小夜

第51話







「おかえり、時雨」




ずっと部屋の窓から時雨が帰ってくるのを待っていた。部屋に入ってくるのと同時に出迎えると私の姿を視界に入れた途端、時雨が動きを止めた。不思議に思い名前を呼んで首を傾げると、伸びてきた腕に引き寄せられて強い力で抱きしめられる。時雨の香りに包まれると、その温もりに目を閉じた。心地いい。ずっとこうしていたい。時雨に抱き締められると、途方もない安心感に包まれて幸せな気持ちになるんだ。





「‥‥ただいま」



素っ気ない言葉に愛おしさを覚えて背中に手を回すと、いそいそと抱き上げられた。


 



「ちょ、ちよっとーー」




有無も言わさず時雨が向かうのは風呂場だが、既にお風呂に入った後なのに。あっという間に服を脱がせられると抱えられたまま湯船に浸からさせた。






「さっきお風呂に入ったんだけど」



結ぶ暇もなかったから、毎度乾かすのが面倒な長い髪が再び水分を含んで湯船に広がってしまっている光景に溜息を吐く。ようやく乾かし終わったばかりなのにと不満を口にするが、私を膝に乗せて一人だけ寛いでいる時雨は知らんぷりだ。






「ねぇ、聞いてるの?」


「‥‥」


「時雨のせいで髪が濡れたんだけど」


「‥‥」


「無視しないでよ」


「‥‥うるせぇな。こっちは疲れてんだよ」


「疲れてるなら、尚更お風呂くらいゆっくり浸かればいいじゃない」


「‥‥だから、してんだろ」


「何を?」


「こうした方が寛げるんだよ」


「‥‥」


「動くな、喋るな。大人しくしてろ」





以前の私なら、何様なんだと腹を立てていただろう。それでも、好きなことを認めてしまった今、私がいた方が寛げると言われると単純ながらも嬉しくなってしまった。これが好きになってしまった弱みというやつなのだろうか。



時雨に抱き締められるのは好きだ。名前を呼ばれるのはもっと好きだ。組に戻ってからというもの、それまでに溜まりに溜まっていた仕事を片付けている。そのため、多忙のあまり家には殆どいない。この数日、ずっと時雨の帰りを待ち望んでいた。‥‥本当は、姿が見えた途端、駆けつけたくなったほどだ。そんなこと、自分の立場を考えれば出来るわけがないが。



好き。大好き。時雨は存在するだけで私に安らぎを与えてくれる。全てを委ねるように身を預けて目を閉じると、全身で時雨を感じていた。




「‥‥髪、切ろうかな」




意外にも長風呂な時雨がようやく体を洗い出したのを横目に呟くと「あ?」と不機嫌丸出しの低い声で威嚇された。





「誰の許可を得てそんなことをぬかしてやがる」


「何で時雨の許可がいるのよ」


「お前は俺のものだ。なら必然的にその髪も俺のものだ」


「‥‥」


「少しでも切ってみろ。腰が砕けるまで抱き潰してやる」


「いや、それはいつもしてるじゃない」


「その倍だ」





殺す気か?ただでさえ毎回絶倫に付き合わされて身が持たないというのに、その倍となると想像するだけで身震いした。





「洗うのも乾かすのも大変なのよ。時雨には分からないだろうけど」


「‥‥」


「時間が掛かるし腕も疲れるの。誰かさんのせいでまた濡れたから乾かさないとだし」


「‥‥」


「時雨はいいよね、ほっとけば乾くから」



子供のような嫌味に怒ることもなく、私の髪を代わりに洗うと、横抱きにしたままソファーに運び、当然のように髪を乾かしてくれた。自分の髪は雑に拭く癖に、壊れ物を扱うように繊細な手つきで櫛で梳かしてくれている。その感触が気持ち良くて、終わることには寝かけていた。





「小夜」


「‥‥何」


「眠いなら布団で寝ろ」




頭を撫でられると、余計に眠気がやってくる。今なら気持ちよく寝れそうだけど、久しぶりに時雨がいるのに寝てしまっては勿体ない。







「‥‥ご飯、作る」



眠気を振り払い立ち上がると、キッチンに向かった。戻ってきた時に約束したことがある。それは、母屋で食事を取る時以外は私が時雨のご飯を作るということだった。今までは3食とも重箱に入った色鮮やかな高級料理を使用人が届けに来てくれていたのだが、時雨は私の料理の方がいいらしい。理由を聞いても、頑なに教えてくれなかった。





「眠いなら無理するな」


「別に、他にすることもないし、疲れてもないから」




ただの気まぐれだろうが、私は嬉しかった。それと同時に、安心した。時雨の側にいる理由ができた気がして。





「それとも、食べたい気分じゃない?」


「いや、食べる」




馬鹿みたいだ。こんな、構って欲しいが為に確認するなんて。でも、私にとっては大切なことだから。こうやって時雨に必要とされることに安心する。時雨のために料理を作っている時だけは、ここに私の居場所がある気がして。側にいることを、許される気がして。





「ねえ、時雨」


「なんだ?」


「‥‥ううん。何でもない」




聞けるはずがない。私は、いつまで時雨の側にいられるかなんて。答えは、この目で見たから知っている。ーーああ、この時間が永遠に続けばいいのに。時雨の側に、いつまでもいられたらいいのに。叶うわけもない夢を見るのは、いつか来るその時に辛くなるだけだというのに。願ってしまいそうになる。私は、愚か者だ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

心做し *加筆修正中 佐倉梨子 @SAKURA984

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画