河童の滝

@ninomaehajime

河童の滝

 山の奥には秘境があり、白々しらじらとした滝が流れて滝壺をたたえている。そこは河童の棲み処だという。

 年に何人か溺死した。渓流釣りに来た余所よそ者が多く、しばしば子供も含まれた。地元の人間によれば、河童によって水の中に引きずりこまれたらしい。

 そういった噂の絶えない土地だ。山姥やまうばが隠れ棲んでいるという噂もあり、麓で暮らす子供たちは山に入ることを厳しく禁じられた。この時代に馬鹿馬鹿しい話だと思う。河童だの山姥だの、老人の世迷言に過ぎない。

 きっと、こういった生意気な子供が山に足を踏み入ったのだろう。私もその一人だったから。

 理由は単純明快で、河童を一目拝んでやろうという腹積もりだった。学校の子たちを誘っても、怖がって行きたがらなかった。彼らの意気地のなさに憤慨し、単身山へ乗りこんだ。装備は麦藁帽子を被り、河童を捕獲するつもりだったのか虫取り網を握っていった。当時を振り返っても、首を傾げる選択だった。

 まだ残暑が厳しい季節だった。剥き出しの二の腕や首筋を虫刺されで赤く腫らしながら、草むらをかきわけた。よく育った山毛欅ぶなが木漏れ日を落とし、偶然その影が猫の形に揺れていて、何だかおかしく思った。

 せせらぎに耳を澄まし、沢をさかのぼった。苔で滑る岩に足を取られないように注意を払う。心底では妖怪変化など信じていなかったのだろう。毎年人が溺死するのは、滑りやすい岩場で落水したからに違いない。水場から距離を置けば安全のはずだ。本当に小賢しい子供だった。

 水の流れを辿っていくと、傾斜が緩やかになった。滝の音が響き、岩壁に水の白い布が覆い被さっていた。陽光を反射し、一際眩しい。小さいながらも滝壺を湛え、水の中に虹の色を閃かせたニジマスも見える。なるほど、何も知らなければここに釣り糸を垂らすのも仕方ないだろう。

 不思議なのは地形だった。滝壺の周囲は白い砂利で覆われ、あまり事故に繋がる傾斜は見当たらなかった。木陰から一歩足を進めると、靴の裏で踏みしだく音が伝わってきた。

 何より異様なのは、滝壺の周囲には石が幾つも積まれていることだった。垂直に、同じぐらいの大きさの小石が積み上げられている。当時の私の身長が届くか否かで、しかもそれが複数ある。明らかに人為的で、不気味に思った。

 子供が遊びに来る場所ではない。自分と同じ探検家が、証として残していったのだろうか。積まれた小石の塔は、幾つかは風雨によって崩されていた。

 やや及び腰で河童の名前を呼んだ。子供たちのあいだで「川太郎」と呼び、恐れながら親しんだ。いずれ捕まえてやると息巻いていたのに、いざその棲み処を前にするとこのざまだ。

 滝の音がしている。滝壺に飛沫しぶきが上がっている。虫取り網を握り締めながら、少しずつ水際に足を進めていく。いつしか積み上げられた小石に囲まれていた。高まっていく緊張感からか、喉を鳴らした。

 不意に静寂が訪れ、耳鳴りがした。滝の音が消え、せせらぎも聞こえない。不可思議な現象に困惑した。眼前で絶えず流れていた滝の水が止まり、鏡のごとく磨かれていた。麦藁帽子に虫取り網をたずさえた自分の姿が映し出されていた。

 ただその鏡像は、やけに黒ずんでいた。驚きで硬直した私に向かって手招きをしている。自分の意思に反して、足が動いた。滝壺へと引き寄せられていく。

 駄目だ、落ちる。水際まで来たところで、別の変化が訪れた。静止していた滝の水が赤く染まった。まるで血の色だった。黒い鏡像が消え、体に自由が戻った。血の池地獄を連想させる滝壺に悲鳴を上げ、虫取り網を放り投げて逃げ出した。その際、小石の塔を蹴って崩してしまった。

 まだ明るい時間帯だったのに、空はくらく禍々しい色をしていた。走り抜けていく木々の遠くに人影を見た気がした。半裸で乳房を垂れた、白いざんばら髪の老婆に思えた。

 下山した私は、両親に烈火のごとく叱られた。同級生たちに河童を見たかと聞かれ、「見てない」と答えてそれ以上は語らなかった。

 奇天烈な体験だった。今にして思えば、不可解な点が幾つもある。

 人が溺れ死ぬのは河童の仕業だという。ただその姿は見えず、不思議な現象に吸い寄せられ、滝が血の色に塗り潰されて我を取り戻した。山姥とおぼしき人影に至っては、遠くからただ見ていただけだ。

 私は一体何に殺されかけ、何に助けられたのだろう。 

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