代理意趣返し。
夏越リイユ|鞠坂小鞠
《1》代理意趣返し。
そこを通りかかったのは偶然だった。
時刻は午後八時。残業時間に突入し、とうに二時間強が経過していた。
ちかちかと点滅を繰り返す古びた蛍光灯が、申し訳程度に照らすだけの従業員用階段は、不気味なほど薄暗い。
私はといえば、一階の階段脇の備品倉庫に新しいフラットファイルを取りに向かっただけだ。
なんとなく気味が悪いから、夜の階段は好きではない。だから早々に通過したくて足早に階段を下りようとした、その矢先だった。
すぐ下、踊り場の辺りからだろうか。不意に「あ」と切羽詰まった女性の声が聞こえ、全身が固まった。
さして広くもない、しかも薄暗い照明に照らされた不気味なその場所で、踊り場の壁際に押しつけられているのは、昨年入社した女子社員の
社内だというのに、彼女の右手首を左手で壁に縫いつけながら甘ったるい声をあげさせている、その男性は。
「……あ……ッ」
ゴトン。
目にした光景に衝撃を受け、意図せず右足がもつれた。
それが、手すりのすぐ脇へ積まれていた焼却書類入りの段ボールにぶつかってしまう。
音のしたほうへ――私のほうへ、ふたりがはっと視線を向けてくる。
彼らと目が合うより前、私はほとんど逃げるようにその場を後にした。
……どうして。
震える息がなかなか元に戻らない。
河本さんを壁に押しつけて彼女の唇を貪っていたのは、社内恋愛中の私の恋人、
不穏な音を掻き鳴らし続ける心臓は、その後もしばらく落ち着かなかった。
*
こういうときは仕事に没頭するに限る。
昨日、信じがたい浮気現場を目撃してしまった私は、定時直前になってから申し訳なさそうに残業の依頼を告げてきた上司へ、もはや感謝したい気持ちでいっぱいだった。
時刻は午後七時四十分。
広くもないオフィスの二階、その一角のデスク群に、現在腰を下ろしているのはふたり。私と、私に残業の指示を出した
椎名主任は、私の直属の上司ではない。課こそ一緒ではあるものの、彼がまとめているのは翔太を含めた数人の部下で、そこに事務業務を中心に任されている私は含まれていなかった。
そんな彼が名指しで私に残業を指示した理由は、部署内で事務業務の知識がある社員に、どうしても今日中に手伝ってもらいたいことがあるからというものだった。
ギリギリになってから残業してくれなんて言い出して、本当にごめんね。
何度も頭を下げる主任に、構いませんから、と返すのももう何度目か分からない。
『そのほうが気楽なので』
何度目かの返事の際、うっかりそう口にしてしまった。
そこからは、ほとんどなし崩し的。昨日目の当たりにした衝撃のできごとを彼に明かす羽目になってしまったのは、今からほんの十分ほど前の話だ。
私と翔太が付き合っていることは、社内の大半の人が知っている。
任されている仕事に違いはあれ、私たちは配属されている課が同じだ。翔太の直属の上司である椎名主任も、私たちの関係を知らないということはないと思う。
温厚で有名な椎名主任も、自分の部下を悪く言われたらさすがに気分を害してしまうだろうか。不安に襲われつつも、吐き出すように昨日の一部始終を話し終えた私には、もう瞼から零れ落ちる涙を拭う気力さえ残っていなかった。
そっと差し出された紺色のハンカチに、ほとんど押しつける形で目頭をくっつける。
「……
「すみません、……私、仕事中にこんな」
「……いいえ」
「うう……だって、社内でって。誰かが見てるかもって、私が見てるかもって、思えないの……?」
椎名主任はなにも言わない。
だからこそ、衝動的に動く口を止めることはますます難しくなる。次から次へと、呪詛のような言葉ばかりが溢れてしまう。
「しかも、壁ドン、なんて。私、そんなの、ドラマとか漫画とか、そういう世界だけの話だと思ってました」
「……うん」
「最悪です、……なんで私がこんな惨めな気持ちにならなきゃいけないの……」
鬱屈とした言葉を途切れ途切れに紡いでは、ハンカチへ両目を押しつける。
ひくひくとしゃくりあげながら泣き続ける私には、そのとき、すぐ隣に座る主任がどんな顔をしていたのか一切見えていなかった。
嗚咽が途絶えた隙を狙ってか、彼の穏やかな声が鼓膜を揺らす。
「ねぇ安藤さん。千葉に裏切られたこと、そんなに悔しい?」
「っ、当たり前です……!」
「そう。じゃあ」
――仕返ししてみたら?
一瞬、聞き間違いかと思った。
穏やかな声と懸け離れた物騒な言葉が聞こえた気がして、私はハンカチに埋めていた顔を上げた。だが、視線の先には普段と変わらず穏やかに微笑む椎名主任の顔があるだけだ。
……なんだ、今の。
やはり私の聞き間違いだったのだろうか。
「……はい?」
「ね? せめて気分だけでも晴らせばいいよ。例えば、千葉たちと同じことしてみちゃったりとか」
「な……そ、そんなの、誰と」
「決まってるだろ」
最後の言葉だけ、まるで別人のようだった。それを耳にして、ようやく私は主任からの「提案」が聞き間違いではなかったのだと悟る。
放たれた声には、普段の穏やかな彼のそれからは想像もつかないくらいの獰猛な気配が宿っていた。見開いた私の両目に映り込むのは、普段と同じ、でもどこかが普段とは決定的に違う椎名主任の微笑みだけだ。
「っ、あ……」
脈絡なく右の手首を掴まれる。
そのまま強引に腕を引かれ、私の身体は座り込んだ椅子から簡単に引き剥がされてしまった。
びくりと震えた私の肩に気づいているのかいないのか、主任は私を連れて足早に壁際まで歩みを進める。
壁のすぐ傍、身体がくるりと反転させられ、そして。
ドン。
鈍い音。
遮られた視界。
握られたままの右手首。
頬をわずかに掠める、緩やかな吐息。
なにもかもが、私を現実から引き離していく。
「あの、椎名主任。冗談はやめ……」
「で?」
「っ、え?」
「あいつら。よりによって職場の階段でなにしてたんだって? ……ああ」
――キス、だっけ。
耳元で囁かれた声は、まるで猛毒だ。
それが鼓膜を貫いて脳へ辿り着くよりも先、椎名主任に拘束されて身動きひとつ取れなくなった私の唇は、彼のそれに簡単に塞がれてしまった。
とんでもないことをされている。
けれど、深い混乱に沈み込んだ私の頭では、まともな考えなどもうとても巡らせられなかった。
唇を緩くなぞるだけだった口づけは、触れては離れ、離れては触れてを何度か繰り返した後、熱の絡み合う深いそれへと変わっていく。
なんだ、このキス。
こんなキスは知らない。私が知っているのは、こんな……こんなものでは、なくて。
不意に脳裏を過ぎったのは、昨日私を裏切った元恋人の顔だった。
今日は、業務中にすら言葉を交わすことがなかった。明らかに私を避けるような素振りばかり見せていた。そんな翔太の顔が、昨日目撃した他の女とのキスシーンに繋がるまで、時間はほとんどかからない。
否応なしに脳裏で再生される悪夢めいたシーンを掻き消すように、口づけが突如激しさを増した。
私の考えが透けて見えてでもいるのか、と訝しくなるほどのタイミングだった。不穏な記憶が脳内を満たしそうになる直前、唇の動きを深められ、私はそれがもたらす熱にあっけなく溺れさせられてしまう。塗り変えられていってしまう。
両目をきつく閉じた瞬間、瞼から涙がひと粒零れ落ちた。
頬を伝うそれを、口元から離れた主任の唇がすかさず辿ったさまが、見えていなくても理解できた。
右の手首は強く握られたまま。壁に押しつけられた身体もさっきのままだ。私を捕えていないほうの腕も、壁に触れる私の頭のすぐ横に添えられている。
絶対に、逃げられない。
吐息がかかる。
頬をゆっくりと辿っていた唇が、再び口元に寄せられたとすぐに理解が及ぶ。
「しゅ、にん……」
口端からつい漏れてしまった声が、自分の耳に届いたか届かないか、そのときだった。
――ガタン。
事務所の後方、出入り口の方向から聞こえてきた物音に、びくりと全身が跳ねた。
……誰。残業で残っているのは、私と椎名主任だけなのに。
明らかに人為的な物音がしたきり、事務所内はまた静かになった。誰かが室内に入ってくる様子もない。緊張に全身を強張らせたまま、私は震える喉を無理に動かして声を絞り出す。
「……今、のは」
私の顔色は、きっと一瞬で蒼白になったのだと思う。
それでも私を壁際に縫いつけたきり、顔色ひとつ変えない椎名主任は、震える私の頬を指先でなぞりながら囁いた。
「さあね。タチの悪いネズミでも見てたんじゃない?」
穏やかに笑む椎名主任の人差し指が、頬を離れ、横の壁に貼りつけられたホワイトボードへ向いた。
その動きに操られるかのように、私は首を横へ向けて彼の指先を辿り、ボードに書かれている走り書きの文字を視界に収め……そして息を詰めた。
それは、個々の出勤や外出状況を記すためのホワイトボード。
椎名主任が指差しているのは〝千葉〟の欄だった。
〝外出 長谷川商事 20:00〟
青色の水性マーカーで書かれた文字が、ゆっくりと脳内に入り込んでくる。
弾かれたように対面の壁にかかった壁時計を見やると、時刻は午後八時を少し過ぎたところだった。
「……主任」
カタカタと音がするほど震える唇から、ほとんど無意識のうち、掠れた声が零れ落ちる。
「まさか……全部、知って」
「さあ? 俺はただ、千葉に仕事を頼んで、直帰しないで戻ってきてくれって指示を出しただけだよ。帰社後に見せたいものがあったから」
見せたいもの。
それは、一体なに。
まさか。
「ほら、続きは?」
「な、なに言ってるんですか! そもそも社内でなんてこと……仕事だってまだ途中なんですよっ!?」
「いいよそんなの、わざと安藤さんに振り分けただけだし。今日、君だけが残業になるようにってね」
目の前で微笑む椎名主任は、私の知る彼とは完全に別人だった。
ここにいるのは、穏やかで部下思いで仕事も優秀で……そういう普段の主任ではない。端正な顔立ちと切れ長な瞳の奥に宿っているのは、普段の彼からは想像も及ばないほどの、嫉妬によく似た激情だけだ。
「ああ、そうだ。ひとついいことを教えてあげようか。俺も昨日、あいつらの浮気現場? 見ちゃってたんだよね」
「……え……?」
「安藤さん、全然気づいてなかったでしょう? 本当に馬鹿だよね、あいつ。はっきり言って俺にとってはこんなの、この上ないチャンスでしかなかった」
最後の言葉が耳に届き、今度こそなにも考えられなくなった。
目を閉じてしまいたかった。
私はなにも見ていない。主任の本性も激情も、瞳の奥で揺れる狂気も。
無理にでもそう思い込まなければこれ以上は耐えられない気がして、けれど。
「ふふ、可愛い。やっと俺のものになってくれた……もう放さないよ、
一見、普段通りに見える笑みだった。しかし、その瞳の奥には明らかに狂気が宿っている。
目を逸らしたいのにできない。どうやら私はすでに、逃げることさえ不可能なほど頑強にこの男に縛りつけられてしまっているらしかった。身体ごと、心の内側まで。
間髪入れず、再び唇を塞がれる。
徐々に熱を上げていく濃厚な口づけを前に、紡げる思考などもはやひとつたりとも残ってはいなかった。
温厚の仮面を被った上司の、狡猾にもほどがある策略。
見るも簡単に踊らされたのは、元恋人か――それとも私か。
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