悼飯
俳優の高尾敦は映画やドラマで活躍したのはもちろんのこと、一人の食道楽として日本の美食界に大きな影響力を持っていた。その美食界の巨星が亡くなった。それは生前付き合いのあった私だけでなく、彼を画面越しにしか見ていなかった人々にも衝撃を与えた。
車窓から見える街では、会社員は足早に道を進み、店員は買い物客に頭を下げていた。彼の死から一夜明け、メディアやネットに彼の死を悼む言葉が積み上がっていたが、街は昨日と大して変わらぬ様子を呈していた。「美味い」の一言にウン億円の価値がついた彼ほどの人物でも、その死は世間にとってトップニュースでしかなかった。
高尾さんには若い頃随分と気にかけてもらった。デビューしたばかりで何もなかった私を幾度となく食事に連れて行ってくれた。俳優仲間を集めて、高尾さんがその年に特に気に入った料理を振舞ってくれる盛大なクリスマスパーティーには、多少キャリアを積んで仕事が続くようになってからも毎年参加していた。
「ソーさん、あと五分くらいで着くと思います」
運転席のマネージャーに教えられ、私はネクタイを結ぶことにした。周りは高級車が増えていた。窓の隙間からは、美味しそうな匂いが流れてくる。
「本当にジムに行かなくてよかったんですか?」
マネージャーが振り返って私に確認を取る。
「うん、長居するつもりはないし」
すでに決めていたことだったので、考えるまでもなく、ネクタイの結び目を調節しながら答えた。わかりました、と運転席からの返事が一拍遅れたあたり、マネージャー自身に未練があるようであった。
しかし、ここ数年は高尾さんと疎遠になってしまった。病気だということも、訃報を聞くまで知らなかった。もちろん、私をかわいがってくれた高尾さんに恩義は感じていた。それでもしばらく会っていなかったせいか、その死の報せが届いたときに感じた悲しみは、そう長くは続かなかった。
係員に誘導されて、車は寺の駐車場に入った。沿道からフラッシュが焚かれたので、神妙な表情を意識する。気持ちフラッシュが長かったのは、高尾さんと私が仲良かったと知っていたからだろうか。
広い駐車場だったが、すでに八割がた埋まっていた。それでも絶え間なく車は入って来るし、出ていく車も多かった。腹を鳴らしながら隣の車から降りてきたのは現職の副大臣だったし、膨れた腹をさすっているところをすれ違ったのはIT企業の会長だった。高尾さんは各界の美食家とも交流があった。だから私でさえメディアでしかお目にかかれないVIPを見かけても、さほど驚きはしなかった。
記帳を済ませて門をくぐると祭りのような光景が広がっていた。本堂までの道の両脇には、料理の屋台が並んでいる。特有の線香臭さは、料理の匂いでかき消されていた。さすがに浴衣姿の者はないが、弔問客がなす人混みも相まって、通夜の雰囲気は薄れていた。
祭りと違うのは、屋台を出しているのが的屋ではなく、高尾さんが懇意にしていた店だということだ。彼らは高尾さんを偲び平日だというのに、店を閉めてここに来ていた。味にうるさかった高尾さんの葬儀に集まっているのだから、いずれも味に定評のある名店ばかりである。
通夜前に焼香を済ませるのは、後に用事があり通夜に参列できない者ばかりだ。後が詰まっている分、境内に集った名店の味を楽しむために彼らに残された時間は少ない。彼らは遺族への挨拶も早々に屋台へと向かうものだから、焼香の列が止まっている暇はなかった。
列に並んでいても名前を聞いたことのある人ばかりが目に入る。いま焼香を終えて私の横を通り過ぎた男は、随分と日に焼けていた。よく見ると二枚目で人気がある俳優の雅輝暁だった。彼は私に気が付いて会釈をした。彼とは大した面識がない。下積み時代に彼がエキストラで出た映画に、私が脇役で出たらしいという話は聞いたことがあるが、それくらいだ。今や私よりも遥かに人気も実力も上である。それなのに同じ業界の先輩だからと頭を下げてくれるのはなかなか律儀な男なのだろう。
並んでから十分もかからずに私の番が訪れた。祭壇の上では、高尾さんが満面の笑みを浮かべて私を見下ろしていた。背景が青一色に加工されていたが、遺影は三年前のクリスマスパーティーの時に撮ったものだとわかった。
後ろから咳払いと腹の虫が鳴く音が聞こえた。我に返って、お香をつまんで隅の上に落とす。合わせた手の平の座りが悪かったが、すぐに場所を譲った。
指先には線香の香りが染みついていた。ようやく葬式らしさを感じられた。それでもまだ高尾さんの葬式だとは思えない。歳の割によく食べる人で、食のためなら長旅も躊躇しなかった。体格がよかったが、あの年齢なら痩せているよりは健康的に見えた。彼の病気のことを聞いていれば、私の方から会いに行っていただろう。
棺の傍まで行くのは私くらいしかいなかった。脇に控えていた女性が私に頭を下げた。私は彼女に高尾さんの顔を見る許しを得た。顔の部分の扉に手を掛けたとき、私の手にしわだらけの手が重ねられた。
「ソー坊、来てくれたのか」
画面の中でも、その外でも高尾さんの弟分のような存在だった、亀井さんが私の手を押さえていた。
「お世話になったので、さすがに行きますよ」
「久しぶりだし、少し飲もうよ」
亀井さんはあの頃と変わらない笑顔で私を誘った。けれど私の手を押さえる力が緩められる様子はなかった。諦めて棺桶から手を放す。
本堂近くに建てられたテントに入ると、私たちは即席のカウンターに座った。このテントを出していたのは、銀座でも五本の指に入る寿司屋で、大将直々に握っていた。ここの大将と顔なじみらしい亀井さんは親しげに挨拶をしてからピールとタコを頼み、私も同じものにする。
亀井さんはグラスを傾けて、おもむろに口を開いた。
「映画見たよ。でも会うのは最後のクリスマスパーティー以来だから三年とかかな」
「最後って、あれからパーティーは?」
「病気が見つかったのがあの直後のお正月明けでさ、それからメッキリ食が細くなって――」
彼は言いかけた言葉をビールで流し込んだ。それからフフ、と笑い声を上げた。
「アツさんも頑固だからさ、弱った姿をソー坊に見せたくなかったんだよ。代わりに俺がソー坊の出た映画のDVDを届けさせられてね、あれは参ったよ」
「すみません、僕はてっきり――」
言葉を継ごうとしても、肺はすでに私の手を離れていた。私にできることは、せいぜい顔を上に向けて涙が溢れないようにすることくらいだった。隣では亀井さんが、少し慌てたようにビールを流し込んでいた。
視界の下端で大将の手が伸びたのが見えた。
「大将、アナゴは頼んでないよ」
わざとらしく笑いながらも、亀井さんの声は少し鼻声気味だった。
「すみません、お話が聞こえてきてしまったもので。ただ、どうしてもお客さんに高尾さんが一番好きだったアナゴを食べていただきたくて」
大振りのネタがシャリからはみ出した江戸前の寿司だった。表面には軽く焼き色が付いていて、トロリとしたタレが一筋載っていた。空では日が暮れようとしていて、ちょうど腹が減る時間帯だった。香ばしい焦げ目の匂いと、しょうゆベースのタレの匂いが鼻腔を満たし、一方でまだ満たされていない胃が音を上げる。
私は素手で掴むと、大振りの寿司を丸々口に入れた。焼き目のパリッとした食感を過ぎると、ほとんど噛んだ感覚はなかった。フワフワとした身が口の中で溶けて、まろやかな魚の脂が口の中に広がった。タレの塩気が甘みをさらに引き立てて、シャリを迎え入れる。少し芯の残った米粒が、食べ応えを感じさせる。脂と甘みのモタッとした感じを、酢が和らげて後味を爽やかにしてくれる。
寿司を迎えた胃が、カッと熱くなった。美味いものを食べて、こんな気持ちになったのはいつぶりだろうか。それこそ、最後のクリスマスパーティー以来かもしれない。
すみません、と後ろから声を掛けられる。サインかと思い、鬱陶しさを酒の力で抑えながら振り返った。そこに立っていたのは、コック服を着た男だった。
「私のも食べていただけないでしょうか。高尾さんが生前絶賛してくださったナポリタンです」
彼が手に持っていた皿には、太めのスパゲティと、大振りに切られたウィンナーやピーマンに真っ赤なトマトソースが絡んだナポリタンが半人前ほどよそってあった。
具材の大雑把な切り方からは想像できないほど繊細な味わいだった。トマトのすっきりとした甘みと酸味が、バターのコクを介してパスタと馴染んでいた。優しい味わいのなかで、少し焼き色がついたウィンナーがちょうどいいアクセントになっていた。寿司の後に洋食を食べるのはアンバランスに思えるが、空腹だったからなんでも食べられたし、美味しいものならばいくらでも食べられた。
どこから聞きつけたのかわからないが、寺に集まった屋台中に高尾さんと私の関係が知れ渡ったらしい。その後もテントには、彼を偲んだ料理人たちが私にぜひと沢山の料理を運んできた。天丼にレバニラに蕎麦にステーキ、一流の料理人たちによって料理された食事が、目の前に所狭しと並べられた。どれも美食家だった高尾さんが特に好んでいたものである、世界屈指の美味しさのものばかりだった。
料理を口いっぱいに頬張り、顎全体で噛みしめて、飲み込む。どこにでも最高の味がついてきた。いくら箸を動かしても、テーブルに一向に隙間が生まれず、通夜へ参加するどころではなくなってしまった。寺の住職の読経が薄っすらと耳に届く中で、私はただただ料理を食べ続けていた。
「オレは遺族だって言ってるだろ」
葬儀場にふさわしくない叫び声とともに、外が騒がしくなった。高尾さんの思い出に花を咲かせていた屋台が、途端に静まり返った。
振り返ると、何人かのスタッフが一人の男を取り囲んでいた。中心にいた男は、カビが目立つ皺だらけの黒いズボンに、作業着のような黒のジャンパーを羽織っていた。この男が叫んだとしか思えない、弔意の欠片もない格好だった。
しかし小汚い格好をした男がこんなところに何の用があるのだろうか。しばらく様子を見ていると、それに気が付いた亀井さんも騒ぎに目を向けた。彼は一度舌打ちをしてから口を開いた。
「火事場泥棒みたいな真似しやがって」
嫌な気持ちごと流すように、グラスに残っていたビールを一気に呷った。
「遺産目当てですか?」
「いや、違うよ」
「じゃあどうして?」
「弔う気持ちの一つもないのに、関係者を装って飯にありつこうっていう浅ましい魂胆だよ。特に高尾さんみたいな美食家が亡くなると、予約の取れない店がこぞって屋台を出すからね」
小汚い男は両脇をスタッフに抱えられて、寺の門まで引きずられていくところだった。その脇を、高名な落語家とそのカバン持ちが目を伏せながら足早に通り過ぎて行った。再びなり出した包丁の音で、先ほどまで大将が手を止めていたことを知った。
なりふり構わず、自分の欲望を満たそうとする人を見てしまうと食欲も失せてくる。
しかし実際のところ、身体の方も限界に近いようだと気が付いた。美味い料理に夢中で麻痺していたが、大分苦しかった。通夜はとっくに終わったようで、向かいの屋台では頭のてっぺんまで赤くした僧侶がステーキを食べていた。私は今ある皿を平らげて帰ることにした。
胃は満杯で、しかし消化を待っている食物が食道で渋滞していた。一歩動くたびに、腹が苦しくなる。事前にジムに行っておけば防げたことだが、葬儀へ向かっている車中で万が一にもこんなことになるなんて思ってもいなかった。マネージャーは車で待っていてくれた。
「待たせてしまったかな?」
ドアをコツコツと叩いて尋ねる。彼は急いで車を降りてくれた。
「いえ、これも仕事ですし」
彼は口の周りにソースを付けていることも知らずに、後ろのドアを開けた。
スマートフォンを見て、想像以上に長居していたことに気づいた。その間に妻から一度着信もあった。どうやら箸を進めている間に私は、時がたつことも、スマホが鳴動していることも気が付かなかったらしい。
妻に発信して、電話を取った瞬間に私は口を開いた。
「すまない、今から帰るよ」
「遅かったわね。今晩、カツ丼だけど」
私は答えに迷った。私と違って彼女はあまり食にこだわりがない。だから彼女の作る料理は、手間の少ないものばかりだった。外で散々いいものを食べているから、私もそこに不満はなかった。
しかしながら、やはり食卓に寂しさは感じてしまう。ただ、妻が作るカツ丼だけは違った。品数が少なくて済むという理由で、彼女のレパートリーの大半が丼ものであり、カツ丼もその中の一つだった。彼女の作るカツ丼だけは、とても豪華な物だと思っていた。
「どうする?」
沈黙に耐えかねた妻が聞いた。私は一時間後に帰ると答えて電話を切った。
私は特段カツ丼が好きなわけではない。彼女とカツ丼で思い出があるわけでもない。もしかしたら、手間を嫌う彼女が、一度揚げた豚カツをわざわざ卵でとじる手間がかかっている料理を作っているということで、豪華であると錯覚しているだけかもしれない。
しかし私が彼女のカツ丼を好んでいるというのは事実であり、膨れた腹が苦しい今でもカツ丼を食べたいとは思っていた。
「ジムに回してくれ」
私は揺れに耐えながら運転するマネージャーに頼んだ。
わざわざ時間を作って幸喜亭に行ってみたものの、店に入ったときにはすでにラーメンが売り切れていた。
下町に店を構える中華料理店「幸喜亭」は、地元の人に愛される町中華であったが、創業以来ラーメンスープには専門店と肩を並べるほど並々ならぬこだわりがあった。そんな秘伝のスープを使用したラーメンは和風ベースの出汁が効いた逸品である。多くの美食家たちが幸喜亭のラーメンに舌鼓を打ってきたのは、本来の壁紙を覆い隠すほど並べられたサイン色紙の数でわかる。
絶品のラーメンスープは、なかなか手に入りにくい品質の良い食材を、店主自らが長い時間を掛けて仕込まれる。そのため、一日に提供されるラーメンの数量は限定されている。しかし本来は町中華であり、ラーメンが売り切れたからといって、店を閉めるというような野暮な真似を幸喜亭はしなかった。
昼時を少し過ぎて、客数のまばらな店内で、私はレバニラ定食を、マネージャーはあんかけチャーハンを頼んだ。
店のテレビでは、午後のゆったりとしたワイドショーを流していた。ちょうどラーメン特集で、うまそうなラーメンが何度も映った。どうにか見ないようにしていたが、タレントがラーメンをおいしそうに啜る音はどうしても聞こえてしまう。
今朝からラーメンの口だった。夢にラーメンが出てきたからだと思う。幸喜亭に着いて、ラーメンが売り切れだと聞かされてから、ラーメンの口をどうにか取り除こうとしていたが、朝からずっと培ってきたものだから、そう簡単に消えてなくなりはしなかった。
ようやく薄まってきたと思ったそばから、ワイドショーのラーメン特集ときた。わずかに残っていたラーメンの口が再燃しだした。
マネージャーが食べ終えるのを待つ間、暇つぶしに、壁のサインを眺めていた。作家の鹿野佳和のサインを見つけて、奇妙な縁を感じてしまった。先日亡くなった彼の通夜は、確か今夜営まれるはずだった。
幸喜亭の壁にはもっと大御所のサインもあった。彼よりも作品が映像化されていたり、賞をもらっている作家の作家もいくつか見つけられる。しかし、鹿野さんのサインは壁の一番目立つ位置に貼ってあった。
彼も美食家で有名で、文芸界随一のラーメン通だった。それが高じて、バラエティにも顔を出していて、視聴者からすれば作家というよりもそっちのイメージの方が強いかもしれない。けれど、この幸喜亭からすれば、彼は一番いい席に置いておくべき人物なのだ。
事の始まりは、彼がよくあるグルメ番組に出演したときだった。当時、周辺の人にしか知られていない、単なる町中華だった幸喜亭のラーメンを鹿野さんがそこで紹介し、人気に火がついたのだ。
彼自身、ここのラーメンを特に好んでいて、生前は足しげく通っていたことは有名だった。幸喜亭は、鹿野さんと関係の深い店だったのだ。
鹿野さんの小説の映画化作品に一度出たことがあった。その映画が私のキャリアのターニングポイントというわけではない。現場で何度か挨拶したくらいで、それ以降関りがあったわけでもない。それくらいの関係だから、明日の葬儀で焼香を上げるくらいだと考えていた。
しかし、今朝からのラーメンの口のせいで、レバニラを口に入れても、昼食を食べた気になれなかった。
「今夜の打合せって何時くらいに終わる予定?」
「六時半くらいって言ってました」
マネージャーは、残った餡をスプーンで集めながら言った。
「じゃあ打ち合わせが終わるまでに喪服を用意しておいて」
わかりました、と彼はすぐに返事をしたが、顔には不可解そうな表情が浮かんでいた。
私の父と四人の祖父母は既に他界している。息を引き取ったときは、それなりに悲しかった。しかし、病なり齢なりで少なくとも半年以上前から死を覚悟できていたからか、泣き崩れることはなかった。仕方のないことなのだと、すでに気持ちの整理ができていた。
むしろ、顔を知っているくらいの人物の訃報の方が、受ける衝撃は大きい。そういう時にこそ死の存在を肉薄して感じられる。
人間が永遠に生きていられるなんて思っているわけではないが、私は心のどこかで知人は明日も知人であり続けるという安心感を勝手に抱いている。数ある知人の中の、たった一人でも亡くなれば、その理が偽りであると突きつけられて、無性に心もとなくなるのだ。
そういうわけで、プールを泳いでいても、ランニングマシンで走っていても、鹿野さんの死は私の頭の中から離れてくれなかった。ひたすら体を動かしていると、手持ち無沙汰になったのか、脳が生前の鹿野さんとの思い出を勝手に浮かべてくる。
鹿野さんが書いた「偶像の抜け殻は川を流れて」という作品は、彼にとって初めての映画化作品だった。映画になるのが嬉しかったのだろう、彼は暇を見つけては撮影現場を見学していた。その頃にはすでにラーメン通として名が通っていて、撮影現場でも彼は知名度はないが味がいいラーメン屋にスタッフや役者たちを連れて行ったり、ラーメンを差し入れたりしていた。
一度ロケ現場近くの味噌ラーメン屋に連れて行ってもらった時、鹿野さんと席が隣になったことがある。
「月野さんの柴井警部は、私のイメージ通りですよ」
彼は私にそう言ったとき、とても嬉しそうにしていた。柴井というのは、作品にあまり重要ではない脇役の一つだった。そんなキャラクターまでイメージしているに驚いたし、何より原作者の鹿野さんに演技を認めてもらったのが嬉しかったのを覚えている。
十年近く前の話である。今まで忘れていたとはいえ、ふと思い出せたということは、私にとっては相当印象深い出来事だったらしい。
昼のレバニラも大分消化されたようだった。私は胸を撫でおろしてジムを後にした。ジムで体を動かすと、腹が減るし、頭の回転もよくなる。空腹だけ抱えて葬儀場に向かっても、遺族に合わせる顔がない。だからジムは喪に服す前にはもってこいの場所だった。
通夜が行われるセレモニーホールの入り口で記者に囲まれた。無遠慮にフラッシュをたいたり、矢継ぎ早に質問をまくし立てて来て、故人を偲ぶ参列者の気持ちを平気で踏みにじる連中である。しかし連中はここで飯を食おうとしない分だけまだわきまえていた。
入り口の向こうからは、うまそうな匂いがしてくる。鳴りそうになる腹を押さえながら、それを悟られないように神妙な面持ちで記者たちを眺めた。私は彼らのトンチンカンな質問を無視して、ジムでよみがえった鹿野さんとの思い出を話し、最後に彼の冥福を祈る旨を添えた。
私が取材を受けている間に、沼崎さんもセレモニーホールの入口へ向かってきた。彼女が入口を通ろうとしたところで、待機していた記者陣に取り囲まれた。
セレモニーホールに向かう途中で、私は彼女を見かけた。彼女とは何度も共演しており、俳優としてのキャリアも近く、撮影終わりに彼女を含め数名と飲みに行くこともあった。
その時に挨拶でもしようかと思ったが、随分と険しい顔をして、マネージャーらしき男を怒鳴っていたので、私はそのまままっすぐここへ向かった。その時と比べると、ずっと落ち着き払った様子で、カメラやマイクに向かって、鹿野さんとの思い出を語っていた。
「私は先生の小説が大好きで、いつか出演したいと思っていました――」
沼崎さんは、ドラマの時とは違う、少し低い声で話し始めた。彼女を囲む記者たちが、質問攻めを止め、彼女の話に聞き入り始めた。しんみりした空気は、彼女の声をよく通した。
そう言えば、沼崎さんと始めて共演したのは、確か鹿野さんの「偶像の抜け殻は川を流れて」だった。私もその縁でここに来ている。そう考えるとなんだか奇妙な縁を感じた。
生前は全国の美味いラーメン店を巡り、それをテレビなどで紹介してきた鹿野さんを偲んで、会場には全国から名だたるラーメン屋が集まっていた。彼らにはホールに併設された会議室のような部屋が割り当てられていた。
通夜はおおかた厳かに執り行われた。途中、遺族を騙り参列しようとした男を、スタッフが追い出すおよそ三分間を除いてはであるが。入口と近いこともあり、騒動ははっきりと聞こえてきた。僧侶が読経を中断したほどである。
「俺は弟だぞ」
声を発する者がいなくなった会場に、男の場違いな叫び声がはっきりと届いた。荒げた声には聞き覚えがあった。振り返ると、スタッフに取り押さえられながら、なおも会場へ入ろうとする男の姿が入口から見えた。その小汚い男は、高尾さんの通夜への参列を試みていたあの男だった。
男がホールから追い出されると、何事もなかったかのように僧侶が読経を再開した。通夜が終わると、他の参列者に続いて私も精進落としにラーメン屋が集まった会議室へ向かった。先を歩く人が、会議室に入るたびにどよめいた。胡散臭いとは思っていたが、いざ集まった店の名前を見て私も目を疑った。名が知られ過ぎて足が遠のいてしまうような名店が当たり前のように並んでいた。
長蛇の列ができて三時間待ちが当たり前の店や、一日十杯限定の店が、今日は限られた参列者のためだけにラーメンを振舞うのだ。ラーメン専門とはいえ、鹿野さんがどれほど味に実直な美食家だったか窺い知ることができた。
私は昼間のリベンジのために、脇目もふらず幸喜亭のテーブルへ向かった。人混みを掻き分けて向かったときには、大将が昼間も見た「売切」のプレートをちょうど出しているところであった。
うかつだった。幸喜亭は、この中でも一、二を争う人気店である。焼香だけを済ませた客は絶対に幸喜亭を食べるだろう。そして、店主はこういう場所だからといって、スープに妥協をするような人ではない。いつも通りのスープを用意して、なくなれば提供を止めるはずである。それをわからずに、私はつい読経に出てから精進落としに向かってしまった。
しかたなく、私はその隣の行列に並んだ。
「月野さんに柴井警部を演じてもらえて、鹿野さんも幸せだったと思うよ」
私の番になったとき、貫京軒の店主がおもむろにそうつぶやいた。どうやら通夜の前の取材をどこかで聞いていたらしい。さらに彼は私の耳元でささやいた。
「叉焼、一枚おまけしたから」
貫京軒といえば、ラーメンはもちろんのこと、そこにトッピングする叉焼にも並々ならぬこだわりがあるラーメン屋だった。豚肉は当然ながら、味付けの醤油や香味野菜まで、店主自らが買い付けに行っている。三日三晩煮込み、まろやかな味わいととろける食感の叉焼は、あまりの人気のため、普段は増量することができない。
しかし、いま私の手元には、四枚の叉焼の乗ったお椀があった。私自身、いつも貫京軒に行けば、あまりの美味しさのため、叉焼のためだけに二杯目のラーメンを頼もうか迷うほどである。けれど私は朝から二度も幸喜亭のラーメンを目の前でおあずけされている。
「ありがとうございます。いつも二杯目頼もうか迷っちゃうんですよね」
感謝の気持ちは本心である。だがどうしても心の底から喜ぶことができなかった。
席に付いて、まずはあの叉焼を一切れ食べた。口に入れた瞬間に肉がほどけ、豚肉の旨味と醤油の味付けがいい塩梅に口の中に広がった。相当な人気が美味しい証左なのだが、やはり貫京軒の叉焼は美味しかった。ジムで体を動かして、腹は十分すぎるほど空いていた分、凝縮した肉の旨味を味わうのがとても幸せだった。
「ファンに自分が書いたキャラクターを演じてもらえるなんてさ、作家冥利なんじゃないの」
聞き覚えのある声が耳に届いた。昼間も聞いた、幸喜亭の店主の声だった。見ると、彼はテーブルの下からこっそりラーメンを取り出した。彼がそれを渡したのは、沼崎さんだった。
「先生の期待に応えられたかどうか」
彼女は口ではそう謙遜しておきながら、がっしりと幸喜亭のお椀を掴んでいた。最後の幸喜亭のラーメンを手に入れた彼女は、誇らしげに席に付き、周りに聞かせるように麺を啜り始めた。別に麺類を啜る音に大きな差があるわけではない。太さならまだしも、味で変わるわけはなかった。しかし、彼女の立てる音は、とてもおいしそうに聞こえてくる。
幸喜亭の店主は彼女の取材の受け答えに心打たれて、彼女の分のラーメンを残していたようだった。気がつけば、他の店も彼女にラーメンを食べて欲しいらしく、彼女の周りには四つもお椀が置いてあった。
あの貫京軒の絶品叉焼も、今朝から食べたかった幸喜亭のラーメンの前には、ただの過熱された肉でしかなかった。
彼女は鹿野さんの作品のファンであり、映画でそのキャラクターを演じられて嬉しかったと言っていた。幸喜亭の店主もそれに感動しているようだった。私もジムで片手間に考えずに、もっとしっかりと話す内容を練ってくればよかった。彼女くらいの思い出話の一つや二つ、今思い出せないだけで私にもあるはずだった。もっと真面目に思い出していれば、今頃幸喜亭のラーメンにありついているのはこの私だっただろう。
本葬はまだ明日だ。今からでも、エピソードを用意しておくのは遅くないだろう。鹿野さんの記憶を辿ろうとしたが、どうしても脳裏に浮かぶのは、あの沼崎さんとの会話ばかりである。
そう言えばこの前のドラマの撮影でも、共演者の何人かでお好み焼きを食べに行った。
「鹿野先生の作品に出てくる女性って、リアリティがないじゃない。だから読むのはあまりかな」
確か小説の話題になって、沼崎さんはそんなことを言っていた。いや、別の人だったかもしれない。多少酒が入っていたから記憶は定かではない。しかし、確かその時の話題は、演じる作品の原作を読むかどうかだったような。
突然咳き込んでしまい、慌ててハンカチで口を押える。ボンヤリと麺を啜っていたためか、気管の方に入ってしまったようだ。一口スープを飲んで落ち着いた。
席が収まって、近くにいるなら聞けばいいかと思ったころには、沼崎さんは帰っていた。
いくら行列ができる店のラーメンを、それも通常ではありえない叉焼増量で食べても、どうしても満足はできなかった。それは弁天庵のラーメンでも一緒だった。弁天庵のラーメンを食べるために電車を乗り継いで遠征することもある。しかし、やはり幸喜亭の味でなければ今日は満足できなかった。
さほど美味しいと感じられないまま、ただただ腹だけが膨れていく。部屋には名のある店が他にもラーメンを提供していたが、これ以上食べても、幸喜亭のラーメンを食べない限りは満足できないだろう。
私は弁天庵のラーメンを食べ終えると、セレモニーホールを後にして、マネージャーが待機する車に向かった。通夜が始まる前に食べていた彼は、運転席のシートを倒していびきをかいていた。
「早かったですね」
窓ガラスを叩くと、起きたばかりの間の抜けた声で言った。私の事情も知らず有名店のラーメンにご陽気になった彼に腹が立って、私は無言で車に乗り込んだ。
明日の本葬にも幸喜亭は出るはずである。明日こそは食べたかった。早く会場へ向かってもどうにもならない可能性もある。それよりも、今日の沼崎さんのように、鹿野さんとの思い出で店主を感動させたほうが確実だろう。
明日に備えて、今晩は改めて鹿野さんとの思い出を辿りたかった。
セレモニーホールの駐車場から道へ出ようとして一時停止をした時、後部座席の私の側の窓ガラスが、カツカツと叩かれた。そこには一人の男がへりくだった様子で立っていた。手ぶらなところを見ると、記者の類ではなさそうだった。
どうします、とマネージャーが視線で私に問いかけた。
見覚えのある顔だった。確か通夜が始まる前に、沼崎さんに怒鳴られていた男だった。彼女とは知らない仲というわけではない。仕事のことかと思い私は窓を下げた。
「沼崎さんのところの……」
私はそこまで言って言い淀んだ。マネージャーにしては覇気がなかったが、マネージャー以外にここまでついて来て彼女に怒られる立場の人間を私は知らなかった。まあ、と彼は明らかに返事を濁してから続けた。
「月野さんですよね。お時間ありますか?」
なんだかわからなかったが、怪しいことだけは確かだった。マネージャーに車を出すように伝えようとしたところで、
「明日こそ幸喜亭のラーメンを食べたいですよね」
「ここではなんだから」
私はドアを開け、男を乗せた。胃袋が先に私の手を動かしていた。
まだ背広に着られている、若い男だった。彼は名刺を出そうともせず、ただスズキタダシとだけ名乗った。
「マネージャー、かなにか?」
「沼崎さんのゴーストライター、でした。今日までは」
「沼崎さん、本出してたの?」
「チョウジのです」
彼にはいつものことだからなのか、端的にそう答えた。けれど私はそれが「弔辞」だと理解するのに少し時間がかかってしまった。スズキと名乗った男が、弔辞のゴーストライターだとわかった今も、具体的なことは想像すらできなかった。
「弔辞のゴーストライターというのはどういう?」
「食通の人が亡くなると、生前懇意にしていた店が葬儀場に集まって屋台を出しますよね。美食家の葬儀というのは、いわば食のフェスティバルなんです。ひとたび法要が営まれれば、向こう十年予約が埋まっている料亭が平気で出店を開きます。ですから食通の葬儀は超人気店の料理を味わうまたとないチャンスです。しかし、美食家の葬儀ですから美食家ばかりが参列するのも当然で、となればこの勝負も簡単なものではありません。そこで僕たち弔辞ライターの出番です。私たちが感動的な弔辞やコメントを書きます。故人との思い出が詰まった弔辞で店主の心を揺さぶれば、故人の好きだったあの味をこの人にも食べて欲しいと、最後の一皿くらいは残しておいてくれます」
いつものことで慣れているのか、彼はスラスラと説明をした。しかし私は今一つ納得できなかった。
「そう上手く事が運ぶものかね?」
私の質問は初歩的すぎたようで、彼は拍子抜けしたように笑った。
「月野さんだって見ていたでしょ、沼崎さんがラスト一杯を掻っ攫っていくところを」
今思えば、確かに入口前の囲み取材での彼女のコメントで、周りの記者が一気にしんみりとしたような気がする。
「あれも君が?」
「いえ、あれは僕の原稿じゃありません。私はクビになったので」
「どうして沼崎さんに解雇されたの?」
「私が本当のエピソードしか書かないからですよ」
「なら沼崎さんが通夜で話した思い出って……」
「ええ、全部ウソですよ」
私が言うのを躊躇ったところを、すかさず彼が継いだ。
あれがでっちあげだと思うと残念だった。それに、私が自力で考えてコメントしている横で、こっそりプロの原稿を読み上げて、ラーメンを横取りされたと思うと悔しかった。
時折いるんですよね、と彼はため息交じりに話し始めた。
「平気でデタラメを書く弔辞ライターが。業界じゃ嫌われていますが、関係性の乏しい人の葬儀でも感動的な弔辞を書けますから、そうと知って雇う食通も結構いますよ。しかし僕はそう言うのは嫌いです。作られたお涙頂戴に特有の気持ち悪さ、化調の下品な味付けと言ったら月野さんにもわかりますかね」
「けど、君の書いた弔辞は私自身の言葉じゃないわけだろう」
私はこの時、本当に弔おうという意思があるなら、自力で参列者たちを感動させられるとヤケになっていたのかもしれない。
「こう考えてみてください、僕があなたの個人を偲ぶ気持ちを、伝わりやすいように整えるんです。それに——」
彼は私の方に体を傾けてから話しを続けた。
「――明日こそは幸喜亭のラーメンを食べたいでしょう?」
私は彼を家に招いた。コメントを書くための、鹿野さんとの生前の思い出を話すためである。背広姿が頼りない若者だったが、生業にしているだけあってエピソードを引き出すのはうまく、気がつけば夜更けまで話していた。
その後彼は朝までにコメントの原稿を完成させていた。起きしなに、彼がよこした原稿を暗記するのは苦ではなかった。
葬儀を終え、昼食会場へ向かうと、幸喜亭の店主が目を真っ赤にして私にラーメンを手渡してくれた。
席へ向かう途中で、別の列に並んでいる沼崎さんとすれ違った。私は足を止めて彼女に声を掛けた。ようやく手に入れた幸喜亭のラーメンを彼女に自慢したかったのかもしれない。
「君が鹿野さんの本を好きなんて初耳だったよ」
意地が悪すぎたかもしれないが、ラーメンの器を持った私は有頂天になっていた。それにホラを吹いてラーメンを横取りするような人にはこれくらい許されるとも思った。
沼崎さんは少し驚いたような表情を浮かべてから口を開いた。
「そうよ。月野さんにも言ってなかったかしら」
彼女は平然と、低い声で答えた。
俳優の雅輝暁が死んだらしい。南洋でのトローリング中、釣り上げたカジキに胸を刺されたらしい。一年の半分以上は海に出て魚を釣っている男らしい最期だった。
しかし、彼の死はあまりに唐突だった。まだ私よりも一回り以上も若いのに、映画に出るたびにメガヒットを叩き出す、この国ではトップを取ったと言っても過言ではない人気俳優だった。けれど彼がこれからも興行記録を塗り替えていくだろうと思い込んでいた。しかし今朝のニュースが突然の訃報を伝えた。
彼の通夜の日、私はいつも通り斎場へ向かう車中でスズキから原稿を受け取った。それに目を通した後、報酬を貰おうとしていたスズキに原稿を突き返した。目を白黒させる彼に私は言った。
「こんなコメントで、誰が感動するんだ?」
今日の通夜では絶対に食べたいものがあった。それは雅輝暁の故郷である坂羽島の名産品、坂羽蟹である。この時期にしか獲れず、鮮度などの問題で、都心で食べられる機会はめったになかった。しかし坂羽島近海の荒く、それでいて豊かな海で育った、締まった身と濃厚な旨味の蟹は、至極の蟹とも謳われていた。
「しかしこれ以上のことはどうやったって書けませんよ」
スズキは困惑した表情を浮かべた。困ってばかりいて、何もしようとしない彼に、無性に腹が立ってきた。彼のような味音痴には、ケガにとタラバガニの違いも分からないのだろう。
口を閉ざしたままの私に、彼は言い訳を述べ続けた。
「雅さんとは関係性も薄いじゃないですか」
「薄いなら薄いなりに、どうにかできるだろ」
「私に嘘を書けというんですか」
彼は突然声を荒げた。そういえば彼には、ゴーストライター稼業をしていながら、弔辞に虚偽は書かないというくだらないプライドがあった。しかしそれは飯にもならないプライドである。彼のおかげで坂羽蟹を逃しかけているのであるから、文字通りである。
「書けないならクビだ。もう用はない、車から降りて帰ってくれ」
車はちょうど、赤信号に引っ掛かっている。彼は黙ってシートベルトを外し、車を降りた。彼の座っていたところには、原稿の紙束だけが残されていた。
運転席から心配そうな視線が投げられていた。私はただ顎で前方の青信号を指した。マネージャーは黙って車を発進させた。
都心にもかかわらず、通夜が営まれる寺に近づくにつれて磯の香りが強くなっていく。釣り好き、魚好きだった雅は。「出航! 日本の漁師メシ」でレポーターを長年続けていたこともあり、全国の港町の美味い店と親交があった。だから海の幸専門の食通だった男の通夜には全国の海鮮が集まっているのであろう。
寺に到着しても、すぐに通夜には向かわなかった。まだ手を抜いてきたスズキに腹が立っていた。ムカムカした状態では、美味いものを食べても、三割減の味しか感じられない。怒りが収まるまで寺の周りを歩くことにした。
法要が営まれる寺の周りは落ち着くものである。故人が美食家であればなおのことだ。線香の香りで心が休まるし、美味いものの匂いは食欲を昂らせて、それまでの気持ちをリセットしてくれる。今日は焼けた魚の甘い脂の匂いがする。肉や魚の焼けた匂いは、特に直接食欲を刺激する。半周もしないうちに、私の頭は通夜での食事でいっぱいだった。
道には自転車でこちらに向かって来る男がいた。中年を越えたくらいの、髭を生やした男だった。細い道で、周りは同じく寺社ばかりである。夕暮れになると、あまり人が通らないのであろう。
自転車の男は、何もないであろうところで、突然自転車ごと倒れた。私は駆け寄って、まずは彼の上にのしかかる形で倒れていた自転車をどけてあげた。そこで男の顔に見覚えがあることに気づいた。夕闇でそれまでわからなかったが、ここまで近づくと小汚い髭が私の記憶を刺激した。通夜や葬式の度に遺族や友人を騙って入ろうとしていたあの男だった。見れば今日も薄汚れた黒いジャンパーを羽織っていた。
「今日は雅輝暁の通夜にいくつもりかい?」
「当たり前だろ。俺とあいつは兄弟なんだからさ」
「あんたも懲りないね。高尾さんの時も鹿野さんの時も入ろうとしてただろ」
「あいつらも俺の兄弟だからな」
「兄弟って言うのは、義理のかい? まさか全員と盃を交わしたわけじゃないだろう」
「馬鹿言っちゃいけねえ、俺とあいつらは血を分けた兄弟だよ」
「嘘をつくならもう少しましな嘘をこしらえなさいな」
あまりのいい加減さに、私は半笑いで言ってしまった。しかしそれが彼の気を損ねたらしく、キッと目を剥くと、私の手から自転車を奪い取った。
「きちんと調べないで適当なことを抜かすなよ、馬鹿野郎が」
彼は去り際にそう言い残した。それは嘘を暴かれたというよりも、謂れのない誹りに対する反抗のように見えた。彼は本当に高尾さんたちが兄弟だと心の底から思っているのではないだろうか。
そんなくだらない考えが、一瞬だけ私の頭をよぎった。そんなことが起こればしょっちゅう矛盾にぶち当たって、すぐに気が付くはずだ。
空腹は頭の中でスズキに対する怒りを圧倒していたが、いま寺に行くと、あの小汚い男がスタッフに押し返されているところに出くわしかねなかった。私はしかたなく、ゆっくり寺を回ってから通夜に行くことにした。
まだ蟹がなくなってしまうことはないだろう。用意してきたコメントは完璧だという自信があった。どうあっても、蟹の一杯や二杯、私のためにキープされるはずだ。
周りを一周してから寺の門をくぐると、すぐさま取材陣に囲まれた。私は彼らの頭越しに、境内に並ぶ屋台を見渡した。
大振りのカキの磯焼に、脂ののったマグロの竜田揚げ、新鮮なアジのなめろう、土地の名産品を一番の美味しい方法で調理された品々が振る舞われていた。どれも空腹を刺激するものばかりである。
しかし本丸は本堂のほど近くに控えていた。焼香を済ませた喪服姿の者は、皆真っ先にそこへ向かうため、どちらが焼香の列かわからなくなっている。目を凝らすと仮設のパイプテントの下では、鮮やかな朱色に輝く甲羅が参列者に手渡されているのが見えた。
とりあえず自らの仕事を果たそうと、適当な質問をまくし立てる記者たちを、私は手を上げて制した。
「雅輝暁さんと、同じ俳優という職業を生業にしていながら、生前仕事場でご一緒する機会には恵まれませんでした。しかし、飯屋ではしばしば顔を合わせていました」
周りの記者たちの間で、クスクスと笑いが起きる。ここまでは狙い通りである。
「誰もが一度はスクリーンでご覧になったでしょうから、彼が超一流の映画スターであることはご存知でしょう。しかし私にとって彼は一人の食通でもありました。彼ほどこの国の海の幸に精通している者は、全国どこを探しても見つからないでしょう。ですから、彼の死は美食界にとっても大きな損失であろうと思います。それに、彼は俳優としても、もっともっと驚くような記録を樹立していくものだと思っていました。共演した映画の撮影中に、彼と話したことがあります」
しんみりし始めたのか、周りが静まり返っていた。私を取り囲んでいた記者たちだけではない。旅に出なければであえない海の幸に浮かれていた参列者たちもまた、箸を止めて黙り込んでいた。
私はまた一歩、坂羽蟹の屋台が近づいたような気がしていた。
「その時まだ彼は駆け出しの俳優で、エキストラとして撮影現場にいました。その時にはすでに、演者としての存在感は抜きんでていました。何か言葉に出来ないオーラと言うものでしょうか。けれど俳優として目が出ず悩んでいると彼が休憩中の私に相談してきたんです。だから私は彼に言ったんです……」
「あんた、そのとき雅輝暁に気が付かなかったんだろ」
誰かの怒鳴り声が私の話に割って入ってきた。突然のことに、何を言おうとしていたか忘れてしまった。しかし、どこにでも言いがかりをつけて来る者はいる。そういう連中には正面から立ち向かわない方がいい。私は落ち着いた口調を意識して話を始めた。
「誰かと勘違いされているんじゃないですか。彼と私は……」
「デタラメを言うのもいい加減にしろ」
怒鳴り声を合図に、私に向かって何かが飛んできた。カキの殻やマグロの骨、アジの尾鰭。喪服姿の男女が食べ終えて出たゴミを、私に向かって投げつけていた。
頭を庇おうと、腕を上げた。同時に、何かが両脇に差し込まれた。強い力で後ろに引っ張られ、半ば倒れ掛かってしまう。見ると、二人のスタッフが私の両脇を抱えて、境内の外へ追い出そうとしていた。
「やめろ。俺は関係者だ。雅の恩人だぞ。話を聞け」
いくら足をもがいても、地面を蹴ることはかなわなかった。左右の二人はそのまま門の外まで引き摺っていくと、最後は私の体を放り投げるようにして、地面に叩きつけた。
気がつけば私の喪服はすっかり汚れていた。
自宅でカツ丼と称されるものを食べたが、あんなものがカツ丼のうちに入るとは到底思えなかった。
朝からカツ丼が食べたくてしかたがなかった。カツ丼と言えば、やはりキクヤ食堂のカツ丼だろう。私が知っている中で、あの店のカツ丼が一番美味い。休日だったこともあり、私は早めに家を出て、昼前にはキクヤ食堂へ到着していた。
しかし、店が目に入った瞬間に嫌な予感がした。昼食時ではないとはいえ、もう開店してもいい頃合いだった。しかし店のすりガラスは、店内の電気がついていないことを伝えていた。
「お客様各位 フランスへ修行に行ってきます。店主」
マジックで丁寧に書かれた貼紙が入口の前に貼ってあった。その日は風が強く、上しかテープが張られていないその貼紙は風に吹かれて踊っていた。
気が進まなかったが、結局私は自宅で昼食を食べた。
しかし、もう準備は万端である。ジムでシャワーを浴び、体を動かし、おまけにサウナに入って、体は空っぽである。カツ丼を迎える準備はできている。それにキクヤ食堂の店主だって、こうなればフランスから帰ってくるだろう。
更衣室に入ると、二人の男が立ち上がった。芸能関係者のような明るさとは無縁の、野暮ったい男たちだった。
私が着替え終えるのを待って、一人が近づいてきた。
「月野、いや飯山聡さんですね」
彼は私の本名を言い直した。彼の肩越しに、もう一人の男が更衣室の出口を塞ぐように立っているのが見えた。
覚悟はしていたが、思ったよりもずっと早かった。キクヤ食堂のカツ丼は当分お預けだろう。
「ええ、そうです」
そのまま私は車に乗せられた。車内でカツ丼を頼むと、一人の男が驚いたような、それでいて小馬鹿にしたような表情を浮かべながらも素直に応じた。しばらくはカツ丼はおろか、白米も食べられなくなるだろうから、最後にはどうしても食べたかった。
連行された薄暗い取調室で、カツ丼は既に届けられていた。驚くほど伸びきったラップが、ぴったりとどんぶりの縁に張り付いていた。
私は一口カツ丼を口に運んだ瞬間に、自分の失敗を悟った。
役所の近くの大衆食堂は、大抵やる気がない。役人と役所に来た市民で、どうにか経営がなりたってしまうのだ。そんなもんだから、味の改善などする気がはなからないのだ。
しかしやけに塩辛いカツ丼だった。
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