《2》ねぇ千葉、俺はね。
年度末、社内は少しざわついている。
そもそもが従業員数三十人程度の小さな地方支社だ。とはいっても、部署内のざわつきの理由は、おそらく忙しさのせいだけではない。
「椎名主任」
不意に声をかけられ、そちらに向き直る。
自席に着いたまま首だけを動かして見上げた先には、ひどく神妙な顔をした千葉が立っていた。
彼のデスクはまだまだ煩雑だ。書類やらフラットファイルやらでごった返しているように見える。
急な話だったから、仕方ないといえば仕方ないのかもしれないが。
「どうしたの、千葉くん?」
「いえ。……その、今お時間よろしいですか」
「……うん。いいよ」
用件は察しがついた。
普段通りに笑いかけて返事をしたものの、千葉が思い詰めた表情を崩すことはなかった。
*
「三年間、お世話になりました」
「いいえ、こちらこそ。千葉くんなら大丈夫だって信じてるよ、向こうでも頑張ってね」
かけた言葉に偽りはない。心からそう思っている。だが、目の前の男にはそうは伝わらなかったらしい。
急遽決まった転勤、それも本社へ――受け取り方次第では、十分に栄転と考えられる内容だと思う。そういう意味合いを含ませて口に上らせた言葉だったが、千葉の表情は一向に晴れない。
数歩先を歩く千葉の後を追うようにして向かった先は、従業員用階段の踊り場だった。
あえてこの場所を選んだのなら、この男の意図は明白だ。
……面倒だ。踵を返したくなったが、千葉が沈黙を破る瞬間を黙って待つ。
やがて、千葉は意を決した様子で顔を上げた。
「……あの」
低い声が聞こえ、こちらも伏せ気味にしていた視線を上げる。
俺とほとんど背丈の変わらない千葉が、なぜか普段よりも小さく見えた。
「ん?」
「可……安藤のこと、なんですけど。どういうつもりなんですか? 主任があんなことをするなんて、想像もしてなかったんですが」
千葉の声は、次第にこちらを責めるような調子に変わっていく。
沈黙を返され、ますます頭に血が上ったのかもしれない。最後には、彼は上司に対するものとは思いがたい、吐き捨てるような口調で質問をぶつけてきた。
「どうせこれで最後です。教えてもらえませんか、椎名主任」
「……なにを?」
「分かんねえんスか? 最初から可奈を俺から奪い取るつもりで、ああいうやり方を選んだのかってことです」
苛立ちの滲む声がゆっくりと鼓膜を揺らす。
口端に湛えた笑みはそのままにしておいたつもりだったが、千葉はなぜか派手に顔を強張らせた。
おかしい。表に出してはいない感情が、この程度の男相手に伝わるはずはないだろうに……いや、だが。
いわれてみれば確かに、千葉は入社当時からそういう部分にやたら敏感だった気がする。
ふふ、と笑みに声が乗る。
それなら、もう全部ぶちまけてしまってもいいだろうか。こいつの言う通り、どのみちこれで最後なのだ。
「へぇ。そのまま尻尾巻いて逃げんのかと思ってたんだけどな」
いつもとは異なる俺の口調を聞き入れてなお、千葉は微動だにしない。
いや、できなかったと言ったほうが正しいのかもしれない。
振り返りざま、さほど開いていなかった間合いを一気に詰めた。
ガン、と鈍い音を立てて壁に押しつけてやった千葉の身体は、想像より遥かに柔かった。胸倉を掴まれて壁に追い詰められた千葉は、息苦しいのか恐怖を感じているのか、大型の動物に餌に選ばれてしまった小動物じみて見えた。
また笑ってしまいそうになる。
そんな顔を晒すぐらいなら、最初から余計な挑発なんてしなければ良かったのに。
最後だから知りたいと吹っかけてきたわりには、随分と甘い。
いまさらこいつが知っている元の俺に戻ったところでどうなるものでもない。それならいっそ、最大限の毒を込めてこいつを糾弾してしまえばいい。
「『奪い取る』? なに被害者ぶってんの」
「……な……っ」
「ざまあねえな、千葉? やるならもっと賢くやれっつの、詰め甘すぎ。悪いけど安藤は返さねえから」
「っ、可奈は俺のだ! アンタがしゃしゃり出てこなかったら……ッ」
泣きそうに顔を歪める千葉は、本当に被害者みたいだ。
精一杯の虚勢を張っているのが手に取るように伝わってきて、それでも。
馬鹿な男だ。
こんなところに俺を呼び出さなかったなら、少なくとも余計なことは知らずに済んだ。聞こうとしなかったなら、余計なプライドを捨てることができていたなら、最後の最後に俺の本性を知る羽目になんてならずに済んだのに。
そうすれば、被害者顔をしたままで、この針の筵から逃げ出せたのに。
「笑わせんな。もう違うだろうが」
「……あ……っ」
「俺のせいにしたいわけ? 違うだろ。お前が他の女に手ェ出したからだろ。お前が泣かせてあそこまで傷つけた……違うか」
そう、文字通り、針の筵。
こいつには、すでに社内での居場所が碌にない。
河本……だったか、この男の浮気相手が、あの後すぐにあの日起こったことを暴露したからだ。
簡単だった。ほんの少し揺さぶりをかけただけで、女はおどおどとこちらの提案に応じた。
厳密に言えば、俺が取った行動のすべてはこの男を標的にしてのものではない。彼女を――可奈を、悪意ある視線や噂から守るためという意味合いのほうが遥かに強かった。
だが、そんな詳細はもうどうでも良かった。こいつを可奈から引き離すことに成功した今となっては。
笑いが止まらない。
今の俺の醜悪な笑顔さえ、他の部下や社員には〝部下の新しいスタートを応援する上司〟に見えてしまうに違いなかった。職場などという、ほぼ毎日同じ連中が顔を突き合わせるような箱の中にあっても、案外誰も人の本質など見てはいない。
温厚? 優しい?
笑わせてくれる。俺の中身なんて、誰も、なにも理解していない癖に。
ねぇ千葉、お前も同じなんでしょう?
温厚が服を着て歩いているみたいな上司に、自分の彼女が横から掠め取られてしまうなんて、これっぽっちも思っていなかったんでしょう?
だからお前は詰めが甘いんだ。
掴んだ胸倉に、知らず力がこもる。
「泣かせるしかできない奴がいきがるな。次やったら、」
――殺すぞ。
ガン。再び鈍い音がした後、ひ、と息を呑んだような声が緩く鼓膜を揺らす。
それを聞き入れて、ようやく俺は、自分が千葉の頭のすぐ横の壁を殴りつけていたことに気がついた。パラパラと零れ落ちる弱った壁の破片が、千葉の肩に降り注いでスーツを汚す。それにすら気を払えない千葉が、やはりかわいそうに見えた。
壁に添えた拳から、微かに残っていた麻痺の感覚が徐々に抜け落ちていく。
胸倉を放し、荒い呼吸を繰り返す千葉の肩をそっと払ってやると、千葉は怯えたようにびくりと全身を震わせた。
「ま、『次』なんて君にはないかな。一週間も経たないうちに本社行きだもんね」
普段通りに戻った俺の口調に……あるいはあえて強調した〝本社〟という言葉に、かもしれない。
咄嗟に顔を上げた千葉は、それでも俺を直視できないらしく、俺の首元辺りへ視線を泳がせながら茫然と口を開いた。
「……もしかして、転勤の話も、あんたの」
「どうかな。俺はただ、君の仕事ぶりをありのまま上に報告しただけだよ」
不意に緩んでしまった俺の口元を、千葉が凝視している。
声も身体もガタガタに震えてるわりに、そこには気づけてしまうのか、と思う。
ならせっかくだ。餞別の意味も込めて、もうひとついいことを教えてやってもいい。
「ねぇ千葉、俺はね」
「……え?」
「知ってたんだ、最初から。浮気……しかも社内でってやつ、お前今回が初めてじゃねえだろ」
無言ではあったが、千葉の顔が露骨に引きつる。
本当に詰めが甘い男だと思う。妙に勘がいいわりに、自分自身の言動は隙だらけときた。笑う気にもなれない。
「さっきも言ったけど、やるならもっと狡猾にやるべきだった。少なくとも俺の前でそんな隙は見せるべきじゃなかったんだよ」
「あ……」
「じゃあね。俺はお前のこと、別に嫌いじゃなかったよ。こんなことにならなかったなら」
その場に座り込んだ千葉は、やはりどう見ても被害者にしか見えない。
それを目にしてもなんの感慨も湧かない俺は、とんでもない薄情者なのか。それとも、あまりにも長い間こいつの隣に佇む彼女を見すぎて、とっくに壊れてしまっているのだろうか。
コツコツと周囲に鳴り響く自分の足音は、どこか遠い。
耳の奥が、鈍く痛んだ。
*
君を泣かせてばかりだったあの男は、もうすぐいなくなる。
君は今、俺の腕の中にいる。
なのに、渇きは少しも癒えない。
これが罰だ。心を置き去りにしたまま、君を強引に奪い取った罰。
俺のものにしたのに、本当の意味では永遠に手に入らない。それが分かっていて、それでも堪えきれなくて君を抱いている。こうやってますます深く傷つけて、ああ、俺はなにをやっているんだろう。
泣いて拒めばいいだけの話なのに、どうしてそれが分からない。
君の弱みにつけ込んで、俺は君を傷つけた。今もこうやって奪い続けている。傷つけ続けている。
俺はあいつ以下だ。
こんなにも狡猾で醜悪なんだ、それなのに。
『
――どうして君は、そんな声で俺を呼んでしまうんだ。
誤解してしまいそうになる。
もしかしたら君は許してくれたんじゃないか、俺に絆されてくれたんじゃないかと。
俺がしたことは、絶対に許されるべきことではないのに。
縋るように絡められる白い指先も、口づけを強請って首を引き寄せようとする両腕も、赤く火照った頬も、甘く掠れた声も、君のなにもかもが俺を惑わす。
これではまるで、君が俺を愛しているみたいだ。
それ以上喋らないでほしい。
なにも言うな、俺を呼ぶな。そんな目で俺を見ないでくれ。
新しい涙を次々と溢れさせて甘い声をあげる君は、俺が知る他の誰よりも美しい。
あっけなく絡め取られてしまったのは、君ではなく俺だ。長く抱えていた想いを直接君に告げるつもりなんて、本当はこれっぽっちもなかった。あの日なにもかもを狂わされたのは、俺だって同じなんだ。
だからもう、俺を惑わさないでほしい。
叶う見込みのない期待を、これ以上俺に抱かせないでほしい。
力が抜けた身体を、壊れ物に触れるように緩く抱き締める。
いまさらこんなふうに触れたところで仕方ないと頭では分かっていても、いつだって最後にはこうするしかできない。
「……愛してるんだ……」
掠れきった俺の声に、君からの反応はなかった。
当然だ。俺が君にこの言葉をかけるのは、君が眠っていたり気を失っていたりするときだけ。いつだって、君が聞いていないときだけだから。
それを聞いてしまったら、君は簡単に返してしまうでしょう?
私も、と口にしてしまうでしょう?
駄目だよ。だってそれは勘違いだ。
俺に救われたみたいな気になってしまっている、それ自体が錯覚なんだ。
君は絶対に、安易に俺に心を開いたりしてはいけない。
君には心底同情してしまう。
恋人に何度も浮気を繰り返されて、それを実際に目の当たりにして傷ついて、挙句こんな男に捕まって……君は一体、どこまで運が悪いんだろう。
愛する人に愛してもらえないこと。
どれだけ愛していようと、それを本人に伝えることすら許されないこと。
それこそが、俺が犯した罪への罰。
細い人差し指が、ひくりと小さく動く。
結局、それには気づかなかったふりを決め込むことにした。
〈了〉
代理意趣返し。 夏越リイユ|鞠坂小鞠 @komarisaka
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