《4》パーフェクト・クライム

※ 一部差別的な表現あり ※




 一葉はつまらない女だ。

 まぁ前妻よりは遥かにマシかもしれない。少なくとも、わざと妊娠して俺を縛ろうとはしなかった。

 若いからってのと、後は昔から俺を随分と気に入ってたって知ってたから。そのくらい。口説いた理由なんか。


 失敗だった。男慣れしてないし、いつまで経っても恥ずかしがってばっかりだ。自分から奉仕しようってこともないし、頭の中身が飛ぶまで乱れたりなんか絶対しない。

 まぁ身体つきとか顔なんかは上々かな。けど感度も良くないし、ヤっててもつまんない。


 ホンットつまんない女。


 とはいっても、実家の近所の子っていう事情もある。周囲はそれを知ってる人間ばかりだし、そう無下にはできなかった。

 両親は俺に家だけ残して、県外に住む兄夫婦の元にさっさと引っ越した後だ。だから、別に噂なんて言うほど気にする必要もないんだろうけど。


 兄とは大して仲がいいわけじゃない。むしろ兄は、俺の女癖の悪さをだいぶ厭わしく思っているようだ。同じ理由で、兄嫁からも嫌われてるらしかった。

 別に、だからなんだって話でしかない。好かれたいわけでもないし、近くに住んでるわけでもないからさして支障がない。挙句、両親ともに痴呆だかなんだか……そういう厄介な症状が進み始めてるらしく、片方を老人ホームに入れるとかいう連絡を何年か前にもらって以降、兄夫婦とも両親とも一度も顔を合わせちゃいない。


 入籍以降、一葉には仕事をさせていなかった。


 家に閉じ込めておくなんていうつもりはなかったが、外に出て働けばそれなりに誘惑も多いだろう。なにせ、あの整った顔とやわらかそうな身体は、野暮ったい服を着ていても隠しきれないくらいだ。あれじゃあ男のほうが放っておかない。

 ……それは面白くない。他の男が一葉に触れるなんて、想像しただけでも反吐が出る。それに、いくら俺が碌に相手をしないからって、他の男と戯れながら笑う一葉なんざ見たくもなかった。

 お前は俺だけ見ていればいい――それがどれほど理不尽な言い分なのかは分かっていたが、一葉は拒否しなかった。ああ、従順すぎるその反応すらつまらない。自分から吹っかけておいてなんだけど。


 とはいえ、一葉との結婚にはいくつかメリットがあった。

 一番都合が良かったのは、荒れに荒れていた翼が更生したことだ。いつ非行に走るのかとヒヤヒヤしていたが、一葉とはなかなかうまくやっているらしかった。

 なにがそんなに気に入らねえのか……ちゃんと飯食わせて育ててやってんだろ。金だってせびるだけくれてやってるってのに、本気で可愛げのねえガキだ。あの女に――前妻にマジでそっくり。


 金遣いが荒くなさそうだという面も、一葉との結婚に踏みきったポイントだった。

 稼ぎは俺ひとりの分で十分だ。家に戻る時間が碌にないほど忙しく働いている、というのは事実だ。自宅は持ち家だし、暮らしが困窮する要素はない。

 一葉自身、家庭的な雰囲気を持った女だ。料理や掃除なんかの家事に関しては、その仕事ぶりは申し分ないとも思っていた。


 ただ、女としてはやっぱりつまらない奴でしかないんだな。

 だからこそ、美味い飯が待っていようと家の中が綺麗に整頓されていようと、まっすぐ帰宅する気が失せてしまう。

 翼も、一葉には懐いているが、俺に対する態度には一向に変化がない。完全に今まで通りの無関心を貫いている。それがまた癪だった。誰のおかげでデカくなれたと思ってやがるんだ、クソガキが。


 ああ、つまんねえな。このまま俺、つまんねえ女と可愛くもねえ息子と、ずっと一緒に生きてかなきゃなんねえのかな。

 まぁいいか、ストレス発散用の女なんて腐るほどいる。

 一葉って馬鹿なのかな、気づいてないのか、気づいてないふりをしてるだけなのか……そう思っていた矢先のことだった。


 肺に、癌が見つかったのは。


 やってられない。おかしいだろ、なんで俺なんだ。

 早く奥さんと離婚してよと会うたびせがんでいた女も、あなたにしか抱かれたくないのと微笑んでいた女も、どいつもこいつも一瞬で俺の周りから消え去った。


 数年ぶりに兄に連絡を入れたが、特に反応は得られなかった。むしろ、治療費や生活費をせびられるとでも思ったのか……俺の病状を心配するどころか、兄も兄嫁も、それ以降一切俺との連絡を断っている。


『両親には伝えておく。ふたりとも、今の状態でどこまで理解できるかは分からないが』


 淡々とそう告げられ、目の前が真っ暗になった感覚を今もはっきりと覚えている。日常において、自分がどれほど家族というものを軽んじて生きてきたのかを思い知ったのはそのときだった。

 別にそれで構わないと思って生きてきた。だが、いざ自分がこんな目に遭って初めて、両親や兄夫婦が俺に責められる謂れなんかないことに気づかされた。


 俺こそが、家族との関係を軽視してきた。絆を無視して好きなようにやってきた。両親に今の家を残してもらえただけでも、感謝しなければならないくらいなんだろう。

 誰も俺の心配をしないし、逆に金を無心するのではと警戒までされる羽目になっている。思いも寄らなかったしわ寄せに、胸に風穴を空けられた気分だった。


 そして、俺の傍に残ったのは一葉ただひとり。


 俺の病が発覚してからも、一葉は態度を変えなかった。

 離れるでも腫れ物に触るでもなく、これまで通り。おとなしく自宅へ帰る日が続く俺に、夕食を用意し、風呂を用意し、寝床を整える。その態度こそが癪に障って無理やり犯しても、翌日には平然としていやがる。


 ああ、なんなんだよ、これ。

 もしかしてこの女なのか。俺が愛するべきだったのは、自由でもなんでもない、最初からこの女だけだったのかもしれない。


 だとしたら、ひどいことばかり繰り返してしまった。

 一葉は今からでも許してくれるだろうか。


 いつまでもお前だけを愛してたいんだ――そんな薄っぺらい台詞で先延ばしにしてきた、もっとはっきり言うなら拒んできた子作りを、病が発覚して以降、俺は率先して一葉に持ちかけるようになった。

 この世に生きた証がほしかった。翼も確かにそうといえばそうだが……そうじゃなくて、一葉との間にきちんと証がほしい、そう思ったんだ。


 ピルもやめさせた。一葉もそれを受け入れた。

 けれど、一葉は妊娠しなかった。


 女を抱く体力がなくなって、かれこれ数ヶ月が経った。

 そろそろ死期が近いのだと思う。そういうのってなんとなく察せるもんなんだなと、苦笑が零れそうになる。治療も、病源を取り除くよりも痛みを緩和することにばかり注力するようになっている。それも理解できていた。


 疲れ果てた顔をした一葉の隣で、彼女の肩を抱き寄せ支える息子の姿が見える。

 ああ、ちょっとまともに見てなかった間に、こいつ……こんなにも俺と似たツラになってやがったのか。


 痩せ細った腕を一葉へ伸ばしていく。自分の腕も手も、もはや他人のものじみている。それに指を添える一葉が、最高にいい女に見えた。


 なぁ一葉。最期なんだ、ちょっとくらい夢を見させてくれないか。

 掴んだ一葉の腕を必死に引き寄せる。その瞬間、翼が目を瞠った。


 ……なんだよ。お前には関係ねえだろ、一葉は俺の女なんだから。

 最期にキスくらいしたっていいだろうが――心の中でそう悪態をついた、そのときだった。


「触るな」


 確かに聞こえた。

 俺とよく似た声で俺を牽制するその声が耳を刺した途端、残る力を振り絞って一葉に触れていた指が、なぜか一葉から離れてしまう。それきり、俺の腕は力なく布団の上に落ちた。

 一葉には聞こえていないらしい。なんでだ。泣き崩れる一葉のすぐ後ろ、醜く口元を歪めて嗤う男の顔が見える。


 あれは、俺?

 違う、あれは、俺じゃなくて……俺の。


 お前は一体、なにを考えて、一葉の隣に。


「……ぅ……あ、」


 声にならない声が、勝手に喉を滑り落ちる。

 まずい。時間がない。俺には、残されている時間も猶予も、これっぽっちもありはしない。


 駄目だ、一葉。

 そいつはお前の息子だ。分かるだろ、お前は俺の妻なんだ。

 そいつに全幅の信頼を寄せながら隣に立つなんて、そんなのは駄目に決まってる。


 待ってくれ。まだ終われない。

 なにかできることはないか。この男に、息子に、永遠に一葉を手に入れさせないためにできることは。


 ああ、……そうだ。


「……愛してるよ、一葉」


 ふたりまとめて、言葉で縛りつけちまえばいいだけの話じゃねえか。


 その言葉が正しい音として発されていたかどうか、俺にはもう分からなかったが、明らかに翼が目を瞠った。

 ゆっくりと、しかし確実に怒りの色に表情を染めていくさまを、霞んだ視界がそれでもはっきりと捉えた。俺のベッドに伏せて泣く一葉には、当然、そんなあいつの顔など見えてはいないんだろう。


 ああ、これが本当に最後なのか。

 こんなふうに薄っぺらい言葉を繋いで、本当には誰をも愛することができないまま、俺は死んでいくのか。


 最後の最後に放った毒は、どのくらいの間、翼を縛り続けられるだろう。

 牽制の意味しか持たない偽りの愛の言葉は、どのくらいの間、一葉の中に留まり続けてくれるだろう。

 俺にそれを見届けることはできない。この瞼を閉じるという選択肢しか、俺にはもう残されていないのだから。


 命が潰える寸前に思いついた、苦肉の策に近い完全犯罪。

 それすら、妻と息子……本来なら愛するべき人間たちを縛り、その不幸を願った結果のものだったなど。


 ――つくづく、俺の人生はつまらないもの、だったみたいだ。

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