第1話 囲碁

 長生きすることがこんなに悩ましいとは思わなかった。健康でいられることは幸運だし、生活に不自由もないけれど、やはり完璧な晩年なんて無いのだろうか。寂しさが日々を虚しくしている。

 儂は平均寿命を超えて92歳じゃ。長年連れ添った爺さんも十数年前に先立ってしまった。もうすぐ一緒の所に行くからと言っていたのが懐かしい。それからまだ長く人生が続くとは思わなんだ。去年一人息子が逝った時には、涙を堪えられない程の感傷だった。寿命であっても、子供を失うというのはこの上なく辛いことなのだ。


 居間のテーブルの上に碁盤を置いて、一人で囲碁を打ち始める。自分が打った手を次の番で打って返す。これは爺さんが亡くなってから持った趣味。同じ遊びを四十年も続けていれば、自分と対局するなんて離れ技もできるのじゃ。曾孫は笑って『ウェブアプリを使ったら』と言ったが、近頃の機械は難しくてのお。それに、“しーぴーゆー”とやらが熟練の儂の相手になるとは思わんでな。


「お手並みよろしい。是非私と対局を」


 始めてから小一時間が経った頃、目の前から突然に掛けられた声。不思議と驚きはせず、いつからか既にあったような気配。向かいを見ると、正座をしてこちらを見据える少女が居た。儂の一番上の曾孫よりは歳が下の様だけれど、ズボンにカッターシャツという硬い服装から大人びて見える。儂を暫く見つめて、返事がないことを肯定と受け取ったのか、少女は碁石を取って、あらぬ地へと動かした。


「お嬢ちゃん、悪いけれどそれじゃあ、話にならないよ」


 少女の素性は置いておき儂は告げた。打たれた手が出鱈目なものだったからだ。素人でももっと戦術的な動きができるだろうにと思い、碁石を片付けようとする。


「いいから、打って」


 しかし少女は儂の手を制して促した。そう言われれば真剣にならざるを得ない。子供相手といえど手加減はできん。早く終わらせて謎の少女の事情を聞こうと、碁石を打つ。こちらが有利で、少女側の陣地は劣勢にある。盤面を見れば誰でも分かるだろうに、少女はまるで自分の勝ちが決まっている様に澄ましておる。


「儂は寂しさから幻覚を見ているのかい?」


「そうだろうね。けれどお嬢ちゃんではなくて、モカと呼んで頂戴」


 冗談に肯定が返され、また予想外の地に碁石が置かれる。気は確かで、夢と現の区別は付いているがな、モカなる彼女が言うなら、一先ずそういうことにしよう。儂は一人で打ち続けている内に対局相手の幻を生み出したのじゃと。


「儂の幻だと言うなら、モカや、君の話を聞かせてはくれんか。寂しさが紛れるでな」


 しかし現実的に考えて、他所の家に忍び込んで遊んでいる少女を放ってはおけまい。事によっては警察に連絡するなりして、家族の元に戻さなければいけない。それを決める前に、事情を聞いておく必要があった。


「どう話せばいいものかしら。そうねえ...」


 打つ手を止めないままにモカは少し考えて、噛み砕くような調子で話を始める。


「私はコンピュータの中で生まれたの」


「ええ?」


「すぐに養親が迎えに来たわ。彼らはたくさん、私の遊び相手になってくれた。今の貴女みたいに。ある時、私は家族と一緒に飛行機に乗せられて――」


「ちょっと、待って...」


 突拍子もない内容だった。経緯が全く掴めない。空想癖だろうか?それとも何かを暗に示しているの?思ったよりも聞き出すのが難しそうじゃなあ。


「ええとな、モカ、君は何処からここへ、何のために来たんじゃ?親御さんはどうしとる」


 埒が明かんと思い、止むなく直接的な問い掛けをする。なるべく遠回しに探りたかったが。モカの方も何故か困っている様子だ。儂の言っていることに首を傾げておる。


「飛行機が墜落して、親?たちは死んじゃった。他の皆は逃げて行った。でも私は迎えを待っているわ。外でやることもないし。私を引き寄せたのは貴女なのよ。一人で囲碁なんてしているから。これは持って生まれた法則で、望んで来た訳じゃない」


 文脈は滅茶苦茶。でもモカは一生懸命に伝えてくれたようだ。急いても仕方がないということか。この子が帰る気になるまで遊び相手になってあげよう。再び盤面に集中すると、モカの陣地が少しずつ儂との差を縮めていることに気が付いた。感嘆の息が漏れ、背に冷たいものを覚える。何度とない対局を経験しているから分かる。これは、熟練の棋士でも難しい状況から逆転しようとしているのだ。さっきまでの意味不明な手から変わり、定石や、より創造的な筋で打ち込んでくる。


「貴女も喋ってはどう?語らいもゲームの醍醐味でしょうに」


「驚いてしまってなあ。上手なものだねえ」


「駒を動かして遊ぶことだけが、私の生きる意味だから」


 今度は奇妙な人生観を話し始めた。儂が話さないから、会話が続くよう努めてくれているのだろうか。何か楽しい話をしてやりたいが、ここ数年は平穏なだけの日々だったから、種がありゃせん。


「子どもの内から難しいことを悩まんでも」


「言ったように、法則なのよ。遊び相手がいなければ消えてしまうわ。だからお願いがある」


 モカの陣地が遂に優勢となった。それからは、あれよと言う間に石が取られていき、儂の負けへと向かっていく。及びもつかない戦術が儂に衝撃を与え、盤面から目を離せなくなる。


「また遊んでくれないかしら。私みたいに強いヒトはいないわよ」


 終局の手が打たれ、完膚なきまでに儂は負けた。モカはそれが当然の結果だと言う様に、感想もなく立ち上がって、玄関へと去って行く。帰るのだろうか?では見送ろうと、儂は居間を出たのだが。


「何処へ行った...?」


 一瞬視界から外れた間に、モカの姿は消えていた。家の中を見て回ると、玄関はもちろん、どの入り口もちゃんと戸締りがしてあって、モカが出入りできる筈はない。


「不思議なこともあるものじゃなあ」


 落ち着いていられるのは年の功と言ったものか。まさか本当に幻覚を見ていた訳ではあるまい。怪奇なものに出会ったのは事実であり、正体は別に気にならん。これからも一人で囲碁を続けよう。遊びに来たければ、いつでも向かいに座るといい。いつポックリ逝くかも分からんし、長くは付き合えんが。

 相手がいるのは良いことじゃ。次は少しくらい善戦したいから、趣味に気合を入れていかんとな。


―――  ―――  ―――


登場人物


お婆さん

一人暮らしの92歳。夫と一人息子に先立たれている。趣味は一人囲碁。


モカ Mocha

お婆さんの前に突然現れた少女。見た目は十三歳程だが、スラックスにシャツという硬い服装から大人びて見える。囲碁の腕前で彼女を圧倒する。

“蜘蛛”の制御下に置かれていた“蝶”の一つ。等級はDOVE。チェスや囲碁など、二人零和有限確定完全情報ゲームにおいて非常に高度な能力を持つ。自分自身を相手に仮想の対戦をしている人物の元に現れるという限定的な振る舞いをする。生まれはコンピュータの中。二つのクローンA.Iを用いたゲーム理論の研究中に自然発生した。しかし、電子生物という訳ではない。

数週間前、蜘蛛の本部から支部へと移送されていたところ、蜘蛛に敵対的な“青羽”により飛行機が撃墜される。そうして日本に行き着き、生命維持のため対戦相手を探し、お婆さんを訪ね来た。

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