パーフェクト・エスケープ
夏越リイユ|鞠坂小鞠
パーフェクト・エスケープ
《1》捕まる女
夫が亡くなった。
肺に癌が見つかり、およそ一年。当初は余命半年と言われていたけれど、かれこれ一年と少しが経過し、先日、ついに。
最期の頃には、痛みを緩和するための治療ばかり繰り返されていた。
投与される薬が徐々に強いものへ移り変わっていくたび、胸が引き裂かれる思いだった。痩せ細っていく顔も、腕も、まるで別人。夫が知らない人になってしまったかのようだった。
見ていられない。それでも、目を背けるわけにはいかない。
そうやって過ごし続けてきた苦痛と孤独に満ちた日々が、ようやく終わりを告げた。
*
夫は、実家の近所に住む〝憧れのお兄ちゃん〟だった。
幼稚園児だった私には、高校の制服に身を包んで颯爽と歩く彼が、この上なく格好良く見えたものだ。
公園で遊んだ帰りにたまたまその姿を見かけて、目が合うとにっこりと笑い返してくれた。その笑顔があまりにも印象的で、同じ園に通う男の子たちなんて、それこそ幼稚な子供にしか見えていなかった……微笑ましい初恋の記憶が蘇る。
そんな彼もやがて大学に進学し、しばらく顔を見ない日が続いた。次に顔を合わせたときには、彼はある女性と結婚した後だった。
ショックではなかったと言ったら嘘になる。けれど、大きなお腹を抱えたその女性はとても綺麗で、彼に寄り添って歩く姿は誰がどう見てもお似合いだった。
失恋というほど大袈裟なものでは、多分なかった。
その後も何度か顔を合わせる機会はあったものの、彼の奥さんに対して不穏な感情を抱いたわけでもなんでもない。ほのかに抱いていた憧れの気持ちに、ほんの少しの苦さが混ざり込んで……それだけだ。
月日は流れ、やがて私は高校を卒業し、県外の会社に就職した。
実家を離れてひとり暮らしをしていた私は、ある年、盆休みに帰省したときに偶然彼と再会した。
『離婚したんだ』
苦笑気味に呟いた彼の言葉に、精神的にまだまだ子供だった私は簡単に囚われ、溺れた。
逢瀬を繰り返し、告げられたプロポーズ。舞い上がっていた私は、それを運命と思い込み、迷わず彼と結婚する道を選んだ。
翌月には退職し、地元に戻ってきて入籍手続きを済ませた。新しい仕事には就かなくていいと言われ、それも承諾した。訝しくさえ思わなかった。『家で自分の帰りを待っていてほしいから』と告げられ、浮かれきっていたからだ。
彼には連れ子がいた。ああ、あのとき奥さんのお腹にいた……そう理解するまで少し時間がかかった。
高校に入学したばかりだという彼の息子、
当初、翼くんは私と口を利こうとしなかった。
学校の規則で明らかに許されていなそうな、金に近い明るい色の髪。ジャラジャラと耳を覆う派手なピアス。それまでの私は、その手の容姿をしている人と接点を持ったことがほとんどなかった。最初の頃はどうしても近寄りがたく、話をするにも毎回緊張していた。
加えて、翼くんは元から寡黙なタイプだ。会話はほとんど成立しなかった。
それが崩れたのは、翼くんに対する夫の視線の冷たさに気づいたときだ。
厭わしげに息子を眺める夫と、それに対して反応を見せず無関心を貫く翼くん。不仲というよりは、互いに相手への関心がほとんどない――そんな感じだった。
そのことが寂しく感じられ、以降、私は翼くんへ積極的に話しかけるようになった。
きっと、私も寂しかったのだと思う。結婚から幾月も経たないうち、夫がほとんど家に戻らなくなっていたからだ。
仕事が忙しいことは結婚前から知っていたけれど、二日に一度、三日に一度、一週間に一度と、夫が家へ帰宅する回数は次第に減っていった。
怖くて訊けなかった。なにをしているのか、どこで寝泊まりしているのか……それを尋ねたら怒らせてしまうのではないか。この女とはやっていけないと思わせてしまうのではないか。そう悩んでは、不穏な考えを振り払うように首を横に振るしかできなかった。
数日ぶりに帰宅したときに、スーツのジャケットから香った女物の香水の匂いにも、気づかないふりを貫いた。
翼くんは、外見や寡黙な態度から想像するよりもずっと素直な子だった。
帰りの遅くなる日が多く、それが心配で、煩わしく思われやしないかとヒヤヒヤしつつ小言じみた言葉をかけたことも一度や二度ではない。しかしそのたび、翼くんは驚いたように私を見返してくるばかりだった。
ある時期を境に、翼くんの髪が落ち着いた色に戻った。耳を覆っていたピアスもすべて外れ、学校からたびたび入っていた無断欠席の連絡もほとんどなくなった。
成績も、私が思っていたより遥かに優秀だったようだ。大学の特待生枠を目指してはどうか、などと学校側から連絡が入ることもあった。
口数は相変わらず少なかったものの、一時期に比べ、帰宅の時間も早くなった。一緒に夕飯を食べて、その後少しお喋りして、それぞれの部屋に戻る――そんな日々が続いた。
……大丈夫。全部、いい方向に向かってる。
そう思うことで、私は、心の底で燻り続ける夫への疑念をごまかし続けていた。
ちょうどその頃、実母が急逝した。
父はすでに他界していたから、母の死によって、実家がらみの親戚関係はそれを機にほとんど途絶えてしまった。
結婚から二年。その葬儀の席にも、夫は喪主を務めるどころか顔を出してすらくれなかった。
確かに遠方へ出張中ではあった。だとしても、こんなときさえ仕事が優先されてしまうのかと、やりきれない思いでいっぱいだった。
慣れない葬儀の準備や手配、不意に襲いかかってくる言いようのない喪失感。そういうものにすぐにも呑み込まれそうなほど不安定に陥っていた、そんな私の傍についていてくれたのは、夫ではなく翼くんだ。
翼くんと夫の不仲の理由を明確に理解したのは、そのときだった。
夫にとって、仕事は家族よりも優先されるべきことなのだろう。翼くんも、私と同じ思いを何度も経験してきたのかもしれない。
それでも私は、夫との結婚が間違いだったなんて、どうしても思いたくなかった。
『葬儀は大丈夫だったか』
『傍にいてやれなくてごめんな』
出張から戻った夫が口にしたその言葉と、どこか私の様子を窺うような視線には、明るく振る舞いつつ笑顔を返した。あれこれ責めるのもなにかが違う気がして、その後もそれまで通りに過ごした。
女性の影がちらついて仕方なかった。それも、ひとりではなく複数の。
出張と言いながら、もしかして今回も――そんな疑惑が、いつまで経っても脳裏にのさばってばかり。けれど気にしたところで仕方がない。元々、夫は女性に注目を浴びやすい人だから。
やがて翼くんは大学に進学し、家を出た。
その頃には随分気さくに話してくれるようになっていた。寂しかったらうちに遊びに来てもいいよ、なんていう冗談を、笑いながら口にしてくる程度には。
この子も知っている。
私の夫が、この子の父親が、家に帰らずなにをしているのか。
『本当に遊びに行っちゃうかもね』
笑ってそう口にした私を、あの日、翼くんは微かに顔を歪めて見つめていた。
月日は流れていく。私ひとりを置き去りにしていくかのようだ。
ひとりきりで過ごす自宅は、あまりに広すぎた。翼くんは頻繁には帰ってこない。毎日ふたりで一緒に夕飯を食べていたことを思い出し、ふっと寂しくなる。そのまま、気が抜けたような笑いを零してしまう。
結婚当初からずっと反対されているけれど、外に出てパートの仕事でも探そうか……そんなことをぼんやりと考えていた矢先だった。
夫の肺に、癌が見つかったという報せを受けたのは。
*
葬儀が終わり、やっと気が抜けた。涙を流す暇もなかった。
夫の葬儀には多くの参列者が訪れた。仕事を辞めて半年以上の月日が経過していたけれど、同僚など、親しくしていたという人たちは弔問に来てくれた。気丈に振る舞わなければと、波打つ心情も叫び出したい衝動も、すべて心から切り離した。
すべてが滞りなく終了し、先刻、自宅へと戻った。家には私と翼くん、私の傍らには夫の位牌と遺骨……それから遺影がある。
早く安置しなければ。葬儀社のスタッフが持ってきてくれた簡易祭壇に視線を向けるものの、身体が動かない。金縛りに遭ってしまったかのように、指先ひとつ動かすことができなかった。
「……
背後から声をかけられ、肩が震える。
気遣わしげに私を呼んだ声の主は、翼くんだった。
大学に進学して以降も、彼は私を気遣い、たびたびこの家に帰ってきてくれていた。ここ一年は、夫の手術や看病、見舞いと、否応なく襲いかかってくる現実に疲弊する私を、心身ともに何度も支えてくれていた。
礼服姿のまま黒いネクタイだけを外した翼くんは、以前より大人っぽく見える。不意に置いてきぼりにされてしまったような感覚に襲われ、息が震えた。
翼くんだって疲れているに違いなかった。成人して間もない上、この子はまだ学生だ。親子仲が良好でなかったとはいえ、実の父親を亡くしたショックは大きいだろう。
通夜や葬儀の席では、相当に私のフォローをしてくれていた。気を張っていたとはいっても、ともすればすぐに放心状態に陥りやすかったここ数日間、むしろ気苦労は私よりもこの子のほうが多かったかもしれない。
思えば、実母の葬儀のときも、私はこの子に頼りきりだった。当時、翼くんはまだ高校生だったのに。
思慮深く私を見つめる義理の息子と目が合った。
夫と私より、私とこの子のほうが、齢は遥かに近い。そして、この家で一緒に過ごした時間も、夫とよりこの子とのほうが長いに違いなかった。ひとりでこの家にいることの多かった私にとって、この子の存在は支え以外の何物でもない。
だから今も、この子の顔を見ただけで。
「翼くん。……ごめんね、私、ちょっと」
――疲れちゃったみたい。
笑ったつもりだった。でも、笑えてはいなかったらしい。
零れた涙が床へ落ちるよりも前、力強い腕が、私の震える肩を抱き寄せた。
*
ただ泣き続けていた。
声を荒らげるでもなく、ひたすら涙を零し続ける私に、翼くんは一度たりとも腕に込めた力を緩めようとしなかった。
悲しかったから泣く、というものとは少し違う気がした。
これで終わってしまった――そんな喪失感が、胸を黒く覆い尽くしていくばかり。
夫に愛されていると実感することは、結婚からの五年間で数えるほどしかなかった。それでも、最後の最後には、あの人が縋りたいと思えるだけの相手にはなれていたかな……そう思うと嗚咽はますます止まらなくなる。
愛されないなりに、支えにはなれただろうか。それとも、私は最後まで都合の良い女でしかなかったのだろうか。夫が亡くなった以上、その答えはこの先永遠に分からないし、また分かりたいとも思えなかった。
どのくらいの間そうしていたのか。
次第に落ち着きを取り戻し始めた喉の奥から、ようやく言葉が零れた。これ以上、この子に余計な心配をかけるわけにもいかない。
「ありがとう、翼くん。もう大丈夫だよ」
掠れてはいたが、確かに音になっていたはずの私の声に、なぜか反応はなかった。
むしろ、腕に込められた力がさらに強まり、怪訝に思う。
「……翼くん?」
「なにが大丈夫なの」
「え?」
一瞬、空耳かと思った。
強く抱き締められたまま問われ、思わず眉が寄る。翼くんが口にした言葉の意味が分からず、困惑は深まっていく一方だ。
「駄目だよ、一葉さん。俺から離れようと思わないで」
「……え?」
「ねぇ一葉さん。あいつのこと、そんなに泣かなきゃいけないほど好きだった?」
「っ、な……」
「そうだよな? だって小さい頃から好きだったんでしょ? 幼稚園に通ってたときからだっけ」
「つ、翼くん、待って。なに言って……」
「ああ、いいことを教えてあげようか。あいつは一葉さんのこと、愛してなんてなかったよ。ただの一度も」
混乱の渦に呑まれかけていた私の頭が、さらなる濁流に襲われる。
翼くんの言葉に――悪意さえ感じるその刃に、奈落に沈められていくような錯覚に溺れた。
「最期の言葉も……『愛してる』なんて、あれ嘘だよ? あんなのは、死ぬ間際に自分が楽になりたくて吐いただけの
淡々と語る翼くんの、表情までは見えなかった。
きつく私を抱き寄せたきり、義理の息子は耳元で淡々と毒を吐き続ける。両腕にこもる力は一層強まり、その中に閉じ込められた私はぴくりとも動けない。
身体を締めつける力の強さに、鈍い痛みがゆっくりと脳に届く。締めつけられている身体が痛むのか、それとも、耳を劈くような悲鳴をあげているのは他の場所なのか。私にはもう分からない。
「分かってたんだろ。浮気ばっか、あいつも俺の母親も。ふたりまとめて消えちまえばいいって、俺、ずっと思ってた」
「っ、あ……」
ようやく私の身体を放した翼くんは、間髪入れず、私の頬に両手を添えた。
拘束からの解放にわずかながら安堵したのも束の間、碌に力の入っていない長い指が、緩々と頬を撫でてくる。先刻の抱擁よりも、その触れ方こそがよほど〝逃さない〟と言っているようで、知らぬ間に喉がこくりと音を立てた。
「だから俺、嬉しくて仕方ないんだ、今。あんな奴さっさと死ねばいいって思ってたから」
にっこりと笑った義理の息子の顔は、まるで場にそぐわなかった。
表情と言葉の内容が一致していない。実の父親を亡くし、その葬儀が終わった直後に覗かせる顔には、到底見えない。
「翼くん……なに、言って、」
問いかける間もなく、頬を辿っていた翼くんの指が、おもむろに私の首元へ動いた。なんの脈絡もなく動いたその指先が、一気に喪服の合わせ目へとかけられ、ぐっと横に引かれる。
驚きに目を見開いたのが先だったか、視界が反転したのが先だったか。ぐるりと動いた視線がやがて捉えたものは、真上から私を見下ろす翼くんの顔だった。
押し倒されたと気づいたのは、それからさらに一拍置いた後。
「っ、やめて翼くん! ねぇ、どうしちゃったの……っ」
「嫌だね。別にどうもしてないよ、でももう一葉さんは俺のなんだ」
声は、微かに震えて聞こえた。
けれどそのことを訝しく思うよりも先、いつの間にか私の口元に顔を動かしていた翼くんに唇を塞がれる。
「っ、ん、ぅ……ッ」
表面の温度を確かめるようにそっと触れていた彼の唇は、間を置かず、私の唇を割って先へ突き進んでくる。口内に侵入してきた熱の塊が縦横無尽に暴れ回り、すでに混乱の極地にあった私を、さらなる坩堝へと沈めていく。
夫の口づけとは明らかに異なる、ひどく性急な仕種だった。
薄く目を開いた先には、昔の夫によく似た男の人の顔が見えた。幼い頃に憧れていた〝近所のお兄ちゃん〟と、ほとんど同じ顔が。
舌に激しく絡みつく熱の感触は、ここ数ヶ月で一度も体感したことのないものだ。
……いや、違う。こんな口づけは、今まで、一度も。
死期が迫り始めた頃、夫は頻繁に私を抱くようになっていた。その行為の最中にも、これほどの激しさを見出したことはない。
ここ最近は身体を重ねるだけの体力もなくなり、見舞いに行くたび、夫は縋るように口づけをせがんできていた。目前に迫った命の終わりからひとときでも目を背けたいがため、手近な人間に縋りたいのだ――なんとなく分かっていた。
結局、身体も唇も、私は拒まなかった。自分が愛されている気分に浸れたからだ。
それでも、あの人から与えられる抱擁にも口づけにも愛撫にも、これだけの熱は感じられなかったのに。
この人は、誰。
夫によく似た顔で、夫よりも遥かに激しく執拗な口づけを繰り返す、この人は。
初めて、圧しかかる彼の胸を押し返した。
「あっ……! お願い、翼くん、やめて!」
「嫌だよ、やめない。ねぇ一葉さん、今あいつのこと考えてたでしょう? そんなに似てるかな、あいつと俺」
「っ、あ……」
まるで獣だ。
にやりと口元を緩めた目の前のその人は、私が知る息子とは完全に別人だった。
「いいよ、あいつの名前、呼んでも。俺に抱かれながら、あいつに抱かれてるって思えばいいよ」
言葉の最後とほぼ同時、はだけた喪服の隙間から覗いていた首筋に歯を立てられる。
悲鳴じみた声が口をつき、どこか遠く感じられる意識の中、私はぼんやりと自分のその声を聞いていた。
……この人は、どうしてこんなことを。
純粋な疑問を脳裏に思い浮かべ、最後に聞こえた翼くんの言葉と声に宿っていた物悲しさを反芻しながら、私はきつく目を閉じた。
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