《2》逃げる男

 きつく噛み締められた唇は蒼白だ。

 血が滲んでしまうのではと心配になって指で撫でると、一葉さんは拒絶するように首を横へ動かした。


 この程度の拒絶は予想していたが、いざ目の当たりにすると胸が苦しい。もちろん、自業自得でしかないけれど。

 よりによって夫の葬儀が終わった日に、連れ子からこんな目に遭わされるなんて、一体この人はどこまで薄幸なのか。横に向いた顔に手のひらを当て、無理やり正面を向き直らせ、そのまま唇を奪った。


 先刻から、一葉さんは一度も声をあげていない。

 抱え上げて寝室に連れていっても、中途半端にはだけていた喪服をすべて剥ぎ取っても、露わになった白い肌に直に触れてみても、ひと言も。


『俺に抱かれながら、あいつに抱かれてるって思えばいいよ』


 我ながら、残酷な言葉を吐いたものだと思う。

 それを告げたときのこの人の顔を、俺は生涯忘れられないだろう。傷つけたなどという次元の話ではない。あのときの一葉さんは、地獄の淵でも見ているような、絶望に染まりきった顔をしていた。


 一葉さんの身体はやわらかい。耳に唇を寄せただけで身をよじって避けたがる、その仕種にますます煽られる。この人のすべてを自分のものにしてしまいたい衝動に駆られ、息が苦しくなるほどだ。

 それでも、一葉さんは一向に口を割らない。

 俺をまるごと拒絶したがっているような態度だ。ひどいことをしているのは自分だと分かっているのに、傷つけられた気分になる。


「あいつのほうがうまかった? ごめんね、ヘタクソで。俺まだガキだし、あいつみたいに女慣れしてないから……どう頑張ってもこんなふうにしかできないや」


 わざと挑発めいた言い方を選ぶと、一葉さんは目を見開いた。

 だが、まだ口を開かない。ガクガクと震える身体を強く押さえつけ、毒に似た言葉を畳みかけていく。


「ねえ、一葉さんはあいつのどこが好きだった? あんなのに自分から縛られて、それじゃ少しも幸せになんてなれないって……そういうふうには思わなかった?」

「……っ」

「俺じゃ駄目? 一葉さんのこと、俺、ずっと見てたよ。母親だって思ったことなんか一度もない」


 告げるや否や、一葉さんは首を激しく振りたくった。もうなにも聞きたくないとでも言いたげだった。

 ……それならそうと言えばいいのに。それすら嫌なほど、もう少しも口を利きたくないのだろうか。俺なんかとは。


 数年前まで、ほとんど毎日この人の笑顔を眺めていた。

 もう二度とあの笑みが俺に向けられることはないと思うと、胸が引き裂かれそうになる。そういう行動を取っているのは、それをこの人に強いているのは、他ならぬ俺自身なのに。

 この上ない拒絶の反応を目の当たりにして、それまでなんとか保っていた最後の一線が、音もなく崩れ落ちていく。


「へぇ、嫌なんだ。……じゃあ絶対に俺から逃げられないようにしちゃおうか」


 耳元で告げた俺の掠れ声に、一葉さんが覗かせたのは怯えきった顔だけだ。

 あまりに悲痛なその表情を一秒たりとも見ていたくなくなり、きつく抱き寄せた。


 ついさっき、リビングで泣いていたこの人を抱き締めたときのことを思い出す。

 涙を止めてあげたいと思った。それだけだった。それなのに、同じように抱き締めても、この人はもう俺に露ほども信頼も寄せていないと分かってしまう。


 この人が抱く俺への感情は、その表情が示している通り、今となっては怯えしかない。

 そうしたのは俺だ。俺が、すべてをぶち壊しにした。


 以前、一葉さんはピルを飲んでいた。万が一にも妊娠しないように。

 あいつがそうしろって言ったからでしょう? 妊娠したらしばらくセックスできなくなる、だが避妊はしたくない、ガキを作るのは面倒……そういう話なのかもしれない。鬼畜以外の何物でもないな、と呆れてしまう。


 家に帰ってくることさえ碌になく、さんざんこの人を放ったらかしにしておいて、そうまでして妊娠されたくなかったのか。

 その癖、自分の病気が悪化してからは飲ませていなかった。自分がもうすぐ死ぬと分かって以降、今度は手のひらを返したかのごとく、執拗に一葉さんを孕ませたがった。


 子供を使って縛りつける、だなんて……あんたは一体どこまで醜悪なんだ。

 道具のように子供を利用する、そういうところはあんたも俺の母親も、両方とも最低だった。だいたい、俺だって同じだ。あんたを縛る道具にするために、母親が躍起になって作っただけの子供なんだから。


 知ってるよ。

 知らないのは、知らないだろうと高を括っていたのは、あんたたちだけ。


 ねぇ一葉さん。どうしてあいつの戯言、受け入れたの?

 ひとりで育てる気だったの? あんなつまらない男の子供を? そうやって、自分からあいつに、死ぬまで縛られてやるつもりだったのか。


 あの男にとっては不運だっただろうが、結局一葉さんは妊娠しなかった。

 最後の数ヶ月は身体が弱ってセックスできる状態にはなかったようだから、今、一葉さんはまず確実に妊娠していない。ピルも、必要がなくなって以降は飲んでいないはずだ。


「一葉さん。前の生理が終わったのって、いつ?」

「……っ」

「ああ、そんな顔しないで。できれば教えてほしいんだ、なるべく早く妊娠させてあげるから」


 俺がこのまま抱き続ければ、一葉さんは妊娠する。

 今が夏休み開始直後だなんて、僥倖にもほどがある。二ヶ月あれば十分だ。こうやって、毎日汚し続ければ。


 俺の質問に、一葉さんは露骨に顔を強張らせた。

 俺がなにをしようとしているのか察したからだろう。態度とは裏腹に淡く染まっていた頬が、次第に青褪めていくさまを見て、ああ、かわいそうだな、と思う。


「ごめんね、一葉さん。残念だけど、教えてもらえなくても、一葉さんが妊娠するまでこの家からは出してあげられない」

「……っ、……」

「やっと分かったんだ、あいつの気持ち。子供を利用してまで一葉さんを縛りたかったんだろうけど……はは、俺も同類だ。そうやって道具にされる子供のつらさ、俺だってちゃんと知ってるのに、俺もあいつと同じやり方で一葉さんを縛ろうとしてる」


 きつく噛み締められていた一葉さんの唇が、不意に緩んだ。

 泣きそうな顔をした一葉さんと目が合う。前にも同じ表情を見たことがある気がした。


 俺の話を聞きながら、どうしてこの人が今にも涙を零しそうな顔をするんだろう。

 同情、だろうか。別にそれで構わなかった。他の人間からの同情なんて願い下げだが、一葉さんからのそれなら悪くない。


 それでこの人の心を揺さぶることができるなら、なおさら。


「あ……お願い、待って!」

「ああ、やっと声、出してくれたね。ずっとこうしたかった……もう離さないよ、一葉」


 ――愛してる。


 顔を見られたくなかったから、わざと耳元で囁いた。

 こんなにも醜悪な求愛の言葉など、きっとこの世に他には存在しない。


 言葉で縛るよりも遥かに狂っている。今の俺がしていることは、両親が俺を傷つけたそれと同じ行為だ。愛する人との間に宿るだろう命を、自分の心に空いた穴を埋めるために利用しようとしている。

 生まれる前から、悲しいだけの存在にしてしまっている。俺があいつらにそうされたように。


 笑う気にもなれない。それなのに、どうしてあなたは最後の最後、俺の首筋に腕を巻きつけたんだ。

 あいつと重なった? あいつに愛されてるみたいだって錯覚した?

 そうだよな、それでいいよって――抱かれながらあいつの名前を呼んでいいよって、俺、言ったもんな。


 それならどうしてあなたは、意識を失う直前に、俺の名前を呼んでしまったの。


 こうやって器だけ俺のものにして、妊娠させて……それで?

 置き去りにされた一葉さんの心はどうなるんだろう。死んでしまうのかな、あいつみたいに。それこそが一番ほしかったもののはずなのに、おかしい。

 俺はどこで間違ったんだろう。こんな愛し方しかできないなんて、もしかしてあいつより遥かにひどいのでは。


 それでも、俺にはもう、この人を手放すことなんてできない。


 ねぇ一葉さん。子供を授かったら、俺と一緒に逃げよう?

 留学の話が来てるんだ。海外なら、誰も俺たちのことを知らない。誰も俺たちを白い目でなんて見ないよ、だから。


 ……ああ、違う。

 笑ってしまう。俺は、最初からずっと、逃げ続けているだけだ。


 だって結局勝てなかった。その上、この先絶対に勝てないことが決定してしまった。

 死んだ人間には絶対に敵いやしない。俺はもう、一葉さんを連れて逃げるしかない。逃げて逃げて逃げ続けた先、たとえ一葉さんに手を振り払われようと、俺にはそうする以外の道がない。


 あいつが死ななかったら、ここまでひどいことをする気にはならなかったかもしれない。

 泣きながら俺に縋りつく一葉さんの姿を目の当たりにするまで、こんなことは思いつきもしていなかったのだから。


 でも、もう遅い。


 あなたのすべては俺のものだ、一葉さん。

 どこにも、誰にもやらない。身体も心も、俺に断りなく勝手に息絶えることは、絶対に許さない。

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