《3》逃亡劇の顛末

 五年。

 それだけの間、よく耐え続けてきたなと思う。彼女も、俺も。


『小さい頃から憧れてた人だったの』


 自分の夫について、彼女はそう口にした。

 いつのことだったか……普段通り、一緒に夕飯を取っていたときだったと思う。


 食後のなにげないひととき、なんてことのない会話。さして長くもないそんな時間さえ、彼女にとっては嬉しいことみたいだった。

 この広い家でひとりぼっちで過ごすのは、苦痛以外の何物でもなかっただろう。だから、受験勉強よりも彼女と一緒に過ごす時間を優先した。無論、不自然に思われない程度にではあったが。

 せめて俺が家にいるときくらい、ひとりにしたくなかった。


 ……憧れの人、か。

 参ってしまう。そんなふうに言われたら、もうなにも言い返せない。


 どうせあいつは今も他の女とベッドで好き勝手やってるんだぞ、一葉さんだって分かってるんだろ――なりふり構わずそう叫びたくなる。あいつの醜さをこの人の目の前で暴いてやりたくなって、気が気ではなくなる。

 だが、そう告げることでこの人がどれほど傷つくのか考えたら、そんな暴言を口に乗せるわけにはいかなかった。絶対に。


 大嫌いだった。まるであいつに対抗するかのように、あいつの気を惹きたいがために浮気を繰り返していた母親も、完全にあいつと同類だ。

 自分の実家に俺を預けきりだった母親は、母方の祖母が病気で倒れて以降、苦渋を滲ませて俺を自宅へ連れ帰った。当時すでにほとんど家に戻らない生活を続けていたあの男と顔を合わせたのは、自宅で暮らすようになって一、二ヶ月が過ぎた頃だったと思う。


 家庭内に、モラルは一切なかった。帰宅したときに誰もいないなんてザラ、下手をすると母親が男を連れ込んでいることすらあった。

 飯だって、用意されていたためしはまずない。戸棚を漁っては、ただ空腹を満たすためにカップラーメンばかり食べていた。自分であれこれ作るのは当時の俺には難しかったし、そもそもなにを食べても味気ない。どれもこれも、食えるなら一緒だとしか思えなかった。


 つまらない意地を張っていた母親は、あるときとうとう耐えきれなくなったらしく、あいつに離婚話を切り出した。

 最後の最後に気を惹けると思っていたようだが、あっさり了承され、それはもう苦々しい顔をしていた。


『アンタの子供なんか要らないのよ!!』


 ヒステリックに叫び散らす――俺には一切視線を向けず放たれた母親のその言葉が、無駄に鮮明に記憶に残ってしまっている。


 結局、親権は父親に渡った。母親が完全に放棄したからだ。

 それだって、父親からは渋々といった態度が見え見えだった。ガキは邪魔者、そう言いたげにふたり揃って似たようなツラを晒している。それを見て、ふたりともさっさと死なねえかな、と本気で思っていた。


 浮気ばかり繰り返す。無駄に口がうまいから、女は簡単に引っかかる。

 後腐れのない女を探すならそれで構わない。けれど、だからといって自分の妻を傷つけて良いわけでは当然ない。

 一葉さんは、そういうことをされたら傷つく人だ。そんなことも分からないのか。俺にだって分かることが、夫のあんたに分からないはずはないだろうに。


 だいたい、それならどうして再婚なんかしたんだ。この人をこんなふうに家に縛りつける必要が、一体どこにあった。

 せめて仕事くらい、好きにさせてあげればいいじゃないか。それを反対してこの人を閉じ込めて、なにもかもを奪って……あんたはなにがしたいんだ。


 挙句、彼女の実母の葬儀にすら顔を出さなかった。

 縛るだけ縛っておいて、彼女が弱っているときに助けになろうともせず、やれ仕事だ女遊びだと飛び回る。


 ――死ねばいい。あんたこそが、この世から消えてしまえばいいんだ。


 一葉さん。あなたの淡い初恋なんて、いっそ実らないほうが良かったんだ。

 そうしたら今頃、一葉さんはこんなふうに苦しまずに済んだ。確かに、それでは一葉さんと俺は顔を合わせることさえなかった。でもそのほうが、一葉さんにとってはずっと良かったに決まっている。


 例えば、もし俺があなたを抱き締めてキスしたら、どうする?

 そのまま寝室に連れ込んで、あいつと抱き合っていたベッドで俺に抱かれたら、あなたはどんな顔をするだろう。

 結果を確かめたい衝動に駆られたのは、あの日で何度目だったか。その癖、頭の中が全部あなたで埋め尽くされているときに限って、身体は少しも動かせなくなる。


 ふたりが結婚して間もない頃、きちんと食事を取っているのかと心配されたことがあった。そういう心配をされるのは何年ぶりだろうと思ったことを、はっきりと覚えている。

 なにを食おうと一緒だとカップラーメンばかり啜っていた俺は、今ではもう、そんなものなんか見たいとも思えなくなった。一葉さんが作ってくれるご飯は――一葉さんと一緒に食べるご飯は、いつだってめちゃくちゃ美味しかったから。


 サボりがちだった学校も、あなたが心配するから、またきちんと通うようになった。

 成績だって一年の頃に比べたら相当上がっていた。それも、全部全部、あなたが喜んでくれるから頑張ったんだ。


 おかしいだろ。

 どうして一葉さんは、俺なんかに優しくできるんだ。

 自分の好きな男が他の女との間に作った子供相手に……どうして。



     *



 さんざん放置してきた妻に縋らざるを得ない心境とは、一体どんなものなのか。

 癌が見つかり、それまで途絶えることなく続いていたあいつの女遊びは、そのすべての相手に裏切られる形で終わりを告げたらしかった。


 病が判明して余命わずかだと知ると、狂ったみたいに一葉さんに縋りついて、ほとんど毎日抱きまくっていた。

 一葉さんが心配で、アパートから家に戻ってきていた日もそうだった。わざと俺に聞こえるようにしているのではと邪推したくなるほど、あからさまに一葉さんを責め立てていた。


 どれだけきつく塞いでも耳の奥に入り込んでくる、悲鳴じみた喘ぎ声。優しい一葉さんのことだから、別室にいる俺に聞こえないよう必死に堪えていたのだと思う。それでも、ときおり堪えきれず零れてしまうらしかった。

 愛しい人が他人に陵辱されて零している、艶めかしい声。脳裏にこびりついて残るそれのせいで、気が狂うかと思った。


 触るな――すぐにもそう叫びながら寝室の扉を蹴破り、あいつから一葉さんを奪い取りたくなる。だが、一葉さん自身がそれを望んでいない。彼女はあいつを愛している。

 浮気されても放置されても、一葉さんは絶対に離婚しようとしなかった。それがすべてだ。ふたりの間に俺が入り込む余地はない。


 息を引き取る間際には、なにもかもを美化して、一葉さんに『愛してる』と囁いた。


 満足そうな顔をして息を引き取った父親を相手に、あのときにこそ、俺は底の知れない憎悪を植えつけられてしまった。

 妊娠させて子供を作って、そうやって縛ろうとした。だが、それは実現しなかった。だから最期の最期に言葉で縛ろうとした……そういうことなんだろう。


 勝手に死なれたから、俺の手で殺してやることすら叶わなくなった。

 眩暈がする。生きている限り、俺はきっと、あいつのなにもかもを許せないまま。


 この世に存在しなくなったあいつに、俺は、彼女よりもぎちぎちに縛られてしまっている。



     *



「ただいま、一葉」

「あ、おかえりなさい、てつさん。ねぇ聞いて、さっきね、初めて赤ちゃんが動いたの! ほら、哲哉さんも触ってみて?」


 ソファにゆったりと身を沈めていた一葉は、帰宅した俺の姿を見るなり顔を綻ばせた。

 そろそろ胎動があるかもしれない……前回の健診で産科の医師からそう伝えられたらしく、彼女はここ数日、その予兆を心待ちにしていた。


 ――今の一葉は、俺をあいつだと思い込んでいる。


 妊娠が判明して以降、彼女は一度ひどく取り乱し、そして心を病んでしまった。

 俺を見つめる彼女の瞳は穏やかだ。おそらくは、俺というフィルターを通し、彼女が本当に愛しているあの男を見ているからなのだろう。


 結局、留学は取りやめた。一葉も一緒に連れていくつもりだったが、他ならぬ俺の言動こそが一葉の精神を傷つけてしまった。

 その治療、というより経過観察と言ったほうが近いだろうか。加えて、腹の子のことも考えなければならない。さまざまな事情が折り重なった結果、今海外に向かうのは得策ではないと判断した。


 あれから、およそ半年。

 進学を機に家を出てひとり暮らしをしていた俺は、夏休みのうちにアパートを解約した。今は一葉とふたり、自宅で暮らしている。通学は、確かに前より大変だ。だが、電車やバスを使えば不可能というほどではなかった。

 葬儀の後、一葉の視界に入らないよう、遺影は早々に処分した。遺骨も位牌も、急ぎに急いで近所の寺の永代供養墓に納めた。あいつが死んだという事実を、その証拠を、徹底して一葉の周囲から取り除こうと躍起になって手を回した。


 あいつの親や兄弟についてはほとんど知らない。顔を合わせたこともなかった。いることくらいは把握していたが、どこに住んでいるのかも知らなければ連絡先も分からない。あいつが危篤状態に陥ってからも、死んだ後も、知らせようがなかった。

 あいつの生前、一葉もそういう確認を本人に入れていたらしいが、あいつは最期まで口を割らなかったという。その辺の細かい事情は、通夜の日に直接一葉から聞き、俺も知っていた。

 自分の家族とは碌な付き合いをしてこなかったらしい。訃報を聞いて駆けつけた親族は、ひとりとしていなかった。それどころか訃報を伝える手段さえなかった。一葉の両親も他界しているから、葬儀に出席した親族は、それこそ俺と一葉のふたりだけ。


「……哲哉さん?」


 訝しげな声が耳を掠め、俺は眼下の一葉にゆっくりと焦点を定める。

 どうしてか、一葉は俺が大学に通うことを疑問に思っていない。彼女の夫が、彼女自身より遥かに年上だった事実も、記憶からすっぽりと抜け落ちている。


 それでも、彼女の記憶の中にすでに〝翼〟はいない。

 俺こそが、彼女の夫の〝哲哉〟だと認識されている。


 あいつが入院していた病院からの連絡も、葬儀社からの連絡も、一葉にではなく俺に入るようにした。郵便物の類も、下手に宛名などを見られてはまずいと考え、すべて俺が確認するから気にしなくていいと告げて一葉の目には触れさせていない。


 そうやって、俺は、一葉にとって最愛の夫であるあの男になりすますことに成功した。


 留学は諦めたが、できれば就職は県外でと考えていた。一葉と俺、それから死んだ父親のことを知る人間ばかりが暮らすこの町から離れるためだ。

 本当は今すぐにでも引っ越してしまいたかった。だが、まだ学生という身分である以上、今の俺にそれは叶えられない。

 あいつが遺した死亡保険は大した額ではない。あと二、三年もすれば底をつく。それなら、きちんと大学を卒業してから就職すべきだと考えた。子供を育てていくためにも、一葉を守るためにも、金は絶対に必要になる。


 ……この程度の隠蔽と計画では、いつか必ず限界がくるだろう。

 そうと分かっていても、日が経つにつれ、打ち明けたいという気持ちはどんどん薄らいでいく。話を聞いた一葉がもしあの日のように取り乱してしまったら、腹の子に悪影響を及ぼしかねない。そうなっては取り返しがつかない。


 近所の人たちは皆、一葉の腹の子をあいつの忘れ形見だと思っているらしかった。そして、夫を亡くしたショックで、夫によく似た連れ子の俺を夫だと思い込んでいるのだと。だから俺をあいつの名前で呼んでいるのだと。

 その噂に合わせてしまうことにした。結果的に、誰もがあっさり納得し、同情してくれた。遠慮して線香を上げにくることすらしなくなった周囲の人々に、感謝を通り越して感動を覚えたくらいだ。


 なんてことはない。一葉を守るためなら、この程度の嘘など嘘のうちに入らない。

 むしろちょうどいい。子供がどれだけ俺に似て産まれてきたとしても、それはそのまま、あいつにもそっくりだということになる。


 ……周囲にはどう見えているだろう、今の俺たちは。

 悲劇に見舞われた未亡人と、献身的な義理の息子? どこまで単純で、他愛ない。


 人は、こんなにも簡単に美談を信じ、愛してしまうのか。


 これが代償だ。この人を壊してでも手に入れようとした俺が、一生背負い続けていかなければならないもの。

 それでも、今の自分を幸せだと思う。

 あなたの隣で、あなたと俺の間に生まれた子供を育てながら生きていける。俺にも生まれてきた意味があると、心の底から思える気がする――だから。


「うん。……愛してるよ、一葉」


 彼女の傍に、ゆっくりと歩み寄る。

 大きく膨らみ始めてきた腹部に添えられた小さな手に、自分の手のひらを重ねた。俺を見上げた一葉は、この上なく幸せそうな微笑みを浮かべている。


 最後に一葉が俺の名を呼んだ、あの日のことを思い出す。

 父親の葬儀の日、糸が切れたように泣き崩れたこの人の弱みにつけ込み、その心を引き裂いたあの日のことを。好き勝手に暴いて犯して、早く孕めばいいなんていう歪んだ願いを思い描いていた俺の頬に、そっと伸びてきた細い指を。


『翼くん……私、大丈夫だから。もう泣かないで』


 ――自分のこと、それ以上、責めないであげて。


 もう二度と、あなたはあんなふうに、俺を本当の名前で呼んではくれないのだろうか。

 知らないうちに零れ落ちていた涙を拭ってくれることも、今なおじくじくと痛みを生み続ける傷口に触れてくれることも、この先永遠にないのだろうか。


 ああ、でも、だからなに?


 俺を道具としてしか捉えず、不要になったら切り捨てようとした親たち。

 そんな奴らにつけられた名前よりも遥かに大事なものがある。だから、別に構いやしない。


「うん、私も。ふふ、どうしたの急に?」

「ううん、言いたくなっただけ。……あ、本当だ、動いた」

「あ、分かった? さっきよりもいっぱい動いてるみたい。さっきはね、もっとこう……」


 嬉しそうにお腹の子の様子を話し続けるあなたは、今、誰を見ているのか。

 俺ではないだろうが、あいつであってほしくもない。だが、あいつだと分かっているからこそ、俺は今こうやって笑い続けていられるのかもしれない。


 なにかが根本的に間違っている。

 でも、俺にとってそれは間違いじゃない。


 ――間違いなんかじゃ、ないんです。


 あなたが愛した男は、生涯あなたを愛することはなかった。

 けれど俺は違う。俺は、あなただけを、いつまでだって愛し続ける。


 たとえ、あなたがこの先、俺を俺だと思ってくれることがなくても。

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