八、どこへ


 馬車がゆれる。別荘の森を離れ、今はどの辺りだろう。窓を覆うカーテンの端を、向かい合って座るヒューバートがステッキの先でめくって外を確認した。

「半日もしないうちに鉄道駅につくだろう。それからロンドンに向かって……ああ、しばらく海を渡るのもいい。パリか、ウィーンか。お前が気に入っていた音楽家の新作オペラが盛況らしいじゃないか」

 セオドアが興味を持ちそうな話で機嫌をとろうとしている。もう毒を飲もうとしないようにと。

「あのメイドはアンといったか。夢想的な少女だった。お前の幻に付き合って誰もいない部屋で『エレナ』を看る役をしていたあの晩、夜への恐怖心が幽霊の幻覚を彼女に見せた。あるいは本当に見たのかもしれない。少なくとも俺がエレナの部屋に入った時は何もなかったが」

 湖に浮かんでいたメイドのことだ。あの晩、エレナの部屋の前で幽霊を見たと半狂乱になっていた彼女をヒューバートが見つけたという。

「教えただろう。そういう第六感を働かせる類の人間は、俺達の正体に勘づく可能性が非常に高い」

 だから殺したのだ。もう一度、確認しようと甘くなだめてエレナの部屋に押しこみ、そこで血を奪って遺体は窓から湖に投げ捨てた。エレナのシーツに落ちていた血は、その時についたのだろう。

 正体に勘づかれる恐れもあったが、騒ぎが大きくなればセオドアの記憶が戻るかもしれないとヒューバートは考えたのだ。セオドアに遠い昔に失った妹の幻をもうしばらく見せてやりたかった。残酷を好む性分だが、自らの血を分け与えた所有物であるセオドアへの執着と愛情も本物だ。

 セオドアは膝の上に置いたフタつきの美しい木箱を大切に抱えていた。細やかな植物模様が彫られた木箱の中には、地下の納棺堂にあったエレナの頭蓋骨が丁重に納められている。

 別荘の地下は湖から染み出した水が長らく溜まっていた。納棺堂へ行けないほどの状態で、エレナの遺骨に手を出せなかったのだ。ヒューバートが毒を飲んだセオドアの療養に別荘を選んだのは、最近、水が引いたという噂を聞いたからだった。自分の側から勝手にいなくなろうとしたセオドアを繋ぎ止めるために、エレナの遺骨を贈り物にしようと考えたのだろう。

「エレナとどんな話をしたんだ? 幻であっても、少しは慰めになったか?」

「どうだろうか……」

 エレナの幻の言葉はセオドアの後悔だった。

 天に背いて闇に堕ちたセオドアと、純粋な死者であるエレナの世界はもはや交わらない。たとえセオドアの肉体が滅びたとしても、エレナと同じ場所へ行くことは叶わないのだ。悲しみと激しい怒りに駆られ、取り返しのつかない選択をした。

「元々、俺は美しい双子の兄妹を二人とも連れていくつもりだった」

 知っている。

 ヒューバートは真正面に腰掛けるセオドアを灰青色の双眸で捕らえて見据えてくる。獲物を魅了する深く甘い眼差しはヒューバートの意図的なもので、本来の彼の瞳は底知れない恐ろしさを持つ。不老不死の存在である彼がいつの時代か生きているのか、くわしく知らない。しかしその眼差しに悠久の時を感じると、急に足元がゆらぎ、底なし沼に引きずりこまれるような感覚に襲われるのだ。

「病から救えるのは俺の誘いだけなのに、エレナは拒んで死を選んだ」

 それも知っている。

 エレナは死の運命を受け入れたわけではない。最後まで生きたいと切望していたのだ。唯一、自分を病から救えるヒューバートの誘惑に、大いに揺れた部分はあったのだろう。それでも頑なに拒んだのは彼女の中の闇を忌避する正しい心と、もし自分がヒューバートについていけばセオドアも自分を追ってヒューバートの手中に堕ちてしまうと考えたからだ。

「俺もエレナが死んだ時は本当に悲しかった。だからエレナの死後、お前の前から姿を消した。悲しみにつけこんでお前だけでも連れていくのは簡単だったが、エレナの死を利用するのをためらうほど、俺も彼女を大切に思いすぎていたんだ」

 しかしエレナの死を冒涜され、報復のためにセオドアがヒューバートを望んだ。

 セオドアは頭蓋骨を納めた箱に視線を落としてそっと撫で、自分を守ろうとしてくれていたエレナに犯した過ちを心の中で謝る。ヒューバートが何を言い聞かせようとしているのかは分かっていた。彼と永遠を生きるのはセオドアの選択なのだ。


 別荘の地下には長らく湖の水が溜まり、上階から納棺堂へ行くのは困難だった。最近になって行き来が可能になったのは水が引いたからではなく、積み上げられた石の隙間から建物の土台へ水が静かに染みこんでいっていたからだ。

 やがて別荘は激しい音を立てて跡形もなく崩壊した。

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霧に獣がひそむ 犬森ぬも @inumorin

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