第50話




食材や調理器具を買いに行くはずが、時雨に有無も言わせずに連れて行かれたのは洋服店だった。下着から全てを買え揃えた。時雨の服を折り曲げて着ていたのは、元を辿れば他でもない時雨が他人から貰った服を私が着るのが気に入らないと我儘を言ったせいなのに。



それから当初の目的を果たすために、スーパーマーケットで買いものを済ませた帰りに、遠くの方から明らかにこちらを見てくる黒服の男が視界にとまる。





「‥‥小夜。先に車に戻ってろ」




時雨もすぐに気付いていたらしく、車の鍵を渡してきた。





「‥‥時雨」



大人しく言うことを聞くべきだと分かってはいるが、離れることへの不安からその場から動こうとしない私を時雨は叱ることなく、安心させるように頭を優しく撫でてくれた。






「安心しろ、すぐに戻る。少し話をしてくるだけだ」


「うん、分かった」




これ以上時雨に迷惑をかけてはいけないと、うしろ髪ひかれる思いで車の中で時雨の帰りを待った。





「連絡の手段がないから、使いを寄越して来たんだろ」



5分と経たずに戻ってきた時雨に心の底から安堵し、咄嗟に腕にしがみついた。




「連絡の手段?」


「今、携帯を持っていない」


「どうして?」


「何が仕込んであるか分かったものではないからな。あそこに行く時はいつも部屋に置いてる」


「なら、やっぱり‥‥」


「組員だ。力技で連れ戻そうとする気はないようだが、どうするつもりかと聞いてきた」


「‥‥そう」


「撒いてきたから安心しろ。あの場所には絶対に立ち寄らせない」




一之瀬組。



時雨の父親が組長を務める極道で、勿論、時雨の母親もいる。本来であれば家族であり、味方でなければならない存在だ。そんな人達のことを、まるで他人のように言う時雨と、時雨のことを若頭の器としてしか見ていない彼らの溝は、一生かかっても埋まらないような気がしてならなかった。









栄養失調になったのが嘘みたいに、多めに作ったカレーを時雨は一人で平らげてしまった。幾ら何でも食べ過ぎではないかと心配する私をよそに、他のも作れよと言い出す始末だ。残りの材料でシチューくらいなら作れそうなものだけど、急に食べ過ぎると胃の負担になりそうで黙っておいた。沢山食べるのは良いことだけど限度っていうものがある。自分の作った料理を喜んで食べてもらえるのは嬉しいけれど、時雨の体の方が大事だ。明らかに不満そうな時雨には、今度また作ると約束して何とか納得してもらった。



私を縛る鎖は無くなった。

一切の抵抗を許さずに押さえ付ける腕も鎖もなくはなく、私の両腕は時雨の背中に回されている。快楽に抗う必要はもう無い。虚勢を張ったところで今更だ。私の全てを時雨に捧げることに幸せを感じるなんて、思いもしなかった。時雨から触れられる箇所から温もりが伝わって、それだけでどうにかなってしまいそうだ。




「小夜」



何度されても慣れないキスに息を切らした私を抱きしめながら、耳元で名前を呼ばれた。それだけで、大袈裟なほどに反応した体。中心へと指を入れていた時雨が低く笑う。それにまた反応してしまう私は、どうしようもないくらいに時雨に染まっている。あんなにも煩わしかった独占欲の痕は、今では時雨のものである証のように思えて安心感すら抱く。快楽のあまり涙を流す頬を拭うと、前触れもなく一気に奥まで入ってくる。強すぎる快楽に気を失いそうになりながらも、必死にしがみ付いて意識を保っていた。



ーーずっと、こうしていられたらいいのに。誰にも邪魔されることなく、ただ時雨と共に、時雨だけを感じていられる日々。それを妨げるものなんて、全て無くなってしまえばいいのに。



この残酷な世界で、私の馬鹿げた願いが叶うはずもなく、次に目覚めた時には現実に引き戻されていた。見慣れない黒塗りの車。運転席に座っているのは、昨日見た黒服の男だった。




「‥‥起きたか?」



後部座席で時雨の腕の中で眠っていた私は、現実から目を背けるように幼子がぐずるように胸元に顔を埋めた。




「どうした。あれだけして、まだ足りなかったか?」


「意地悪」




時雨の意地の悪い物言いに、どこか安心する自分がいた。




「戻るぞ、あの家に」



帰る、とは言わない時雨はきっとあの場所を自分の家だとは思っていないのだろう。居場所はあっても、心の底から安らぐことの出来ない場所になんて戻りたくない。あのプラネタリウムで過ごした時雨は、あの家よりもずっと寛いでいたから。



それに、仕方がないと分かっているけれど、組に戻ったらもう二度と時雨のことを独り占めなんて出来ないから。いつから私は、こんな欲深い人間になってしまったのだろう。時雨に情を掛けられたことで、思い上がってしまったのだろうか。私は時雨のものでも、時雨は私のものなんかじゃないのに。それを、身をもって知っているはずなのに。だって時雨には、〝あの人〟がいる。



静まり返った車内では、嗚咽を呑み込むのに必死だった。沈む表情を見られたくなくて、時雨の懐に収まって寝たふりをするために体の力を全て抜き身を預ける。やがて堪えきれなかった一筋の涙が静かに流れ落ちた。



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