月とスッポン

 酒を飲まなければ何もできなかったが、飲んだら飲んだで何もできなかった。分厚い雲に覆われていたはずの夜空は、気づけば直視できないほどの陽射しで塗りこめられている。代わりに僕の頭の中で重い雲が立ちこめていた。


「市川さん?」


 それは僕が市川本人であることを確かめるような疑問符の付け方だった。二日酔いで泥濘んだ喉では、僕は大木に唸り声を返すのが精一杯だった。

 テーブルではグラスから琥珀色の液体が溢れていた。飲み干せば踏み出せると、その時は本気でそう思っていた。注ぎ過ぎてこぼれたウイスキーは、力なくテーブルに広がるだけにとどまらず、縁を越えてカーペットにこぼれていた。

 ソファから降り、生乾きのカーペットを踏みつける。台所で勢いよくコップに注いだ水道水を、混じった気泡とともに飲み干した。生ぬるかったが、渇ききった身体には心地よかった。

 ダイニングを見れば、すでに三人分の朝食が並んでいた。卵焼きのついたいつも通りの献立である。彼女が大木の分まで勘定に入れたのは、嫌味なのか無邪気さなのかわからない。

 顔を上げれば食卓の向こうで彼女が微笑みかけてくれるだろう。だが僕は彼女の方を見る気にはなれなかった。彼女の笑顔を見れば、僕に圧し掛かる罪の気持ちは軽くなるだろう。

 だがそれはお互いにとって偽りの救済であり、すぐに罪は存在感を取り戻すことを知っている。だから僕は俯いたまま食卓の前に座った。

 それからすぐに、大木がダイニングにやってきた。まだ目が醒めきっていないらしく、足取りはおぼつかない。大木はテーブルの前で逡巡するように立ち止まった。しばらく僕の向かいと隣の席にそれぞれ並べられた食事を見比べてから、向かいの席に腰を下ろした。

 目の前に座っている大木は落ちそうになる瞼を必死で持ち上げようとしていた。けれど瞼が相当重いらしく、眉が引き上げられるばかりで、肝心の目は薄くしか開いていない。容貌を糧に生計を立てているだけあって、寝起きのまま眠気に抗おうとする姿も大木なら間の抜けたようには見えなかった。

 僕は大木の向こうにいる彼女の写真に向けて手を合わせてから箸を取った。大木も寝ぼけまなこのまま黙々と食べ始めた。


「市川さん、今日は何かあるの?」


 ふいに大木が聞いた。汁椀を手にしたまま、僕の方を見ている。眠気が晴れたのか、大木の目は見開かれている。

 思わず僕は素早く視線を外した。

 大木はモデルとして頻繁にメディアでその姿を披露している。広告や雑誌を眺めていれば難なく見つけられる。昨日実際に会う前にも、僕は何度も大木の姿を目にしてきた。そこに写っている大木は決まってモノクロだった。決してフルカラーで取られることはなく、一貫してモノクロームで写ることに拘っていた。

 だからその瞳をフルカラーでまじまじと見るのはこれが初めてだった。

 僕は瞳の色を目にして何とも言えない気持ちになった。少なくとも、じっと見つめ続ける度胸は僕にはなかった。視線を大木の目からずらしたまま僕は口を開く。


「お昼前に署に行くよ。仕事があるかもしれないからね」

「よかった」


 大木はぽつりと呟いた。そして慈しむような視線を僕に向けた。

 戸惑っている僕に気づいた大木は続けて言う。


「昨日で市川さん、人生を終わらせてしまいそうだったから」

「どうして僕が死ななくてはいけないの」


 動揺を隠すのに精いっぱいで、そう返すくらいしかできなかった。おどけた風を装ってみたものの、あからさま過ぎたかもしれない。

 僕が尋ねても大木はすぐには答えなかった。大木は箸を止めて明後日の方向を眺めている。ほら、としばらくしてから何か閃いたように言った。


「――『ウミガメのスープ』にもあるじゃない」

「昨日食べたのはウミガメじゃなくてスッポンだよ」

「でも同じカメでしょ」

「それに僕は昨日が初めてだった」

「あの話の男も初めて食べたのよ」

「僕はカメと言われる肉を食べたこと自体が初めてだったんだよ」

「そう、それならよかったわ」


 大木はそう言って話を切り上げると、再び箸を動かし始めた。

 大木の言ったことは、ある意味で当たっていたのかもしれない。干物の骨と骨の間から身を剥がしながら僕はそんなことを思った。

 こうやって僕は毎朝、食卓に並べられた朝食を食べている。今日のように深酒をした次の日だって朝食を抜くことはない。考えてみれば、こうやって毎日欠かさず朝食を食べることが、僕がこの世に留まり続ける一番大きくて、ほとんど唯一の目的であるような気がする。少なくとも、これは僕が彼女にしてしまったことに対してできる考えつく限りで最も誠実な償いだと思っている。

 僕が昨晩、彼女を家に招いたのは、そうすれば愛想を尽かされて朝食が出なくなると思ったからだ。しかし結局今朝の食卓には、いつも通り卵焼きのついた朝食に加えて、彼女を裏切ろうとした罪悪感が並ぶことになった。

 物音に気づいて、僕は顔を上げた。大木が箸に一口齧ってある卵焼きを挟んだまま咽ていた。卵焼きを皿に戻して、大木が湯呑を取る。卵焼きを緑茶とともに飲み込んでから、大木は目を見開いて僕の方を向いた。


「これは誰が作ったの?」

「綾乃だよ」


 しばらく躊躇したが、嘘をついても仕方ないと思い、僕は妻の名前を答えた。そしてため息とともに自嘲気味な笑みを浮かべる。これから大木が見せるであろう完全に僕を拒絶した艶消しの瞳と、そこから僕に向かって放たれるグロテスクなものにおあつらえ向きな視線を想像すると、そうせずにはいられなかった。

 おかしいだろう、と僕は諦めきることもできずに言い訳がましく続けた。


「――彼女は一昨年死んだはずなんだよ。だけど、毎日朝食を作ってくれる。現に今日だって、ほら」

 食卓を指す両手はいつの間にか震えていた。

 大木は何も答えなかった。だけど、その目は戸惑ったように泳いでいるだけである。それから静かに箸を取った。先ほど齧った卵焼きを丸ごと口に入れると、流し込むような勢いで汁椀を傾けた。咀嚼を数回しかせずあとは一息で飲み込んでから、大木はゆっくりと口を開いた。


「そういうこともあるわよ」


 淡々と、ただそれだけ返して、大木は食事に戻った。

 この話を聞いた人は決まって、気味悪がるか、引きつった笑顔を浮かべるかをする。だから僕は少しの間、大木が返事をしたことに気づかなかった。

 大木は先ほどと変わらない平然とした様子で箸を動かし続けている。もう大木は綾乃の話題を終わらせていた。

 僕は卵焼き一切れを箸で二つに割った。卵焼きを食べた時の大木の反応が気になっていた。半切れを口に入れた途端に、いつもの味が口に広がった。生前から彼女が作ってくれた卵焼きのあの味である。

 この卵焼きは僕が好きなだけで、世間一般では不味い部類に入るということは考えづらい。恐らく僕の気のせいだろうと、卵焼きと一緒に飲み込んだ。

 彼女が死んでから、朝食にはいつも卵焼きが並んでいる。僕は卵焼きの中では彼女の作るものが一番好きだった。だけど彼女が生きていた時には卵焼きが毎日出て来るなんてことはなく、たまに出てくるくらいのはずだった。別に卵焼きを巡る特別な思い出が僕たちの間にあるわけでもない。どうして彼女が毎日作るようになったのか、僕には想像もつかなかった。

 食事を終えて、皿を片付けると、僕は署に行く身支度を始めた。身支度と言っても、最低限人前に出られる程度の身だしなみを整えるだけである。

 本当は署から呼び出された時に行けば、それで事足りる。だけど、僕は毎日昼前に一度署の方に顔を出して仕事があるか聞きに行くことを習慣にしていた。厚い霧の中を進むように過ぎていく日々を茫然と生きていくだけでは、自分が誰かすらも忘れてしまいそうで恐ろしかった。霧に包まれた道を進むにしても、ぽつりぽつりとでも案内標識があればどこを走っているのかが分かって心強い。寂しい街でやもめ暮らしをする僕とっては、署に足を運ぶことがほとんど唯一の青い案内標識のようなイベントだった。

 警察署に行っても大した仕事があるわけではない。誰かが捕まったら、その人のマグショットを撮るだけである。犯罪が起きるほど人もいないこの街で、僕がマグショットを撮影するのは数えるほどしかない。

 ほとんど引退したような生活である。僕の撮った写真が表舞台に出る頻度もほとんどなくなった。あるとすれば、僕にマグショットを撮られた人が再犯をした時に、そのマグショットが手配写真として世に出回る時くらいだった。

 けれど、とりあえず平日は欠かさず所に出向くことを仕事と数えるならば、カメラマンとして活躍していた時よりもずっと仕事はしていた。

 僕がシャッターを切れば、平坦な写真に切り取られ記録された被写体の息遣いや血の流れまで感じられると評判だった。あの頃はまだ綾乃も生きていて、そんな評判だけが僕の腕前に対する評価のすべてだと思っていた。もちろんその評判もお世辞と言うわけではなく、僕はカメラマンとして名だたるモデルを撮影してきたし、今でもその当時僕が撮った写真がそのモデルの代表的なポートレートとして紹介されることがある。

 だが実際は、生き写しのような写真を撮れるということは、その人のその瞬間を永久に閉じ込めて保存できるということだった。

 僕の撮った遺影の中で、妻の綾乃は死ぬことを許されずに閉じ込められ、今だって僕に微笑みかけたり、朝食を用意してくれたりしている。僕が彼女の写真を撮ってしまったばっかりに、彼女を永遠に続く半端な生に捕えて苦しめることになってしまった。

 そのことに気づいたのは、彼女が亡くなってからだった。それ以来僕は生きている人を撮れなくなった。少なくとも人の一瞬を写真に閉じ込めておくような残虐な行為を、何の理由もなく人にすることはできなくなった。

 モデルを撮ることを止めて、僕は今マグショットばかり撮影していた。マグショットには、その人が罪を犯した事実を記録する必要があるという大義名分があると思う。僕はその大義名分に体のすべてを預けて、マグショットカメラマンとしてどうにか仕事をしていた。

 リビングに戻ると、大木がソファに座って髪を整えていた。手鏡は持っておらず、窓に向き合っているわけでもない。部屋に向けられた目は焦点を定めず、大木は髪に触れる手先の感覚に集中しきっていた。


「鏡がいるなら、洗面所を使って構わないよ」


 僕は脅かさないようにそっと近づいて、声を落として言った。大木は手を動かしたまま、視線を僕の方に向けた。


「いつも鏡は使わないの。鏡を覗いても私の目に映るのは過去だから」

「光の速さの話?」


 僕が尋ねても、大木は頷くことも、首を横に振ることもなかった。代わりに大木は僕に顔を近づけて、自身の瞳を指さした。大木の指を追って、僕の目は自然とその瞳に吸い込まれた。痛みとも喜びともつかないヒリヒリとした熱さが肌に広がった。


「この色の瞳を、私以前に見たことある?」

 目を離せないでいる僕に、大木は聞いた。

 その長いときを経て形作られた宝石のような、底知れないの深みを感じさせる色合いの瞳を見た時の、恐怖と恍惚を織り交ぜた感覚を忘れられるはずはない。

 僕はファインダー越しに数えきれないほどの人を眺めてきた。シャッターを切るときは、その目の輝きを注意深く観察してタイミングを見極める。けれど、大木と同じ色の瞳は僕の記憶になかった。


「他に見たことないよ」

「珍しいでしょ。私も、この色の人は一人しか知らない」

「自分自身?」

「言ったでしょ、私は鏡を見ないの。この色の瞳は、ずっと昔、私がまだ子供だった頃に見たっきり」


 大木は唇を尖らせて言った。

 僕は、大木がモノクロに拘る理由の一端に指先が触れたような気がした。ただ、それを僕が理解するには一つわからないことがあった。


「ならどうしてカメラの前に映るような仕事を選んだの?」


 僕がそう尋ねると、大木は誇らしげな様子で僕の方に顔を向けた。


「瞳の他はね、お母さん譲りなの」


 警察署に行くとすぐに、ホクホクとした表情の署長が僕を迎えた。


「いやあ先生、さすがですよ」


 そう言って署長は僕の肩を叩いた。この署長はカメラマンを、画家や小説家と同じ芸術家だと捉えているらしく、僕のことをいつも先生と呼んでいる。


「何かあったんですか?」


 そう尋ねるとき、僕は思わず声が震えてしまった。小さな街である。大木と出会った昨日の今日で、街中に噂が広がっていてもおかしくはなかった。第一線で活躍しているモデルだと気づかなくても、大木の容姿なら目立つ

 だが署長の話は違ったようで、彼は片手に持っていた手配書を僕に見せた。壁に貼られた手配書の並びには一か所だけ空白ができていることを、僕は彼の肩越しに気づいた。


「手配写真を公開した途端に目撃情報が寄せられて、潜伏先ですぐに御用になったそうです。先生、今回もお手柄ですな」


 僕が手錠をかけたかのような勢いの激励に、僕は曖昧にうなずくしかなかった。

 僕が撮ったマグショットには生気が宿るらしい。手配写真に人間味が溢れていたら情が移ってしまいそうだが、そうはならないらしい。むしろ絵に描いたような悪人面で写るよりも、実際に見かけた時と近い印象を与えるため、目撃情報が集まりやすいそうだ。

 その理屈が本当なのか、僕にはわからない。だが、僕が撮ったマグショットは、他の人が撮るよりも群を抜いて写りがいいらしい。

 署長は腕のいいマグショットカメラマンが自分の署にいることが誇らしいみたいで、度々僕を褒めてくれる。だがマグショットは所詮、捕まった人物の容姿を記録するための写真だ。客観的正確性が最重要で、あとの、写真の美しさとか、見た人に訴えかけるメッセージなんかは関係ないはずである。だから僕は素直にその賛辞を受け取っていいものかわからなかった。

 警察署には、一人の若者が昨晩落書きの現場を押さえられて拘留されていた。僕は署長からの称賛の声を背中に聞きながら、撮影場所まで向かった。

 ムスッとした顔で、横線の入った壁の前まで歩いてきた若者は、襟に眼鏡を引っかけていた。片方が赤で、もう片方が青の、左右バラバラの色のレンズが嵌った、不思議な眼鏡だった。

 脇に控えていた巡査が、赤と青の眼鏡に気づいて無言でひったくる。僕はそれからファインダーを覗いて、若者の正面と左横顔の写真を一枚ずつ撮った。そのデータを署員に確認してもらって、その日の仕事は終わりだった。

 警察署を後にして、道路を挟んで反対側の砂浜に降りた。一足先に大木が階段に腰を下ろして待っていて、手にはコンビニ袋を提げている。


「焼きそばかソーセージか、どっちがいい?」


 僕に気づくと大木は唐突にそう尋ねた。ソーセージ、と何もわからないまま僕は直感で答えた。

 すると大木はパンの袋を取り出して僕に手渡した。中にはソーセージドッグが入っている。ならばと思い彼女の方を見ると、案の定焼きそばパンを持っていた。

 昼食には少し早かったが、僕たちは砂浜に腰を下ろしてパンを食べ始めた。砂と海水があるだけでベンチや遊歩道すらもない砂浜だったが、波の打ち寄せる音が終始聞こえていて賑やかだった。僕たちから離れたところでは、夫婦が小さな子供を波打ち際で遊ばせていた。


「まさかこんなところで市川さんに会うなんて思わなかった」

 大木がしみじみと呟いた。焼きそばパンを掴む指には、紅ショウガが乗っかっている。

 昨日、大木と出会ったのはちょうどこの砂浜だった。


「今さら僕がどこにいようが不思議じゃないと思うけどな」

「そんなことないわ。この世界にいて、あなたの名前は何度も聞いていたし、写真だって他の人には撮れないこともわかる。そんなすごいカメラマンだった人と、こんな街で鉢合わせるなんて想像できないわよ」


 ねえ、と大木が僕に向き直って言った。


「――どうしてこんな街に住んでいるの?」

「ここ警察署にマグショットカメラマンの空きがあったからだよ」

「他にも空きがあるところはあったでしょ。どうして、この街を選んだのよ。だってこの街――」

 大木はそこで言葉に詰まった。続きを口にすべきか逡巡していたが、僕は聞く前から内容の想像はついた。僕がゆっくり頷きかけて、大木はようやく口を開く。


「――綾乃さんの旧姓と同じ名前じゃないの」

「だからだよ。ここに住んで、ここの地名に聞き馴染みを覚えたら、その言葉にきつく紐づいている彼女の名前だったという特別な意識が希釈されると思ったんだ」

「警察での仕事はどうなの?」

「署の人たちにはよくしてもらってるよ。僕の撮ったマグショットからは息遣いが感じられるって褒めてくれる」


 僕がそう言うと、大木の表情がにわかに明るくなった。


「カメラマンをしていた時と評判は変わらないのね」

「一応今でもカメラマンだよ。マグショット専門だけど」


 大木は焼きそばパンの残りにかぶりついていて、僕にはふがふがと返事をするだけだった。僕も最後の一口を食べて、残った袋を無造作にポケットへ突っ込んだ。

 昼食を食べ終えて立ち上がると、僕たちの方におずおずと近づいて来る男に気づいた。遠くの方で遊んでいた家族の夫の方で、彼は手に携帯を持っている。


「すみません、写真をお願いしてもいいですか」


 男に頼まれて、自然と僕は携帯を受け取ってしまった。彼の後ろには彼の妻と子供が控えていて、妻の方が僕たちに頭を下げた。男が二人の元に戻って横に並び、僕はカメラが起動した携帯を、三人の方に構えた。

 カメラなんて気にせず、波に夢中になっている子供と、その様子を微笑んで眺めている夫婦。幸せそうな家族の一コマが画面に捉えられている。

 気付けばボタンに置いていた指が動かなかった。押そうとして力を込めても震えるばかりでシャッターを切ることはできない。どうしても僕にはこの風景を写真に収めることはできなかった。

 もお、と横から大木が見かねた様子で苦笑いをする。


「シャッターはここでしょ」


 わざとらしく呆れた声を上げて、大木が腕を携帯に伸ばした。その指が僕の代わりにボタンを押す。シャッター音が鳴り、はにかんだ表情のままの夫が頭を下げながら近づいてきた。


「すみません。この人、機械に疎くて」


 大木は僕から携帯を取り上げて、代わりに夫の方に返した。そして肘で僕を小突いて見せる。すみません、と僕もおどけたように頭を掻いて会釈した。

 三人が写りに満足して去っていくのを見送ると、砂浜には僕たちだけが残された。大木は気まずそうに僕の方をチラチラと見ながら、何も言わずに海岸線に沿って歩き始める。僕もその後を追いかける。

 海岸沿いの道路は砂浜より高い所にあって、砂浜と道路の間の高低差はコンクリートの壁が埋めていた。しばらく歩いていると、壁面に描かれた絵が見えてきた。周りに他の作品はなく、その絵だけがポツリと佇んでいる。脚立か何かを使ったのか、人が二人並んでも届かないような高さまで描かれている。

 あの若者が持っていた奇妙な眼鏡のレンズと同じく、その絵も青と赤の二色だけを使って描かれていた。僕は一目見てそれが、今朝警察署でマグショットを撮った若者の作品だとわかった。

 だが僕にはその絵が何を表現しているのかわからなかった。二色の線が複雑に入り混じっているが、それが何かの像を結んでいるようには見えない。

 しかし、よくこんな場所を落書きの場に選らんだものだ。警察署からはそう遠くない。砂浜はまだまだ続いているし、街にはもっと人気の少ない所がたくさんある。

 絵全体を眺めて見たり、細部を凝視したりしてみても何かの形が見つかることはなかった。もしかしたらあの若者は完成させる前に警察に見つかったのかもしれない。

 わざわざそんな無鉄砲な真似をしてまで、あの若者には自分なりに表現したかったものがあったのだろう。ただ僕にはそんなものは想像できなかった。

 僕がその絵を眺めている間も、大木は歩き続けていた。しばらくして僕に気づくと、大木は戻ってきて、横に立って一緒にその絵を観はじめた。


「カメラマンを辞めたのは、撮れなくなったから?」


 大木が不意に僕の顔を見て、そう聞いた。あの家族の写真を撮ろうとした僕の指が震えているので気づいたのだろう。僕は素直にうなずいた。


「君も綾乃の作った朝食は見ただろう。彼女がこうなったのは、僕が綾乃をあまりに

 そのまま写真に収めすぎたからなんだ。いくら美しいからと言って、僕はこれ以上誰かを写真に閉じ込めて苦しめたくないんだよ」


「どうしてそれが不幸なことだって決めつけるのよ。さっきの家族だって、いつか今日の写真を見てきっと今日の出来事を思い出すはずよ。どれだけ生き生きと撮れていたとしても、それがあの人たちを苦しめることにはならないでしょ」


 大木はゴソゴソと足で搔いていた砂地に手を伸ばした。そして小石を拾うと、海の方に歩きながら続けた。


「まあ、撮られたくなくて逃げてきた私がいえることじゃないけどね」

「島には撮影で?」


 波打ち際まで進んだ大木は、小石を海に向かって投げた。放たれた小石は一度水面を跳ねたが、すぐに波に飲み込まれてしまった。

 そう、と大木は吹っ切れたように答える。


「――カラー写真を撮影しようってなってね、それで私逃げ出してきたの」

 昨晩、大木を見つけた時、その姿は黒い影にしか見えなかった。陽が沈んでからの海岸沿いの道路は街灯が少なく、車が通らなければ景色は真っ暗になってしまうほどである。

 一人で歩いていて、ふと浜辺を見下ろすと、そこに人影を見つけた。僕は思わず海岸に降りてその人影に駆け寄った。

 その時点でわかったのはシルエットが人の形をしていることだけで、表情どころかどちらを向いているのかすらもわからなかった。けれどそのシルエットは力なく佇んでいるように見えた。それだけでも嫌な想像は浮かび、そのまま通り過ぎることはできなかった。

 近づいていくと、街からの光で薄く照らされた顔が浮かび上がった。それでようやく、その人影が大木であると気づいた。


「どこから来たんですか?」

 

 僕は心配になって思わず尋ねた。すると大木は黙って海を指さした。まっすぐ伸びる水平線が、その指の先でだけ盛り上がっていた。そこにある島を指しているのだと僕は思った。

 まさか泳いできたのだろうか。大木の海に向けて伸ばされた指や、小さな束になって垂れた髪の毛から、絶え間なく水が滴っている。そんな馬鹿馬鹿しく思えるような想像もその姿の前ではもっともらしさを感じられた。




 浜辺を散歩した帰り道、夕食は何がいいか尋ねると、大木は皿うどんと答えた。

 僕たちが材料を買いに向かったスーパーは、香港映画で爆破されるほど大きな会社の一号店だった。けれど今は別の会社の傘下に入っていて、名前も変わっている。それでもこの街が長い人は、大抵昔の屋号で呼んでいる。

 僕はカゴを片手に、売り場で立ち止まった。皿うどんを作るために何を買えばいいかわからないことに気づいた。

 そういえば、僕は皿うどんを作ったことがない。店でも長らく頼んでいない。綾乃が皿うどんをそこまで好きではなかったから、彼女と出会ってからは僕も自然と食べなくなっていた。


「皿うどんを作るには何を買えばいいの?」


 僕が聞くと、大木はテキパキと材料を答え始めた。


「私が野菜とか見て来るから、市川さんは豚肉とシーフードミックスと、ウズラの卵をお願い」

 

 大木はそう言うと一人で野菜のコーナーへ向かっていった。

 肉に魚に、卵まで入っている。意外と肉類がたくさん入っているのかと、思いながら生鮮食品のコーナーで豚肉をかごに入れた。

 シーフードミックスは冷凍になるから最後に見ることにして、ウズラの卵の水煮を探すことにした。ウズラの卵も久しぶりに食べる。この街に来てからは食べていない。このスーパーのどこにあるのか知らなかった。

 綾乃は皿うどんの味が嫌いというわけではなかった。中華屋に行って、中華丼を頼むこともあった。


「お菓子を食べてるみたいで、主食としてはどうも物足りないのよ」


 生前僕が訳を聞いた時、綾乃はそう答えていたのを覚えている。

 大木は彼女とは違って自分から皿うどんを選んだ。パンに挟んであるし、僕が選ばなかったのもあるが、同じ麺類である焼きそばを昼に食べたその日の夕食としてである。もし彼女が皿うどんを好きだったとしても、そこまではしなかったと思う。

 売り場を歩きながらそんなことを考えていた。そんなときに缶詰の類が並んでいる棚で、ウズラの卵の水煮を見つけた。一パックにはウズラの卵が十個くらい入っている。一皿に二つでも十分な気がしていたので、多いなと思いながらも僕はそれを一つカゴに入れた。


「あ、お巡りさん」


 冷凍食品のコーナーに歩き出そうとしたところで、後ろから声を掛けられた。あまりにも近くから発された声だったので、自覚はないが振り返った。後ろには午前中にマグショットを撮った、落書きで捕まった若者が僕を見て立っていた。


「僕は委託のカメラマンですよ」

「そうなんですね、さっきはどうも」


 軽く頭を下げられただけだったが、マグショットを撮ったときの不愛想な姿を見てからだと礼儀正しく見えてしまう。僕は彼に向き直って尋ねた。


「どうしてここに?」

「一応初犯なんで」

「いやどうしてまだここに? まさか浜辺の絵の続きを?」

「見てくれたんですね。でもあれはもう完成してるんですよ」


 二色しか塗られず、形もはっきりしない絵からは想像できない返答だった。だがそう言いながら浮かべた得意げな笑みから、表現したいことは満足に絵にできているらしいことが伝わった。


「実は眼鏡を失くしちゃって」

「撮影の時に没収されていたあれですか?」

「あれは予備ので、もう返してもらいました。もう一つのを昨晩捕まった時に落としちゃったみたいで」


 そうため息交じりに言っているところを見ると、大切な眼鏡だったらしい。見つかると良いですね、と言って別れた。


 余りに久しぶりだったので、僕は皿うどんの食べ方も忘れていた。餡の汁気を吸って柔らかくなった部分から箸でほぐそうとするが、うまく麺を塊から分けられなかった。

 自分から食べたいと言い出した大木なら食べ慣れていそうだと思い、顔を上げた。大木は塊ごと箸で掴んで、かぶりついていた。麺に乗った餡が鼻頭についている。僕がティッシュを三枚ほど取って渡すと、大木は恥ずかしそうに鼻を拭った。

 ダイニングの柔らかな光を浴びた大木は、モノクロで写る姿とはまた違った雰囲気を纏っていた。実際の大木は同じように流れる時間の中を生きている、血の通った存在であるという印象だった。

 ただ単に、昨晩から実際に一緒に過ごしていたから、そんな印象を抱いただけかもしれない。だけど僕は目の前で麺を頬張る姿を見て気づいた。


「やっぱりモノクロだけだと声を掛けられにくい?」


 今日大木と外を歩いていたが、一度も声を掛けられなかった。マスクやサングラスで顔を隠していたわけではない。何人かは通りすがりでその容姿に息を飲むことはあったが、そんな人でもそれが大木であると気づいている様子はなかった。


「滅多にないわね。色付きで私を見ても、モノクロで刷った私の写真を見た記憶とは結び付きにくいみたい」


 そう言って大木は肩をすくめた。

 よく見ればその輪郭はモノクロで写る大木と同じなのだが、着色されると純粋に輪郭を捉えるのが難しくなる。多くの人が僕と同様に生身の姿に写真とは別な印象を受けているらしい。

 誰にも気づかれないならば、僕たちはこのまま続けられるのだろうか。楽観的過ぎる考えが僕の頭をよぎる。だけど否定する材料はすぐに思いつく。

 僕は死んだはずの綾乃と一緒に暮らしていて、大木は仕事から逃げ出してここにいる。そんな僕が大木といつづけられるわけはない。それに大木の仕事だって投げ出したまま放っておくわけにもいかないだろう。仕事を辞めるにしろ戻って再開するにしろ、いずれはどこかでけじめをつける必要がある。その時に僕たちのこの曖昧な関係はきれいに清算されるはずだ。


「でも昨日はよく私が大木だって気づけたわね」


 本当に滅多にないことらしく、大木は感慨深そうな口調だった。


「暗かったから、砂浜で見つけた時は顔すらわからなかったよ」

「でも顔を見たらすぐに気づいていたでしょ?」

「それも暗かったからかな。薄暗くて色彩をあまり感じられなかったんだよ、きっと」

「あなたがカメラマンだったからよ。人一倍、人の見え方を観察してきたからすぐに私に気づけたんだわ」


 僕は曖昧にうなずきながら、すっかり柔らかくなった麺を箸でつまんで口に運んだ。そうそう、と大木が何かを思い出して口を非リアた。


「――仕事の知り合いにね、肋骨のパーツモデルをやってる子がいるの」

「ここの?」


 肋骨のパーツモデルという耳馴染みのない言葉の並びに、僕は胸のあたりをぐるりと指さした。


「骨のイメージが必要な時があるでしょ。そういう時に、その子の胸のレントゲン画像が使われるのよ」

「肋骨の形を売りにしてる人がいるなんて知らなかったな」

「見る人が見れば模範的にきれいな肋骨みたいよ。国内のシェアはほとんど独占してるんだって」

「当然見かけても気づかないだろうね」


 大木は深くうなずいた。


「でもね、その子がある時風邪をこじらせてね。病院でレントゲンを診ていたお医者さんに気づかれたんだって」

「見てる人は見てるんだ」


 僕の言葉に返そうとして、大木が口を開きかける。その時電話のベルが鳴って、大木を遮った。迷っている僕に、大木は電話の方を手で指して促した。僕はそれでも決めかねて、確かめるように顔を見た。すると大木は苦笑いをしてうなずく。


「今の時代に電話をかけて来るなんて、相当重要な用事よ」


 そう言われてようやく僕は電話を取りに立った。掛けてきたのは警察署の署長だった。用があれば、毎日顔を出している時に言われるので、電話がかかってくることは滅多にない。

 今回も署からの要件というわけではなかった。海上保安署に行ってほしいというもので、それを署長が取り次いでいる形だった。


「すみません、警察と違って融通が利かなくて、今夜中に来てほしいみたいで」


 電話を切る前に署長はひどく申し訳なさそうにそう言った。ここまで急かされることはなかったが、署長にそこまで言われて断ることもできなかった。

 結局僕は急いで夕食の残りをかき込んだ。そして大木を残してタクシーで隣町の海上保安署まで向かった。

 そこに行くのは初めてだったが、雰囲気はなじみがあった。寂しい街の役所という雰囲気は、毎日通っている警察署とほとんど変わらない。コンクリート造りの建物も、デザインの方向性は非常に近かった。だが、貼ってあるポスターが密漁や海難事故など海に関するものばかりだという点だけは警察署と違った。

 役人然とした雰囲気の若い職員が僕を撮影場所まで案内した。その間に彼は今回の経緯を説明してくれた。ここにもマグショットカメラマンがいるらしいが、親戚の葬式から今日帰る予定だったらしいが、天候不順で飛行機が欠航して今日中に戻れなくなったらしい。今日マグショットを撮るのは、密漁をして捕まった男ということだった。男は黙秘を続けていて、身元すら明かそうとしないらしい。

 撮影用の部屋に通されて、カメラを起動する。いつも署で使っているのとは違うカメラだったので、使い方を確認していると、ドアが開いて男が入ってきた。

 男はマグショットを撮られる者の例に漏れずムスッとした状態で職員に促されるまま部屋の奥まで進んでいった。床の靴のシルエットに足を乗せて、警察とは少し違ったデザインのボードを胸の前に掲げた。

 男が撮られる準備を終えて静止したのを確認してから、僕はファインダーをのぞき込んだ。シャッターを切るタイミングを計るため、僕は男の瞳を注視した。男の眼が動き、ファインダー越しに男と目が合ったような気がした。

 被写体はカメラに視線を向けるため、撮影時に目が合うように見えることも珍しくない。けれど僕はシャッターボタンを押すことも忘れて、その瞳を見つめていた。ファインダーに写る小さな像が、僕の脳裏で一つの記憶と重なった。何人もの瞳を見てシャッターを切ってきたが、男と同じ色の瞳を持っているのは他に一人しか知らなかった。


「どうかしましたか?」


 なかなか撮らない僕を見かねて、職員が声を掛けた。


「すみません、慣れないカメラだったもので」


 僕は慌ててそう言い訳をして、すぐにシャッターを切った。


 昼の十一時前に目が醒めた。食卓に並んだ朝食は、待ちくたびれて湯気も立てていない。いつも通り出された卵焼きもどこか力が抜けているように見える。

 ただ昨日とは違い、彼女は二人分しか用意していない。

 僕たちは、言ってしまえば不安定な足場の上で、偶然バランスの取れたタイミングが生じただけのようなものだった。その時は具合がいいように見えただけで、それが長く続くはずはなかったのだ。ただわかりやすい終結がすぐに生じることはなく、きっと手遅れになるところまで僕たちは二人してずるずると引きずられていっただろう。

 そうなってしまうよりは、余裕をもって自らの意思で終わらせた方がずっといいはずだ。

 僕は昨日導いたその考えを再確認して、胸の中で立ち上りかけた後悔の念を振り払った。

 昨晩、海上保安署から帰った僕は、大木にあの男のことを話した。これで僕たちの一時的にバランスが取れたような関係は終わるとわかっていた。

 ただ大木のためには伝えたのは間違っていなかったはずである。大木と同じ色の瞳を持つ男が捕まった。その事実は大木が自身の瞳の色についての過去を改めて見つめ直すきっかけになるだろう。そうなれば、潔く仕事に戻れるようになるはずだ。

 僕が捕まった男について話すと、大木はその夜のうちに海上保安署へ向かっていった。そして思った通り今朝、僕は一人きりで朝食を食べることになった。

 僕はすっかり冷めてしまった卵焼きを一切れ食べた。食感は水っぽくなっているが、味はいつも通り彼女が作ってくれた卵焼きのものだった。

 彼女を裏切るつもりで、大木のような人を家に招いたというのに、彼女は変わらず僕に朝食を作ってくれる。結局僕が彼女にしてしまったことはどうにもならなかった。他にどうすることもできず、僕はこれからも朝食を食べ続けていくのだろう。

 彼女はそのことをどう感じているのだろうか。僕は確かめることが怖くて、顔を上げることができなかった。

 もう一切れ卵焼きを食べようとしたとき、家の中でドアが開く音がした。音が聞こえてきた方向は、トイレか洗面所のあたりだった。

 僕は音のした方を振り返る。変だとか当然だとかは思わず、ただ刺激に反応しただけだった。足音が大きくなり、ダイニングのすぐそこまで近づいてきた。そして大木が姿を現した。


「ごめんなさい、洗面所借りてたの。起こしちゃったかしら」


 そう言って、大木は微笑みながら首を傾げる。僕の気付かないうちに、大木が戻ってきていた。ただその姿には、戻ってきてしまったという引け目とか、僕のために戻ってきてあげたというような哀れみや恩着せがましさは感じなかった。大木は当たり前のようにそこに立っている。まるで海上保安署の一件などなく、そのまま夕飯が続いていたみたいな様子だった。

 大木はそのまままっすぐキッチンへ入っていった。


「ねえ、私も卵焼きを作ってみたの――」


 大木が冷蔵庫を開けながら続ける。


「――だから食べてみてくれない?」

「構わないけど、どうして卵焼きを?」

「私もそれくらい作れるのよ」


 口を尖らせながら、大木が卵焼きを僕の前に置いた。得意げな口調で出してきた卵焼きは、黒い焦げが目立っていて、巻き方も不慣れだった。それでも大木は堂々と向かいの席に座って、僕の顔を覗き込んだ。その目はとてもじれったそうに見えた。

 大木の要望に応えて、僕は早速卵焼きを一切れ食べた。見た目は悪かったが、特別悪い味がするわけではなかった。普通の卵焼きの味が舌に広がる。その時、ふいにかつての記憶が呼び起された。

 今みたいに朝食を食べている時のことだった。いつだったか正確にはわからない。だけどまだ綾乃が生きていた時の風景だった。その日の朝食は、彼女が作ってくれて、おかずに卵焼きが出ていた。

 その時と全く同じ感覚がいま、僕の舌に広がっていた。大木が作った卵焼きは、綾乃の卵焼きと同じ味だった。

 僕はその味を懐かしいと思っていた。それに気づいて、僕は慌てて綾乃が作ってくれた卵焼きを食べた。たしかに綾乃が作ってくれたはずなのに、感じたのは彼女が作ってくれたあの味はしなかった。代わりに口に広がったのはおかずにするにはくどすぎるほどの甘味だった。


「もう」


 大木が当惑したような声を出して、僕の隣に席を移した。そしてティッシュを僕の頬にあてた。生暖かくて濡れた感触がティッシュの上で広がった。


「どうやって作ったの?」


 僕は震える唇をどうにか動かして尋ねた。


「それは秘密よ」


 大木が悪戯っぽく笑う。


「食べたくなったら、また私が作ってあげるから」


 ね、と大木は僕に言い聞かせるように問いかけた。

 綾乃はそれを許してくれるだろうか。僕は彼女の気持ちを確かめようと顔を上げた。けれど、視線の先には、元気だったころの綾乃が笑顔で写る遺影が写真立てに納められていて、僕がどれだけ見つめても彼女は答えてくれない。写真に写る彼女はまるで時が止まったかのように笑顔を崩さなかった。


 目が醒めた時にはすっかり日が暮れていた。大木の提案で、僕たちは海の方まで散歩することにした。磯のにおいと湿り気のある夜風を浴びながら、灯りの少ない夜道を歩いていると、見知った街の中何にまるで自分がどこかに迷い込んだように思えてくる。

 一昨日の夜もちょうどこの時間帯にこの辺りを歩いていた。大木を浜辺で見付けてから、二人がようやく夕食のことに気が回るようになったのは夜の九時を大分過ぎたあたりだった。


「小さな街なんで、夜もすぐに締めちゃう店がほとんどで。でもあの店はスッポンが美味しいみたいですよ」


 僕がそう言うと、大木は堪えきれずに笑い声をあげたのを覚えている。その時だっておかしな提案だとわかっていた。だが結局大木はしり込みするそぶりを見せることなく、むしろ初めて食べると目を輝かせながらその店に行った。だから僕が滅多なことを言ったのだと嘲笑われたわけではなさそうだった。


「何考えてるの?」


 少し先を歩いていた大木が振り返って聞いてきた。


「一昨日のことだよ。スッポン料理を食べようとして、君は吹き出しただろう」

「なんだ、そんなことなの。だってあの時は本当に『月とスッポン』すぎたから我慢できなかったのよ。あんなにピッタリな状況初めてだったもの」


 そうそう、と彼女は思い出したように呟いて続けた。


「――昨日海上保安署に行ったらね、面通しって言うのかしら、あれをさせられたの。ガラス窓越しに取調室を見せられて。たぶんガラスの反対側は鏡になっていて、こっちの姿は見えないんでしょうね、向こうは窓を睨みつけていたけど、視線が微妙にズレてた」


 大木はそこで言葉を切ると、歩道の外側につけられた欄干に肘をついた。その外は砂浜になっている。その向こうに広がる海の上には月が浮かんでいた。それでね、と彼女は自嘲気味に笑った。


「――ガラスに私の顔も反射して、向こうの眼とガラスに浮かぶ私の眼が重なったの。確かに多少は似てるんだけど、よく見たら全然違った」


 月明かりに照らされた彼女の顔は、見たことのない表情をしていた。陶器のような白い肌は、どこか遠くの存在のように思える。大木がそんな僕の視線に気づいて、目を見開いた。


「モノクロは続けるよ。あなたは?」

「僕もマグショットは続けていくよ」

「ねえ、私を撮ってよ。カラーで」


 大木はそう言いながら携帯を取り出した。


「構わないの?」


 大木が躊躇いもなく即座にうなずく。大木はそのままくるりと身を翻して、車道に飛び出した。夜で車通りはほとんどなく、しばらく一本道なので来ればすぐにわかる。そのまま信号機の下まで行くと、大木は僕に対して斜めに体を向けてポーズをとった。

 僕はカメラを起動して携帯を構える。いつの間にか信号が変わり、青緑色の光に照らされた大木が画面に写っていた。その目はまっすぐにカメラを見つめている。

 僕がボタンを押すと、数瞬遅れてカメラのシャッターが切れた。

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プリン型の夢(短編集) 厠谷化月 @Kawayatani

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