七、セオドアの記憶


 そもそも、この別荘にいつからいるのか。それすら分からないことに気がついた。数日前からのような気がするし、数ヵ月前からかもしれない。多くの記憶を失っているらしい。しかしそろそろすべてを思い出す予感があった。

 笑えてくる。それならもっとも忘れていたかったエレナの死を、はじめに思い出す必要はなかったのだ。

 安楽椅子に崩れるように座るセオドアは、おぼつかない動作でグラスにワインを注ごうとしたが手を滑らせて酒瓶を落とした。残っていた中身が絨毯に染みこみ、酒瓶は床に無数に転がる酒瓶とぶつかり合ってむ頭に響く音を立てる。

 どれだけ飲んだだろう。かなり酔っていた。それでも耐えがたい喪失感はいつまでも鮮明で、精神を拷問のように抉り続ける。心などなくなってしまえばいいのに。

「お体に障りますよ。もうおやめください」

 いつの間にか日が落ちたようだ。ぼやけた暗い視界に、別荘の管理人の妻がオイルランプを灯す。恐る恐る進言した彼女の目にはセオドアへの哀れみが浮かんでいた。

 かまわずもっと酒を持ってくるように指示しながら、給仕はメイドの仕事だったはずだがと思う。いやいや、そうだ。二人のメイドのうち一人は亡くなり、一人は家族を亡くして近隣の村へ帰ったのだった。今、ここには別荘の管理人である初老の夫妻しかいない。

 相変わらず窓の外には霧が漂っているが、わずかに薄まってきたようにも感じた。それに伴ってセオドアの記憶にかかった霧も晴れはじめている。

 仕方がなく酒を取りに部屋を出ていこうとした別荘の管理人の妻を、セオドアは近くに呼び寄せた。

 自分が何をしようとしているのか分からない。体が自然と動く。彼女の腕を掴み、流れるような動作で抱き寄せた。

「だ、旦那様?」

 驚き戸惑いながら顔を引き攣らせたのは、本能が危険を察知したのか。

 いい香りがしていた。ワインより甘く、あたたかく、香しい。ひどく喉が渇いていた。


「このっ! バケモノめ……!」

 ありとあらゆる侮蔑を叩きつけるような怒声で我に返った。

 気づけば、別荘の管理人がセオドアに猟銃を向けている。涙で潤む目に憎悪を宿し、青ざめた顔で荒い呼吸を繰り返している。

 セオドアの腕の中では、彼の妻が目を見開いて絶命していた。顔は恐怖と苦痛を刻み、首と手首に複数の暴力的な噛み痕が見られる。セオドアの口元と衣服をぺっとりと濡らす生あたたかな赤い血は彼女のもの。血を貪り、味わい、死に至らしめたのだ。

 あれほど渇いていた喉が潤っている。口の中に残る味に恍惚とした吐息が漏れ、セオドアは彼女の手首を染める赤色に更に舌を這わせた。

 心は血を得た歓喜に震えているが、頭の中は澄み渡っていた。向けられている鉄の筒は見えている。妻を殺された男が引き金に指をかけ、生き血を啜るバケモノを屠ろうとしているが、こうして終わるのも悪くはないと思ったのだ。

 しかしそれはヒューバートが許さなかった。

 別荘の管理人の背後から伸びてきた手が彼の頭を掴み、まるで花を手折るように軽々と首の骨を折って命を奪う。

「セオドア。だいぶ渇いていたとはいえ、随分と行儀が悪い食事じゃないか」

 倒れた男を一瞥もせず、ヒューバートは片眉を上げてセオドアを嗤った。

「獲物が己の死に気づかないほど静かな食事をするお前が、らしくない」

 ヒューバートは芝居がかった様子で両手を広げ、上質な仕立ての自分の衣服についた血を見回す。セオドアの服も汚れているが、彼の方も盛大に血が染みついていた。

「俺は賑やかなのがいい。悲鳴、命乞い、泣き叫ぶ声、あの狂乱。最近はすぐに騒ぎになる時代になったからな、大人しくしているが」

 大人しくしているというのは嘘だ。ヒューバートは欲望を我慢しない。その美貌で冷たく嗤いながら獲物を捕食する彼は、セオドアがうんざりするほどの加虐趣味を持つ。獲物がギリギリ意識を失わない状態を保ちながら血を啜り、恐怖と苦痛に喘ぐ姿を楽しむのはいつものことだ。獣の襲撃に見せかけて小さな村ひとつを数日かけてじっくり味わった頃の話を、機嫌のいい時に何度聞かされたことか。

 昨夜、近隣の村を襲った獣もヒューバートだ。

「昨夜は仕方がない。不躾に聖なる言葉を浴びせられて気が立ってたんだ」

 死んだメイドのための祈りを聞いてセオドアの前から姿を消したが、その後、村へ向かったのだろう。

 ヒューバートはセオドアが抱える骸をぞんざいに掴んで床に転がすと、セオドアの肩を安楽椅子の背もたれに強く押しつけた。

「その顔はすべて思い出したようだな。俺達は不死者、天に背いた闇の獣。人の生き血を糧とし永遠を生き、『吸血鬼』と呼ばれることもある。まあ、名称はなんだっていい。セオドア、お前は俺の血を受け入れ、共に歩むことを自ら選んだ。その契約を勝手に破棄しようとするのはひどい裏切りじゃないか?」

 唇に笑みを浮かべているが、見下ろしてくる灰青色の眼差しに身震いするほどの獰猛な怒りを潜めている。

「半年前、お前は自ら毒を飲んだ」

「……終わりの来ないこの日々から逃れようとしたんだ」

「俺にバレないように、随分と巧妙に秘薬を手に入れたな。しかし俺がお前を手放すわけがないじゃないか」

「泣いてすがって、許しを請うてほしいのか?」

「請わないだろう、頑固なお前は」

 躾と称してどれだけ体に苦痛を与えても、セオドアが自分に服従することがないのはすでに実証済みだ。

「解毒剤を飲ませ続けて数ヶ月。ようやく目を覚ましたはいいが意識が不明瞭で、療養のためにこの場所へ連れてきたんだ。エレナが療養したこの別荘へ。ここに来て日に日に回復していったが、どうも記憶がおかしい。記憶を失ったというより退行し、エレナがいた頃の夢の中に囚われているようだった」

 毎晩、ヒューバートに飲ませられていたのは解毒剤だ。おそらくそのために絶食していたのだろう。干からびない程度にヒューバートから精気を分け与えられてはいたのだと思う。

 しかし渇きに耐えきれず、こうしてケダモノのように血を貪ってしまった。獲物となる人間には、できるだけ苦痛を与えないようにするのがセオドアのせめてもの良心なのだが。

 かつて人間だったセオドアはヒューバートに闇に堕とされた。同族だった人間は今や糧だ。自分に殺された獲物に同情をするが、罪悪感はすでに抱けない。人間が家畜を屠って糧とするのと何も変わらないことをしているのだと、気づけばそう考えるようになっていた。

「……私が見ていたエレナは幻だったのか?」

「俺には彼女の姿が見えなかった。残念ながらな」

 セオドアは自分の手を力なく見つめた。この手で触れたはずなのに、もう感触も温度も思い出せない 固く瞼を閉じたセオドアの髪を、ヒューバートは不気味なほどやさしく撫でてあやしてくる。

 昔、遺伝病に冒されたエレナはこの別荘で最期の日々を過ごした後、眠るように息を引き取った。ここはエレナが死んだ場所であり、セオドアが死んだ場所。セオドアがヒューバートの誘惑に堕ちて人間としての死を迎え、生き血を啜るバケモノとして蘇った場所だった。

 地下の棺に横たわっていた骸骨は、まぎれもなく七十年前に死んだエレナだ。

 どうしても愛しい妹の遺体を土の下に埋められなかった。本邸の庭に堂を建ててずっと側に置くことも考えたが、結局はエレナが好きだった別荘の地下を動植物の鮮やかな色彩の彫像で飾り立てた美しい場所に作り替え、そこに棺を安置したのだ。

 納棺堂を作ってからしばらくして、付近に流行り病が広がった。近隣の村でも多くの死者を出したという。

 エレナの命を奪ったのは遺伝病で、伝染する類のものではない。流行り病とは無関係だが奇妙な病で亡くなったという噂だけが広がり、やがて流行り病はエレナの呪いだと村人は怯えた。ついには元凶を退治しようと、彼らは地下の納棺堂に押し寄せて火をつけたのだ。

 たいして火が回らなかったのは地下の環境によるものだろう。酸素の不足、湿度、冷たい温度など複合的な理由で火は広がらずに自然と鎮火したのだ。しかし棺が無傷だったせいで恐怖は増し、憎悪へと育ち、村人たちはエレナの遺体の首を切り、心臓に鉄杭を打ちこんだ。

 それは、村人たちに不穏な動きがあると報告を受けたセオドアが、エレナの棺を他所へ移そうとちょうど別荘へ辿りついた時に行われた死者への冒涜だった。

 エレナの首を抱いて慟哭するセオドアをヒューバートが誘惑する。愛しい半身を穢した村人への報復を望むセオドアに、ヒューバートは必要な力を与えたのだった。

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