そんなことにさえ、日中の私は気づけない。
ねえ。これは、あなたにとってとんでもない地獄のはずよ。
なのにどうして笑っていられるの。私を愛しているなんて、どうして言えてしまうの。
あなたを本当の名前で呼びたい。今の私が愛しているのは翼くんだけだと、なりふり構わず叫んでしまいたい。
けれど、それは許されない。
それこそが私に与えられた罰だからだ。あなたの中に哲哉さんを見出してしまった私が負うべき、罰。
それでも私は幸せだ。あなたにあんなにも情熱的に愛されて、来る日も来る日も溺れさせられて、こうして子供まで授かれた。
哲哉さんは子供をほしがらなかった。病気が判明してからは何度も私を抱いて『俺の子供を産んでくれ』と懇願していたけれど、それが本当の意味で子供を望んでいる人の言葉には、私にはどうしても聞こえなかった。
あなたは違う。私を愛してくれた。
この子のことも愛してくれるに違いない、そう確信できる。
利用しているなんて、そんな悲しいこと、言わないで。
愛おしげに私のお腹に手を重ねるあなたが、この子を利用しているだけだなんて……そんなふうに思ってしまわないで。
できることなら、あなたに本当の気持ちを伝えたい。けれど、与えられる罰にすら喜んで溺れるばかりの私には、それはこの先永遠に敵わないことなのかもしれない。
だとしても、私はあなたのことを愛し続ける。たとえ、あなたが私の本当の気持ちを知る日が永遠に来ないのだとしても。
だから今日も私は、夢の中であなたに呼びかける。
すでにこの世にはいない夫によく似た、そして同時にまったく似ていないあなたこそが、私の最愛の人なのだと告げるために。
それが現実のあなたには一切伝わらないだろうと知っていながら、それでも、私は。
――大好きだよ、翼くん。
夢の中、いつだってあなたは私に背を向けている。私がかけた声に振り向こうとして、そこで夢は途絶えてしまう。
今日もいつもと同じところで、夢はふつりと途切れて終わった。私の正常な意識を、また遠くへ連れ去っていってしまった。
私に視線を向けるために振り返ってくれた、あなたごと。
〈パーフェクト・エスケープ/了〉
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます