プリン型の夢(短編集)

厠谷化月

プリン型の夢

「わあぁっ…」


 岡本は自分の寝言で飛び起きた。彼の身体は急な覚醒に着いて行けず、たくさんの空気を求めて荒い呼吸をしていた。寝巻の襟は寝汗でグッショリと濡れていて、いつも以上に下がっていた。心臓は肋骨に当たっているのではないかと思うほど激しく動いていた。

 岡本の隣で寝ていた彼の妻は、忙しい中でハエが飛んできた時に出すような、苛立ち紛れの唸り声を鼻の奥で鳴らすと、寝返りを打って岡本に背を向けてしまった。

 彼はせめてもの償いにと、寝返りの際に剥がれた布団を彼女の肩にかけ直してあげた。それからベッドに臥せるでもなく、頭を抱えてしまった。ここ一週間ほど、毎晩この調子だが、彼にはどうすることもできなかった。彼の心の中では、妻への罪悪感と自分が何もできないということへの絶望感がマーブリング模様を描いていた。

 このままでは、気が立って眠れそうになかった。時計を見たら午前3時を回ったところだった。日が昇ったら会社へ行かなければならなかった。そのためにはすぐにでも眠っておきたかった。彼は落ち込んだ気分と興奮した身体をどうにかしようと、水を飲みに寝室を出て行った。

 彼は廊下の電気をつけず、片方の壁に手を沿わせながら台所へと向かった。シンクの上の蛍光灯をつけると、真っ白な光が彼の目を刺した。これで目が冴えてしまったかなという心配を頭から振り払って、彼は蛇口をひねった。蛇口からは、水泡が弾けるショワーという音を伴って水が流れ出した。

 コップに注いだ水は、彼の火照った身体にはとても冷たく感じた。その頃には彼の心臓も落ち着いてきていて、寝巻に取り残された汗が奪う熱と身体から生み出される熱の収支が均衡を欠いた。彼は寒さにブルッと身体を震わせた。


「昨日は大丈夫だったの?」


 岡本が起きてリビングに行くと、食事の支度をしていた彼の妻が開口一番に尋ねた。その文面は彼を心配しているものだったが、彼女の口調には明らかに抗議の意図が含まれていた。彼はわざと曖昧な返事をした。自分でもあれが大丈夫なものかわからないし、万が一大丈夫だったとしても、連日眠りを妨げられている彼女のことを思うと、とても首を縦には振れなかった。


「何の夢を見ていたの?」

「わからないんだ、それが」


 彼は率直に答えた。

 確かに、昨晩飛び起きる直前まで何かの夢を見ていたという記憶はあった。だが、それがどんな夢かはさっぱり覚えていなかった。自身が起きるほどの叫び声を上げておきながら、彼には、お化けの類や殺人鬼なんかに追われるといった、直接的に怖がらせるような夢を見ていたという感覚はなかった。寝汗なんかもあれだけかいていて、それはないだろうと言われればそうなのだが、直接的な悪夢を見ていたという感覚だけは本当に持ち合わせていなかった。

 彼は椅子に座って、朝食を食べ始めた。平皿の上に載ったウィンナーは、中がまだ温まっていなくて、固まった油が不快だった。だが、彼よりも早く起きて朝食を用意してもらっている手前、彼は妻に文句を言うことが出来なかった。


「病院行ったら?」


 岡本の後ろで洗い物をしていた彼女が提案した。


「俺を病人扱いするなよ。」

「あの様子は誰が見ても病人よ。」


 彼女は口をとがらせた。そう言われてみれば、彼は毎晩うなされては飛び起きていた。快眠が自慢だった今までの彼と比べると、ここ最近は確かに病的に質の悪い睡眠しかとれていなかった。

 テレビでは、朝のワイドショーが近年の日本人の睡眠時間が短いことに警鐘を鳴らす特集を流していた。それを見て彼は腹を立てた。テレビ局の振る舞いがあまりに身勝手だと思えたからだ。毎晩うなされているのに、これ以上長く寝貸されたら最後、どうにかなってしまいそうだった。

 口に残った冷たい油を溶かすためだけに、熱いコーヒーを流し込んだ。口の中に残っていた米粒が、コーヒーの苦みとちょうど合わなかった。


 幸いなことに、岡本の家の近所に心療内科があった。朝10時から受付を開始するということだったため、彼は午前休を取って病院へ行くことにした。

 彼は病院へ行く途中で、近道のために公園を横切った。砂場ではまだ幼稚園に入っていないくらいの幼い子どもが遊んでいた。砂場には、プリン型の砂山と、それと同じくらいの大きさのバケツのおもちゃがあった。その子が砂を詰めたバケツをひっくり返して作ったのだろうと彼は思った。

 砂場のそばを取りすぎる時、岡本は目の前に広がる光景に妙な既視感を覚えた。不思議に思った彼は、歩調を緩めて砂場の方を凝視した。しばらくして彼自身が視線を感じた。顔を上げて視線を辿ると、近くのベンチでその子の親と思しき人が、彼を睨みつけていた。子どもが遊んでいる砂場で急にゆっくり歩きだした岡本は、親の目に不審者として映って当然だった。それに気づいた彼は顔を下げて、逃げるように砂場から立ち去った。

 田中心療内科の外観は灰色のコンクリート造りの四角張ったものだった。岡本はそれを見て昭和後半はおしゃれな家だったのだろうなと思った。半月型の把手のついたガラス製のドアはやはり時代遅れのデザインだった。ドア越しに中を覗く限りでは、待合室に患者はいないようだった。午前中いっぱい待合室に座ることを覚悟していた岡本は、大して待たされずにいれそうだとわかると、気持ちが軽くなった。

 岡本がドアを開けて病院に入ると、受付で雑誌を読んでいた四十代くらいの女性看護師は、目だけを上げて彼を見た。


「初めての方ですか?」


 受付の看護師はぶっきらぼうな口調で岡本に尋ねた。彼が肯定すると、看護師はため息をついて、体を折り曲げると、緑がかった青色のプラスチック製バインダーを取り出した。


「これに、必要事項を記入してください。」


 彼女はバインダーを押し付けるように岡本に渡した。自分が心療内科へ行くことになって、傷心気味だった岡本は、態度のよくない看護師に面食らってしまった。彼は肩を丸めて壁際のソファに向かった。

 彼は動揺した心を抑えようとして、無意識にバインダーの表面に指を滑らせて、その革を模したような不定形な模様の触感を楽しんでいた。彼のもう片方の手はボールペンを握り、バインダーに挟まれた問診票への記入を進めていった。バインダーの表面を覆うプラスチックは、その上でペンを走らせるには軟らかく、彼は記入に少し苦戦していた。

 どうにか記入を終えた岡本は顔を上げた。目だけを彼に向けていた受付の看護師と目が合ったが、看護師はすぐに目を伏せた。


「記入、終わりました?」


 看護師は岡本が受付の方にやって来ると、まるで今気づいたかのように顔を上げた。


「はい。」


 岡本はバインダーを看護師に差し出した。看護師は彼から奪うかのようにそれを受け取った。彼はさっきまでバインダーを掴んでいた手を名残惜しそうに眺めていた。


「ボールペン、持って帰らないでください。」


 看護師のその口調は、泥棒に注意するような口調だった。彼は疑われたことが心外だった。彼は一応看護師に頭を下げてから、とぼとぼと待合室のソファに戻った。内装も、昭和の香りが漂っていたが、決して手入れが行き届いていないという感じはしなかった。近くに置かれていた観葉植物は、青々とした葉を力強く広げていた。

 待合室には、無音でテレビがついていた。彼はそれに目線を移した。この時間帯のワイドショーを見るのは久しぶりだった。旗日か有休をとった日くらいしか、平日のこの時間帯のテレビを見ることはなかった。もっと言えば、そういう日はたいてい自宅のソファで微睡んでいるため、テレビをつけていても、意識して見ることはなかった。だから彼が昼間のワイドショーをしっかりと見るのは初めてくらいだった。

 テレビではタレントが口々に何かを言っていた。音が決してあるため、彼らは口をパクパクと動かすばかりで、何を言っているか岡本には分らなかった。だが、諸外国と日本の人々の平均睡眠時間の棒グラフが描かれたフリップが出てきて、大体何を言っているかが分かった。

 このところやけにこの国の睡眠時間が短いことが取り沙汰されていた。それは世相に疎い岡本でも感じていた。大方アメリカの雑誌か国連の機関かわからないが、どこかのスゴい組織が各国の平均睡眠時間を調べて発表したのだろうと、彼は踏んでいた。大学のランクにせよ、何にせよ、この国のメディアは欧米で発表されると、一大事とでもいうように食いつくものだと彼は思っていた。


「岡本さん、診察室へどうぞ。」


 看護師が彼を呼んだ。睡眠時間のグラフを見て、滑稽なくらい驚いた表情を浮かべるタレントの顔が画面いっぱいに広がったところだった。名前を呼ばれて、岡本が受付の方を見ると、顔を下げたまま彼の方を見ていた看護師と一瞬だけ目が合った。看護師はまたすぐに目線を下げてしまった。

 受付の前を通り過ぎ、診察室へ通じる扉へ行くまで、彼は鋭い視線を感じていた。これまでのことを考えると誰のものかすぐにわかったし、振り返っても無駄だということもわかっていた。だから彼は、むず痒さを覚えながらも、無視するようにまっすぐ扉の方を見つめて歩いていった。

 診察室には、30代半ばくらいの男性が背もたれ付きの回転椅子に座っていた。その男が診察室にいたことだけでなく、白衣を着ていたことからも、医者であることが岡本にわかった。その男の髪はきれいに整えられていて、度の強そうなレンズがはめてある、大きめの黒縁眼鏡を掛けていた。


「それで…岡本さんですね…よく眠れないということでしたが——」


 医師は片手でスツールを指して岡本に着席を促しながら、早速問診票に目を落として診察を始めた。


「——それは、眠りが浅いということでしょうか?」

「そうですね、毎晩夜中に飛び起きてしまうんです。妻によれば、いつもうなされているみたいで。」


 岡本はスツールに座りながら答えた。医師は岡本の話を聞きながらペンを走らせた。


「悪い夢を見ている、ということですか?」

「確かに飛び起きた時は、心臓がバクバクとしていて、うなされてもいますし…。私も夢を見ているという感覚はあるのですが、しかしその内容までは——」


 岡本はそう言いながら、ここまでの道中に通った公園で抱いた既視感を思い出した。砂場で見かけた2つのプリン型、バケツと砂山が妙に印象的だった。


「——いや、思い出しましたよ。プリンですよ。」

「プリン…?」


 医師は岡本の言葉を不思議そうに繰り返した。


「つまり、プリンに襲われるといった夢を、ということですか?」

「いや、襲われるような夢ではありません。プリンを逆さにしたような、下に行くほどすぼまった筒が目の前に浮かんでいるんです。」


 岡本は一度夢の内容の一部を思い出すと、まるで堰を切ったようにその夢のことを色々と思い出せるようになった。


「私は夢の中で原っぱにいるんです。そこに立っていて、目の前にプリン型の何かが一つ、浮かんでいるんです。それは本物のプリンよりももっと細長くて、人の背丈の倍くらいの高さがあります。」


 彼は毎晩見ていた夢の内容を思い出せた瞬間、しばらくぶりに胸のつかえがとれたような解放感を覚えた。それがあまりにも嬉しかったのか、彼の口は急に滑らかになった。医師に問われるまでもなく、さらに今まで見ていた夢の説明を続けた。


「原っぱではどこからともなく陽気な音楽が流れているんです。私はいつもそれを聞いて耳に残るようなメロディと歌詞だなと感心するのですが、目が覚めると忘れてしまうんです。それから、目の前に浮かんでいるプリン型の何かも、夢の中ではそれが何かはっきりとわかっているような気がするのですが、目が覚めた途端、さっぱりと忘れてしまうんです。」


 岡本がとめどなく話す夢の説明を、医師は途中からペンを止めて聞いていた。岡本の説明を聞いて適当なところでうなずきはするものの、実際のところはその大部分を聞き流していた。大学でフロイトやユングを多少齧ったものの、医師は夢分析を本業としていなかった。だから夜毎に見る夢について仔細に説明されても、どうすることもできなかった。

 それに医師にとって他人の夢の話ほど退屈なものはなかった。その多くがまるでストーリーが考えられていない脈絡も突拍子もない話だった。人に聞かせるための物ではないのだから当たり前と言えばそれまでなのだが、医師はどうしてもそう割り切ることはできなかった。


「しかしね、岡本さん。うなされて飛び起きるということでしたが、夢を見ている間に恐怖心は抱いているのですか?」


 医師は岡本の話が途切れたころ合いを見計らって、ずっと疑問に思っていたことを尋ねた。


「直接的な怖さはありません。プリン型の前で私の身は安全ですから。しかし、そのプリン型の存在が不気味なのです。オカルティックな不気味さではありません。もっと根本からの——」


 それから岡本はしばらく首を傾げて考え込んだ。


「——嫌悪感です。恐怖感ではありませんでした。私の夢の中にあるのに、明らかな異物感が漂うというような、そういう感覚です。」


 岡本は自分が無意識に抱いていた感覚を明文化できたことですっきりとした感覚になった。だが彼が顔を上げると医師は彼ではなく机上を見つめてペンを走らせていたので、がっかりとした気持ちになった。

 ここ最近、よく眠れないことに悩まされてきた岡本は、いつの間にか医師にすがりつくような気持ちで話していた。受付の看護師の態度は気に入らないものの、この医師なら彼の悩みをきれいさっぱり解決してくれるように思っていた。だから、彼の話を、カルテを見ながら聞く医師の姿を見て、彼は機械的にあしらわれているような感覚になった。


「そしたら、睡眠薬を処方しておきましょう。初めは弱い物からで…」


 医師は岡本の口から飛び出した「異物感」という言葉に興味が湧いたが、当の岡本は悩みを全て吐露して満足したのか、以来口が重たくなって詳細は聞き出せなかった。医師は仕方なく、いつも通りの手順で処方する薬の説明を始めた。


「どんな夢を見ていたか、思い出したよ。」


 その日の晩、会社から帰宅した岡本は、夕食を食べながら妻にそう言った。

 彼はいつもよりも機嫌がよかったから、食卓でも口が軽かった。会社の上司が、残業を止めて定時で退社するように部署の皆に言ったから、いつもよりも早く帰ることが出来た。この上司がどこから影響を受けたのかは明らかだった。彼は風見鶏のメディアを見下していたが、上司に思わぬ影響を与えていたことを目の当たりにして、テレビなんかを見直してしまった。


「どんな夢だったの?」


 焼き魚の身をほぐしていた手を止めて、彼の妻が尋ねた。


「夢で俺は原っぱにいるんだ。そこでどこからともなく陽気な音楽が流れていて…」


 彼は箸を動かしつつ、昼間病院で医師に話したような説明をもう一度彼の妻に向かって行った。

 彼の妻は適度に相槌を打って、彼が話しやすくなるように努めたが、話を聞くうちに一つの疑問が浮かんだ。それはだんだんと大きくなって、彼女の頭の容量を占領しだした。次第に彼女はその疑問に気を取られすぎて、彼の話をしっかり聞く余裕もなくなった。


「それのどこでうなされていたの?」


 彼が一通り話し終えたタイミングで、彼の妻が聞いた。


「プリン型に異物感があるんだ。俺の夢に無理矢理押し入ってきたような。それが気持ち悪くてうなされていたんだと思う。」


 岡本の説明を聞いた彼の妻は、なおも疑問が残っていたが、とりあえず頷いておいた。


「わあぁっ…」


 岡本は自分の寝言で飛び起きた。彼の心臓はいつも通り早鐘を鳴らしていた。時計を見ると午前五時前だった。睡眠薬を飲んだものの、彼は昨日と同様に夢は見たし、飛び起きもした。変わったことと言えば、飛び起きる時間がいつもよりも遅くなったことくらいだろうか。

 日が昇りきる前で、寝室のカーテンの隙間からは外の光が薄っすらと差し込んで部屋を見渡すことが出来た。どこか、彼の周りはいつもとは異なっていた。ふと彼が隣を見ると、そこにいたはずの彼の妻がベッドに窪みを残していなくなっていた。彼女の不満げな寝息の不在が彼に違和感を与えていたのだった。

 寝汗が酷く、喉がカラカラだった。彼は寝室を出ると、台所の明かりが点いているのに気が付いた。台所には先に彼の妻が水を飲んでいた。


「ごめん、うるさかった?」


 台所の入り口で、彼は妻に詫びた。彼女はそれまで彼に気づかなかったのか、その声を聞いて驚いたように彼の方を振り返った。彼女はそうしてしばらく目を丸くして彼の方を眺めると、先ほどの言葉を思い出して、首を横に振った。ボサボサに乱れた髪が、遅れて彼女の頭の動きに呼応した。

 岡本は彼の妻の姿が昨晩の記憶と変わっていることに気が付いた。彼は寝起きで、周りは薄暗がりだったが、どうしても彼の気のせいには思えなかった。彼女の頬はやつれていたし、目は何かに怯えているようにうつろだった。


「…見たのよ。」


 彼女は静かにつぶやいた。新聞配達のバイクの音が重なって、彼の耳にはその言葉が届かなかった。それに気づいたのか、彼女はもう一度口を開いた。


「私も見たのよ。」

「何を?」

「プリン型の浮かぶ夢をよ。」


 岡本は背筋に冷たいものが走ったように感じた。寝ぼけまなこだったのが、急に眼が冴えた。岡本は妻を目の前にして、鏡を前にしているのと同じだということに気が付いた。彼が毎晩うなされて飛び起きる姿を、彼の妻がどのような気持ちで見ていたのかが分かって、彼は足元がすくむような気持になった。自分がここまで病的な姿をしているとは想像したくもなかった。


 岡本は今まで夜中に飛び起きたとしても、もう一度眠ることが出来ていた。だが、今朝は違った。少し明るくなってから飛び起きたというのも一因なのだろうが、それよりも肝を冷やす出来事があって眠るに眠れなくなってしまったからというのが大きかった。

 今朝は彼の妻には寝てもらっていた。明確な証拠があるわけではないが、彼の妻があんな状態になってしまった心当たりが岡本にないわけではなかった。朝食を抜いたせいで疼く腹を抱えながら、彼は駅までの道のりを歩いていた。

 大通りを横切る信号に捕まってしまい、岡本は心の中で舌打ちをした。スピードを出して目の前を横切っていく車を茫然と眺めながら、彼は寝不足で重くなった頭で今日をどうやってやり過ごすかを考えていた。自宅の最寄り駅から勤め先の最寄り駅までは電車で一本だったが、乗車時間は1時間近くかかる。かといって、通勤ラッシュ真っ只中の電車に空席がある望みは薄く、いつも通り起きて立っていることになりそうだった。


「あぁっ」


 岡本の近くで誰かが声を上げた。まるで見知らぬ土地で知己と再会したかのような、そんな風な声だと彼は思った。彼がいたのはベッドタウンの駅までの道で、時間は朝の7時半である。彼の周りには、どこに潜んでいたのか不思議に思うほどの人で溢れ返っていた。だから、誰かが今ここで、奇跡の再開を果たしていてもおかしくはなかった。岡本は、誰かの声をすぐに忘れて、またぼぉっと信号が青になるのを待ちだした。


「岡本さんじゃないですか。」


 さっきの声の主がそう言ったのを岡本ははっきりと聞き取った。自分の名前がさほど珍しいものではないとは分かっていたものの、癖で彼は声のした方に首を回した。そこには、起きたばかりなのか、短いながらも寝癖が酷い髪の男が、岡本の顔を指さして立っていた。その男は周りの人を掻き分けながら、岡本の方に近づいてきた。

 岡本はその男とは初めて会ったような気がしていた。一度あった人なら、誰だか思い出せなくても顔を見さえすればピンとは来る。だが、その男の顔は一切見覚えがなかった。癖で仕方のなかったとはいえ、ついその男の方を振り返ったのを深く後悔した。

 ちょうど信号が青になった。

 岡本は男を無視して、周りに倣って横断歩道を渡りはじめた。岡本の名を呼んだ男は、諦めることなく、人の流れに乗って岡本に着いていった。岡本も逃げるように早足で歩いていたのだが、前を歩く人の塊が思うように進まず、すぐに男に追いつかれてしまった。男はそこで口を開いた。


「岡本さん。僕ですよ、田中ですよ。」

「タナカさんですか。人違いじゃないですか?」


 岡本は、名前まで聞いてもその男とは初対面であるとしか思えなかった。


「何言ってるんですか、昨日会ったじゃないですか。」


 田中の言葉を聞いて、岡本は思い出した。昨日行った病院が田中心療内科であったことを。しかし、岡本のすぐそばをついて来る男は、昨日見てもらった清潔感のある医師とは大違いだった。

 だが男の顔を注意深く観察して、頭の中で想像の黒縁眼鏡を掛けてやると、岡本の中で昨日の医師と目の前の男がようやく重なった。それでも岡本には、田中医師に昨日会った時にまとっていた清潔感がなくなっていることが気になった。


「岡本さん、実は私もね…」


 岡本が信号を渡り切る田中を無視して素早く右に曲がった。それでも田中は岡本に着いていった。二人は小型スーパーの横を通り過ぎるところだった。スーパーで買い物を終えた客がちょうど出てくるところだった。客に反応して自動ドアが滑るように開いた。


「——ない ワ——」


 メロディと共に、歌詞の一部が店から漏れ出て岡本と田中の耳に入った。岡本は早足を急に止めた。田中も岡本から目を離して足を止めた。二人はまるで息をピッタリと合わせているようだった。

 二人はまたも示し合わせたようにスーパーへ歩き出した。まるで二人の身体に括りつけられた糸が引っ張られているかのようだった。


「——い おい——」


 店内は昼食を求める通勤客で混雑していた。


「——し上がれ——」


 雑踏の間から聞こえる音色のもとをたどって二人は店内を彷徨った。


「——タンスー——」


 岡本は心臓が跳ね上がった。今日は平日で会社に行かなければならなかった。それから彼はもうすでに起きて会社への向かっていることを思い出して、安堵の息を漏らした。彼はその瞬間、なぜか寝坊したと思い込んでいた。


「——の満足か——」


 田中は自身が起きているのか夢を見ているのかわからなくなった。途切れ途切れでかすかに聞こえるその音を辿りながら、彼は自らの頬をつねった。痛かった。その陳腐さに笑い出しそうになると同時に、それでようやく自身が起きていることを確信して安心した。


「——席ワンタンスー——」


 二人は即席食品コーナーへ踏み入れた。音はだいぶ大きくなっていた。


「おいしい おいしい ワンタンスープ

 熱湯三分 召し上がれ ワンタンスープ

 プリプリ食感 たまらない ワンタンスープ

 ぎっしり具材の満足感 タケ屋の即席ワンタンスープ」


 棚につけられたスピーカーから陽気な音楽が流れていた。すぐそばには国技館で見るようなのとつながりを感じる丸みがかったフォントで「新発売」と記されたポップと共に、即席スープがピラミッド状に積まれていた。それは今日、全国で発売が開始されたタケ屋のワンタンスープだった。耳に残るメロディも今日から流し始めたものである。

 だが、岡本はそのメロディと商品のデザインを随分前から知っていたような気がした。

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